3 不可視の怪物・生活の偽造3 不可視の怪物・生活の偽造
「君の名前を覚えているかい」
目覚めと共に全ての記憶がリセットされるロナルド君を前に、いつもこの質問を最初に行う。それがいつしか私の毎日の日課になっていった。
ベッドから目覚め、上半身を起こして私の姿を視認した彼は、それに首を横に振って答えてみせた。否定。私はその停滞に、たった一つの答えを言葉として提示する。
「君の名前はロナルド。まず動揺しないで聞いて欲しいんだがね。君の記憶は毎日の眠りと共にリセットされるんだ」
そう告げるまでが、私達――正確に言えば私とジョンだけだが――の世界の、変わらない始まりだった。
*
彼の兄から大きな一悶着もなく無事に託されたはいいが、事務所の中で療養生活を送らせるのは色々と不都合が多いのではないか? 一応新横浜での彼はある程度は顔が割れている訳だし、知り合いも多い。そんな中で何も知らない子鹿のようなロナルド君を放り込んで良いものだろうか。
と、考えていた私にひとまずの解決策をくれたのは、割となんだって解決できるお祖父様であった。
ううん、と悩む暇も与えずに、私のスマートフォンに地図と、とある石造りの塔の写真が送れてくる。その塔の写真は旧ドラルク城の意匠に良く似ていて――というか住所すぐ近くだわこれ。
『塔があるよ』
送られてきたのは、それだけの文章。それから、特に意味は無いだろうスタンプ。透視能力者か何かかあの人。この気を逃さないように、私は急いで通話を繋げる。数コール耳元で鳴って、それからようやくお祖父様と繋がった。
『ハロー、ドラルク。今おヒマ?』
「全然ヒマじゃないです申し訳ないですけど!! 出来ればお父様をお誘い下さい!! というかお祖父様なんで急にライン送ってきたんです?」
『あれね。城建てた時についでに一緒に建てたんだけど、伝えるの忘れちゃってた』
「忘れないで下さいよそんな大事な事!!」
ほぼなんの抑揚もない声で「てへぺろ」なんて続けられても怖いだけだが!
『そうそう、ポール君が大変な事になってるんだってね』
なんで知ってるんだとか、誰情報だとか、聞きたい事はいくらでもあったが、この御方の前では全て無意味だ。それ以上に、これは私の目の前に垂らされた一筋の地獄の蜘蛛の糸以外の何者でもなかった。ここで縋ったら、一筋の光が見えるはずだ! そう信じて、私は必死で言葉を続けた。
「! そうですよ、お祖父様。お祖父様の力であのポンチ若造をどうにか元に戻す事は出来ませんか。なんでもどこの馬の骨とも知れぬ吸血鬼の仕業らしいんですが」
『うーん、ちょっと厳しいかも』
「何故です!? お祖父様に出来ない事なんてないでしょう」
私は今初めてこの方の口から無理かもという言葉を聞いたぞ。いつもは我々が言う側なのに、どうしてだ。
『今からちょっと大気圏突入するから、多分治せるんだけど、暫く先になるよ。代わりにドラウスに――』
「何してるんですか!? 大気圏、なんて!? てか切れた!!」
どうなってんだあの人!! ていうか何してるんだ! 一体何をしようとしてるんだ!! 人類は終わるのか!? 私の心の底からのツッコミは肝心の本人に一切届く事なく、ただジョンを狼狽えさせるだけに終わった。彼には申し訳なく思う。
こんな理解不能な事があっていいのか?
*
「私はドラルク。訳あって君の世話を任されてる。人に敵対する気は無い吸血鬼だから殺すんじゃないぞ。こっちはジョン。私の使い魔…………何でそんな申し訳なさそうな顔してるの」
何度もぱちくりと瞼の開閉を繰り返しては言葉に詰まっているらしい目の前の彼を見る。見事に眉が八の字に垂れ下がっている。中々見ない表情だった。
「いや、だって……俺、本当に何も覚えてないから。多分貴方の言うことは本当なんだろうなって事は、分かるんです。でもそれって、毎日貴方は俺に対して自己紹介してるって事でしょう。それがなんだか、申し訳なくて」
「はぁ~~~? 記憶も無い青二才がいっちょ前に謝罪の言葉を口にするんじゃない。それに、私は好きでやってるんだ。君に勝手に同情される筋合いはないね」
なあそうだろう? と傍らに座っているジョンに声を掛けると、彼もまた「ヌン!!」と勇ましく返事をする。
「そう、ですか」
私の言葉に、鳩が豆鉄砲食らったかのように拍子抜けする彼の顔が情けなくて、今の私にとっては丁度良かった。こんなやりとりは、一体これで何回目なのだろう。
こうして始まるロナルド君の一日は、おおよそ波がなく終わる。最初に私が彼の名前を伝え、我々の自己紹介をして、彼が望めば周囲の散策をする。とはいっても周囲は静かな森に囲まれており、特筆すべき事件も余り起こらない。偶に月が綺麗だと塔の上に昇って眺め、他愛もない話をする。
記憶を失っていたとしてもロナルド君は共通して、自ら進んで過去の自分の事を尋ねない。その代わりになるのかは彼以外不明だが、逆に私の話ばかりするように請う。私がどうやって君と出会って、どうして世話をするようになったのか。吸血鬼の生態について。好みの血の血液型。好きなゲームの傾向。どういった音楽が好きで、どのような人間が嫌いなのか。楽しいと感じる事は何で、つまらなくて退屈だと思うものは何か。何が得意で、何をしたら死ぬのか。
あえてそうしているのか、私のことばかり、どの彼も聞きたがるものだから、私はこの生活の中で誰よりも自分自身に対して非常に詳しくなってしまった。昔どっかで聞きかじった就活生の自己分析というのはこんな感じなのだろうと思う。別に仕事に就くつもりはないが。
ロナルド君の一日の大半は、私との会話に費やされる事が多かった。まあ彼の境遇を考えたら当然だろうとも思うが、毎日毎日話していて、私も良く飽きないなと思う。
そう。何よりも意外だったのはそれだった。
私は吸血鬼だ。自分で言うのもアレだが、かなり古典的な吸血鬼だ。血以外は摂取しないし、人間と同じように仕事をする気も無い。かなりの享楽主義者。目の前の娯楽が愉しければ愉しそうな程テンションが上がり、逆に面倒で苦しそうな事からは全力で逃げる。自分以外の存在の為に我が身を削って(私の場合は死んで)何かを成すなんてもってのほかだったし、私から最も遠い感情だと思っていた。
だが、今の私はどうだ。何の特にもならない事ばかりしている私は。
ロナルド君に名前を教えて、毎日毎日同じような私の話ばかりしている私の姿は何だ。
面倒事なんてくそ食らえで楽して生きてゲームが出来れば良かったあの頃の私は何処に行った。どうして好き好んで、私は苦しさをそのまま人間の形に押し込めたような今のロナルド君の前に立っている。
二百年近く生きてきたのに、どうして私はたかが十年も共にいないこの若造に、ここまで尽くしてやっているのだろう。
偶に、どんな顔をしてロナルド君の前に立てば良いのか分からなくなる事がある。自分の事ばかり話しているのに、肝心の根っこの部分だけ、私は向き合ってきていないからだ。
「どうして貴方は俺の世話を焼いてくれるんですか?」
私の記憶の中の、いつかの夜のロナルド君がそう尋ねたが、私は答えられなかった。
そんなの、私が一番尋ねたいよ。でも、好きでやっているのは本当なのだ。それだけは偽れなかった。
ロナルド君は私の生活リズムと同じ時間に寝起きする。夜に目が覚めて、朝に眠るのだ。そうして陽が傾いて、吸血鬼の時間が訪れると共に、真っ新になった彼がまた眼を覚ます。
私は物理的に毎日のように死ぬが、それはロナルド君もそうだった。彼は、毎日、朝の日差しと共に死ぬ。記憶という一日の生きた証を放り捨てて、毎日死んでいく。次に私が出会うロナルド君は、今までの彼とは違う。全く違う存在として生まれ変わるのだ。
未だに眼帯を付けられたまま、「ロナルド」は何度も生まれては死んでいく。私にはどうする事も出来なかった。