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    kusabakasumi6

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    kusabakasumi6

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    月夜に跳ねる のタイトルでTLに流していた義炭のまとめです 1−30pになるかと

    月夜に跳ねる 庭を見遣ると夜だというのに空が明るい。草木の影がくっきりと落ち、縁側や障子も青白い光を含んでいる。
    「お風呂、冷めてしまうかな」
     炭治郎は義勇の屋敷で一人、家主の帰りを待っていた。鬼殺隊が解散してからも元柱達は定期的に集まっており、今日も昼間から出掛けて行った。支度する義勇からは少し楽しそうな匂いもしていた。元柱同士打ち解けた、その姿を見ると炭治郎もかなり嬉しい。
    「薪を焚べておこうかな」
     書き物を置いて立ち上がり、湯船に乗せた木蓋を上げる。少しぬるいが、焚き物を足せば良さそうだ。勝手口から焚き釜に向かい、適当な薪を数本投げ込む。熾火の残った釜の中では赤い炎がぶわりと広がる。吐く息が白く濁って風に溶ける。はぁと両手に息を吹き掛け、焚き釜の蓋をそっと閉めた。
    「うん、これで大丈夫」
     昨日、偶然会った宇髄とその女房達には折角だから炭治郎も来いと言われたが、義勇からは酷く渋い顔をされた。酒癖が悪い奴しか居ないんだ、その言い分はなんとなく分かる。元柱同士、揃いも揃って酒には強い。
     けれど義勇は深酒はしない。宵の内には屋敷に戻り、風呂を済ませて夕食も摂る。それが常かは知らないが、炭治郎が居る日はそうだった。街に降りては数日義勇の屋敷に厄介になる、この習慣は最近のことだ。禰豆子や善逸達は揃って元蝶屋敷にお邪魔している。山の頂に雪が冠る前には雲取山に戻る予定だ。
     と、引き戸の音がゴトゴトと響く。炭治郎は草履を履き直し、膝をはたいて玄関に向かう。
    「おかえりなさい!遅かったですね」
    「……近付くな。匂うぞ」
    「わぁ、結構呑まれたんですか?珍しい」
    「呑まされた、くそ。酒を空けたら帰っていいと奴らが言うから」
     脱いだ羽織には煙草の匂いも染み付いている。白粉や香り水の匂いも混ざって、どうやら今日の席は普段と趣向が違ったらしい。
    「食事はされたんでしょう、お茶煎れましょうか」
    「構うな。自分でできる」
     俯いたまま台所に向かう眉間の皺が随分深い。玄関土間には雑に脱がれた草履と足袋が、泥が付いたまま転がっている。
    「お風呂はどうします?」
    「入る。向こうに行ってろ、臭いだろう」
    「そんなこと、……無くはないですけど。着替えを出しておきますね」
    「あぁ」
     言葉少なく返された声に、酒宴の浮かれた気配はない。水差しから注がれた湯冷ましが、こくこくと義勇の口に注がれて行くのを炭治郎は隣で見守っている。
    「……なんだ」
    「いえ、大丈夫かなぁって」
    「心配は要らん。自分の飲める量ぐらいは分かっている」
    「はい。でも心配はします」
     炭治郎の言葉に義勇は、視線だけを向けて応える。元々口数が多い人ではないし、どうも普段より回った酔いが話すのを億劫にさせている。
    「じゃあ俺は、居間で待っていますね」
    「もう休め。俺も直ぐ寝る」
    「はい、眠くなったらお言葉に甘えて」
     炭治郎はぺこりと義勇に頭を下げて、にかりと笑って台所を出た。義勇の屋敷の風呂場は台所のすぐ隣にある。心配要らんと言われはしても、心配しないなんてできっこない。
    「大丈夫かな、あのまま寝ちゃったりしないかな」
     一人居間に戻ってみたものの、廊下の物音に聞き耳を立てる。台所の音、脱衣所の音。やっと風呂場の入り口がバタンと閉まって、中から掛かり湯をする音が聞こえる。焚き物を焚べておいて丁度良かった、湯加減ができた頃だろう。文机に向き直り紙を捲って、今日の日記をしたためる。
     程なくして、炭治郎の心配を他所に義勇は縁側で腰を下ろした。月明かりに照らされたその肌は白を通り越して薄藍に透けて見える。感情の匂いが何もしなくて、まるで柱時代に戻ったみたいだ。
    「気分悪くないですか?お茶をどうぞ」
     差し出した盆から無言で湯呑みを持ち上げる、髪の先からはぽたぽたと雫が続けて落ちた。
    「わぁ、髪がまだ濡れていますよ」
     返される言葉はやはり無いが、この姿では放っておけない。炭治郎は持っていた手拭いを広げ、義勇の髪をがしがしと掻く。
    「……構うな。どうして起きてる」
    「だってこのままじゃ風邪ひきますよ、風邪は万病の元なんですからね」
    「風邪など引くか。あぁ……本当にお前は、」
     溜め息混じりに呟いて、義勇は濡れた頭を項垂れた。生乾きなのはいつものことだが、今夜は酷く、手拭いで絞ると雫が滲む。これがいつもと言うのなら、広がりがちな髪の理由が分かる。禰豆子の髪を結って分かったことだ。櫛のひとつでも髪の仕上がりは全く違う。
    「ふふ、本柘植の櫛を買ってきましょうか」
    「要らん。使わんぞ」
    「そんなこと言わずに、使ってみませんか。禰豆子にも使ってたんですよ、甘露寺さんが教えてくれて、禰豆子もすごく喜んで、」
     やはり義勇は眠いのだろう。水気を取った髪を指で梳き、短くなった髪を整えてやる。時々義勇はこんな風になる。一番近しいと自負してはいるが、気を許された様でとても嬉しい。
    「炭治郎」
     今の今まで億劫そうに、伏せられていた瞼が開く。義勇は炭治郎の右手を捕え、ゆっくりと膝を突き合わせる。
    「俺は、お前の何なんだ」
    「っ、え、義勇さんは、おれの、」
    「俺は、お前の」
    「ぅ、ッ兄弟子、で、」
    「兄弟子で?」
    「恩人、です。今もこうして、俺達を気に掛けてくださる、大事な、」
    「うん。そうだな」
     思わず姿勢を正した炭治郎の、手のひらを義勇の親指が辿る。豆が潰れて剣だこだらけの、ささくれが目立つ小さな手だ。
    「お前は俺を、三つ子と同じと思っている」
    「ふぇっ⁉︎そんなこと、は」
    「ある。お前は嘘が下手だ。禰豆子や弟妹の様に世話を焼かれる必要は無い。もういい年だ、可愛いと言われても嬉しくない」
    「へっ、は、ハイ!そりゃあもう!良い、お年で!」
     心が読まれてしまったみたいで、炭治郎はしどろもどろだ。義勇の口元が柔く綻び、炭治郎の手をしげしげと見つめる。義勇にはまだ酒の匂いが淡く残っていて、呼吸で冷ませるという酔いもきっと同じだ。とろりと緩んだままの視線は炭治郎の胸を妙に急かせる。
     義勇は炭治郎の指先を愉しげに撫で、爪の甲に唇を寄せた。
    「……ひゃ、わ」
    「もう休め。明日は朝から出掛けよう」
    「お、怒ってますか?でも、俺、」
    「分かってる。よぉく分かっている。お前が長男で頼もしいのも……はは、お袋、だったか。隊士達の食事を拵えて、握り飯が特に人気だったと」
    「はい!俺、は、料理は得意、ですので!」
    「あぁ」
     義勇の双眸の底に、ゆらりと鈍い群青が揺らぐ。炭治郎がそれを凝視していると、次の瞬間唇が触れた。仄かに残る酒の匂いと、義勇から芳る鈍色の匂い。義勇の小さな唇は触れてみると意外にやわく、炭治郎はその場で瞬きをする。
     どうしてと問う思考さえもない。義勇は炭治郎の兄弟子である、恩人である。余りに唐突で、不意を突かれた接吻だった。傾く重心を反射的に支え義勇の背中をぎゅっと掴んだ。義勇は炭治郎の肩に顔を埋めて、熱い呼気だけが炭治郎の首筋を撫でる。
    「もう、俺だけのものになれ」
     ひとり言の様に囁く声は、炭治郎の耳に深く届いた。あぁどうして、これを放っておけるだろうか。酔いに任せての譫言とは言え、その声に嘘の匂いはしない。いつも涼やかな義勇の匂いが、甘やかに跳ねて鼻を擽る。一息吸うごとに肺の奥で匂いが弾ける。
    「あ、あの。義勇さん」
    「口が滑った、忘れろ」
     義勇ははたと目が覚めたのか、徐に立ち上がり踵を返した。風呂場の扉が開く音がしてバシャバシャと水桶の音が響く。
    「……ぅわ」
     首筋に、耳たぶに、義勇の残り香が染み付いている。酔った上での失言だったと、聞き流すことなんて到底できない。
    「えぇ……」
     熱もないのに、体の中が酷く火照る。
     義勇は兄弟子だ。恩人でもある。
     強くて綺麗で、時々うんと可愛らしくて。
    「……えぇ?」
     浮かんだ言葉を掻き消す様に、炭治郎は手のひらで口を塞いだ。触れただけの義勇の唇はやわくて良い匂いがして、今頃になってひりひりと薄い皮膚に沁み、むず痒い熱を噛み締める。せめて闇夜であったなら、うやむやにできていたのだろうか。満月だけが全部見ていた。


     

     いつからこうして義勇と二人きり、並んで過ごすのが当たり前になったのだろう。大戦を終えて療養する中、長い昏睡が明けても暫くは、義勇と話す機会は無かった。病室にはいつも禰豆子や善逸に伊之助が居て、寝る時以外は賑やかだった。禰豆子や伊之助が義勇の様子を伝えてくれたが、動けない程ではないと聞いていた。夜中にふと、誰かの気配で目を覚ますことがあった。そんな時は決まって水の匂いがして、以前にもそういうことがあったなと思い返したりした。
     義勇とやっと合い見えたのは、昨夜の様な月夜だった。炭治郎はまだ歩き回る体力は無く、寝台の横に足を垂らして窓の外をそっと覗き込んだ。
    「う、わ」
     うっかり左に掛けた重心は、支える腕が無く傾いた。欠けた視界と枯れた左腕は、炭治郎の均衡をすっかり変えた。何とか床に叩きつけられずには済んだが、掴んだ寝具ごとずり落ちた。 
    「あいたたた……しまったな」
    「っ、炭治郎!」
    「え」
     随分と久しぶりにその声を聞いた。炭治郎が振り返るのと同時に、炭治郎の目の前にその人は居た。
    「……ぎゆう、さん」
    「どうした、寝台から転げ落ちたのか。怪我は無いか、頭は打たなかったか」
    「はい……はい、あはは。大袈裟ですよ、ちょっとよろめいてしまっただけで」
    「そう言って命を落とした者を何度も見て来た」
     療養着姿の義勇は左手で、炭治郎の頭や肩を順に撫で下ろす。真剣な表情なのになんだか慌てた匂いがしていて、心配されていると分かっているのに、炭治郎は思わず吹き出した。
    「あは、あはは。本当に、大丈夫ですよ」
    「最初は皆、そう言うものだ。まだ病室を出られないのは眩暈の所為か。それとも脚が」
    「いえいえ、まだ慣れていないだけです。つい左腕を使ってしまって」
     義勇は視線を落としたままで、炭治郎の腿や膝を確かめている。大戦の最中もこうやって、手当てしてくれていたんだろうか。
    「義勇さんって、面倒見がいいんですね」
    「そんなことは無い」
    「だってほら、猗窩座と闘った後だって俺の手当してくれましたし、村田さんからも聞きましたよ。動けなくなった俺を避難させてくれたって!禰豆子の口枷だって長持ちしました」
     炭治郎の爪先まで撫でて、義勇の指先がぴたりと止まる。丸めた背中から空の右袖は床に垂れ、それでも一瞬で駆け寄られたのだから、さすが柱だ。
    「本当に、炭治郎なんだな」
     呟いた声は、震えて聞こえた。炭治郎は答える代わりに、義勇の指に手のひらを重ねる。
    「炭治郎です。俺、竈門炭治郎ですよ」
     僅かに指先を丸めてみせると、冷たい指に握り返された。炭治郎が膝立ちになってにじり寄ると、指先に体温の色が戻る。義勇からは躊躇いと謝罪の匂いが立ち込めている。その理由は、炭治郎も同じだからちゃんと分かる。炭治郎も未だ、仲間を傷付けたことを気に病んでいる。禰豆子にはその度に叱られているが、傷付けたことは忘れようがない。
     炭治郎の唇も凍えた様に震えてしまいそうだ。歯列が噛み合わず喉の奥が痛む。今でも夢に見ることがある。鬼になった姿で人を襲う夢。悪夢を見たと笑い飛ばせもしない、それは確かな、事実の記憶だ。けれども悲しみや後悔だけでは生きて行けなくて、いつかは前を向かねばならない。
    「会いに来てくれてホッとしました。また義勇さんを怒らせたのかと。だってほら、俺、頭突きして突き飛ばしてしまいましたし」
     炭治郎は義勇の手を掬い取ってゆらゆらと揺らす。生き残ったから、こうして手を繋ぎ支え合える。義勇がしょんぼりしていたら、どうにか元気付けてあげたい。あの橋の上で立ち止まった日だって、不死川を怒らせたと三角座りしていた日だって。炭治郎ならそれができる、親方様が言われた様に。
    「あぁ、義勇さんのお顔が無事で良かった!一緒に刀を握ってくれたから俺、鬼舞辻を逃さずに討てたんですよ。心臓が動く様に何度も胸を押してくれたって聞きました。ありがとうございます。医学の心得もお持ちだったんですね」
     できる限りの明るい声で、炭治郎は話し続けた。傾いた月は義勇の背中を青く照らす。義勇は分かり難いだけで優しい人だ。こんな夜中に気付かれない様に炭治郎を見舞って、炭治郎だって鼻が良くなければきっと知らないままだった。
     指先をきゅきゅっと摘んでみれば、義勇がゆっくり体を起こした。月灯のせいか髪も肌も青みがかって、瞳の青を濃くさせている。炭治郎はにかりと笑い返して、指を組み直して義勇の手を引く。お互いの膝がこつんとぶつかる。それでやっと、義勇が苦笑いして口を開いた。
    「また、見舞いに来てもいいか」
    「はい!勿論です。今度はお昼間に来てください!俺も歩ける様になったら、義勇さんの部屋に伺っていいですか?」
    「あぁ」
    「やった!伊之助から聞いてたんですよ、義勇さんに腕相撲挑んでも全然勝てないって。俺もやってみたいです、義勇さんと腕相撲!」
    「左手と右手じゃ手が組まれんだろ」
    「わ、そっかぁ……手は繋げますけどね、こんな風に」
     炭治郎は義勇の腕をぷらぷらと振って見せる。炭治郎と指を組み繋いだまま、義勇の口元も弛み綻ぶ。
    「指相撲ならできますかね」
    「そうだな、神崎の許可が降りたらな」
    「はい!アオイさん怒らせると怖いですからね。約束ですよ!」
    「あぁ、分かった」
     繋いだ指先で親指だけを擦り合わせて、夜明けまでそのまま共に過ごした。それからは昼間も義勇が見舞いに来てくれるようになり、(というか伊之助や禰豆子が連れて来てくれたようだったけれど、)歩ける様になってからは炭治郎も義勇の病室に脚繁く通った。隻腕になった者どうし残った腕の機能回復訓練として帯や紐を結んでみたり、義勇は文字の練習もしていた。筆よりペンが使い易いと、ペンとインクを買いに出掛けたりもした。
     炭治郎が雲取山に戻ってからは、義勇も手紙をくれる様になって、街に降りたら義勇の屋敷を訪ねる習慣ができた。偶には鱗滝も山を降りて来て、そんな日は禰豆子も呼んで四人で過ごしたりして。同門であり、兄弟弟子であり、血は繋がっていなくても家族の様な、そんな時間を過ごす日が増えた。だからとっくに、心はずっと近くに居たんだ。

     
     朝露を照らす眩しい夜明け、炭治郎は寝不足な目を擦りつついつもの様に釜の番をした。昨夜は義勇の言い付けを守り、大人しくふらふら寝床に入った。入ってはみたが、眠れなかった。理由は義勇の、ひとことにある。
    『もう俺だけのものになれ』
     耳元で囁かれた声はまだ鼓膜の奥をざらりと撫でる。その度に炭治郎は耳朶をごしごしと擦り、粘膜に灯る火種を掻き消す。義勇はといえば半刻は風呂場に篭っていただろう。並べた寝床に使われた跡はなく、廊下にももう残り香もしない。
    「……稽古場かな」
     羽釜の蓋を取り米の炊き具合を確かめる。今日も美味しく、ふっくらツヤツヤと炊き上がっている。割烹着を脱いで襷掛けを解き、耳朶を抓んでは深呼吸をする。閂が外されたままの稽古場の扉をそおっと開く。義勇は今でもここで座禅を組むことがある。そんな時は邪魔になるから、声を掛けないことにしている。
    「あ」
     見ると、義勇は稽古場の隅で寝間着姿のまま横たわっている。もう霜も降りようかという季節なのに、不用心な姿に思わず声が出た。たたっと駆け寄ってしゃがみ込む、炭治郎の気配にも気付かないぐらい寝入っている。
    「二日酔い、」
     おおよそ義勇に似つかわしくない、その言葉がぽんと思い浮かんだ。伏せられた瞼に厚い睫毛、全集中の呼吸を解いた寝息はすうすうと静かに稽古場に響く。このまま寝せていてやりたいような、ずっと眺めていたい様な。澄んだ匂いを吸い込みながら、炭治郎は喉の奥で唾を飲み込む。
     どうしてこんな気持ちを抱えたままで、今まで気付いていなかったのだろう。兄弟子で、恩人で、近頃はうんと近くで過ごした。義勇の心にも気付かなかった。
    「義勇さん、起きられますか。ご飯食べましょう」
    「ん……」
     厚い睫毛が僅かに震えて、その隙間から深い青が覗く。そんな姿は何度も見たのに、今日は特別気恥ずかしい。口が滑った忘れろなどと、言われたからとてどうして忘れる。もしも義勇が酔いの戯言と忘れていても、問い詰める覚悟はできている。
    「……朝か、」
    「はい!義勇さんすっかり酔ってましたよね。ダメですよ、寝る時はちゃんと寝床で寝ないと」
    「うん」
     義勇は手の甲で一度前髪を掻き、炭治郎の頬に指を伸ばした。酔いどれの夜を今朝の義勇が、覚えているのかまだ分からない。
    「また世話焼きか」
     囁いた声が次の瞬間耳たぶに触れる。義勇の腕は炭治郎の脇を滑り、背中に張り付き引き寄せる。炭治郎の首筋に義勇の鼻先が触れる。炭治郎の手は義勇の髪まであと数センチ、触れてしまって、良いのだろうか。
    「お前はぬくいな」
    「……っはい!いつだって行火になります、お望みならば!」
    「はは、そうか」
     スンと鳴らした鼻の奥には、仄かに甘い匂いが届く。炭治郎は瞬きをして義勇の襟足を掻き、すうぅともう一度息を吸い込む。義勇だってももう、隠す気はないのかもしれない。梅の蕾が綻ぶような、爽やかな甘さが肺に満ちていく。
    「義勇さん」
    「うん?」
    「昨夜のあれ、は、接吻、でしょうか」
     義勇の瞬いた音さえも聞こえそうに稽古場の中は何の音もしない。鳥の囀りも静まりかえって、義勇の返事に聞き耳を立てているみたいだ。
    「すまん」
    「えっ、あの」
    「お前を待たせているのに引き止められて、飲み過ぎた。酒の力を借りるなど、俺は男らしくない。不快だったろう」
    「そ……っ、んなことは、無いです。ありませんよ?!義勇さんはいつもカッコよくて可愛……えぇと、優しく、て、とても……本当に、とても」
    「悪かった」
     炭治郎の声はしどろもどろで、どちらが弁明しているのか分からない。やはり酔いどれの戯言なのか、謝られるのはそういう訳か。男らしくないのはお互い様だ。炭治郎だって昨夜からずっと、浮かぶ言葉を誤魔化している。
    「炭治郎」
    「はい!はい‼︎」
     義勇と顔を合わせられなくて、炭治郎は肩に回した右手をぎゅっと締め付ける。炭治郎だってどんな顔をしたらいいのか分かりもしない。だってこんなこと、初めて過ぎて、右手を弛めたら卒倒しそうだ。
    「俺はお前に、懸想している」
    「、……あっ、」
     ぽすん、と義勇の手が炭治郎の背中を撫でる。触れられた場所から皮膚が粟立つ。熱くて寒くて、武者震いがする。
    「俺のものにしたいのは本音だ」
     囁きと共に、炭治郎の首筋にやわい熱が触れる。義勇の唇は薄い皮膚を食み、炭治郎の中で何かが弾けた。穴の空いた風船みたいに力が抜けて、炭治郎はその場にへたりと座り込んだ。何を言われたか、頭の中で反芻している。落とした視線は、義勇のはだけた胸元を捉える。熱い胸板に、引き締まった腹、ぶわりと匂い立つ義勇の芳りに、更に身を屈めてしまう。
     セリフは昨夜と同じでも、今の義勇は酔っていない。炭治郎は深呼吸をして、膝を正した。義勇は炭治郎に合わせ、背中を丸めて顔を伏せている。耳元で義勇の呼吸の音がする。今度は炭治郎が答える番だ。
    「あの、俺」
    「うん」
    「この通り傷だらけですし、とても義勇さんの嫁になれる器量ではなくて」
    「よめ」
    「はい、あれ?そういう、ことでは」
     炭治郎が顔を上げると、義勇もそれを見つめ返した。青い、深い青の瞳がこちらを見ている。炭治郎も赫灼の双眸を見開いて、義勇の意図を確かめている。
    「はは、嫁か……うん、それも良いな。お前は、俺の嫁になってくれるのか」
    「んん?婿、ということですか?」
    「ははは、婿。それでは俺が、お前のところに嫁入りしようか」
     眉を顰めてはいるが義勇からは浮かれた匂いがしている。義勇の指が炭治郎の耳飾りを掬い、まるい頬べたを愉しげに摘む。炭治郎の器量が足りぬなど、義勇が思う筈がない。それはこれから、とくと教え込まれることだろう。
    「それで返事は、貰えないのか」
    「……っはい!はい、俺、は」
     まだ瞬きを繰り返している、赫灼の眼がひかひかと潤む。尖らせた唇をもごもごと歪め、言い慣れぬ言葉を必死に紡ぐ。
    「ぎゆうさんの、……に、なり、ます」
    「あぁ」
     真っ赤に頬を染めて歯を食いしばった口元に、義勇はついと唇で触れた。ぎゅうぎゅうに瞑られた瞼が痛々しくて、稚い。
    「有難く貰い受ける」
    「あっ、今!今はだめですよ?!朝ごはんが冷めてしまいますから」
    「うん」
     炭治郎の唇の端を指で辿って、義勇はぱかりと口を開いた。それが歯を食いしばるなという意味だとは、暫くしてからやっと分かった。
    「余り力むな。傷が増えるぞ」
    「はい……はい!目は瞑っても、良いですか⁈」
    「あぁ」
    「はい!わかりました!」
     ぱちんと閉じられた瞼を撫でて、義勇はもう一度口付けを落とす。義勇の唇は柔いだけでなく、熱くて甘くて、ほんの少しだけカサついていた。



     冨岡邸の風呂に入ったことぐらい今までに何度もあったのに、今日はどうにも寛げる気分ではない。
    「……はぁ」
     炭治郎は湯舟の中で膝を抱えて、本日何度目かの溜息を吐いた。
     義勇は既に入浴を済ませ、寝室で炭治郎を待っている筈だ。お互い想いを打ち明けたせいか、今日の義勇はずっと甘い匂いをさせている。食事をしていても掃除をしていても、炭治郎の傍に寄り添ったままで、買い物の時などは荷車が通る度に腰を抱かれて。二人きりになると指を繋いで、何度も接吻を交わし合って日が暮れてしまった。
    「はぁ……」
     溜め息の原因は、もう一つある。収まってくれない胸の動悸だ。全集中の呼吸を使い過ぎたのとは違う、体に熱を巡らせる心地よい逸り。浮き足立ちそうで、浮かれては現金すぎる気がして、ぷかぷかと湯舟に浮かんだかと思えば、泡ぶくを吐いて湯の中にざぶんと潜る。
     とっくに髪も体も洗い終わったのに、ずっとこれを繰り返している。炭治郎は今夜、義勇のものになるのだろうか。接吻の先は、どんな匂いがするのだろうか。嫁入りにしろ婿入りにしろ、恋仲になった二人が交わす契りぐらいはちゃんと知っている。義勇から仄かに漂う欲の匂いは、炭治郎からもきっと芳っている。
     風呂場にも当然残り香がして、これでは炭治郎の心が持たない。梅の香りに水仙の香りや菜の花の様な、早春の香りが立ち込めている。また冬も来ていないのに、この屋敷だけ春が来たみたいだ。
    「……よし!」
     湯の中で握り拳を作り大きく頷く。髪からはぼたぼたと湯粒が転げ落ち、垂れた前髪を大雑把に掻いて立ち上がった。一人で考えていても何も答えは出せやしない。
    「義勇さんに!お任せ、しよう!」
    「俺がどうした」
    「っ、ぃえ?!は?!」
     湯舟の向こうを振り返ると、声の主はどうも窓の外に居る。
    「風呂が長いから様子を見に来た。何かあったか」
    「あっ、いえ……なにも!何もありませんが!義勇さんは、いつからそこに……うゎ、」
     只でさえ巡りすぎていた熱が首から上にきゅっと上って、途端、炭治郎の視界がぐらりと歪む。灯りが消えたみたいに真っ暗になって、目を凝らしても何も見えない。
    「炭治郎!」
     凄く、ものすごく遠くで義勇が炭治郎を呼ぶ声がする。返事をしたいのに声も出せずに、ぶくぶくと口から空気粒が漏れる。ここは水の中、湯舟の中か。それはまずいと眉根を寄せて、炭治郎はそのままぬる湯の底で意識を飛ばした。


     次に目を覚ますと、炭治郎は布団の上に居た。額に乗せられた手拭いの端から柔らかな灯りが差し込んでいる。頬には何故だか風がそよいで、どうやら団扇で仰がれている。静かな寝室、鼻腔に届く清らかな匂い。義勇が傍に居るのだと直ぐに分かって、思わずすぅと息を吸い込んだ。
    「気が付いたか」
    「っ、はい!おれ、」
    「こら」
     掛けられた声に起こした体は団扇で制され、炭治郎はそのまままた寝そべった。濡れ手拭いだけは掛布に落ちて、それが桶に戻されるのを黙ってじっと見つめていた。
    「上せたんだろう。まだ寝ていろ」
    「……すみません、面目ないです」
     視線の先では義勇が左手で器用に手拭いの水気を切っている。最後に畳んだ端を噛んで、捻り絞られたそれが炭治郎の顔を隠した。ひんやりとした感触に上せた熱気が吸い取られていく。炭治郎は手拭いを少しずらして、義勇を見上げて右手を伸ばした。
     灯りに照らされた義勇の匂いは、ぱらぱらと、霰が降るように炭治郎に注がれている。洋燈の火が揺れる度に天井で、義勇の影がゆらゆらと揺れる。心配、躊躇、そんな言葉に似た気遣いの匂い。義勇だってきっと炭治郎と同じに、この夜を意識して今日を過ごした。
    「悪かった」
    「え?」
    「風呂から上がったら、と気負わせたんだろう。すまん」
    「あ、……はい。そうです、おれ、どうしたらいいか分からなくて」
    「もっと早く声を掛けるべきだった」
     義勇は炭治郎の指先を取って、手の甲にそっと唇を寄せた。傷だらけの拳を大事そうに、そおっと手繰り寄せられて何だか目の奥がじわりと痛む。静かで、柔らかくて、暖かい雪が降るのならきっとこんな風にふわりと積もる。炭治郎は寝返りをして、義勇の頬やこめかみに触れる。触れても溶けない、白過ぎる肌。普段血色がささない頬が、ほんの少しだけ赤らんで見える。
     義勇とは同門であるが、兄弟子であるという以上に受けた恩は厚い。禰豆子が鬼になった朝、義勇以外の誰が炭治郎に禰豆子と共に生きる道を示してくれただろう。隊律を侵した上で義勇の腹をかけてまで、守られていた。それがどれだけ心強くて、嬉しかったかは忘れられない。鱗滝と四人揃うと家族の様な心地がするのは、そんな絆があるからだ。
     大戦を終えて機能回復訓練を始めた頃には、初めて会った雪の朝とはまるで違う、春のせせらぎに似た穏やかな匂いを漂わせていた。振り返ってみればそれはきっと、炭治郎にだけ向けられていた。義勇にとって特別であると、本当はずっと知っていたのだ。炭治郎にとってもそれは同じだ。意を唱えても違えることはない。互いの縁がずっと先まで縒り合わされている、そんな感覚はずっと持っている。
    「義勇さんも、横になりませんか」
    「うん」
     義勇は短く答え、炭治郎の手のひらを離した。炭治郎は掛け布団を捲り後ずさって、できた隙間に義勇はもそりと滑り込む。義勇の体温が、うんと近い。昼間より近く感じるのは、お互いに、寝間着一枚しか着ていないからか。
    「お前、女を抱いたことはあるか」
    「無いです。え、無いとだめ、ですか」
    「いや」
     こめかみを掻かれて、耳飾りがないことに気付いた。義勇が外してくれたのだろう、手拭いの様に指と唇で。
    「義勇さんは、あるんですか?」
    「いや、無い。男も無いから、不得手かもしれん」
    「あはは。はい、俺も初めてで。不得手です。接吻も……なにもかも」
     炭治郎は義勇の肩を引き、首を傾けた。義勇が唇を寄せ易い角度は、今日一日で十分分かった。歯を食いしばらずに、口を弛めて、時々義勇の舌を舐って返す。そうすると背すじがぞわぞわとし始めて、下腹が兆して来ることも知った。

     口を塞ぎ合っていてはその隙に拾う呼吸は深く速くなって、引き寄せる毎に息は苦しくて、けれど離れたら酷く寂しくて。べたべたに濡れた口元を拭われてみたり義勇の舌がはみ出して見える度、炭治郎の目の奥がチカチカと眩む。義勇の指腹が炭治郎の唇を辿り、口の端を柔く摘まれ、首を傾げる。義勇は何か思案している。
    「一週間でいいか」
    「え?」
    「俺は閨の作法を学ぶ。お前も心の準備をしていて欲しい」
    「いっ……⁉︎」
    「足らないか、ならばひと月」
    「いえ!そんなに……そんな先までは」
     炭治郎を見つめる義勇の表情で、その提案が妥協や先送りでないことは分かる。閨の作法とは、何があるのか。遊郭で教わった床の準備で良いのだろうか。体を清めて香を焚き染めて、化粧まではうまくできないけれど、白粉ぐらいは塗るべきだろうか。
    「義勇さんは香り水は苦手、でしょうか」
    「あぁ、女の真似事をさせるつもりは……宇髄と行った任務のことだが……そういう、準備ではない。心構えさえしてくれればいい」
    「はい……こころがまえ」
    「俺も良くは知らないから、学ぶ。学べば畏れは捨てることができる。だからもう風呂で悩むな。また上せては困る」
    「……はい、はい!学びます!」
    「うん」 
     隻腕になったとしても義勇の背中は十分に広く厚い。腕に包まれて身を任せると、炭治郎の胸はきゅうきゅうと窄む。これがよく善逸の言う「きゅんきゅん」といったものなのだろうか。義勇も同じ様にキュンキュンしてくれているのだろうか。そうだとしたら良いなと思う。誑かす様な色香は無くても。
     炭治郎の少し伸びた襟足を、義勇の指腹が確かめるようになぞる。炭治郎もそれに倣って、義勇の背中を撫でて返した。欠いた腕の肩は明らかに筋肉が薄く、顔を押し付けてその肌を嗅ぐ。水の匂いとは違う、それに混じった雄らしい汗臭さ。義勇の欲を帯びた匂いも、卒倒してしまいそうに甘い。


     元蝶屋敷の病室のひとつを、善逸と伊之助は寝泊まりする為の居室として間借りしている。その病室の窓際で炭治郎は腕組みをして、さっきから首を捻っている。
    「なんなの?どうして俺にそれを聞く訳⁈」
    「だって善逸以外の誰に聞くんだ。伊之助やアオイさん達じゃ分からないだろ」
    「そりゃあそうでしょうけども!俺だって知らないよ、男同士の作法なんてさ」
     ヒソヒソ声で抗議しながら、善逸はめいいっぱいの不快を顔に顕している。堅物真面目を体言している、同期の石頭には時々呆れる。
    「そうか……困ったなぁ」
    「困ってるのは俺の方でしょ⁉︎」
     朝食を済ませて洗い物を片付けていると、元水柱を連れて炭治郎が訪れた。予定外の訪問に案の定、女の子達はこぞって盛大に炭治郎と元水柱をもてなした。元水柱と来たら相変わらず色男然として、土産に特上の鰻重と団子や洋菓子まで運ばせて来て、いけすかないことこの上ない。勿論鰻は腹に収めたが、その代価としてもこの相談は割に合わない。
    「てかお前らは、とっくにそんなのお済みなんだと思ってましたよ」
    「そんな訳ない。付き合い始めたのは昨日のことだぞ」
    「はいはい、純愛貫いておられたんですねぇ。あんなにいっつもキュンキュンキュンキュン煩いぐらいの音させといてさぁ」
    「あ」
     今の今まで顰め面だった、炭治郎の目がまん丸に開く。なに、そんな顔もできたんだ。そう思うぐらいの幼さが滲む。
    「やっぱり、」
     見てしまったことを後悔する、これは善逸が知る炭治郎とは違う。瞬きが増えて、頬っぺたなんて赤らめたりして、元水柱に駆け寄って行く音がキュンとするなら、これはぎゅううううんというぐらいの音。恋仲どころかベタ惚れの音。
    「義勇さんもキュンキュンされてたり……するんだな」
    「……うっ、マジでもう帰ってくんない?禰豆子ちゃんにそんな顔見せないでくんない?」
    「なんだいきなり」
    「もうさぁ、勝手にやっててってこと!大丈夫だよ、元水柱も今頃そんな音出してるだろうし、早く帰っていちゃいちゃしなよ。聞いてるこっちが恥ずかしいから!」
    「どんな!どんな音なんだ善逸!」
     こうなったらもうヒソヒソ話などして居られない。早々に帰って頂くべきだ。こんな炭治郎を置いて行くなんて元水柱だって無責任すぎる。だって俺たちは知らなくていい、これは元水柱の恋人である炭治郎の顔だ。
    「なんだあいつら、あんな隅っこでコソコソと」
    「ふふっ、なんだろうねぇ。アオイちゃんがお茶の準備してくれたから、伊之助さんも一緒に行こっか」
    「おっ、大福か!行くぞ禰豆子!あいつらの分まで食ってやろ」
    「うん」
     庭を挟んだ向こう側から、伊之助と禰豆子は病室の二人を遠く眺めた。突然訪ねて来た理由は聞いた。兄弟子のこと、今朝まで丸っと一日の経緯、わかり易いような分かりにくい様な炭治郎独特の表現を交えた報告は、禰豆子の心も弾ませていた。隣で義勇が頷きながら、炭治郎を見下ろしていた。その視線がぐっと和らいでいて、早く鱗滝にも報せてねと言った。
    「ふふ、春だねぇ」
    「春?何言ってんだ、これから冬だぞ」
    「うふふ、そうだね。冬だった。懐かしいなぁ、義勇さんも雲取山に来てくれないかな」
    「そしたら冬でも決闘できるな」
    「うん、冬でもね。いつでも、好きな時に」
     兄の様に思っていた人が、兄と呼んで良い人になる。そうしたらきっと家族写真でも撮って貰おう。鱗滝と四人、皆んなで並んで。

     夕暮れを前に炭治郎は、元蝶屋敷を後にした。善逸からはさっさと帰ってやりなと言われ、禰豆子は煮物を持たせてくれた。後から追いかけて来た善逸が、こそっと艶本を持たせてくれた。足が痛むのに古本屋まで、歩いて出掛けてくれたらしい。どうしても気になってしまい路地裏でパラパラと捲ってみたが、やっぱり善逸は物知りだった、それに尽きる。
     日が暮れ始めると、北風が冷たく吹き抜けて行く。炭治郎は襟元を掻き合わせ本は懐に隠し風呂敷包みを抱え直した。春画だとか、浮世絵だとか、今までだって見たことはあった。年頃の隊士が集まれば、夜中は大抵そんな話で、風呂に入れば一物を比べ合うものも居たし、猥談な話も良く耳にした。
     義勇はこれをどう「学ぶ」んだろう。義勇もこんな本を読むのだろうか。それとも誰かの指南を受けて、稽古をしたりするのだろうか。炭治郎がまだ未熟であっても、誰かとの稽古なんて考えられない。触れられるのなら、義勇からがいい。義勇からしか、触れられたくない。
    「あ、あれ?」
     ほんの少しだけ複雑な気持ちで冨岡邸の角を曲がると、門灯の傍に人影が見える。それが誰かは直ぐに分かって、反射的に駆け寄ってしまう。
    「義勇さん!」
     随分前から、思い出せる限りのずっと前から、炭治郎は義勇を見つけることが得意だ。キュンキュン煩いと言われたのは心外であるが、確かに胸が高鳴っていて、隊士時代からそうだったかもしれない。義勇から見たその表情は、いつでも綻ぶ花に似ている。大戦を終えて戦うことがなくなってから、純粋にただ、慕う気持ちだけが溢れ出していた。
    「迎えに出てくださってたんですか?外は冷えたでしょう。禰豆子が煮物を持たせてくれましたから、すぐ夕餉にできますよ」
     義勇はこくりと頷いて返す。灯りに照らされた頬には厚い睫毛の影が落ちている。鰻を皆んなが喜んだこと、団子は伊之助が殆どひとりじめしてしまったこと、報告がてらの立ち話に、義勇は黙って耳を傾けている。
    「それで……あぁ、本当に冷えて来ました。行きましょう、今夜も冷えますよ」
    「うん、入れ」
    「はい!」
     義勇は潜戸を押し、炭治郎を先に通らせて屋敷に向かう。その少し後ろから着いて歩く、炭治郎は義勇の背中をじっと見ていた。禰豆子に報告を済ませ先に帰った、義勇は何処か、寄り道をしたりしたのだろうか。気付かれない様に鼻を澄ませても、特段変わった匂いはしない。玄関引き戸に指を掛けて、義勇は徐に振り返った。見つめていたのに気付かれただろうか、匂いを嗅いだのがバレてしまっただろうか。炭治郎は下唇を噛み、義勇の隣で立ち止まった。
     義勇の掌が炭治郎の額を撫でて、開かれた掌からは握られ続けてぎゅっと濃くなった、心配の匂いが溢れて落ちた。
    「おかえり、」
    「……はい!ただいま帰りました!何か心配事ですか?」
    「いや、杞憂だった」
     炭治郎の頬の形を確かめる様に、義勇の掌が丸い頬を包む。耳の後ろまで届いた指先は少し冷たくて、風呂敷で右手が塞がっている炭治郎は、手のひらの代わりに頬を擦り寄せた。
    「俺には言えないことですか?」
     問いかけてみても案の定、義勇からは返事が来なくて、炭治郎は首を竦めながらもう一度すりりと頬を擦り付ける。本当に只の杞憂だったり、炭治郎には言えないことがあるのかもしれない。別々に出掛けることぐらい今までだって何度でもあったのに、隠された途端に気になってしまう。
     触れ合ってしまったから、その所為だろうか。経験が無くても元柱なのだから、言い寄られたことぐらい数多あるだろう。義勇がもしも他の誰かにこんな風に、触れるとしたら、多分とても、とっても嫌だ。義勇が触れるのも炭治郎だけであって欲しくなった。せめて炭治郎が、ここに居る間だけは。
    「……お前が帰らなかったらと、心配していた」
    「は?」
     無言で返事を待った甲斐あって、義勇は渋々と口を開いた。けれど理由が想定外で、炭治郎はもう一度疑問符で返す。
    「男同士の指南書を読んだ。お前も何か聞いたとしたら、知ったら余計に、帰ってくるのを躊躇うのではと」
    「あぁ……なるほど。そんなことですか、ははっ」
    「瑣末なことじゃない。俺は己の無知を恥じた。お前に無体を強いる気はないし、手間も掛かるし、準備……が、辛くなるだろう。お前の心さえ決まっていれば、目合いなんぞしなくても良くて」
    「あはは、はい!分かりました!分かりましたから、戸を閉めて貰って良いですか?」
     炭治郎は風呂敷包みを玄関に置き、義勇に向かって振り返った。義勇はというとまだ怪訝そうに、引き戸の鍵を閉めて視線を戻した。
    「あのですね、俺はこれを持たされました。まだしっかりは読んでませんけど」
     炭治郎は懐から取り出した艶本を、義勇の前に差し出して見せた。
    「でも、帰り道では義勇さんが、他の誰かとこんなことしたら嫌だなってことしか考えてなくて」
    「そんなことはしない」
    「はい!ですよね!良かった、義勇さんもきっと、こういう本を読んだところなんだなぁって」
     屋敷の中には珍しく、紙とインクの匂いが漂っている。義勇が一人早く帰って、熟読したのならなんだか可愛い。
    「俺、嫉妬深いかもしれません」
     艶本を手に握り締めたまま、炭治郎は義勇の肩に額を寄せた。ぐりぐりと額を押し付けながら、義勇の傍へ一歩詰め寄る。すん、と匂いを確かめてみればやはり不安の匂いしかしない。こんな気持ちを抱えたままで、この北風の中、炭治郎を待っていたのだ。
    「学ぶなら俺は、義勇さんと学びたいので、この一週間は此処で一緒に居てください。ずっと」
     義勇が息を詰まらせたのが分かる。炭治郎だって無理を言っていると思う。付き纏っていたあの四日間でさえ、たった四日だ。それでも義勇もげんなりしてたのにそれが七日とは無理に決まってる。
    「潔くて惚れ惚れするな」
    「え」
    「いい考えだ、賛成しよう」
     義勇の声に顔を上げると、ふわりと義勇の髪が被さる。接吻は今日、まだ二回目だ。出掛ける前と、たった今。けれど朝より、ずっと深く長い。
    「……っ、ん、ぷ。良いんですか、俺と一緒で」
    「それがいい。俺もお前がどう学んでくるか……不安だった。お前は偶に、突飛なことをしでかしてくれるから」
    「ずっと一緒なんですよ?ご飯も寝間も、風呂にも厠にも付いてきますよ?」
    「風呂と厠は勘弁してくれ」
     後ろ頭を抱え上げられ、炭治郎は必死に爪立ちをする。義勇の匂いが、喉の奥まで濃く芳る。あぁ艶本には、接吻の仕方は書いてあったかな。上顎の縁を舐められる度に変な吐息が漏れそうになる。かふかふと口を開いてどうにそれを整えたくても、舌を啜り上げられて呼吸が途切れる。
    「いゆ……っ、さ、待って。のど、変……ッ、へんな声、でる」
    「出していい。悦い声だろ」
    「、ふ……っう、ン!んん、ン、んぁ」
    「……うん。学ぶぞ、しっかり」
    「ふぁ……い、はぃ、はい!」
     とっくに炭治郎の脚は、痺れてしまって爪立ちだってできていない。縋り付いた上に義勇の腿に支えられている。そんな姿で良いのだろうか。学んだならば、分かるだろうか。

     朝起きると、炭治郎の右手側には義勇がじっと寝そべっている。手を繋いだまま眠ることが、一緒に過ごす間の約束になった。炭治郎が体を起こすと、義勇は眠そうな顔でなんとか起き上がる。羽織を掛けて、また手を繋いで、台所で食事を作り始めても義勇は炭治郎の傍に立っている。偶に目覚めが良い朝ならば、義勇も味噌汁を拵えたりする。その味は鱗滝の汁と似ていて、同門なのだと改めて思う。
     大概のことは片手でできるが、鍋を抱えるのだけは二人でないと巧くできない。食事を摂って、洗い物をして、洗濯物を済ませ縁側に腰掛ける。暇ができれば指南書を読み、お互いの体で試して学ぶ。隣にはお茶や干菓子も置いて、今日は何故だか手拭いもある。
    「いちぶのりって、糊の一種ですか?」
    「海藻らしいな。こういう風に、紙になっている」
     義勇は指南書の一番後ろから、紙封筒を取り出して中を見せる。確かに海藻、潮の匂いがする。菊門や魔羅に馴染ませて使う、潤滑剤になるらしい。
    「これ、義勇さんが買って来たんですよね」
    「あぁ。不味くはないぞ、舐めてみるか」
    「はい!」
     義勇に淡々と答えられる度、これは必要な手順なんだと納得してしまう。鍛錬というのはそういうものだ。自分の体の隅々までも意識し理解して稽古を重ねる。一足飛びには強くはなれない。
    「あ、ホントだ。海藻の味がしまふ」
    「うむ」
     鱗滝の様な返事だと思えば、義勇も何かを口に含んでいる。それが何かは言うまでもなく、炭治郎の口の中と同じ、いちぶのりを咀嚼している。
    「出してみろ」
    「ん、はい」
     義勇は既に試した風で、炭治郎はべろの先に乗せた滑りを手のひらに吐き出してみる。確かに糸を引いてはいるが、紙の形も残ったままだ。
    「どうだ。分かったか」
    「俺、口が乾いてますかね。これで良いですか?」
    「うん、もっと噛むといい」
     義勇はもごりと口を歪めて、炭治郎の手首を引いた。べたりと葛湯かというぐらいに、強い滑りが手のひらに垂れる。
    「どうだ。こんな風になる」
    「は、ぇ……っ、はい!義勇さんは、お上手ですね⁉︎」
     義勇の体温を含んだそれが、手のひらの上でゆらりと揺れる。溢してはまずいが拭き取るのもどうだ。けれども手のひらに乗せたままでは、義勇の口のぬくみが沁みる。
    「たんじろう」
    「はい!義勇さん、溢れます!これ、どうしたら」
    「こっちを見てくれ」
    「え、あの」
     べたりと板間にふのりが溢れた。溢れたというより垂れ落ちた。義勇は炭治郎と掌を重ね、手首の窪みに指を這わせる。残った滑りが指と塗れて、いつもよりずっと滑りが良い。合わせた口もまだぬるぬるする。舐っても舌がざらつかなくて、不思議な感じだ。指の隙間を爪で掻かれる。痛む程の摩擦は無くて、ただただひたすらに溶かされそうだ。
    「滑りが良いだろう」
    「はいっ、……あ、ぬるぬるして……ッ、なんか、これ、」
    「ん」
     掌同士も唇の中も、義勇の匂いで撫でられている。指南書通りにこれを使ったら、やっぱりそこも、溶けるのだろうか。
    「今夜は風呂も一緒に入るか」
    「……んぅ、でも、ふろは、」 
    「これで慣らすのに、稽古が要るだろう」
     義勇の口は炭治郎の上唇を、ちゅくんと音を立てて食んで離れた。毎日学びの連続ではあるが、義勇の方が心得ている。
    「腰を温めてからの方は解れるらしい。ほら、手を拭え。次を捲るぞ」
     濡れ手拭いを差し出されてみて、この為だったとやっと分かった。口元を拭った綺麗なお顔は、炭治郎に向かって微笑んでいる。愉しげな義勇は眩しく見える。目が眩むから、勘弁されたい。
    「ぐぅ……義勇さんはどうしてそんなに、余裕、なんですか」
    「俺は先に一度読んだからな」
     当然だ、と言えば確かにそうだが、それでも手管に差が有り過ぎる。年嵩だから、元柱だから、おモテになるから、兄弟子だから。
    「どうだ、風呂は。まだやめておくか」
    「いえ、いいえ!入ります。おっ……れもいつか、義勇さんを追い越したいので!」
    「はは。追い付け追い越せか」
     濡れ手拭いを盆に放って、義勇は炭治郎の額を撫でた。追い越すことなんてきっとできない。
    「お手柔らかに、頼むとしよう」
    「……ぐ、ぎ、義勇さんは!もう!」
     せめて義勇の微笑みに、笑い返せる余裕は欲しい。学んで稽古して自信を付ける。その繰り返しと積み重ねである。

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