『あいつはとんでもない物を盗んでいきました』「僕にそんなお遊びに付き合えと?」
ジェイドは嫌そうな顔を隠しもしないで己より身長のいくらか低い上司に言った。
高身長で切れ長の瞳、そんなジェイドに自然見下ろされる形になった上司アズールは目を瞑ってはぁとため息をつく。
「僕を睨んだってしょうがないでしょう。だいたいお前はここに配属されたばかりで仕事内容に文句を言える立場じゃないんです」
「だとしてもこんなふざけた紙切れ一枚…警察ともあろう組織がこんなモノに振り回されるだなんてバカバカしい」
「ジェイド」
アズールは銀縁のメガネのブリッジをくいっと持ち上げ、ジェイドを冷静に見返す。言葉が過ぎるぞ。そんな牽制の籠った眼差しにジェイドはひと際目をぎゅっと瞑り、諦めたように小さく「分かりました」と呟いた。
ジェイド・リーチは刑事課に所属する刑事だ。まだ20代だというのにその能力を買われ、異例の出世を遂げた期待の新人刑事。警察内での評判はすこぶる良く、このまま行けば警察上部への仲間入りも可能なのではないかと言われているほどである。頭がキレ、見目も良い。戦闘能力も然ることながら持ち前の対人能力で上司のウケも良い。勿論見目も良いので女性警察官のウケも当然良い。
ジェイドは紳士然としているが、その内心非常に野心家な若者だった。この春新しく配属された刑事課で、さぁ何か大きな事件で手柄を上げよう!と意気込んでいた矢先、このトンチキな手紙の主の相手をしろと、そんなお達しで思わず片眉を上げてしまったのだ。
ジェイドは自身のデスクの椅子に深く腰掛けた。背もたれが重みを受けきゅっと甲高く鳴る。そして片手で明かりに透かすようにその手紙をじっくりとやる気なさげに読み始めた。
~ 予告状
親愛なる〇〇美術館の館長へ
明日の夜19時、貴館に飾られている 『 水際の乙女 』 の絵を頂きに参上します
怪盗 F ~
「(予告状…怪盗Fなんて聞いた事もない)」
ジェイドはその『予告状』と呼ばれたものを机に放り投げると大きくため息をついた。
その様子を見た同じ部署の刑事が、ジェイドの肩に手を置いた。ジェイドはチラと目をやり、姿勢を戻して何か?と顔を向ける。
「いや、大変な事件押し付けられたなぁと思って」
「失礼ですがえぇ、本当に。今時こんなふざけた事をする人間がいる、というのがまず驚きです。悪戯の可能性を何故考えないのですか?」
「な。俺も最初は小説の話じゃあるまいし、って思ってたんだがな…」
そういうとジェイドより多少歳のいった刑事は頭をボリボリと描く。くたびれたスーツの裾がその動きに合わせて揺れた。
「怪盗F。遠くから来た貴方は知らないかもしれませんが、ここ最近この街周辺を騒がす犯罪者です。組織立って動いている訳でもなし、怪盗というからにはかの『アルセーヌ・ルパン』と同様、何かを盗んでいくのですが人には危害を加えず、まるで風のように鮮やかに狙った物品のみを奪っていく。盗んだ物をどうするのかも何もかもが謎です」
おかげで現在進行形で警察たちがこの存在に頭を悩ませ、振り回されているのです。アズールは降参のポースをし、そう言った。
怪盗…。良いように言ってはいるが、所詮はただのこそ泥と一緒ではないか。
ジェイドは未だ相見えていない『怪盗F』へと悪態をつき、明日は直ぐに捕まえてどうせなら出世の役にでも立って貰おうなどと考え、こっそり口角を上げた。
次の日の午後。
例の美術館に怪盗Fの予告状が届いた、と何処から情報が漏れたのか客足が常より多く、美術品目当て、というより話題の怪盗を一目見たさに来ている野次馬で溢れかえっていた。
「あぁもう…こんなに人がいては警備も何もないですよ。何故休館にしないんですか?」
ジェイドは館長に詰め寄った。人がこれほどごった返していては、万が一例の絵に近づこうとする輩が居てもどうにも出来ない。片っ端からこいつが怪しい、あいつも怪しいと全員逮捕する訳にもいかないのだ。館長はジェイドに言われながらも事の重大さをあまり理解していないのか、ハハハ、と高らかに笑った。
「刑事さん、あいつが予告したのは今日の夜7時でしょう?まだまだ時間があるじゃないですか。そんなに気を張り詰めていては身が保たないのではないですかな?」
館長はジェイドの肩に手を軽くポンと置き、宜しければ少しだけ私のコレクションを見て回って下さい、と笑う。男の金歯が一本だけギラリと光り、ジェイドは顔をほんの少しだけ顰めた。
狙われた絵画の周辺は人で埋め尽くされていて、到底近づけやしない。館長があの調子であるならとジェイドも半ば投げやりな気持ちになって、館内を少しだけ散策しようと決めた。決して職場放棄をしたわけではない。まさか怪盗やらが堂々玄関入口から入って来るとは思ってない。だから散策がてら館内の構造や他の出入り口などを探そうとしていたのだ。
人ごみを分け入って辺りを見渡すと、中央にあるベンチに腰かけた。正面の壁には大きな絵画がいくつも飾ってあり、それほど美術に詳しくないジェイドですらも知ってる有名な画家の描いた絵が飾られていた。贋作なのか本物なのかは見わけもつかないが圧倒的に迫力がある。対して今宵狙われた『水際の乙女』は無名の画家が描いた小さな絵だった。まるで家の玄関に飾ってあってもおかしくないほどのそのこじんまりとした存在感にジェイドは顎に手を添えて頭を捻るのだった。館長ですらなぜその絵が狙われたのか分からないといったようだった。
足を組み、思考に没頭する。
ジェイドは推理する。敢えて一般的には価値の無さそうな物を盗む意図は?小さくて盗みやすいから?だとしてもこんなリスクを冒してまで手に入れようとするだろうか?
「オニーサン刑事さん?」
突如ジェイドの腰かけるベンチの背の方向から声がかけられ、びくりと肩を震わせ顔を上げる。後ろを振り返り、自分に話しかけてきたその声の主を見ようとする。そこにはつばのついたキャップを目深に被り、ぶかぶかのパーカーを羽織った青年がいた。しかし話しかけてきたにも関わらず青年はこちらを振り返らない。刑事とは一般的に捜査を行う際に私服を身に着ける。理由は自分の素性が分からないようにする為である。ジェイドの今の服装はただの白いシャツに濃いグレーのジャケットにパンツ。ベストにタイといった出で立ちで、ただの会社員ともとれるなりだ。なぜ一目見て刑事だと分かったのかと疑問に思う反面、これだけ館内が騒ぎになっている状況であれば警察の関与もあると賢い者なら分かるだろうと自身を納得させた。
「えぇ、おっしゃる通り僕は刑事ですが。何か気になる事でも?」
「んーや、ここらじゃ初めて見る顔だなぁって。まだ若いんでしょ?」
青年は相変わらず振り返る事なく、しかし楽し気に返事をする。声だけ聴けばその青年も若いのだろう。しかし独特の間延びした穏やかな声がジェイドの耳に届く。青年の発した「初めて見る顔」という言葉に頭の中で何かが引っかかる。警察の顔を覚えているのか?一体なぜ?
ジェイドは立ち上がり、険しい表情そのままにその青年を振り向かせようと肩に手を置こうとする。
「そーんな怖いカオで睨まないでってば」
するりと青年はジェイドの手を避ける様に突然前かがみになって立ち上がると、くるりと反転し、絶妙に手の届かない位置へと踊る様に足を踏み出す。キャップで隠れて影の出来た目元が蠱惑的に細められ、口がにんまりと笑った。
「まだショーの時間じゃないよ。今夜また会おうねぇ、刑事さん」
その言葉にジェイドは弾かれたように目を見開くと、咄嗟にベンチの背に手を付き、飛び越える。意味深な言葉を残して去っていこうとするあの男を逃がしてはならないと目をぎらつかせる。しかし時既に遅し、人ごみに紛れ姿をくらました青年を探すのは一苦労で、同じ色のキャップを被った若者の手を摑まえるとおかしな目で見られ、予告時刻の1時間前にはしっかりとぶすくれた青年の顔が出来上がっていた。
「リーチくん、随分と不機嫌みたいだな」
同じくこの事件に出動させられた上司はそんなジェイドの様子を見て頭を捻った。
「もしかしたら例の怪盗かもしれない男と接触したのですが…」
「え!?何かされたのか??」
「何も…おちょくられた挙句逃げられました…」
「あー……」
その上司はジェイドの言葉を聞いて苦笑いする。きっとこの上司もあの男に何度も振り回されてきたのだろう。警官である自分をバカにするとは良い度胸ではないかと。絶対に捕まえてその顔を拝んだ末に牢にぶち込んでやろう。そう決心した。
館内は静まり返り、例の絵画の周りにはジェイドをはじめとする警官たちが厳重な警備網を敷いていた。ありとあらゆる角度から対応出来るように四方を囲んでいる。ジェイドの上司である刑事がそんな警官たちに注意をするよう声を荒げた。
「怪盗Fは変装をしている可能性もある!例え警官の成りをしていても何人たりとも絵画に近寄らせるな!」
「はい!」
威勢の良い声が辺りに響く。誰もが緊張で張り詰め、時計の長い針が12を差すのを今か今かと待ちわびている。
ジェイドは思わず腕時計を確認する。3.2.1…
そして絵画を見やる。しかし何も変化は起きない。相変わらず窓の外から漏れる月の光に照らされて…
「(照らされて…?なぜだ?全ての出入り口は封鎖した筈!!)
はっと気づき、思わず絵画に駆け寄ろうとする。すると警官の一人が天窓を指差し叫んだ。
「Fが…!怪盗Fが窓の外に居ます!」
その声に誰もが一斉に天窓を見た。そこにいたのは月の光に照らされた黒いシルエット。一瞬だけ見えたソレに警官たちは「捕まえろ!」と叫び一斉に持ち場を離れてしまう。
「なん…!?持ち場を離れるなんて…」
ジェイドは頭を抱えつつも血気盛んすぎる警官に舌打ちしつつ、構わずに絵画に近寄った。するともうひとつの手が一緒にその絵画に触れようとしていた。
思わず顔をそちらに向け、ジェイドは目を丸くする。
「え…僕…?」
そこにいたのはジェイド本人かと見間違うかのようにそっくりな顔。一つ違ったのは右の瞳が月明りを受けて金に光る事。ジェイドは目を丸くし、対照的に目の前の男はジェイドの顔でにんまりと蠱惑的に意地悪気に笑った。そう、昼間に見たあの男と同じ…
「貴方はまさかっ!」
ジェイドが言い掛けその手を掴もうとする。とその男はするりと身を捻り、懐から何かを取り出し床に叩きつける。瞬間煙幕のように視界が一斉に白に染まる。ジェイドは焦りつつもなんとか逃がすまいとその男がいたであろう方向に手を伸ばした。掴んだ感触そのままに自分の方へ引くと「わっ」と小さな悲鳴が起こる。それをお構いなしに床に引きずり倒しその身に乗り上げるとわずかに晴れた視界、薄暗い中でその姿がはっきりと目の前に晒された。黒の紳士然とした格好にハットを被り仮面をかぶる男。まさしく怪盗Fと呼ばれる彼そのもの。その顔を覆う仮面を外し、顔を拝んでやろうとジェイドが仮面に手をかけようとすると、Fは顔を少しずらしてその手から逃れようとする。その動きで髪がさらりと床に散らばり揺れ、まるで情事を思わせる光景であったが事態が事態なのでジェイドは気にしない振りをした。だというのに
「往生際が悪いですね。もう観念しては?」
「あはっ、性急な男は嫌われるよ、刑事さん。そんなに目ぇギラギラさせちゃって、ヘンタイ」
「はぁ!?」
ジェイドはその言葉に目を丸くし、組み敷いている男の言葉の意味を理解すると顔を真っ赤にさせた。これでもジェイドは初心なのだ。学生時に付き合った女はいれど、ここまであからさまに煽られた経験はない。動揺でつい掴んでいた手を離すと同時にタイを思いきり引っ張られ、視界がグルンと回ったかと思うと今度は天井とFの顔が見える。立場が逆転してしまったのだ。ジェイドの腰に乗り上げたFはにんまりと笑うと
「オレをここまで追い詰めたあんたにはサービスしてやりてぇけど、怪盗ってのはヒミツが多い方が魅力的でしょ?」
だから捕まってやんない。そう言うとジェイドの頬にリップ音を響かせた。
至近距離で離れていく瞳が美しくて、惚けたように目だけでそれを追っていく。あぁ行ってしまう…
Fは絵画を丁寧に小脇に抱えると懐から取り出した拳銃のようなものを天井に向けて放ち、月明りを受けながら風のように去ってしまった。
「くそっ、陽動に引っかかっちまうなんて…リーチ大丈夫か?ずっと床に寝そべったまま動けなかったんだろ?Fに何されたんだ?」
刑事がジェイドを心配顔で見下ろしてくる。そう先程までジェイドは身動きが出来なかったのだ。Fに逆に引き倒されて、頬に唇を寄せられて…そこで頬の柔らかい感触を思い出し耳を赤く染め上げた。そんな失態を見られたくなくて片手で顔を覆い、俯いてしまう。その拍子にジェイドのタイからひらりと紙が舞い落ち、地面に落ちた。
『水際の乙女は確かに頂きました 怪盗F』
「あいつは…とんでもない事をしていきましたよ…」
沸々と湧く怒りのような興奮のような、今までにないかき乱されるような感情。
「お前がそんなに怒るなんてどんな事を…」
「あいつは…あいつは絵だけじゃない、僕の心まで盗んでいきました…」
ジェイドの目が据わっている。じとりと宙を睨みながらも興奮隠しきれぬように口角を上げ、ギザギザの鋭い歯が口の合わさりから覗いている。先輩刑事はそんなジェイドのある種告白ともとれる言動に目を丸くしつつも、「そうか…」と呟いた。
盗まれたものは取り返さなけれないけない。ジェイドの心はあの怪盗Fが風と共に持って行ってしまったのだ。
認めてしまおう。鮮やかな手口に、美しいとろけるような美しい月のような瞳に魅了されてしまったのだ。
ジェイドは頭を振り立ち上がると、怪盗Fの消えていった月を見上げた。
次に会ったが最後。その仮面を剥がし、手錠の代わりに首輪をはめてやろうかなんて物騒な事を考えていた。