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    nanahashi777

    @nanahashi777

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    nanahashi777

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     門倉雄大が、長年伸ばしていた髪を一思いに切ったのは、ちょうど今から五年が経過した頃だった。


    1年目 眺望する海


     寄せては返す波の動きを、門倉と梶はただ見つめていた。

     空と海の境では、太陽光がどこまでも途切れない淡い橙色を差し込んでいた。時折、岩崖を削り取るような強い波が打ち付けてきたが、それでも二人は微動だにしなかった。潮の香りがいっそう強くなった。
     風が舞い上がり、梶の着古した白いシャツを勢いよく揺らした。咄嗟に目を細め、顔を庇うようにして手を上げると、自身の隣で同じように風に揺れた門倉の黒く長いジャケットが視界の隅に入った。
     梶は顔を上げて、上空へ飛び立っていく一機の白いヘリを見た。絶えず耳に入ってくるテールローターが空気を切り裂く音が、強く印象に残る。二人はついさっき、斑目貘と彼に連なる立会人達が、続々とヘリに乗り込んでいく後ろ姿を見たばかりだった。こちらへ向かって右手を力なく上げた貘の後ろ姿を、生涯忘れられないだろうと思っている。
     貘と、見知った立会人達が空の先へ消えていくのを見上げながら、梶はふと、隣にいる門倉の方へ顔を向けた。
    「これから賭郎はどうなるんですか? 門倉さん」
     その問いに、門倉は暫くの間沈黙を返したが、その後は考えが纏まったのか「さあ」と短い言葉を告げた。
    「少なくとも我らのやる事は変わらないでしょう。勝負に立ち会うのが定め。これからも立ち会い取り立て、業深き戦いを見届けてゆくでしょう」
     門倉の長髪が風に揺れている。瞬きだけを繰り返しながら、彼は本当に、自らの人生をその言葉通り過ごすのだろうと思考を巡らせた。
    「門倉さんは、あのヘリに乗らなくて良かったんですか?」
     ただ一人、立会人としてこの島に残った男へ向けて問いかける。
    「私はあくまでも梶様の専属立会人ですから。少なくとも、この島の中ではね」
     門倉はただ前を見つめながらそう告げた。既に、数分前に貘らが搭乗したヘリの姿は見えなくなっていた。
    「——“金”とはまだ見ぬ自分の分身」
    「は?」
     いきなり何を言い出すんだと言わんばかりに、門倉は初めて梶へ顔を向けた。まあそりゃそういう反応にもなるか、と内心苦笑しながら梶は続けた。
    「昔いつだったか、貘さんが僕に言った言葉なんです。分身が集まれば集まるほど、人間はまだ見ぬ自分に近づいていく……金とは違うけれど、貘さんは欲望の望むまま勝負をやり続け己を満たしてきた。そしてとうとう最終目標まで突っ切った」
     梶は一度そこで言葉を区切ると、改めて深呼吸をした。空を見上げている。
    「貘さんは、何になったのだろう……」
     ため息を漏らすようにして告げた言葉に、門倉は最初何も言葉を返さなかった。言葉尻こそ疑問の体を取っているが、こちらに回答を求めているわけではないと判断したからだった。
    「あの方こそ、何も変わらないでしょう。賭郎のみを手中に納め、満足するような人間だとは到底思えませんから。彼はまた次の目標を見つけて、ただ賭けに興じるのでしょうね」
     それでも、門倉は梶に向かって告げた。それは門倉のエゴで自己満足だったが、表にはおくびにも出さなかった。
    「今梶様は彼が何になったのか、と仰られましたが、彼は今も昔も変わらず、嘘喰い、斑目貘のままですよ。彼が変わるのではなく、我々が変わるのです。そうして彼は、倶楽部賭郎のお屋形様になる」
     ——ただそれだけですよ、とそのまま同じトーンで続けた。屋形超えが終わってしまった今では、門倉が貘へ向けていた憎悪と羨望が入り混じった感情は不思議と鳴りを潜め、心は凪いでいた。門倉が夜行と数刻前に拳を交え崩れ落ちた後は、まるで憑き物が落ちたように、心臓のすぐ側で絶えず昂っていた炎が鎮火されてしまった。目の奥で燃え盛っていた熱は、目の前の海と同様に穏やかなものへと変貌していく。
    「まっ、今の私としては、梶様の方が気になるところですがね」
    「えっ、ぼ、僕ですか?」
     なんで? と心底意外そうに梶は自身の顔を指差した。その頭上には巨大な疑問符も見えるようだった。
    「ええ。嘘喰いがお屋形様となり、そうして、あなたはどうするのですか? このまま彼の手足として生き続けるのか、それとも、全く違う別の道をいくのか……少しばかり、興味があります」
     門倉は前を向いたまま、視線のみを梶へ向けた。風が再び強くなり、黒色の長髪をたなびかせた。
    「どうなるんでしょうね。僕は絶対、あの勝負は貘さんが勝つって信じてましたけど、でもこうして本当にそうなると、未だに現実味がないと言いますか……」
    「つまり、まだ何も考えられていない?」
     意地が悪いと大いに自覚しながら笑ってみると、居心地が悪そうに梶は頭を掻いた。
    「正直なところ、そうです。でも、多分貘さんと一緒で、何も変わらないと思います。いつだって僕は貘さんの役に立ちたいし、その為に自分ができる事ならなんだってやると思います。今までも、これからも、それは同じ」
     そう告げてはにかんだ男を、門倉は横目で見た。
     これからの貘より、梶の方に興味があると告げたのは、門倉にとっても決して冗談やお世辞の類ではなかった。普通を捨てきれぬまま、貘と並ぶのだと志し、フロイドを降したこの若い博徒が一体これから先どこへ向かい、そしてどのようにして立会人としての己の糧となるのか——気にならないかと言われれば嘘になる。門倉は勝負に立ち会い続ける事を選んだ男だ。何があろうとも、心の底で最も渇望するものは、血肉沸き踊る凄絶な勝負だけだった。その勝負の舞台の中心に、梶隆臣という男は立っているのか? 門倉は考える。
    「そうですか。あなたが貘様のようになるには、あと十年はかかるでしょうな」
     ま、生きていればの話ですがね、と、そのまま言葉を続けようとしたが、わざわざ口に出すことでもないだろうと思い、何も言わなかった。そもそも、互いにこうして十年後も隣に立っている保証などどこにも存在しない。
     暫く隣に並んだまま、互いに何も口にしなかったが、遠方へ駆けて行ったマルコが、大声で梶の名前を呼んだ為、一旦その場を離れた。



     梶を含め、島に残った四名は、賭郎によって手配された船に乗ってプロトポロスから出島する事になった。
     船のタラップに足をかけながら、梶は不意に思い立って、背後を振り返った。
    (この島で、僕らはあの一ヶ月を過ごしたのか)
     たった一ヶ月の出来事が、今となっては遥か昔のことのように思えてならなかった。チャンプともりゅうせいとも、この島での出来事がなければ一生出会う事はなかった。
     そして、ほんの一ヶ月前までは伽羅が、そしてビンセント・ラロだって生きていたのだ。それが、今ではどちらも物言わぬ死体になった。この騒動で命を落とした全員が、死ぬなんて思っていなかっただろう。それだけは、梶も確信している。
     満足に眠ることすら叶わなかった逃亡生活中は一日がうんざりする程長いものに感じられたが、全てが終わり、日々が過ぎ去ってみれば、何もかもが瞬きの間もなく過ぎ去って行ったように思う。その目まぐるしい変化に、自分は付いていけるのだろうか? 立ち止まって、そう考えそうになる事がある。
    「まあ、今は考えても仕方ないんだけど……」
     独り言をぶつくさと呟きながら、梶は船へと乗り込んだ。行きとは違い、帰りは目隠しの必要はないのだと、門倉が事前に告げていた。
    「カジっ、見て! ご飯が沢山置いてあるのよ! これ、全部マルコが食べていいのか?」
     先に乗り込んでいたマルコが、決して広いとは言えない船内の中央の机に置かれている食料を見て、その目を爛々と輝かせていた。
    「まあ、好きに食べていいんじゃないかな。僕は別にお腹減ってないし……一応、大船さんにも声を掛けてからにしておいたら?」
    「そうする! やったー! 今日はお祭りなのよ!」
     その場でマルコが飛び跳ねると、当然ながら船は大きく揺れた。思わず尻餅をつきそうになったが、なんとか足裏に力を込めて耐えた。
     元から船内に設けられている椅子に腰掛けて、梶は改めて周囲の光景を見た。この島に来た時とは、何もかもが違う景色だった。目隠しをされ、行き先も分からぬまま、何時間も船に揺られた。容赦無く襲いかかる船酔いと、漠然としてはっきりとした形を持たない未知への恐怖心。それだけが、一ヶ月前に梶を包んでいた全てだった。
     その聳え立つ恐怖の中で、それでも梶を突き動かしていたのは、貘の役に立ちたいという願望だけだった。矛盾遊戯中のごく個人的な精神面での葛藤を経て、己の中に巣食う問題と向き合う事は出来たものの、未だ、その全てが取り除かれたとは言えない。
     梶はもう一度、自分の顔に触れた。恐怖と未知を乗せたプロトポロス行きの船内で行ったのと同じ動作を繰り返した。
     視線の先では、用意された食料に無我夢中で飛びつくマルコの後ろ姿が見えた。先ほど突然声をかけられたであろう大船は、彼の食べっぷりに困惑しながら、皿から勢いよくものがなくなっていく光景を見ていた。
     船内の壁に凭れ、静かに目を閉じた。今日、貘や立会人達の周りで巻き起こった出来事を考えると、梶は何もしていないに等しい。ただ、運命の勝負に向かう三人の背中を見届け、勝負内容を音声で聴いただけだ。それでも、何もかもが終わってしまうと、どっと疲れが勢いよく全身に押し寄せてきたのだ。
    (祭りか……そうだよな。これはある意味じゃ祭りだったんだ)
     振り返ってみれば、数日前には島全体を覆ったカイザーフェスタが行われていた。何よりも屋形超えという行為が、この日本という国を裏から丸ごと変えてしまう可能性を秘めた、大きな祭りだった。国民の殆どが知らない、長くて短い祭り——それの切先に、梶は触れた。触れただけなのに、それだけで大怪我を負いそうな高揚感が、確かにそこにはあった。
    (まだ、熱い)
     未だ、貘が屋形超えを成し遂げたのだという実感は湧かないのに、胸の奥では熱が燻っている。目を瞑ると、黒い視界の中に、太陽の光が白髪を照らす貘の姿が浮かんだ。
    (僕はいつか、貘さんに並べるんだろうか?)
     自分にとって都合の良い『斑目貘』を打ち消した後に、自分は現実の彼を正面から見据える事が出来るのか? 梶には未だに分からない。
     それでも、今はただ眠ってしまおうと思った。慣れ親しんだ陸地に戻るまで、長い船旅になる。この船にいる間だけでも、未来ではなく、この瞬間の高揚感に浸っていたかった。
     船内は空調がよく管理されていて、意識を飛ばすには最適の環境だった。取り巻く環境の何もかもが、行きの旅の時とは変わっていた。

     結局、じりじりと喉の奥を這うような吐き気に襲われて目を覚ました。目を開けた瞬間、眼球の奥が常に回転しているような、本能的な嫌悪感が全身を覆った。絶対船酔いだ、と確信し、本能のまま口を手で抑えた。
     明滅する視界で周囲を見ると、食料に喰らい付いていたマルコの姿も、困惑する大船の姿も見えなかった。少しでも身体を動かすと問答無用で吐き出してしまいそうになるのを何度も堪えながら、近くの壁伝いに梶はトイレへと向かう。近くにあって助かった、と心の底から思いながら、勢いよく蓋を開けて、便器の前で膝をつくと、次の瞬間位は中に全てを吐き出していた。今朝から碌にものを食べていなかったので、ぼちゃぼちゃと音を立てて吐かれたのは薄黄色の胃液だけだった。それでも、便器の縁を掴む力は強くなり、軋んだ嫌な音を立てた。生理的な涙が溢れて、一筋だけ頬を伝った。
     トイレットペーパーで口元を拭うと、安価なものだったせいか、擦った跡がヒリヒリと痛んだ。ぜえぜえと肩で息をしながら、眉間を親指で抑え、なんとか立ち上がる。視界の隅は未だ、黒いノイズが走っているように不明瞭だったが、それでもさっきよりは何倍もマシだった。銀色に光るレバーを回し、水が流れていく様を無言で見た。
    「寒……」
     ため息を吐きながら独り言を告げて、数分ぶりにトイレから出た。船内の白い照明が、梶の眼球を容赦無く刺した。
     マルコと大船はどこに行ったのだろうか、と改めて周囲を確認すると、想定外の人物の後ろ姿が、扉の窓から見える船のデッキに見えた。もうこれ以上は寝れないだろうと判断し、扉へと向かう。
    「——門倉さん!」
     一人、黙って海を見続ける立会人の背中に向かって、彼の名前を呼ぶ。暫く時間をおいて、ようやく門倉は振り返って、梶の顔を見た。
    「ああ、目覚められたのですか」
     淡々と、彼はそう問いかける。
    「お恥ずかしい話、ちょっと船に酔っちゃって」
    「それで吐かれたと?」
    「えっ、どうして知ってるんですか」
    「あんなに急いでトイレに駆け込まれていたのですから、まあ察しはつきますよ」
    「は、恥ずかし……」
     まさか門倉に見られていたとは全く想定しておらず、今、己の頬は紅潮しているに違いないと思った。誤魔化すように頬に手を伸ばして隠そうとした。
    「あの、マルコと大船さんは?」
    「お二方とも、それぞれの部屋に戻られています。梶様もご案内するつもりでしたが、いかんせん、子供のようにぐっすり眠られていましたからねえ」
    「あ、ははは……」
     今僕は一体どういうリアクションを取るのが正解なんだ? と考えながら、苦笑いと共に口角を上げた。
    「ご案内しましょうか?」
     その提案に、梶は首を横に振った。
    「あ、いえ、ちょっと風に当たって酔いを覚まそうかなって。僕、暫くここにいても良いですか?」
    「……ええ、勿論。私にあなたの行動を制限する権利はありませんからね」
     じゃあお言葉に甘えて、と門倉の隣に立った。船が通り過ぎていった水面にはいつまでも残る跡白波が続いていった。
     門倉はすぐにどこかにいくだろうと思っていたが、梶の想像に反して、彼はずっと隣で同じように水面を見つめていた。
    「陸に着くまで、あとどれくらいかかりますか?」
    「そうですね、大凡一時間程度かと」
    「結構長い道のりですよね。行きもそうだったし。弥鱈さん、どうやってこんな島見つけたんだろう」
    「単純な趣味なんじゃないですか?」
    「そう言われたら、なんか納得できるっちゃ出来ますけど……」
     顔に潮風が当たった。前髪が浮き上がり、また門倉の髪は揺れていた。
    「なぜ、」
     不意に門倉から声を掛けられて、梶は思わず顔を上げて、「え?」と声を上げる。頭上に疑問符を浮かべる梶のことなど知ってか知らずか、門倉は前を見ながら言葉を続けた。
    「なぜ、あなた達はお屋形様を、いや、切間創一を助けたのですか」
     そう問われ、梶は無意識のうちに目の前の手すりを強く掴んでいた。跡白波は絶えず生み出されては揺れている。その問いに対する言葉を返す前に、門倉は続けた。
    「あなた達が、あの方の命を助ける理由など無かったでしょう」
     門倉はそれを心底疑問に思っているようだった。皮肉ではなく、本当に知りたいのだと、少なくとも梶にはそう感じられた。
    「確かに、僕とマルコがが切間さんの事を助ける理由は無かったですよ。——でも、助けない理由も、同じように無かった」
     二人でAEDを使用した後、駆けつけた立会人達によって担架で運ばれていった彼の姿を、梶は鮮明に覚えている。彼はあの時、辛うじて息をしていた。死んではいなかった。彼の心臓が再び動き出したあの瞬間、梶は最も近くにいたのだ!
    「だから助けたんです。助けられるのに、手を伸ばせない。そんな人間になりたくなかったから」
     門倉はその言葉に対して何も言わなかった。その代わりに頭で考える。この男が持つこの甘さが、いつか足元を掬う事になるのだろうと。決して口にはしなかったが、そう確信していた。
    「僕はやっぱり、自分に出来る事をしたいです」
    「……それが出来なくなった時、梶様はどうされますか?」
     意地の悪い質問をしている、と大いに自覚しながら門倉は聞かずにいられなかった。このまだ可能性の兆しだけを持ったこの青年が、何を答えるのかを知りたかった。
    「例えば、どうしても自らの意思を持って人を殺さねばならない時、あなたはまた、今回と同じように引き金を引かぬまま、そこに立ち続けるのですか?」
    「そんな機会はあまり考えたくないですけど、でも、そうですね……多分、そういう場面になったら、そうなっちゃうんだろうな。結局のところ、まだ僕は怖いんです。でも怖いままでも良いって分かったから、そのままでいますよ。その怖さを抱いている事こそが、僕が僕である理由だと思いますから。門倉さん的には、僕は甘い人間だと思いますけど」
     梶は薄らと笑みを浮かべて隣の男を見た。門倉はほんの一瞬だけ形容し難いような苦い顔をしていたのを、梶は見てしまった。
    「……いえ、紛れもなく、そこがあなたの美点だと思いますよ」
     しれっと真顔でそう言い放った彼に、思わず吹き出す羽目になった。
    「それ、絶対嘘じゃないですか!」
    「さあ……どうでしょうねえ」
     門倉は笑顔——彼曰く、不謹慎な笑み——を浮かべて梶の目を見ていた。
     二人はその後、互いに無言のまま流れていく海面を見続けていた。強く吹き込む風が、髪と服を揺らしていった。いつの間にか、梶の酔いはすっかりどこかへと行ってしまっていた。吐いた後トイレットペーパーで拭った唇は皮が捲れてしまい、何度も舌の先でその箇所を舐めた。それでも、何も言わなかった。陸地に戻ってからの、それぞれの明日の事を考える必要があったからだった。



     行きも帰りも同じ海路を行った筈なのに、今の方が何倍も早く感じられた。
     門倉が告げた通り、ぴったり一時間が経過した頃、船は港へ停泊した。勢いよく飛び出したマルコと大船が先に船を出て、その次に梶が続いた。
     不安定なタラップから降り、港のコンクリートの上に両足を着けた際、真っ先に梶が感じた事は強烈な安堵だった。自分はまだ生きている! その形を伴った実感が、今になって全身を駆け巡った。口角を歪に吊り上げて、一人で頬を軽く抓った。感覚がある。夢なんかではない。貘もマルコも自分も、あの果ての島の中で生き残ったのだ!
    「何をしているんですか」
     その感覚に浸っている最中、突然背後から声を掛けられて、梶は肩を跳ね上げた。心臓が飛び出しそうになる感覚を抑え、恐る恐る振り、その人物の名を呼んだ。
    「か、どくらさん……」
    「その場で立たれたままでは邪魔ですので、さっさとどいてください」
    「あ、すみません! すぐどきますんで!」
     そそくさとその場から動き、さっきからこんなのばっかりだな、と思考が巡る。
     久しぶりに一ヶ月前に持ってきていた荷物が帰ってきて、両手が塞がったまま、梶は改めて背後に立っていた門倉の姿を見た。
    「あ、あの! 門倉さん、一か月、ありがとうございました」
     舌が縺れそうになりながらかかり気味でそう告げ、深々と頭を下げた。
    「私はあなたにお礼を言われるような事をした覚えはありませんが」
    「それでもです。門倉さんが僕の専属で、結果的には良かったから」
    「それはひょっとして、私に対して喧嘩を売っていらっしゃいます?」
    「え!? ち、違いますよ! やっぱりほら、色々相性とかあるじゃないですか!立会人と会員って! だから、なんだかんだこの一ヶ月色々と門倉さんと話せて、それは、良かったなって。あと、林檎とか剥いてもらっちゃって」
    「はあ……」
     今ひとつ腑に落ちないといった表情を浮かべたまま、門倉は言葉を返した。梶は荷物を地面に置いて、身振り手振りを加えて話を続けた。途中で、一体自分は何の話をしているんだろうか、と思う事こそあったが、それでもその瞬間しか、彼に言える時間はなかった。
    「だから改めて、ありがとうございました。また、次の賭郎勝負の時、よろしくお願いします」
     改めて、梶は頭を下げた。それに何の言葉も返ってこなかった為、不安になって顔を上げると、彼は何故か、鳩が豆鉄砲をくらったような顔を浮かべていた。
    「門倉さん?」
     名前を呼ぶと、門倉はようやく正気に戻ったようで、ようやく口を開いた。
    「いえ……お気になさらずとも結構です。そう言って頂けると光栄ですよ。ま、今後も私が梶様の専属かは不明ですがね」
    「確かに、それはそうか……じゃあまた、お会いする機会があれば」
    「ええ、その時がありましたら」
     同じような事を言い合っているなと、梶は少し笑った。
     その後、先に船を出ていたマルコが大声で梶を呼んだ為、二人はまたその場で別れる事になった。ちょっとしたデジャブを感じながら、梶は小走りで彼の元へ向かった。



     斑目貘がお屋形様となり、倶楽部賭郎を取り巻く環境は何もかもが変わっていった。
     彼が理想として第一に掲げた『世界平和』という四文字は、皮肉でも比喩でもなかった。彼は自らが世界にとっての巨悪となる事で、世界中に蔓延るヴァイスファンドの悪徳者達を手中に収めようと画策していたのだ。悪をもって悪を征し、自らの理想とする世界を手に入れる。そう告げた斑目貘は間違いなく、地球上で最も強欲なギャンブラーそのものだった——少なくとも、門倉の目にはそう見えた。
    「門倉さんはさあ、心霊的な、そういう化学では説明できないような現象って、信じる方?」
    顔の下で両手を組み、貘は蠱惑的な笑みを浮かべながらそう問いかけた。門倉は腰かける貘の前に立ったまま、この質問に至るまでの短い経緯を思い起こした。

     立会人大規模編成——賭郎のお屋形様のみが許される強権を用い、貘が真っ先に行った事は、立会人と一対一で対話を行う事だった。一番最初に対話を行った夜行から「次はあなたです」と指名され、部屋に入室した後、最初に求められたのは、立ち会ってきた中で、今までで一番スリルのあった賭けの話をする事だった。門倉が口にした話は、富士の洞穴での賭郎勝負を見ていた人主の一人を襲った、奇妙な賭けとその顛末の話であった。まるでポルターガイストが本当に起こったかのように、賭けた者同士が狂気に包まれ、互いに息を引き取ったあの勝負は、間違いなく門倉の印象に強く残ったものだった。話の顛末を注意深く最後まで聞いた貘は、最後に「なんか後味悪いよね、そういう勝負ってさ……」とだけ告げた。そうして、先の質問に繋がる。
    「因みに、俺は信じる方。あ、ギャンブルは別だよ。そういうのに霊的なパワーなんて野暮なものは必要ない。俺が言ってるのはそれ以外の、日常生活での話」
    「……私はどちらかと言えば否定派です。幽霊だとかそういう類が本当に存在するのならば、死んだ人間が私の前に現れない道理がありませんからね」
    「それはそうかも。門倉さん、如何にもそういう恨み買ってそうだもんね~、あ、これは悪口じゃないよ?」
    「どちらでも結構です」
     貘は足を組み直した。その何気ない仕草一つとっても、どんな世界的モデルと比較しても、なんら遜色ないものだった。
    「俺が信じてるのはさ……夢に見たからなんだよ」
    「夢? 意外ですね、そういったものを信じていらっしゃるとは」
    「俺もそう思うよ。でも、見ちゃったものは仕方ないし……」
     貘はそこで一度言葉を区切り、勝負の中で失った小指を、天井の照明へ翳した。
    「そう、門倉さんには言っておこうと思うんだけどさ。実は、屋形越えしても、本当に嬉しいのって終わった日と、その次の日ぐらいだったんだよね。今はもう、次の勝負相手を探すのに必死ってわけ。不思議だよね、あんなに求めてたのに。俺って飽きっぽいのかな?」
     門倉は「はあ」と言葉を返したが、内心では自分の読みが何一つ間違っていなかった事を噛み締めていた。やはりこの男は、一つを手に入れて満足するような、そんな小さな業を抱えてなどいないのだ!
    「——ところでさ、門倉さんから見て、梶ちゃんの勝負ってどうだった?」
     何の脈絡もなく、梶の名前が目の前の男の口から飛び出してきたせいで、門倉は思わず面食らった。
    「どう、と申されますと?」
    「いやさ、俺が見るのって、いっつも梶ちゃんが強くなった後だからさあ。梶ちゃんが成長する機会に、俺はいつも立ち会えない。彼はいつだって、俺の知らないところで強くなる。でも、門倉さんはあの島の中で立ち会った訳でしょ? どうだった?」
     これは一体何を聞かれているんだ? と考えながら、門倉は口を開く。
    「少なくとも、私はこれまで見てこなかった人種です。己で引き金を引く力すら持ち合わせない……ですが、そこが致命的な弱点にも、僅かながらの勝利への光明にもなり得る」
    「じゃあ、門倉さんは梶ちゃんを評価してるわけだ……うん、そうだよね、だって門倉さん、いかにも梶ちゃんの事好きそ〜な感じだし」
    「その言い方はどうかと思いますが」
    「じゃあ何、ひょっとして嫌いなの?」
    「……黙秘します」
     決して嫌悪はしていないが、それをこの男に教える義理を門倉は持ち合わせていなかった。
    「あっそ。じゃあ、特別に門倉さんに教えてあげる。俺はさ——いつか、俺の目の前に立ちはだかるのは、梶ちゃんであって欲しいと思ってるんだよ。だって、夢で見たから」
     この男は何を言っているのだ、と門倉は真剣に考えた。貘が語る言葉は、どれも夢物語であると、この段階で断じる事も出来た。
    「ねえ、門倉さんだってそう思わない? と、いうよりも、立ち会ってみたいと思わない?」
     貘は立ち上がり、立っている門倉の顔を下から覗き込む。彼の白髪が、門倉の目の前で揺れた。
    「……私の口からは何も言うことはありません。そもそも、あの甘い男が数年後も生きている保障なんて、どこにもないでしょう」
    「ま、それは俺達全員に言える事だね。誰も、明日生きてる保障なんて持ってない。だからこそ、荒唐無稽な夢を抱いて生きていこうぜ。決めた、俺のお屋形様としての第二のスローガン、これにしよ」
     貘は再び笑った。人間を逸脱した、得体のしれない化け物の笑みだと心底思った。
    「俺は梶ちゃんに賭けるよ。だって俺はどこまでもギャンブラーだ——それに、そんなに分の悪い賭けじゃないだろ。だから、門倉さんにこの話をした——門倉さん、ちゃんと覚えててよ、俺の賭けの話」
     最後にそう告げて、貘は「オッケー、聞きたい事は聞けたから、もう出て行っていいよ」とあっさり門倉を部屋から出した。
    「じゃあ次、この人呼んでもらえる?」
    「……分かりました」
     短くそう告げて、門倉は貘の部屋——かつては切間創創一が使用していた執務室の扉を開けた。部屋から出てきた門倉の姿を視認した立会人達が、次は誰だと無言のまま顔を見合わせている。
     貘に告げられた男を見つけ、門倉は彼に向かって指差した。
    「次はおどれじゃ、弥鱈」
     指名を受けた男は黙ってスーツのポケットに両手を突っ込んだまま、口から唾で出来たシャボン玉を吐き出した。



     その後一年をかけて、門倉はいくつかの賭郎勝負に立ち会った。政治家や巨大資本の幹部格が関わるような勝負であったが、そのどれも、門倉の欲望を完全に満たせるような勝負ではなかった。門倉は極限状態で人間の本性が曝け出される瞬間を渇望している。打ちのめされ、足掻き、醜態を晒して砕け散る博徒達の姿が見たくて堪らない。その中で時々、どん底に突き落とされながらも這い上がってくる者がいる——それを味わいたいがために己は立会人なのだという自負がある。門倉が立ち会った勝負は、そのどれも満たしてはいなかったのだ。

     少なくともこの一年間半、門倉が立会人として梶の勝負に呼ばれる事は一度もなかった。
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