和風ホラーのようなパロ 最初の部分8月。
ボストンバッグが三つ乗せられた軽自動車に背の高い男が二人、おっとりした女が一人真っ青な夏空の下を走っていた。
「母さんの実家へいくのは久しぶりだなぁ。ジェイドが確か小学校一年生の時以来だったか?」
「そうですね、まだこんなに大きくなかった頃ですもの。ジェイドさん覚えてる?この山」
ジェイドはウトウトとしていた目を緩く持ち上げ、ガラス越しに指さされた山を見る。何の変哲もない小さな山。高校に入学し、登山部に入ったジェイドとしては少々物足りない高さではあるが、田舎特有の空気と言うものがある。それほど手つかずの自然に近いであろう景色を想像して、頬が少しだけ緩んだ。
「あの山は登っても良いんですか?」
「登るのは構いませんよ。ただ地元の人もあんまり立ち入らない暗い場所だから遅くまで遊んでいてはダメですよ?」
「ジェイドは自然が大好きだからなぁ。将来植物学者にでもなったらどうだ?」
父が冗談交じりに笑う。運転しつつもバックミラーで窓の外を眺める息子の顔を見てそっと微笑んだ。
「お母さん、ただいま」
母がノックもインターホンを押す事もせずにいきなりガラっと音を立て、引き戸を開けた。
ジェイドがそれに「え」と呟きぎょっとすると、隣にいた父が苦笑いする。
「都会じゃ考えられないだろ?」
小さくジェイドに耳打ちするように呟いて、それを聞いたジェイドは父の顔をチラと見、ずかずかと靴を脱いで玄関を上がる母に習い、おずおずと靴を丁寧に整えお邪魔します、と言った。
ジェイドの祖母は母にそっくりでおっとりとした女性だった。祖母にしてこの母、というように見た目はまだ若さを感じさせる。二人で並ぶと歳の離れた姉妹と言っても通じそうなくらい若かった。
小学生ぶりの孫の帰省に祖母も祖父も喜んで、その日の夕食は質問攻めにあった。
「ほんとにこんなに大きくなって!ジェイドは今身長どのくらいあるのかしら」
「今年の身体測定では190センチありました」
「デカいなぁ…リーチさんちの血筋かね」
「こんなにハンサムに育って、同い年の女の子達は放っておかないんじゃない?」
「はは、それほどでもないですよ」
にこりと愛想笑いを浮かべる。別にジェイドは女子にモテようが男子に妬まれようがどうでも良かった。
自分の好きが優先である。その楽しみを邪魔されるくらいなら一人でいた方がマシ、というのがジェイドの持論だ。
表面では人当たりの良い態度をとるが、反面性格が皮肉屋であるのを知っているのは両親くらいだった。
そんな他愛のない会話をして、少しだけ映りの悪いテレビを見る。都会で放送されるものと違い、ローカル番組には見た事のない芸能人が喋っていて、食後に出されたスイカを食べながら、それを特になんの感情もなしにぼーっと見つめる。
その間母と祖母は昔話に花を咲かせ、父と祖父はビールを飲み赤ら顔でげらげらと笑っていた。
そんな光景を見ながらなんだか途端に独りぼっちになった気がして、幼い子供でもあるまいし…と夜風にあたろうと玄関から下駄を借りて外に出る。
「あら、ジェイドどこ行くの?」
「少しだけ外の風にあたってみようと思いまして」
「そう。虫の声が良く聞こえるし、星もキレイだから夜のうちに少し散歩してみたらどうかしら」
玄関の頼りない明かりがほんのり軒先のジェイドのつま先を照らした。時刻としてはおおよそ20時頃。
都会ならこんな時間に一人で出歩くのは高校生の男子であろうとも危険であったが、ここは田舎だ。スマホを持って行けば少しは懐中電灯代わりになるだろうか、とポケットに入れてカランコロンと音を鳴らして街道を歩く。
整ったコンクリートの道は車通りの良い場所だけだ。家の周りの道は砂利を敷いたり土や畑、田んぼのあぜ道が並んでいる。
夜風が夏だと言うのに涼しく感じ、涼やかな虫の声があたりに合唱する。時々つま先で小石を蹴りながらジェイドはその景色と音を楽しんだ。ふと右を向くと、遠くには黒く塗りつぶされた大きな山が見えた。
昼間の車から見たあの山はもっと小さく感じたが、こうして暗闇の中でぽっかりと浮かび上がる様に鎮座するそれを見て、ジェイドは言いようのないざわつきを覚えた。しかし同時にどこか惹かれるような気持ちを覚える。
「明日行こう…」
履いていた下駄をカラコロと鳴らし、家族のいる家へと帰った。
「そういえばジェイド。8月の13日あるじゃない?この村でも夏祭りがあるから一緒に行かない?」
祖母がそんな言葉を口にした。この村の夏祭りは地域の住人が集まって催す小さな祭りだ。屋台は焼きそばとかき氷のみ。基本は無料で食べられるというのもそうだが、小さな打ち上げ花火を男衆が打ち上げて、それを見て地元の子供たちが楽しそうに手を叩く。農業が盛んなこの村では一年に一度、こうやって農業を司る神社の前に集まってワイワイと盛り上がる。
その夏祭りはジェイドの記憶にもある。幼い頃に小さいながらもキレイに打ちあがる花火を見て、ズボンが汚れるのも気にせずに地面に座りそこで焼きそばとかき氷を交互に食べる。なんて贅沢な時間だろうと思った。地域の子ばかりが集まってジェイドの知っている人は両親と祖父母だけであったが、その時のジェイドは父と母に挟まって両隣に温もりを感じながらそれをじっと見上げていたので特に気にはならなかった。こうして大きくなった今ではそんな幼い頃のような事はできないが、自分だけ行かずに家に籠っていてもつまらないだろうと二つ返事で頷いた。
「夏祭りまでにまだ日にちがありますよね?僕、あの山が気になるんですが、あそこは登っても良い山ですか?」
祖母はジェイドの指の先にある山に目を向ける。
「山登りが好きなのねぇ。一応祭事の時には登るから明るい内なら大丈夫よ。でもね、夕方になる前には家に帰ってこなければだめよ?山に喰われてしまうからねぇ」
なんとはなしにさらりと答える祖母。別に驚かせようとしている訳でもないその穏やかな表情の意図が分からず、子供を早く帰らせる為の方便のようなものかと結論を出す。できるだけ早く帰ってきます。そう言って明日の山登りに向けて寝る前に持ってきていたリュックサックに必要な荷物をまとめた。
翌日。昼食を食べたジェイドは早速とばかりにリュックを背負って山へと向かった。
「年頃だから、一人で遊ぶのが楽しいのね」
そんな微笑ましい目で見送られているとは知らずに。
その山はジェイド達が泊まっている祖父母の家から徒歩で20分ほどの場所にあった。それほど民家から離れた場所にある訳ではない。入り口には小さな鳥居が立っており、頂上に向けて石造りの階段が設置してあった。登山道らしきものは特になく、ただこの階段を上るだけというのも味気ないなと被った帽子の下の汗を拭うと道のない道を歩いていった。獣道に近いそこは大型の動物が通った後のように所々小枝が折れ、雑草が踏みつぶされていた。まだ昼間真っただ中だというのに少し逸れただけでずいぶんと鬱蒼としたものだなと思った。
「しかし人があまり立ち入らないという事は…やっぱり」
ジェイドは地面のとある箇所をみつけてにんまりと笑った。
そこにしゃがみ込み、スマホを取り出して写真を撮る。そこには小さな花がひとつだけぽつんと咲いている。淡く光っているように見えるその青い花は、今では図鑑でしかほとんど見る事は叶わない。
都市部の開発の進んだ地域では見る事叶わず、日陰の山に咲くというその植物を実際に見たい。ジェイドはそんな動機で山に興味を持つようになった。摘み取って持ち帰って、顧問や部活仲間に見せたら驚くだろうか。そんな事を思って手を触れようとして、やめる。
植物に情があるわけではない。ただ己の私欲の為にこうして消えていった種がごまんとあるのは流石のジェイドも知っている。もしかしたらこの花はようやく咲いた最後の一輪なのかもしれない。ただひとりぼっちで、こうして人々から忘れ去られながらも必死に生きようとしている。なんとも健気で愛おしい。
ジェイドはすぐ脇にあった葉を数枚集めると、その花を隠すように覆った。もともと光合成をそれほど必要としない植物なのだ。容易に見つかって摘み取られませんようにと手を合わせ、その場を後にした。
さらに奥へと進む事数時間、時折珍しい植物やキノコを見つけては写真を撮り記録する。岩にこびりついた苔を採取して小さな瓶に詰め、リュックに入れたペットボトルのお茶を取り出し一口、くちに含んだ。
こくり、と控えめに喉が鳴る。周りではセミの声が煩わしく鳴いていた筈なのに、やけにその音が耳に響いた気がして、ジェイドはふと周りを見渡す。
自分ではそれほど進んだつもりもなかったのに気づけば見覚えのない景色に頭に疑問符を浮かべる。
相変わらず薄暗い木々の間にはあれほど強烈な太陽の光は地上に届かず、少しばかりひんやりとしている。
「そろそろ帰らなければ…」
ジェイドは独り言のように呟くと、記憶にある方向へと向かって進んだ。
ざく、ざく、と足音を踏みしめて薄暗い山の中を歩くジェイド。
確かこの木は見覚えがある。あっちの石がたくさん転がっている道を来たのだ。そうやって記憶を頼りにまたひたすら来た道を戻っているつもりであった。
「……困りましたね」
この木をさっきも見た気がする。あの小石もあの苔も。
ひと際大きなジー――――――――ッという虫の鳴き声がジェイドのいる空間を支配し、知らず汗が一つポタリと地面に吸い込まれていく。
常の冷静さはどこへやら。ジェイドは山での遭難がどれほど恐ろしいものかを知っていた。
それほど獰猛な生き物はいない筈だと祖父母は言っていたが、もし下山出来ないままこの山の中を彷徨い、足場の悪い場所へ運悪く行ってしまって滑落事故を起こす、なんて事もあり得る。なにより暗くなっても息子が戻ってこないと分かれば家族に迷惑をかけるだろう。
ジェイドはポケットに入れたスマホを取り出すと、時刻を確認する。液晶画面に映し出された時刻は16時58分。随分と長居をしてしまったようだ、とジェイドは顔を顰めた。
とりあえずは今の自分の状況を父や母に伝えなければ。必要であれば申し訳ないが警察を呼んでもらうなりなんなりして自分を助けてもらおうと、まずは母宛ての電話をタップする。
それを耳にあて、数秒待つ。
プルルルル、プルルルル、プルル…
音が途絶え、いつもの電話に出る時の音がスピーカー越しに聞こえる。
ジェイドは詰めていた息を吐くようにほっと吐き出す。
「もしもし、母さ…」
ザ―――――――――――――――――ッ
スピーカー越しに聞こえてきたのはあの優しい母の声ではなく、無機質な砂嵐のような音。
ジェイドは戸惑いつつも、電波が悪いのだろうかとスマホを耳に当てたままその場をうろうろとし、一瞬で顔色を変えて耳に当てていたスマホを投げ捨てた。
砂嵐の向こう。微かに聞こえる地を這うような、腹の底に響くようなおぞましい声。
『…だ…くう…』
目を見開き、投げ捨てた自分のスマホを凝視する。スピーカー設定にした覚えもないのに、ジェイドのスマホは勝手に音量を上げ、砂嵐の音がひと際大きく響く。
なんのイタズラかと。早く現実に戻りたくて耳を塞いで目をぎゅっと瞑る。すると、
ゴー――ン…
空気を震わせるほどの大きな鐘の音が聞こえた。
ジェイドは恐怖を覚えて走り出した。わき目も振らず、どこへ行こうというのか。とにかくその場から離れなければと、そう本能が訴える。
でなければ『喰われてしまう』。
道すがら木の合間合間、暗闇の中に何か光る丸いものをいくつも見つける。それらはゆらゆらと揺れ、時折点滅する。ジェイドがそれを『何か』の目だと気づいたのは大分走ってからの事だった。監視されているのか、こちらが力尽きて止まるのを虎視眈々と待っているのか。足だってだいぶもつれてしまっている。息もあがり、これ以上走り続けるのはもう無理だと思った。
そしてまた一歩を踏み出した時、足が空中を蹴った。
「あ…」
なんとも間抜けな声をひとつあげて、ジェイドは前のめりに倒れ、視界がぐるぐると回った。
その視界の動きが止まると当時に身体の節々が痛み、思わず呻き声をあげる。地面に寝そべったまま背の高い木を見上げる。それまで全然空の様子なんて気にもしなかったのに、ここに来て初めて今自分のいる空間の異常性に気づいた。
空が燃えるように赤い。地面から黒い霞のようなものが滲み出て、空に向かってふわりふわりと昇っていく。木も人の顔のように歪んでいて、それが口をぽっかりと開けて悲鳴を上げているようだ。それらが寝そべるジェイドを覗き込んでいる。
「(僕はここで、死んでしまうのか…)」
ジェイドの視界の隅に丸く光が連なっているのが見えた。それらはゆっくりとした足取りでジェイドを囲うように近づくと、段々と全体の姿が見えてくる。黒い大きな影。所々から今まで喰ってきた生き物達の足や手が、角が生えていたり尖った耳のようなものが生えていたり、口がないのに獲物を追い詰めた愉悦に歪に笑っているようであった。その黒い影は黒く細長いもやをいくつも出し、ジェイドを飲み込まんとしていた。
碌な死に方をしないだろうなと想像してしまう。あのもやに捕えられ、あの黒い影への中へと引きずり込まれ、取り込まれるのだろうか。痛みや恐怖は一瞬で終わるのだろうか。自分もあの体の一部として、永遠に…
あぁ嫌だなと思った所で段々と視界が滲んで、自分は泣いているのだと悟る。
それが孤独に、誰にも知られることなく死んでいく事に対してなのか、ジェイド自身も分からなかった。
刹那。
シャン。と軽やかな音がし、鮮やかな碧が宙を舞う。
この暗く重苦しい空間で、まるで羽でも付いているのではないかと思うほどその碧い髪を持った何かは軽やかでありながら荒々しく動く。左手に持った輪の沢山ついた棒を振るう姿はもしやこの山に住む天狗という生き物なのでは、と思わせる。
またしゃん、と音を立てそれを一振りすると白い羽織が翻り、光り輝くようだ。ある意味この世ならざる清浄な光景に場違いにもジェイドはいつの間にか食い入るようにその光景を見つめた。不思議と落ち着いた気持ちでいるのに、心臓が早鐘を打っている。黒いもやはそれを避けるように身を引き『ジャマヲスルナ…モウスコシデ喰エタノニ…』とゆらゆらと体らしきものを揺らし、ざわり、と音を鳴らす。
一度引いたものの諦める気はないのか、次々と押し寄せるように黒い影達はジェイドとその碧い髪を持った謎の人物を囲おうとする。
「チッ…」
多勢に無勢。この場であの異形たちに対抗できるのは唯一碧い髪の人物だけだ。この場では不利だと考えたのだろう。突然その碧い髪の人物はジェイドを振り返る。その人物の顔には祭事で使うような目元に紅の引かれた狐の面が付いていて思わずぎょっとしたが、とうの本人は問答無用で手首を掴みジェイドの体を起こすと、気遣う風もなく引きずる様に走り出した。
「えっ、あの?」
「なにぼーっとしてんだよ!喰われてぇのかよ!」
彼はジェイドが背負っていたリュックを無理やりに降ろさせ、黒いもやに向かって放り投げた。
何をするのだと抗議をしようと後ろを振り向くと、黒い影の一部はつい先ほど投げ捨てたジェイドのリュックに、蟻が虫の死骸に群がるようにあっという間に黒に包まれ、見えなくなった。
次から次へと想定外の事が起こりすぎていてジェイドの頭は混乱していた。おまけにおそらく坂道を転げ落ちて足を痛めたのかもしれない。足を踏みしめる度にズキンと軋む足になんとか叱咤をし、転ばぬように付いて走るのに必死だった。
ただ、目の前の自分の手を引くこの『彼』と思わしき人物だけはこの瞬間において唯一自分に危害を加える存在ではない事を悟る。
彼の手は自分と違い、まるで血の通っていない亡者であるかのように一切の温もりを感じなかった。それなのに繋がれた手に不思議と安らぎを感じたのはジェイドの気のせいだろうか。
どれほど走っただろう。ジェイドも目の前の彼も息を切らしていた。はぁはぁと荒い息を隠す事もせずにひたすら草木を手でかき分け、そうしてようやっと見覚えのある道路を木々の間に見つける。ガサリ、とひと際大きな葉の擦れる音を最後に開けた場所に出る。そうしてようやっと足を止めた彼に従ってジェイドも足を止め、その場に前傾になって息を整えようと大きく息を吸う。
これほど長時間走り続けた経験ははない。山登りで体力は鍛えているが、それで走るのが得意かと言われるとそうでもない。しかもマラソンなんて速度ではない。ほぼ全速力に近い。肺が痛くてしばらく顔を上げられないでいると、俯いた頭上に影が差した。「おい」とえらく不機嫌そうな呼び声に、重たげに顔をあげその陰を落としたであろう彼を見ようとすると、突如胸倉を強く掴まれ、顔の近くまで強引に引っ張られる。
「ぐっ…」
「お前、なんでばあちゃんの言うとおりに帰らなかったんだよ…」
「は?」
ジェイドは最初何を言われているのか分からなかった。眉を顰め、今はどんな表情をしているのか分からない彼の狐の面を見つめ返す。
「…っ頭良いくせに察しがわりぃな…だぁかぁらぁ!逢魔が時、黄昏時、そういう時間帯に山にいると異形達に目を付けられて神隠しに遭うって事!ジェイドは自分からあいつらに『喰って下さい』って言ってるような行動してたって事だよ!」
「そんなの…ただの迷信だと思うじゃないですか…子供を早く家に帰す為の方便だって。こんな事が起こるなんて想像出来る訳がない!」
そう反論して、一拍置いてはた、と考える。目の前の彼は自分の事を「ジェイド」と名で呼ばなかっただろうか?
自分の胸倉をつかむ手を逆に掴み、逃がさないとばかりに強く握る。
「貴方はどうして僕の名前を知っているんですか?」
ジェイドは鋭い目で改めて碧い髪の人物を上から下まで観察する。よく見れば自分と同じ背丈をしている。声からしてまだ若い。白い羽織は膝まで長く、まるで神社などで祭事を執り行う際に神官が纏うような清浄で高貴な印象を抱いた。なのにその下は白いシャツと黒いズボン。靴は一般的な学生が履くような黒い靴を履いていた。
アンバランスなのにそれが妙にしっくりくる。人のようで人とは違う。彼は何者で、何の目的で自分を助けたのだろう。
そんなジェイドの観察するような目を向けられた彼は、手をほんのわずかにピクリと震わせ、手を振り払った。その反動で少しだけジェイドの体がよろける。
よほど強く絞められていたのか、襟元は伸び、皺が出来ていた。
「別に…お前のその、落ちてた四角い電子機器見て知っただけだから…」
明らかな嘘をつくな、と思った。おそらく彼が言っているのはジェイドの『スマホ』の事だ。しかし現代においてスマホに自分の名前を書く人間なんて普通いない。もしかしたらいるかもしれないが、少なくとも自分の周りでは見た事がない。
「電子機器…スマホの事ですか?」
「すまほ…」
「もしかしてスマートフォンをご存じない?」
「…」
ついに彼は無言でそっぽを向いてしまった。
「『すまほ』だかなんだか知らないけど、ここを生きて帰りたいなら黙ってオレの指示に従えよ。運が良けりゃ五体満足で帰れるから」
いっそ不貞腐れたように投げやりに答えると、一人ジェイドを置いて歩き出してしまう。
ジェイドはそれに不満に思いながらも身の安全を考えれば目の前の人物の言う事を聞くのが得策であると賢い頭で理解する。追いかけようと慌てて真っすぐに立とうとして、足が痛かった事を思いだし顔を顰めた。
「ぃ…」
そんなジェイドの小さな呻き声が聞こえたのか振り返る。
「何、どっか痛いの?」
「坂道を落ちた時に、足を…」
彼は何を思ったか、ジェイドの左横に来ると「ん」と一言だけ。
「…何ですか?」
「お前をあっちの世界に帰さなきゃいけないのに置いてけないでしょ。デカいから流石におぶってはいけないけど、肩ぐらいは貸してやってもいいよ」
ジェイドの返事を待たずして、彼はジェイドの腕を自分の肩に組ませる。一気に至近距離になった彼にジェイドは一瞬身を竦める。なんなのだろう。自分に腹を立て、冷徹なようで、そうかと思えばこうして足を心配して支えてくれる。面越しにわずかに見える白くまろい頬や耳を何故だか無性に触れたくなり、つい空いたほうの手でそっと触れてしまった。
「…なに?」
びくりと肩を震わせ、首だけのけ反るようにしジェイドを見た。
「そういえば貴方の名前を知らないなぁと」
「黙ってろっつったよね?別にそんなのどうでもいいじゃん。お前はお前で、オレはオレ。お前もオレの事適当に『貴方』って呼べばいいよ」
「いいえ、ジェイドと呼んで下さい。僕の事を知っていたのでしょう?スマホで見たなんて見え透いた嘘を吐かれて騙されるほど馬鹿だとは思ってないはずだ。名を知られて困る事でもあるのでしょうか?」
「満身創痍なくせに腹立つほど口が回るのな」
こんな奇妙な世界で独りぼっちだった所に何の目的か彼が現れた。精神が参っていたジェイドとしては、藁にも縋るような存在だ。自分の事を知っていた事に怪しいと感じても、なんとかこの態度の悪い彼と信頼関係を結んでおかなければならない。
はぁ、と聞こえよがしに盛大にため息をついた彼は正面を見据えながら皮肉気に言葉にした。
「フロイド。どうせここから帰った頃には忘れてるだろうから、そんなに呼びたきゃ好きに呼びなよ。『ジェイド』」
ジェイドは彼、『フロイド』を見ると同じく正面を向いて、ほんのり口角を緩めた。
「よろしくお願いします。フロイド」