『ねぇママ、ジェイド』
小さなフロイドは、そのシトリンの瞳に映る「おかしなもの」を兄弟と母に見せようと、2人の指を小さくクイっと引っ張る。
その合図に2人が振り返った。
『あそこの岩に女の人が座って、歌を歌ってる』
『…?どこにいるんですか?』
ジェイドはフロイドの指差す方向を向くと、目を凝らしてその岩を見る。しかしそこには暗い海が広がるばかりだ。
頭に?マークを浮かべるジェイドとは対象的に、フロイドの握る母の指がピクリと動いた。
ほんの僅かなその反応。しかしそれだけでフロイドは、この優しくおおらかな母が何かに緊張しているのだと察した。
『フロイドさん』
母はフロイドの視界を塞ぐように片手で優しく目を覆う。
ついでとばかりに反対の手でジェイドも引き寄せ、優しく抱きしめた。
『貴方はなにも見ていません。私とジェイドさんの顔だけ見ていて。』
ゆっくりと暗示をかけるように、ユラユラと揺れながら言い聞かせる母。
塞がれた視界は真っ暗で何も見えない。しかし瞼に触れる柔らかな肌の感覚が心地よくて、ついつい甘ったれの癖が出てきて、母にギュッと抱きつこうとする。
すると
『ねぇ、ミエてるんデしょう。「フロイド」』
耳元で小さく呟かれた美しくもおぞましい声。
目元は覆われていて見えない。しかし自分の顔のすぐ横にこの声の主が張り付いているのだと考えたら心臓が竦む思いだった。これは良くないモノだ。
フロイドは察しが良い。そうでなければこの世界で生きて行くにはまだ弱すぎた。
『こっちに来て一緒に歌いましょうよ』
『なぜ聞こえないふりをするの?』
ひたすら自分の口を塞ぎ、悲鳴をあげないようにする。早く諦めて何処かへいってくれと願いながら。
『あぁ、この女の手が悪いのね』
その一言を聞いた途端、フロイドは母の手を振り切り、目を開いて叫ぶ。
『あっちいけよ!』
突然のフロイドの行動にビクリと肩を震わせたジェイドと母。
周りを見る。なんだ誰もいないじゃないか、と肩透かしを食らった気分で息をついていると、
『なァんだ、やっぱり見えテた』
視界いっぱいに逆さまになった目のない女の顔が写った。
そこからフロイドの記憶はない。
ぞわりと鱗を逆なでされた心地でフロイドは目を覚ました。
窓の外を見るがまだ暗い。なのにもう寝る気分にもなれず、どうしようかと考えあぐねる。
ふと数メートル先の隣のベッドに眠る己の片割れを見る。もし起きてたなら…と淡い期待を寄せ「ジェイド」と小声で呼ぶが、残念ながら非常に健やかな寝息だけが聞こえた。
フロイドはそっと床に降りた。
寝巻き用に来ていたオーバーサイズのTシャツとズボンそのままにこっそりと談話室へ向かった。
談話室には軽い給湯所があり、いつでもお茶を飲めるようにとスティックタイプの飲み物が常備してある。フロイドはその内のひとつであるミルクティーを一本取ると、マジカルペンを一振りして薄ぼんやりとした明かりをつけた。
ウツボの絵の描かれた青いカップにミルクティーの粉と湯を注ぎ、ソファに座る。ずっしりと深く沈む座面と背もたれに心地よさを感じて、マグカップの中身をちびちびと飲み始めた。フロイドもジェイドも熱々は苦手なので、少しだけ温めに。
口を尖らせながらそれを飲んでいると少しはざわざわした感覚が薄れていった。
「ほんとヤな夢…」
フロイドは昔からあぁいった存在に目をつけられる事が多かった。
まだ力の無かった稚魚の時は、ひたすら見ない振り聞こえない振りをしてやりすごし、ある程度大きくなると、そういったものに捕まった時はとにかく暴れて逃げる。これに徹していた。だからか、いつもそういったものに巻き込まれたあとのフロイドは小さなかすり傷が絶えなくて、ジェイドに大層心配されたものだった。
しかしNRCの入学と共にその心配もなくなる。なんと言ったって、この学園には見えるゴーストやそういう生き物がわんさかいるのだ。自分だけが見たり聞いたりしているわけじゃない。だったら別に無理にいないふりを貫く事もなく、ゴーストに声をかけられれば普通に返事はするし、相手もフロイドに危害を加えようとするわけではない。至って優しいゴースト達ばかりであった。
そんなこんなで健やかな学園生活を送っていたはずだったのに…
その夜はミルクティーがすっかり冷たくなり、ジェイドやアズールが起きてくるまで談話室に座っていた。
その日の授業はとにかく眠くて眠くて最悪だった。
授業中に居眠りするのはいつもの事であるが、それが原因であとでレポートを出すように言われた。
錬金術でもつい集中が途切れて、砕いて入れるはずの材料を間違えてそのまま入れてしまい、大目玉を喰らった。そんなフロイドの不調を見かねたジェイドが「今日は無理に授業に出ずに休んでいても良いのでは?」と言ってきたものだから、寝たくてしょうがないのと人恋しさ半分で「あ~」と呻きながらジェイドの肩に頭をぐりぐりと擦り付けてから、名残惜し気に昼寝をすることに決めた。
フロイドは重く感じる体を引きずりながらいつもの定位置に向かうと、そこに仰向けに寝転がり目を瞑った。
心地よい風を感じる。それから草木の香り。ときどきクスクスと小さな笑い声が聞こえて、それは多分妖精なのだと思った。
ここNRCはなんと気候調整も妖精がしてくれているのだという。真夏の暑い時期は水や風を司る妖精が、真冬の寒い時期は炎を司る妖精がそれぞれ気温を調整してくれていると言い、初めてそのシステムを聞いた時はアズールもジェイドもフロイドも大層驚いたものだった。
だから現在夏であるにも関わらず、こうして外で過ごしてもある程度は我慢できる気候を保たれていた。
そのクスクス笑う妖精は次第にフロイドの近くまで来るとぴたりと動きを止めた。正直うっとおしいなと感じつつも眠さには勝てず、そのまま無視をして寝る事に決めたフロイドであったが、その妖精の奇妙な言葉に
目を醒ます羽目になった。
「足の生えた男の子のセイレーンって初めて見た!」
「そうだね、海か川にしかいない筈なのに、どうして陸にいるんだろう」
「珍しい!持って帰って女王様に献上しないと!」
フロイドはパチリと目を醒まし、自分の顔を覗き込んでいた小さな手のひら程の妖精を睨みつけた。
「何言ってんのか分かんねぇけど、オレウツボの人魚だから」
フロイドにとってはウツボの人魚である事は誇りである。なんと言ったってあの慈悲深い海の魔女の手下である生き物と同じで、そしてジェイドとお揃いだからだ。
妖精は自分を睨みつける大きなフロイドに身をすくませると、一瞬にして消えてしまった。
ちっと舌打ちし、再び寝ようとしてやめる。
そんな気分じゃなくなったのだ。はぁ、と盛大にため息をつくと次の昼寝スポットに向かった。
植物園に行けばレオナが昼寝をしていて、フロイドは侵入者扱いを受けてその場を後にし、かといってリンゴの木のすぐ近くのベンチに寝そべればトレインの愛猫であるルチウスが覗き込み顔にパンチをしてくる。曰くちゃんと授業に出てトレインを困らせるな、と。
そんなこんなで昼寝場所を探しているうちに結局放課後になり、寝不足で不機嫌のままラウンジで炭を作りアズールに怒られ、そしてへとへとのまま部屋に戻った。
「全然調子が戻りませんでしたね」
ジェイドは寮服から部屋着に着替えると、クローゼットのハンガーにそれをかけながら言った。
「なぁんかイヤな夢みてさぁ~しかも変な妖精が絡んできて。ちょっと脅したらすぐ逃げてったけど」
フロイドはベッドに仰向けになったままぐったりとしていた。ジェイドと話をしながらもウトウトと寝てしまいそうになる。
「フロイド、まだシャワーを浴びてませんよ。いっそ大浴場にでも浸かって、少し体を温めてから寝た方がリラックスできるのでは?」
ジェイドはそう言うとフロイドのタンスを漁り、下着やら部屋着、タオルなどを取り出すと、寝転んだままのフロイドにそれを投げてよこす。
「え~めんどくせぇ…」
「僕も一緒に行きますからそう言わず」
ジェイドも自分の下着やタオルを持ちにこりと笑う。
ジェイドに手を強く引かれて強制的に体を起こされたフロイドは、仕方なくそれについていく事にした。
身体や頭を洗い湯をかけると、アズールとジェイドとフロイドは肩まで湯に浸かった。
NRCには各寮にシャワー室があるが、大多数の生徒の要望により大浴場を設置していた。そんな大浴場には様々な寮の生徒達がごった返していて、湯をかけあったり大声でしゃべったり、うたた寝をしている。いつもであればあまり熱さに強くない三人は大浴場を利用する事は滅多にないのだが、珍しくジェイドが二人を誘って、そしてこうなった。
熱いには熱い。しかし耐えられないほどではない。
フロイドは両腕を真っすぐ上に伸ばし、身体の緊張をほぐす様にストレッチをした。
「お前、調子が悪いならきちんと言いなさい。そしたら割り振りも少しは考えたものを…」
「んーごめぇん…なんか自分でも思った以上に今日だめな日だったぁ…」
顔半分を湯につけて目をとろりと伏せる。つい気持ちよさに寝てしまいそうになり、ジェイドに肩を軽く揺さぶられた。
「イヤな夢を見てから調子が悪いのでしょう?どんな夢だったんですか?」
「あのさぁ、ジェイド覚えてるか分かんねぇけど、オレとママとジェイドで散歩した時に岩場で女の人がいるって言ったときあったじゃん?」
ジェイドはそれを聞くと癖なのか手を顎にあてて考えるが、思い出せないのだろう。覚えてないです、と言いつつも先を促した。アズールも内容が気になったのか、目だけをフロイドに向けていた。
「まぁそんで、その時ママにアレは見なかったことにしなさいって言われて、ずっとその訳のわかんねぇ女の人に話しかけられても無視してたんだけど、ついオレあっちいけよって返事しちゃってさぁ」
「それで?」
「そしたら『なぁんだやっぱり見えてた』って言われて」
「それもしかして怖い話ですか?」
「そういう事~」
それはちょっとトラウマものですね、と無い眼鏡を押し上げる仕草をするアズール。その場面を想像したようで、少しばかり身を縮こまらせていた。
いかに悪名高い海のギャング共といえど、怖いものは怖い。なぜならそういったものは会話も通じないし、ある意味純粋で無垢で無情であるからだ。
「あんときはめちゃくちゃ怖かったけど、今はそういうのに捕まりそうになったら暴れれば切り抜けられる事も多いって分かったし、この学校にはそういうやついなさそうだから。まぁ夢見が悪かったってだけ」
はいこの話もう終わり!とばかりにフロイドは勢いよく湯船からあがる。後を追うようにアズールとジェイドも上がり、着替えを済ませた三人は談話室でアイスを食べてしばらく談笑し、そしてそれぞれの部屋に帰った。
「フロイド、おやすみなさい」
「うん、おやすみジェイド」
いつもの挨拶。お互いお休みと言い、そして電気を消す。朝に感じたもやもやした気分はすっかりなくなり、明日はちゃんと授業に出てみようか、なんて思いながら眠りについた。