眺望する海・春は何回目1年目 眺望する海
寄せては返す波の動きを、門倉と梶はただ見つめていた。
空と海の境では、太陽光がどこまでも途切れない淡い橙色を差し込んでいた。時折、岩崖を削り取るような強い波が打ち付けてきたが、それでも二人は微動だにしなかった。潮の香りがいっそう強くなった。
風が舞い上がり、梶の着古した白いシャツを勢いよく揺らした。咄嗟に目を細め、顔を庇うようにして手を上げると、自身の隣で同じように風に揺れた門倉の黒く長いジャケットが視界の隅に入った。
梶は顔を上げて、上空へ飛び立っていく一機の白いヘリを見た。絶えず耳に入ってくるテールローターが空気を切り裂く音が、強く印象に残る。二人はついさっき、斑目貘と彼に連なる立会人達が、続々とヘリに乗り込んでいく後ろ姿を見たばかりだった。
こちらへ向かって右手を力なく上げた貘の後ろ姿を、生涯忘れられないのだろうなと思った。
貘と、見知った立会人達が空の先へ消えていくのを見上げながら、梶はふと、隣にいる門倉の方へ顔を向けた。
「これから賭郎はどうなるんですか? 門倉さん」
その問いに、門倉は暫くの間沈黙を返したが、その後は彼の中で考えが纏まったのか「さあ」と短い言葉を告げた。
「少なくとも我らのやる事は変わらないでしょう。勝負に立ち会うのが定め。これからも立ち会い取り立て、業深き戦いを見届けてゆくでしょう」
門倉の長髪が風に揺れている。瞬きだけを繰り返しながら、彼は本当に、自らの人生をその言葉通り過ごすのだろうと思考を巡らせた。
「門倉さんは、あのヘリに乗らなくて良かったんですか?」
ただ一人、立会人としてこの島に残った男へ向けて問いかける。
「私はあくまでも梶様の専属立会人ですから。少なくとも、この島の中ではね」
門倉はただ前を見つめながらそう告げた。既に、数分前に貘らが搭乗したヘリの姿は見えなくなっていた。
「——“金”とはまだ見ぬ自分の分身」
「は?」
いきなり何を言い出すんだと言わんばかりに、門倉は初めて梶へ顔を向けた。まあそりゃそういう反応にもなるか、と内心苦笑しながら梶は続けた。
「昔いつだったか、貘さんが僕に言った言葉なんです。分身が集まれば集まるほど、人間はまだ見ぬ自分に近づいていく……金とは違うけれど、貘さんは欲望の望むまま勝負をやり続け己を満たしてきた。そしてとうとう最終目標まで突っ切った」
梶は一度そこで言葉を区切ると、改めて深呼吸をした。空を見上げている。
「貘さんは、何になったのだろう……」
ため息を漏らすようにして告げた言葉に、門倉は最初何も言葉を返さなかった。言葉尻こそ疑問の体を取っているが、こちらに回答を求めているわけではないと判断したからだった。
「あの方こそ、何も変わらないでしょう。賭郎のみを手中に納め、満足するような人間だとは到底思えませんから。彼はまた次の目標を見つけて、ただ賭けに興じるのでしょうね」
それでも、門倉は梶に向かって告げた。それは門倉のエゴで自己満足だったが、表にはおくびにも出さなかった。
「今梶様は彼が何になったのか、と仰られましたが、彼は今も昔も変わらず、嘘喰い、斑目貘のままですよ。彼が変わるのではなく、我々が変わるのです。そうして彼は、倶楽部賭郎のお屋形様になる」
——ただそれだけですよ、とそのまま同じトーンで続けた。屋形超えが終わってしまった今では、門倉が貘へ向けていた憎悪と羨望が入り混じった感情は不思議と鳴りを潜め、心は凪いでいた。門倉が夜行と数刻前に拳を交え崩れ落ちた後は、まるで憑き物が落ちたように、心臓のすぐ側で絶えず昂っていた炎が鎮火されてしまった。目の奥で燃え盛っていた熱は、目の前の海と同様に穏やかなものへと変貌していく。
「まっ、今の私としては、梶様の方が気になるところですがね」
「えっ、ぼ、僕ですか?」
なんで? と心底意外そうに梶は自身の顔を指差した。その頭上には巨大な疑問符も見えるようだった。
「ええ。嘘喰いがお屋形様となり、そうして、あなたはどうするのですか? このまま彼の手足として生き続けるのか、それとも、全く違う別の道をいくのか……少しばかり、興味があります」
門倉は前を向いたまま、視線のみを梶へ向けた。風が再び強くなり、黒色の長髪をたなびかせた。
「どうなるんでしょうね。僕は絶対、あの勝負は貘さんが勝つって信じてましたけど、でもこうして本当にそうなると、未だに現実味がないと言いますか……」
「つまり、まだ何も考えられていない?」
意地が悪いと大いに自覚しながら笑ってみると、居心地が悪そうに梶は頭を掻いた。
「正直なところ、そうです。でも、多分貘さんと一緒で、何も変わらないと思います。いつだって僕は貘さんの役に立ちたいし、その為に自分ができる事ならなんだってやると思います。今までも、これからも、それは同じ」
そう告げてはにかんだ男を、門倉は横目で見た。
これからの貘より、梶の方に興味があると告げたのは、門倉にとっても決して冗談やお世辞の類ではなかった。普通を捨てきれぬまま、貘と並ぶのだと志し、フロイドを降したこの若い博徒が一体これから先どこへ向かい、そしてどのようにして立会人としての己の糧となるのか——気にならないかと言われれば嘘になる。門倉は勝負に立ち会い続ける事を選んだ男だ。何があろうとも、心の底で最も渇望するものは、血肉沸き踊る凄絶な勝負だけだった。その勝負の舞台の中心に、梶隆臣という男は立っているのか? 門倉は考える。
「そうですか。あなたが貘様のようになるには、あと十年はかかるでしょうな」
ま、生きていればの話ですがね、と、そのまま言葉を続けようとしたが、わざわざ口に出すことでもないだろうと思い、何も言わなかった。そもそも、互いにこうして十年後も隣に立っている保証などどこにも存在しない。
暫く隣に並んだまま、互いに何も口にしなかったが、遠方へ駆けて行ったマルコが、大声で梶の名前を呼んだ為、一旦その場を離れた。
*
梶を含め、島に残った四名は、賭郎によって手配された船に乗ってプロトポロスから出島する事になった。
船のタラップに足をかけながら、梶は不意に思い立って、背後を振り返った。
(この島で、僕らはあの一ヶ月を過ごしたのか)
たった一ヶ月の出来事が、今となっては遥か昔のことのように思えてならなかった。チャンプともりゅうせいとも、この島での出来事がなければ一生出会う事はなかった。
そして、ほんの一ヶ月前までは伽羅が、そしてビンセント・ラロだって生きていたのだ。それが、今ではどちらも物言わぬ死体になった。この騒動で命を落とした全員が、死ぬなんて思っていなかっただろう。それだけは、梶も確信している。
満足に眠ることすら叶わなかった逃亡生活中は一日がうんざりする程長いものに感じられたが、全てが終わり、日々が過ぎ去ってみれば、何もかもが瞬きの間もなく過ぎ去って行ったように思う。その目まぐるしい変化に、自分は付いていけるのだろうか? 立ち止まって、そう考えそうになる事がある。
「まあ、今は考えても仕方ないんだけど……」
独り言をぶつくさと呟きながら、梶は船へと乗り込んだ。行きとは違い、帰りは目隠しの必要はないのだと、門倉が事前に告げていた。
「カジっ、見て! ご飯が沢山置いてあるのよ! これ、全部マルコが食べていいのか?」
先に乗り込んでいたマルコが、決して広いとは言えない船内の中央の机に置かれている食料を見て、その目を爛々と輝かせていた。
「まあ、好きに食べていいんじゃないかな。僕は別にお腹減ってないし……一応、大船さんにも声を掛けてからにしておいたら?」
「そうする! やったー! 今日はお祭りなのよ!」
その場でマルコが飛び跳ねると、当然ながら船は大きく揺れた。思わず尻餅をつきそうになったが、なんとか足裏に力を込めて耐えた。
元から船内に設けられている椅子に腰掛けて、梶は改めて周囲の光景を見た。この島に来た時とは、何もかもが違う景色だった。目隠しをされ、行き先も分からぬまま、何時間も船に揺られた。容赦無く襲いかかる船酔いと、漠然としてはっきりとした形を持たない未知への恐怖心。それだけが、一ヶ月前に梶を包んでいた全てだった。
その聳え立つ恐怖の中で、それでも梶を突き動かしていたのは、貘の役に立ちたいという願望だけだった。矛盾遊戯中のごく個人的な精神面での葛藤を経て、己の中に巣食う問題と向き合う事は出来たものの、未だ、その全てが取り除かれたとは言えない。
梶はもう一度、自分の顔に触れた。恐怖と未知を乗せたプロトポロス行きの船内で行ったのと同じ動作を繰り返した。
視線の先では、用意された食料に無我夢中で飛びつくマルコの後ろ姿が見えた。先ほど突然声をかけられたであろう大船は、彼の食べっぷりに困惑しながら、皿から勢いよくものがなくなっていく光景を見ていた。
船内の壁に凭れ、静かに目を閉じた。今日、貘や立会人達の周りで巻き起こった出来事を考えると、梶は何もしていないに等しい。ただ、運命の勝負に向かう三人の背中を見届け、勝負内容を音声で聴いただけだ。それでも、何もかもが終わってしまうと、どっと疲れが勢いよく全身に押し寄せてきたのだ。
(祭りか……そうだよな。これはある意味じゃ祭りだったんだ)
振り返ってみれば、数日前には島全体を覆ったカイザーフェスタが行われていた。何よりも屋形超えという行為が、この日本という国を裏から丸ごと変えてしまう可能性を秘めた、大きな祭りだった。国民の殆どが知らない、長くて短い祭り——それの切先に、梶は触れた。触れただけなのに、それだけで大怪我を負いそうな高揚感が、確かにそこにはあった。
(まだ、熱い)
未だ、貘が屋形超えを成し遂げたのだという実感は湧かないのに、胸の奥では熱が燻っている。目を瞑ると、黒い視界の中に、太陽の光が白髪を照らす貘の姿が浮かんだ。
(僕はいつか、貘さんに並べるんだろうか?)
自分にとって都合の良い『斑目貘』を打ち消した後に、自分は現実の彼を正面から見据える事が出来るのか? 梶には未だに分からない。
それでも、今はただ眠ってしまおうと思った。慣れ親しんだ陸地に戻るまで、長い船旅になる。この船にいる間だけでも、未来ではなく、この瞬間の高揚感に浸っていたかった。
船内は空調がよく管理されていて、意識を飛ばすには最適の環境だった。取り巻く環境の何もかもが、行きの旅の時とは変わっていた。
結局、じりじりと喉の奥を這うような吐き気に襲われて目を覚ました。目を開けた瞬間、眼球の奥が常に回転しているような、本能的な嫌悪感が全身を覆った。絶対船酔いだ、と確信し、本能のまま口を手で抑えた。
明滅する視界で周囲を見ると、食料に喰らい付いていたマルコの姿も、困惑する大船の姿も見えなかった。少しでも身体を動かすと問答無用で吐き出してしまいそうになるのを何度も堪えながら、近くの壁伝いに梶はトイレへと向かう。近くにあって助かった、と心の底から思いながら、勢いよく蓋を開けて、便器の前で膝をつくと、次の瞬間位は中に全てを吐き出していた。今朝から碌にものを食べていなかったので、ぼちゃぼちゃと音を立てて吐かれたのは薄黄色の胃液だけだった。それでも、便器の縁を掴む力は強くなり、軋んだ嫌な音を立てた。生理的な涙が溢れてきて、一筋だけ頬を伝った。
トイレットペーパーで口元を拭うと、安価なものだったせいか、擦った跡がヒリヒリと痛んだ。ぜえぜえと肩で息をしながら、眉間を親指で抑え、なんとか立ち上がる。視界の隅は未だ、黒いノイズが走っているように不明瞭だったが、それでもさっきよりは何倍もマシだった。銀色に光るレバーを回し、水が流れていく様を無言で見た。
「寒……」
ため息を吐きながら独り言を告げて、数分ぶりにトイレから出た。船内の白い照明が、梶の眼球を容赦無く刺した。
マルコと大船はどこに行ったのだろうか、と改めて周囲を確認すると、想定外の人物の後ろ姿が、扉の窓から見える船のデッキに見えた。もうこれ以上は寝れないだろうと判断し、扉へと向かう。
「——門倉さん!」
一人、黙って海を見続ける立会人の背中に向かって、彼の名前を呼ぶ。暫く時間をおいて、ようやく門倉は振り返って、梶の顔を見た。
「ああ、目覚められたのですか」
淡々と、彼はそう問いかける。
「お恥ずかしい話、ちょっと船に酔っちゃって」
「それで吐かれたと?」
「えっ、どうして知ってるんですか」
「あんなに急いでトイレに駆け込まれていたのですから、まあ察しはつきますよ」
「は、恥ずかし……」
まさか門倉に見られていたとは全く想定しておらず、今、己の頬は紅潮しているに違いないと思った。誤魔化すように頬に手を伸ばして隠そうとした。
「あの、マルコと大船さんは?」
「お二方とも、それぞれの部屋に戻られています。梶様もご案内するつもりでしたが、いかんせん、子供のようにぐっすり眠られていましたからねえ」
「あ、ははは……」
今僕は一体どういうリアクションを取るのが正解なんだ? と考えながら、苦笑いと共に口角を上げた。
「ご案内しましょうか?」
その提案に、梶は首を横に振った。
「あ、いえ、ちょっと風に当たって酔いを覚まそうかなって。僕、暫くここにいても良いですか?」
「……ええ、勿論。私にあなたの行動を制限する権利はありませんからね」
じゃあお言葉に甘えて、と門倉の隣に立った。船が通り過ぎていった水面にはいつまでも残る跡白波が続いていった。
門倉はすぐにどこかにいくだろうと思っていたが、梶の想像に反して、彼はずっと隣で同じように水面を見つめていた。
「陸に着くまで、あとどれくらいかかりますか?」
「そうですね、大凡一時間程度かと」
「結構長い道のりですよね。行きもそうだったし。弥鱈さん、どうやってこんな島見つけたんだろう」
「単純な趣味なんじゃないですか?」
「そう言われたら、なんか納得できるっちゃ出来ますけど……」
顔に潮風が当たった。前髪が浮き上がり、また門倉の髪は揺れていた。
「なぜ、」
不意に門倉から声を掛けられて、梶は思わず顔を上げて、「え?」と声を上げる。頭上に疑問符を浮かべる梶のことなど知ってか知らずか、門倉は前を見ながら言葉を続けた。
「なぜ、あなた達はお屋形様を、いや、切間創一を助けたのですか」
そう問われ、梶は無意識のうちに目の前の手すりを強く掴んでいた。跡白波は絶えず生み出されては揺れている。その問いに対する言葉を返す前に、門倉は続けた。
「あなた達が、あの方の命を助ける理由など無かったでしょう」
門倉はそれを心底疑問に思っているようだった。皮肉ではなく、本当に知りたいのだと、少なくとも梶にはそう感じられた。
「確かに、僕とマルコがが切間さんの事を助ける理由は無かったですよ。——でも、助けない理由も、同じように無かった」
二人でAEDを使用した後、駆けつけた立会人達によって担架で運ばれていった彼の姿を、梶は鮮明に覚えている。彼はあの時、辛うじて息をしていた。死んではいなかった。彼の心臓が再び動き出したあの瞬間、梶は最も近くにいたのだ!
「だから助けたんです。助けられるのに、手を伸ばせない。そんな人間になりたくなかったから」
門倉はその言葉に対して何も言わなかった。その代わりに頭で考える。この男が持つこの甘さが、いつか足元を掬う事になるのだろうと。決して口にはしなかったが、そう確信していた。
「僕はやっぱり、自分に出来る事をしたいです」
「……それが出来なくなった時、梶様はどうされますか?」
意地の悪い質問をしている、と大いに自覚しながら門倉は聞かずにいられなかった。このまだ可能性の兆しだけを持ったこの青年が、何を答えるのかを知りたかった。
「例えば、どうしても自らの意思を持って人を殺さねばならない時、あなたはまた、今回と同じように引き金を引かぬまま、そこに立ち続けるのですか?」
「そんな機会はあまり考えたくないですけど、でも、そうですね……多分、そういう場面になったら、そうなっちゃうんだろうな。結局のところ、まだ僕は怖いんです。でも怖いままでも良いって分かったから、そのままでいますよ。その怖さを抱いている事こそが、僕が僕である理由だと思いますから。門倉さん的には、僕は甘い人間だと思いますけど」
梶は薄らと笑みを浮かべて隣の男を見た。門倉はほんの一瞬だけ形容し難いような苦い顔をしていたのを、梶は見てしまった。
「……いえ、紛れもなく、そこがあなたの美点だと思いますよ」
しれっと真顔でそう言い放った彼に、思わず吹き出す羽目になった。
「それ、絶対嘘じゃないですか!」
「さあ……どうでしょうねえ」
門倉は笑顔——彼曰く、不謹慎な笑み——を浮かべて梶の目を見ていた。
二人はその後、互いに無言のまま流れていく海面を見続けていた。強く吹き込む風が、髪と服を揺らしていった。いつの間にか、梶の酔いはすっかりどこかへと行ってしまっていた。吐いた後トイレットペーパーで拭った唇は皮が捲れてしまい、何度も舌の先でその箇所を舐めた。それでも、何も言わなかった。陸地に戻ってからの、それぞれの明日の事を考える必要があったからだった。
*
行きも帰りも同じ海路を行った筈なのに、今の方が何倍も早く感じられた。
門倉が告げた通り、ぴったり一時間が経過した頃、船は港へ停泊した。勢いよく飛び出したマルコと大船が先に船を出て、その次に梶が続いた。
不安定なタラップから降り、港のコンクリートの上に両足を着けた際、真っ先に梶が感じた事は強烈な安堵だった。自分はまだ生きている! その形を伴った実感が、今になって全身を駆け巡った。口角を歪に吊り上げて、一人で頬を軽く抓った。感覚がある。夢なんかではない。貘もマルコも自分も、あの果ての島の中で生き残ったのだ!
「何をしているんですか」
その感覚に浸っている最中、突然背後から声を掛けられて、梶は肩を跳ね上げた。心臓が飛び出しそうになる感覚を抑え、恐る恐る振り、その人物の名を呼んだ。
「か、どくらさん……」
「その場で立たれたままでは邪魔ですので、さっさとどいてください」
「あ、すみません! すぐどきますんで!」
そそくさとその場から動き、さっきからこんなのばっかりだな、と思考が巡る。
久しぶりに一ヶ月前に持ってきていた荷物が帰ってきて、両手が塞がったまま、梶は改めて背後に立っていた門倉の姿を見た。
「あ、あの! 門倉さん、一か月、ありがとうございました」
舌が縺れそうになりながらかかり気味でそう告げ、深々と頭を下げた。
「私はあなたにお礼を言われるような事をした覚えはありませんが」
「それでもです。門倉さんが僕の専属で、結果的には良かったから」
「それはひょっとして、私に対して喧嘩を売っていらっしゃいます?」
「え!? ち、違いますよ! やっぱりほら、色々相性とかあるじゃないですか!立会人と会員って! だから、なんだかんだこの一ヶ月色々と門倉さんと話せて、それは、良かったなって。あと、林檎とか剥いてもらっちゃって」
「はあ……」
今ひとつ腑に落ちないといった表情を浮かべたまま、門倉は言葉を返した。梶は荷物を地面に置いて、身振り手振りを加えて話を続けた。途中で、一体自分は何の話をしているんだろうか、と思う事こそあったが、それでもその瞬間しか、彼に言える時間はなかった。
「だから改めて、ありがとうございました。また、次の賭郎勝負の時、よろしくお願いします」
改めて、梶は頭を下げた。それに何の言葉も返ってこなかった為、不安になって顔を上げると、彼は何故か、鳩が豆鉄砲をくらったような顔を浮かべていた。
「門倉さん?」
名前を呼ぶと、門倉はようやく正気に戻ったようで、ようやく口を開いた。
「いえ……お気になさらずとも結構です。そう言って頂けると光栄ですよ。ま、今後も私が梶様の専属かは不明ですがね」
「確かに、それはそうか……じゃあまた、お会いする機会があれば」
「ええ、その時がありましたら」
同じような事を言い合っているなと、梶は少し笑った。
その後、先に船を出ていたマルコが大声で梶を呼んだ為、二人はまたその場で別れる事になった。ちょっとしたデジャブを感じながら、梶は小走りで彼の元へ向かった。
*
斑目貘がお屋形様となり、倶楽部賭郎を取り巻く環境は何もかもが変わっていった。
彼が理想として第一に掲げた『世界平和』という四文字は、皮肉でも比喩でもなかった。彼は自らが世界にとっての巨悪となる事で、世界中に蔓延るヴァイスファンドの悪徳者達を手中に収めようと画策していたのだ。悪をもって悪を征し、自らの理想とする世界を手に入れる。そう告げた斑目貘は間違いなく、地球上で最も強欲なギャンブラーそのものだった——少なくとも、門倉の目にはそう見えた。
「門倉さんはさあ、心霊的な、そういう化学では説明できないような現象って、信じる方?」
顔の下で両手を組み、貘は蠱惑的な笑みを浮かべながらそう問いかけた。門倉は腰かける貘の前に立ったまま、この質問に至るまでの短い経緯を思い起こした。
立会人大規模編成——賭郎のお屋形様のみが許される強権を用い、貘が真っ先に行った事は、立会人と一対一で対話を行う事だった。一番最初に対話を行った夜行から「次はあなたです」と指名され、部屋に入室した後、最初に求められたのは、立ち会ってきた中で、今までで一番スリルのあった賭けの話をする事だった。門倉が口にした話は、富士の洞穴での賭郎勝負を見ていた人主の一人を襲った、奇妙な賭けとその顛末の話であった。まるでポルターガイストが本当に目の前で起こったかのように、賭けた者同士が狂気に包まれ、互いに息を引き取ったあの勝負は、間違いなく門倉の印象に強く残ったものだった。話の顛末を注意深く最後まで聞いた貘は、最後に「なんか後味悪いよね、そういう勝負ってさ……」とだけ告げた。そうして、先の質問に繋がる。
「因みに、俺は信じる方。あ、ギャンブルは別だよ。そういうのに霊的なパワーなんて野暮なものは必要ない。俺が言ってるのはそれ以外の、日常生活での話」
「……私はどちらかと言えば否定派です。幽霊だとかそういう類が本当に存在するのならば、死んだ人間が私の前に現れない道理がありませんからね」
「それはそうかも。門倉さん、如何にもそういう恨み買ってそうだもんね~、あ、これは悪口じゃないよ?」
「どちらでも結構です」
貘は足を組み直した。その何気ない仕草一つとっても、どんな世界的モデルと比較しても、なんら遜色ないものだった。
「俺が信じてるのはさ……夢に見たからなんだよね」
「夢? 意外ですね、そういったものを信じていらっしゃるとは」
「俺もそう思うよ。でも、見ちゃったものは仕方ないし……」
貘はそこで一度言葉を区切り、勝負の中で失った小指を、天井の照明へ翳した。
「そう、門倉さんには言っておこうと思うんだけどさ。実は、屋形越えしても、本当に嬉しいのって終わった日と、その次の日ぐらいだったんだよね。今はもう、次の勝負相手を探すのに必死ってわけ。不思議だよね、あんなに求めてたのに。俺って飽きっぽいのかな?」
門倉は「はあ」と言葉を返したが、内心では自分の読みが何一つ間違っていなかった事を噛み締めていた。やはりこの男は、一つを手に入れて満足するような、そんな小さな業を抱えてなどいないのだ!
「——ところでさ、門倉さんから見て、梶ちゃんの勝負ってどうだった?」
何の脈絡もなく、梶の名前が目の前の男の口から飛び出してきたせいで、門倉は思わず面食らった。
「どう、と申されますと?」
「いやさ、俺が見るのって、いっつも梶ちゃんが強くなった後だからさあ。梶ちゃんが成長する機会に、俺はいつも立ち会えない。彼はいつだって、俺の知らないところで強くなる。でも、門倉さんはあの島の中で立ち会った訳でしょ? どうだった?」
これは一体何を聞かれているんだ? と考えながら、門倉は口を開く。
「少なくとも、私はこれまで見てこなかった人種です。己で引き金を引く力すら持ち合わせない……ですが、そこが致命的な弱点にも、僅かながらの勝利への光明にもなり得る」
「じゃあ、門倉さんは梶ちゃんを評価してるわけだ……うん、そうだよね、だって門倉さん、いかにも梶ちゃんの事好きそ〜って感じだし」
「その言い方はどうかと思いますが」
「じゃあ何、ひょっとして嫌いなの?」
「……黙秘します」
決して嫌悪はしていないが、それをこの男に教える義理を門倉は持ち合わせていなかった。
「あっそ。じゃあ、特別に門倉さんに教えてあげる。俺はさ——いつか、俺の目の前に立ちはだかるのは、梶ちゃんであって欲しいと思ってるんだよ。だって、夢で見たから」
この男は何を言っているのだ、と門倉は真剣に考えた。貘が語る言葉は、どれも夢物語であると、この段階で断じる事も出来た。
「ねえ、門倉さんだってそう思わない? と、いうよりも、立ち会ってみたいと思わない?」
貘は立ち上がり、立っている門倉の顔を下から覗き込む。彼の白髪が、門倉の目の前で揺れた。
「……私の口からは何も言うことはありません。そもそも、あの甘い男が数年後も生きている保障なんて、どこにもないでしょう」
「ま、それは俺達全員に言える事だね。誰も、明日生きてる保障なんて持ってない。だからこそ、荒唐無稽な夢を抱いて生きていこうぜ。決めた、俺のお屋形様としての第二のスローガン、これにしよ」
貘は再び笑った。人間を逸脱した、得体のしれない化け物の笑みだと心底思った。
「俺は梶ちゃんに賭けるよ。だって俺はどこまでもギャンブラーだ——それに、そんなに分の悪い賭けじゃないだろ。だから、門倉さんにこの話をした——門倉さん、ちゃんと覚えててよ、俺の賭けの話」
最後にそう告げて、貘は「オッケー、聞きたい事は聞けたから、もう部屋から出て行っていいよ」とあっさり門倉を部屋から出した。
「じゃあ次、この人呼んでもらえる?」
「……分かりました」
短くそう告げて、門倉は貘の部屋——かつては切間創創一が使用していた執務室の扉を開けた。部屋から出てきた門倉の姿を視認した立会人達が、次は誰だと無言のまま顔を見合わせている。
貘に告げられた男を見つけ、門倉は彼に向かって指差した。
「次はおどれじゃ、弥鱈」
指名を受けた男は黙ってスーツのポケットに両手を突っ込んだまま、口から唾で出来たシャボン玉を吐き出した。
*
その後一年をかけて、門倉はいくつかの賭郎勝負に立ち会った。政治家や巨大資本の幹部格が関わるような勝負であったが、そのどれも、門倉の欲望を完全に満たせるような勝負ではなかった。門倉は極限状態で人間の本性が曝け出される瞬間を渇望している。打ちのめされ、足掻き、醜態を晒して砕け散る博徒達の姿が見たくて堪らない。その有象無象の中に時々、どん底に突き落とされながらも這い上がってくる者がいる——それを味わいたいがために己は立会人なのだという自負がある。門倉が立ち会った勝負は、そのどれも満たしてはいなかったのだ。
少なくともそれからの一年間半、門倉が立会人として梶の勝負に呼ばれる事は一度もなかった。
2年目 春は何回目
「ひょっとして、梶様ってのは死んだんか?」
南方にそう尋ねられたのは、賭郎本部ビルの喫煙所でだった。先に門倉が一人で吸っていたところ、後から南方が入ってきたのだ。
隣で吐き出された煙に、門倉は眉を顰めた。今更煙草の臭いなんて気にする訳もないが、その時ばかりは妙に鼻についた。
「……知らんよ」
口から煙を吐き出して、口を閉ざしたまま灰を数回叩いて落とした。脳内に覆い被さっているノイズが、一瞬だけ晴れたような心地になるが、すぐにそれはニコチンの偽りの作用だと悟る。
「嘘喰い……いや、お屋形様の近くにも最近はおらんしのう」
前は結構一緒におったじゃろ? と、門倉の現状を知ってか知らずか、南方はしゃあしゃあと煙と共に言葉を吐き出した。
梶隆臣という会員の現在を知る者は殆どいない。少なくとも、門倉の観測範囲内ではそうだった。わざわざ気にしている者もいない、と言う方がいくらか正しいかもしれない。
賭郎会員の入れ替わりは、頻繁に立会人を呼び出す者程激しい。勝負の代償に互いの命を差し出す会員も少なくないのだ。勝負を重ねていくほど、死亡する確率も比例して多くなる。自明の理だった。
逆に滅多に立会人を呼び出さないのは、何も知らないまま亡くなった親から会員権を譲り受けた子供などである。立会人を呼び出し、時には、己の命をテーブルの上に乗せてしまえる、その麻薬のような快楽を知らない幸運な——門倉に言わせてみれば不幸な——名ばかりの会員達がその多数を占めていた。
梶はそのどちらにも属さなかった。会員として命を賭ける高揚感も恐怖も等しく知っているだろう。それでも彼は、彼である事を貫き続けた。その一点は、門倉も評価している。
「なんじゃおどれ、気に入ってたのか、あのガキの事」
まさかお前と同じ評価軸を持っているとは、と声を上げた。
数歩離れたところにいる名前も知らない黒服の一人が、こちらの様子を伺っている事に気付くが、それ以上気にも止めずに隣の男に問いかける。
「なんでワシなんじゃ、それを言うならおどれの方じゃろ」
「……ワシが? アホ言え、なんで梶なんかを」
「なんじゃ無自覚か? おどれ難儀じゃのう」
「喧嘩売っとるんか? それじゃあ、ありがたく買うぞ」
「おどれその血の気の多さどうにかならんのか」
「それがワシじゃもーん……ま、あんなガキ、今頃どこかでぽっくり死んどるよ」
煙草の先端を、銀色に光る灰皿へ押し付けて捨てた。無性にもう一本吸いたい気持ちになるが、生憎切らしていた。
「おどれ、今梶様の専属なんじゃろ?」
「専属だったのは卍の時だけよ。それ以降の事は知らん」
確か梶の賭郎勝負に最初に立ち会ったのは夜行立会人、二人目は能輪立会人であったと門倉は記憶している。彼らは今、どちらも賭郎の中枢業務に深く携わっている——主に新たなお屋形様へ同行という形でだが——ので、今でも梶の専属なのかと言われると首をかしげる部分ではある。
「それでも、ワシは一人の会員に肩入れなんぞせんからね。専属という関係に酔って、何人死んだと思う? メカのその代表例じゃね。悪い奴じゃあなかったが、立会人じゃあなかったね、だから死んだ」
「でもおどれ、屋形超えに立ち会いたいって前に言っとったじゃろ」
「それはただ、嘘喰いがあまりにも稀有な存在だっただけよ。よく考えてみい、屋形超えが成されたのはこの長い歴史を以てしても今回が初めて——ワシが生きてる間に、もう一度行われるとは思えん」
そう言いながら、ちょうど一年前に貘から言われた言葉が脳内にフラッシュバックする。その言葉を早々に頭から消し去って、腕を組んだ。
「ワシはどこまでいっても立会人よ。梶は確かに面白い勝負をしとったけどね、専属でも専属じゃのおても、どっちでもいい。面白い勝負にさえ立ち会えたら、それでな」
へえ、と南方が呑気に吐き出した煙が、門倉の目には無性に恨めしく映って、すぐ隣に見えた彼の肩を力任せに殴った。
*
貘から突然呼び出しを喰らったのは、ちょうどその日、喫煙所から帰ってきてすぐの事だった。自身に与えられたデスクへ戻ると、部下の一人が声をかけてきたのだ。「お屋形様が雄大君を呼んでいる」と。なんてタイミングが悪い、と思いながら伝えた部下に一言礼を言い、その足で執務室へと向かった。
お屋形様のみが自由に出入り出来るこの部屋の周囲は、常に静まり返った空気が全身を覆う。切間がこの扉の中にいる時代は特にそうだった。現状では奇跡的に一命を取り留めた切間と貘の両名が、便宜上のトップとして賭郎の頂点に君臨していた。
扉を三回叩いてから部屋へ入ると「はぁい」とどこか気の抜けた声が聞こえてくる。一歩踏み込んで、中心に置かれたデスクに両肘を立てて腰掛けている貘の姿を見た。彼の姿以外、室内には誰もいないようだった。
静寂に包まれた空間の中で、悪魔が人間の形を成した男がこちらに笑いかけている。彼は恐ろしく絵になる男だった。ただそこに座っているだけで、際限なく狂人を産み続けるのだろう。
「一体、私に何の御用で?」
「そんな怖い顔しないでよ。何か俺が酷い事してるみたいじゃんか」
「どの口が仰られますやら……」
門倉は乾いた笑みを浮かべずにはいられなかった。よくもまあ、いけしゃあしゃあとそんな事を口に出せるなと、心の底から思った。
「で、門倉さんを呼び出した用件なんだけどさ。今から三日後の午後十時、——に行って欲しいんだよね。予定、空いてるでしょ? 誤魔化してもダメだよ、俺ちゃんと把握してるからさ」
貘が告げたのはここから車で一時間半程度の場所にある埠頭の名前だった。
「そこで賭郎勝負が行われる予定なんだ。門倉さんにはその勝負に立ち会ってほしい。因みにこれ、お屋形様命令だから」
じゃあよろしくねっ、とウインクまでしてみせた男を、門倉は睨むように見つめる。
「私が立ち会う会員様のお名前は?」
「それは内緒。でもまあ、門倉さんにとっても決して悪い話じゃないからさ……頼むよ」
茶目っ気のつもりか、彼はアイドルのように人差し指で門倉を指差す。この男はいつだって唐突だった。少なくとも、表に出す行動は。裏では常に誰よりも策略を巡らせているのだ。その真意を完全に把握できる人間は、現状日本国内では存在しないだろう。
「分かりました」
どうせこちらには断る権利など最初から持ち合わせていないのだ、と言葉を返した。
*
ここに迎えと渡された情報を調べると、目的地は数年間使われていない古い倉庫であった。その先に、門倉が立ち会うべき勝負に興じる会員がいるのだろう。どちらか一方、もしくは両名共が。
車を走らせて一時間前にはそこに向かう。視界の隅に映る海が、高層ビルの光を点々と映し出している。煌々と光る橙色の照明に目を焼かれると、暫くの間それが眼裏にこびりついて離れなかった。
船が動き出す音が微かに聞こえた。それでも人の気配はない。周囲で聞こえてくるのは、門倉と、それに続く数名の部下達の靴がコンクリートを蹴る音だけだった。
同じ造りの建物が並んでいる中の一棟、雨跡が下へと垂れている、灰色の倉庫の中へ入っていく。部下の手によって、重い扉が、思わず眉を顰める程軋んだ音を立ててゆっくりと開いて行った。そこから風が吹き込んで、絶え間なく細かな埃が舞っている。
中には先客が一人だけいた。男だった。明かりも着けず、小さな窓から入ってくる僅かな月明かりだけを頼りに、倉庫の中心で一人パイプ椅子に腰掛けて座っていた。
部下の一人が「照明を探してきます」と告げ、離れていく。
男は、門倉達の来訪に対して視線を向ける事なく、背中を向け続けていた。常人であれば、それだけで彼の正体を判断する事は困難だろう。その読み通り、部下達も身構えているようだった。——しかし、この場にいた者の中で、門倉だけは別だった。脳の一部を損傷した代わりに、誰にも分からない匂いを判別できる能力を手に入れた門倉だけは、男の名前を呼ぶ事が出来た。
「——梶様?」
そう呼んだのは殆ど無意識の内だった。今の門倉は、一度嗅いだ匂いは忘れない。忘れられない、といった方が正しい。人間の匂いは一人一人全く異なる。門倉の能力の精度は、専門医すら目を見張るものがあった。
門倉に名を呼ばれた男は、ようやく彼らに気づいたとでもいうように、ゆっくりと振り返った。その瞬間、照明の場所を探り当てた部下によって、倉庫全体が明るくなった。慣れない視界に一瞬目を細めながら、門倉は正面を見据えた。
「門倉さん? あ、立ち会いで来てくれたんですか? すみません、集中してて気づかなくて」
男——梶は、そう告げて苦笑した。照明が梶に反射して、頭部が薄らと黄色に染まっている。一年半前、門倉が最後に見たのと、何一つ変わらない表情とトーンだった。唯一変わったところを上げるとすれば、顎の周りに無精髭が生えていることくらいだろう。梶は清掃員の格好に身を包んでいた。一言で断じてしまえば小汚い青年。今の彼を表すのにはそれだけで十分だった。何も知らない人間が彼の事を見ても、彼が賭郎会員だと見抜ける者はいないだろう。そう思った。
「まさかこんなに早く来て頂けるとは思ってなくて」
「言い訳を重ねていただく必要はありません。あなたが気づこうが気づかまいが、私はただあなたとお相手の勝負に立ち会うだけです」
貘の言葉が脳裏をよぎった。何が「門倉さんにとっても決して悪い話じゃないからさ」だ!
「でも良かった。ちゃんと立会人の方に来ていただけて」
「……お屋形様を経由する必要は無かったのでは?」
「ああ、僕が今の仕込みの都合上、携帯が持てなくて……ホテルの番号にはなんとか繋げられたんですけどね。だから、貘さんに頼みました、誰でも良いので、一人立会人を寄越してくれませんかって。そうしたら、門倉さんが来てくれた」
「私を指名されたわけではない?」
「えっと、そうですね……空いている方であれば、とは思いましたけど。考える余裕が無かったので」
その言葉を聞いた瞬間、門倉は無意識に拳を強く握りしめているのを自覚した。胸の内側で燻りかけているこの熱を、その方法でしか発散できなかったからだ。こちらに向けて頭を下げた彼の姿を思い出す。思い出しただけで、それきりだった。
「そうですか。それは結構……ま、生きてらっしゃったようで、良かったですよ」
それだけを告げて、門倉は梶に背を向けた。勝負相手が改めてやってくる前に、準備しなければならない事は山のように残っていたのだ。
*
午後十時五分前、数名の部下を引き連れて、そのトルコ人の男は倉庫に現れた。仕立ての良いスーツに身を包んだ男は、梶の姿を一目見ると、流暢な日本語で「今日の相手は君か?」と心底不思議そうに声を上げた。男は門倉が知っている範囲では賭郎会員ではなかったが、こうしたギャンブルに手慣れているという事は、風貌と纏う空気を一度見ただけで分かった。
男はトルコ全域と、主にトルクメニスタンで繊維業を主とする企業の幹部の一人だった。何度か日本に足を運んでは、視察とギャンブルを謳歌しているのだと、梶の前で告げた。
「日本にこんなにも巨大な賭博組織があるとは知らなかった! こちらの認識では、日本人は無謀なギャンブルには手を出していない印象があったから」
「それは一部の印象なんじゃないですか?」
「ああ、そうだね。今日から認識を改めるよ。君のようなみすぼらしい人間でも、命を捨てる賭けに興じるのだと」
梶はそれ以上何も言い返さなかったが、その言葉に眉が一瞬釣り上がったのを、門倉は見逃さなかった。
梶が男に向けて差し出した対価は現金三億円(彼らは互いに同じ金額を提示した)と賭郎会員権、そして男が梶に対して差し出したのは、日本に向けての確実な情報ルートの提供であった。
「——では、互いにその条件でよろしいですね?」
門倉が改めて双方に問いかけると、二人はそれぞれ違う表情で頷きを返した。
勝負内容は男が指定した。チャイニーズポーカーである。「僕はこのルールが好きでね」と男が含みを持たせたまま告げる。梶は黙って首を縦に振った。
「何だって良いですよ。僕は僕に出来る事をやるだけだから……」
かつて船の上で門倉に告げたものと、全く同じ言葉を彼は繰り返し呟いた。あの時に頬を撫でた潮風が一瞬、門倉の鼻を掠めたような気がした。
全三回のゲーム、それぞれのゲームの敗者は代償として賭郎の手によって爪を剥がされる事が決まった。トップ、ミドル、ボトム、負けた役が増えれば増える程、指先から爪はなくなる。
「ただのゲームを行うのでは面白くない。痛みを伴い、互いに生を実感しよう」
男は梶に向かってそう告げて、大きな目をこれ以上ない程に細めた。
最初に勝利したのは梶の方だった。男は「おお」と声を上げ、門倉の手によって負けたミドルの分、小指の指が剥がされていく光景を目を逸らさずに見つめた。余裕綽々な態度を崩さなかった男が、爪が身体から離れていくその瞬間だけ、僅かに呻き声を上げた。指先から血が滴り落ちて、テーブルの木目に染み込んで行く。男の額に玉のような汗が浮かんでいく様を、梶は唾を飲み込んで見つめていた。
梶は震える手でカードをテーブルの上に広げた。梶の役はトップはKハイ、ミドルはK9の2ペア、ボトムはAハイフラッシュ。男の役はトップは5のワンペア、ミドルはTハイストレート、ボトムはQハイストレート。ミドルとトップで、男が勝利した為に、梶の敗北となる。内訳が判明した瞬間、確実に揺れた梶の瞳の奥が、妙に印象に残る。
門倉は部下からペンチを受け取り、テーブルの上に置かれていた梶の手首を掴んだ。梶の全身に、力が入ったのが分かった。梶が流した汗が顎を伝い、床に染みを作っていった。
「では規定通り、右手の小指から」
その言葉に、梶は口を閉ざしたままだった。ただ、歯軋りの音は確かに聞こえた。門倉が梶の骨ばった指に触れると、僅かに震えていた。そのまま、躊躇なく爪を剥がした。
「——っ、う、ぁ、ぐッ……!」
梶も、男と同じように大きな声を上げる事はなかった。ただその場で、絶えず襲いかかる激痛に悶えていた。そのまま続けて、環指の爪を剥がす。梶の足が大きく揺れ、テーブルが大きく音を立てて軋んだ。
門倉の手が手首から離れると、今度は梶自身が己の右手首を強く握りしめ、じっと俯いていた。垂れた血液が、決して綺麗とは言えない清掃服に、赤黒い染みを数箇所作り出していった。その光景を、門倉も男も、黙ったまま見つめていた。
「問題なければ、このまま勝負を続けさせて頂きますが」
淡々とそう告げると、梶はようやく顔を上げて、門倉の姿を見た。
「ええ……問題、ありませんよ。勝負を続けましょうか」
肩で息をしながら、梶は間違いなくそう続けた。一年半前よりも幾分か痩せたのか、門倉の記憶よりもずっと窪んだ目の奥で、ギャンブルという炎の中にその身を投じている人間だけが見せる輝きが、どこまでも強く光っていた。
その目を見た瞬間、門倉は今ここに己が立っている理由が、改めて分かったような気がした。
(嗚呼、私はこの光を見たいが為に、立会人を志した!)
それは門倉が立会人として賭郎勝負に立ち会う中で、何度も実感してきた事ではあったが、その刹那に、脳の奥まで染み渡るようにして、その感覚が再度門倉を覆っていった。梶の奥に光る仄暗い、血走った目を見る度に、新鮮にそれを思い出せた。
「では、梶様の了承を得ましたので続けましょう。次が最後のゲームとなります、よろしいですね?」
テーブルの上に権利とプライドを賭けた男達は、門倉の言葉に、揃って確かに頷いた。
*
「勝者——梶様」
門倉が勝者の名前を告げた瞬間、目の前で何枚もの新品のトランプが宙を待った。
梶は、頭を抱えて異国語で絶叫する男を、テーブルを挟んでただじっと見ていた。
最後のゲームを制したのは梶だった。トップ、ミドル、ボトム。全ての役が、対峙する男を上回っていた。
そこまできて、男は初めて酷く狼狽えた様子を見せた。両手で頭を抱え、落ちてきたトランプが一枚、頭上に落下した。それすらも気づいていない様子で、男はトルコ語で梶を罵り続けていた。賭郎の取り決めが頭から抜け落ち、暴れ出そうとする男を、部下達が数人がかりで取り押さえる。無我夢中で逃げ出そうとする男を前にして、門倉は見下しながら努めて淡々と告げた。
「我々を前にして、勝負前の約束を反故にする事は決して許されません。それが例え誰であろうとも、賭郎勝負の舞台では、皆様等しく同じ条件の博徒です」
男の顔面には、絶えず汗が滲んでいた。過剰な程にセットされていた髪は乱れ、唾を吐き散らす。この、人生で最も惨めな瞬間に、門倉はその人間の本質を見出す。
「今この場において、賭郎によって取り決められたルールは神の定めにも等しいのです……よろしいですね?」
そのまま有無を言わさず、男の爪を三枚、立て続けにペンチで剥がした。最初の余裕はどこへ消えたのか、剥がれる度に、男の甲高い絶叫が上がる。梶は椅子に腰掛けたまま、口を挟む事もなく、ただじっとその光景を見つめていた。目を逸らす事もなく、ただ前を見ていた。
三枚目の爪が剥がれ、痛みによって気絶した男の処遇を部下に任せた後、門倉は無言のまま梶に近づいた。この場には何人もの人間が動いているのに、二人の周囲だけがやけに静かに感じられた。
腰掛けたまま動かない梶に向かって、門倉は口を開いた。
「実に見事な勝利でしたよ、梶様」
「……あの、それって、嫌味だったりします?」
青ざめた表情の梶が、小さな声で言った。彼の視線は、剥がされた右手の小指の先端に注がれていた。
「いいえ。心の底からの賞賛ですよ」
「意外と門倉さんって、そういう事言ってくれるタイプの人なんですね」
「そうですね、その時の気分によりますが、今の私はあなたに言いたい気分だったんです」
「そ、れは、良かった?」
「ええ、良かったのです」
門倉がそのまま頷くと、梶はようやく顔を少し上げ、普段と変わらない苦笑いを口元へ浮かべた。
「私、てっきり梶様は亡くなられたのかと思っていましたよ」
「え、縁起でもないこと言わないで下さいよ……」
「それは失敬。この一年半、何の音沙汰もありませんでしたからね」
「ああ、貘さんに言われて、色んなところに仕込みに行っていたんです。だから、賭郎勝負も、今日で、それこそ一年半ぶりですよ」
「そうでしたか、それは重畳。もう、その仕込みとやらは結構なのですか?」
「ええ、貘さんからのお願いは全部終わりましたよ……まだ僕にとってはそれが何を意味するのか分かりませんけど、でも、いつかどこかで貘さんの役に立つかもしれない」
「それは大変素晴らしい心掛けですねえ?」
この男の中身は何一つ変わってなどいない、と改めて認識しつつ、そう告げる。
「あの、なんか怒ってますか?」
「……いいえ、何も?」
門倉は白々しく首を横に振った。
「あ、でも、一つだけ伝えておきたくて。その、今日来てくれたのが、門倉さんで良かったです。また次の賭郎勝負でお願いしますとか言っておきながら、誰でも良いとか言っちゃって、ちょっと悪い事したかも、なんて思ったり」
あれ、ちょっと僕何言ってるんでしょうね? と言葉を誤魔化すように身振り手振りが追加されていく様を、門倉は無言のまま見ていた。
「そうですか。梶様は私がそんな口約束を本気にして気に病むような人間だと本気でお思いで?」
「お、もいません、けど、でも! 門倉さんが来なかったら、きっと僕が気にしてたと思うから……」
梶の語尾がどんどん小さくなっていく。
「僕、門倉さんがどういう人なのかって、結局まだ全然理解できてないと思うんですけど、でも、あなたが公平な勝負を望んでいるって事は分かってるつもりです。だから、門倉さんが立会人で良かった」
——今日はありがとうございました、と続けて礼を言い、梶は立ち上がり、再び門倉に向かって頭を下げた。
その瞬間、門倉の胸の内に、形容し難い感情が確かに芽生えたのだ。目の前に崖の上で見た海が広がる。あの静かな執務室で、斑目貘が両肘をついて笑っている。梶隆臣が、己の命すらも賭けのテーブルの上に乗せている。今無性に、煙草を吸いたいと思った。人体にとって有害な煙を、この時だけは全身が求めていた。
「……ま、及第点ってとこやね」
絞り出すようにそう告げると、目の前の梶はあからさまに動揺を見せた。
「な、何がですか!?」
「全部じゃ、全部。ま、もっと気張れや」
「が、頑張ります……? ああ、でも、最悪な誕生日にならなそうで良かったです……」
梶がそう告げた瞬間、時計の針が十二を指した。
「おどれ、今日で何歳になったんじゃ」
「えっと、二十五歳に」
告げられた年齢は門倉とは十二歳離れていた。ちょうど干支一周分である。
「そ、良かったね」
そう告げた後、背後から部下が門倉の名前を呼んだ。既に男の姿は見えなかった。
「門倉立会人! 片付けが終了しました!」
「ああ分かった、今行く」
背後を振り返り、部下の元へ向かおうとするが、その前にと、思い出したように門倉は口を開いた。
「では梶様、次の賭郎勝負の時に」
「あ、……はい! ありがとうございました!」
部下の手で倉庫の照明が消される。その暗闇の中に、門倉の背中を見つめている梶が立っている。
*
再び梶の顔を見かけたのは、件の勝負から数日後、賭郎本部のビル内の休憩室での事だった。門倉が偶然前を通りかかった際、梶が黒い革張りのソファに腰掛けていた。そのまま通り過ぎようとしていた門倉はその場で足を止め、休憩室の中へと入って行った。
「梶様」
背後から声をかけるが、門倉の様子に気づいた様子はない。よく見ると、彼の両耳にはイヤホンが挿さっていた。それから改めて肩に手を置いてみると、分かりやすく肩を跳ね上げて、梶は背後を振り返った。
「か、門倉さん! びっくりした……」
「このビル内でのイヤホン装着は不用心ですよ。何が起こるか分かったもんじゃありませんからね」
「き、気をつけます……」
「ええ、そうなさってください」
門倉はそのまま休憩室の奥へと進み、スマートフォンを取り出すと、自販機の前に立った。列の一番下の缶コーヒーのボタンを押し(メーカーはなんでも良かった)決済機器の前に端末を翳すと、ガタンと音を立てて暖かい缶が落下した。それを屈んで取り出すと、座りながら門倉の様子を伺っている梶に向かって、手にしている缶を放り投げた。
「えっ、うわ、ちょおっ……!」
落とさないように慌ててそれをキャッチした梶を見ながら、門倉は一言呟く。
「お誕生日、おめでとうございます」
「えっ、そ、それで、これを?」
彼の頭上には隠しきれない疑問符が何個も浮かんでいるように見えた。
「ええ。まあ、梶様にとっても、そこまで親しくない立会人から突然何かを渡されるのは大変荷が重いでしょうから、今回はそれで。勝手に私が押し付けているだけですから、それが梶様のお好みのメーカーかどうかも知りませんからね」
「あ、ありがとうございます……? 別に、嫌いなコーヒーとかないので、大丈夫です、ありがたく頂きます」
「是非そうしてください」
梶は暖かくなっている缶を両手で握りながら門倉の顔を見上げた。右手の小指の先端には、白い包帯が巻かれている。
「僕、門倉さんの事、ちょっと失礼ですけど、怖い人だな、とか思ってたんですけどね。最近、意外と人間味があるってのを知って、その、なんとなく親近感? というか、それに近しい気持ちが沸いてます」
「あなた、本当に失礼じゃないですか? デリカシーの教育を受けていらっしゃらない?」
「いや、人並みにはあると思いますけど……!」
「では、良い勝負を興じてみせる事で御礼してください。私は人間味があるらしいですからね。そういう体裁は気にしますから」
「わ、分かってますよ。今度はもっと強くなりますから、もし門倉さんが立ち会われたら、見ててくださいね」
「……ええ、楽しみにしていますよ」
門倉は笑った。それは確かに、心の底から湧き上がってくる笑みだった。