煙に巻く オフィスのあるビルを出て1つ目の角を左に曲がった通りの、横断歩道に面したところにある派手な看板を掲げたチェーンの居酒屋は、いかにも大衆的で猥雑な雰囲気を醸し出している。店内は今時珍しく全席喫煙可能らしい。辺りを見渡せば客の手にまばらにある数本の筒から煙が上へ立ち上り、天井付近は白い靄がたゆたっていた。雑多な銘柄の混ざりあった煙たちは、お世辞にもいい匂いとは言えない。喫煙とは縁のない人生を歩んできた至には特に。
「ビール頼む人ー!」
少し遠くから見知った女性の声がして、至の周囲に座る何人かが手を上げる。店内で一際目立つ、頭数の多い集団の輪の中に至はいた。机をわざわざ繋げてもらわなければいけないぐらいには人数がいて、あちこちで同時多発的に会話が生まれていて騒がしい。目の前には中途半端に箸のつけられた料理たちと、未だ半分ほど残っているビール。すっかりぬるくなって気も抜け、まるで今の至みたいだ。あー、帰りたい。帰って寝転んでゲームしたい。愛想笑いの裏でそんなことを考える。場の雰囲気はすっかり出来上がっていて、盛り上がった空気とは裏腹に気持ちは冷めていくばかりだった。
つか、先輩いないし。至は心の中で、今は姿の見えない同室相手に文句を垂れた。辺りには見知った顔と、知らない顔もちらほら。今日は部署で集まっての飲み会だったが、何故か至だけではなく、千景の部署も合わせての合同会だった。面識のない人達は千景の部署の社員なのだろう。親睦会だとかなんとか、妙に熱心に勧誘してきた幹事の一人がそんなことを言っていたような気がする。飲み会の誘いを受けた時、いつも通りなんだかんだで断ろうと思ったのだが、流石にそろそろ顔出さないと印象悪いかなとも同時に思って。どうせ出席するなら親しい相手がいる席の方が幾分かマシかと思い、同じような思考回路をしていた千景と示し合わせてYESの返事をした。最悪先輩と話しとけば2、3時間の飲み会は乗り切れるだろうなどとぼんやり考えていた。のに。
集合するなりお疲れ様です珍しいな茅ヶ崎が初めましてこの間の公演見ましただのと至は様々な声に揉まれ、横目で見た千景は千景で男女問わず沢山の人に囲まれていて、あっという間に引き離されてしまった。げ、と頭を過ぎった悪い予感はそのまま現実になり、結局合流出来ないまま今に至る。クソ、これじゃ普段の飲み会と変わらないじゃん。やっぱ欠席すれば良かったかな……。完全にアテが外れた至はため息を飲み込んで、代わりにぬるいビールを少量口に含んだ。先程から俺の周辺で盛り上がっている会話に相槌を打ちながら、暇潰しがてら目を動かして辺りを探る。あれ?先輩、本当にいないな。ざっと視線を一往復させてみたが、千景の顔は見えない。見逃したかと思いもう一往復させようとしたところで「茅ヶ崎さんは、」と真横の女性に話を振られ意識がこちらに引き戻された。
「はい?」
「彼女とかいるんですか?」
「あー……」
出た。このテの質問。いると言えば面倒くさいし、いないと言っても面倒くさい。ついでに、以前適当に監督さんのことを妹だの彼女だのと嘘をついた結果現在進行形でかなりややこしいことになってしまっているので不用意な発言は避けたいところ。現に、斜め前では戸川課長が何かを察したような気まずげな顔をしている。やっぱ来るんじゃなかった。げんなりした気持ちが至を襲う。が、時すでに遅し、後悔先に立たず。うーんと至は間をもたせて、
「ご想像にお任せします」
と黄金比の笑みを崩さずにそう口にした。流石王子様は言うことが違うな、と同僚は赤らんだ頬で野次を飛ばす。質問してきた女性はえー?と声をあげながらも、諦めたのかそれ以上の深掘りはしてこない。よかった、とほっとしたのも束の間。今度は向かいから「じゃあ、好きなタイプは?」と別の声が。おっと、そう来たか。至はあはは、と笑って、好きになった人がタイプですかね、とお茶を濁してみる。が、どうもこちらはすんなり諦めてくれないらしい。
「えー、それにしても好みぐらいありません?年上派?年下派?」
相手はなにか探るような目つきで。……それぞれ違った魅力がありますよね、と至が当たり障りのない答えを返すと、今度はまた別の同僚が面白がるようにショートかロングかなどというくだらない質問を投げかけてくる。その後も身長は高い方がいいか低い方がいいか、控えめな子か積極的な子かと質問は続き、挙句の果てに。
「じゃあ、私たちの中で誰がタイプですか?」
と。おっと、突然のS級クエスト。しかもこれどの選択肢選んでもゲームオーバーじゃん。なんたる詰みゲー、いや、クソゲー。話の輪に入っている女性たちは、こぞって至の方へ視線を向けていた。サイアク、と心の中で悪態をつく。
様々な話し声が混ざりあって騒音になっている。雑多な食べ物とアルコールの匂い。煙草の煙で濁った空気。強烈な居心地の悪さから逃げ出すべく、至は立ち上がった。
「──僕、少しお手洗いに行ってきますね」
*
はぁ……。集団に背を向けるや否や盛大にため息をつく。結局、今日はただただ飲み会の雰囲気が苦手だということを再確認しただけだった。帰りたい。なにが飲みニケーションだ。悪しき風習よ、滅べ。ずっと口角を上げていたせいで乳酸が溜まって鈍痛のする頬を揉みながら青い人型のマークのある方の扉に手をかける。
「あれ」
「ああ、茅ヶ崎」
ドアを開ければ、すぐ近くにある洗面台の奥に見慣れた美丈夫が立っていた。千景はスマホに落としていた視線を上げるなり至の名前を呼ぶ。見たところこの空間には千景以外に人はいないようだった。なんだか久しぶりに彼に会った気がして、張りつめていた気が緩む。知らず深い息が漏れ出た。ふ、と目の前の男が笑う。
「お疲れ」
「先輩も、お疲れ様です」
妙に感情の籠った労いの言葉を、互いに掛け合う。ぐっと伸びをすれば身体中の関節がパキパキ言って、ー、と濁った声が喉から込み上げた。そして至は千景の隣を陣取って、ポケットからスマホを取り出し、慣れた手つきでロックを解除する。そのままアプリゲームを開いて画面を横に持ち直した。
「サボり?」
千景は目線だけを至に寄越して。至もまた目線を千景に返して、肩を竦めた。
「人聞き悪いなぁ。避難ですよ」
てか、先輩こそ。俺より先にいなくなってましたよね。至が言えば、千景は否定もせずただ口角を片方釣り上げた。
「気付いてたのか」
「まぁ」
千景は否定も言い訳もせず、鼻から笑いにも似た息を吐く。男は腕を組み壁にもたれかかって、どこかへ動く様子も見せない。
「……いいんですか、ずっとここにいて。そろそろトイレ休憩って誤魔化すには厳しい時間だと思いますけど」
爪先をなんでもなさげに見つめていた千景は目線を至の方へ動かした。
「かもね。個室で吐いてるとでも思われてるんじゃない?」
「え?」
「俺、部署では酒弱い設定で通してるから」
悪びれもせず、千景はそんな発言を。至は寮内の酒宴で皆が潰れていく中東と二人顔色一つ変えずに酒を飲み続けている男の姿を思い出し、眉をひそめた。今も気分悪くなったって言って抜けてきたから、しばらくは大丈夫。千景はそう続ける。
「うわ」
「無理に飲まされないし、飲み会も断りやすいし。効率いいだろ?」
千景はいつものあの、胡散臭い笑顔を笑みを貼り付ける。流石先輩、と皮肉めいた口調で言いつつ、その手があったかと思っている辺り結局のところ二人は同類だった。
暫しの沈黙。換気の音と遠くで聴こえる話し声だけが二人を包む。どこかから水が一滴垂れる音。どっ、と扉の向こうで一際大きな笑い声が上がった。
「お前、随分モテてたな」
「あー……」
不意に千景がそう話しかけ、至は先程の席を思い出した。忘れかけていた精神疲労も同時に思い出されて、胸が重くなる。肯定も否定もしづらく、どうですかね、と曖昧に苦笑いを。
「津田さん、お前のこと狙ってるらしいよ」
「津田さん?」
「俺の方の部署の。これくらいの髪の子」
言いながら、千景は丁度顎のあたりで手首を垂直に曲げた。ああ、俺の左隣に座ってた子かな。彼は続けて、丁度前の人と別れたところなんだって、と。
「それを言うなら先輩もでしょ。俺の隣の席の人、今日絶対卯木さんと仲良くなるって意気込んでましたし」
いつだったか、公演を見に来た翌日に先輩のことを尋ねてきた同僚の顔を思い浮かべた。彼女だけじゃない。なまじ俳優活動をしていて露出の多い分先輩のファンだという人は弊社には多い。その中にはもちろん、今日の飲み会に出席している人もちらほら。へぇ、と先輩はさして興味なさそうに。話していて何となくわかってきたが、どうにもこの飲み会には複数人の思惑が関わっているようだった。忘年会でも新年会でも歓迎会でもないこの時期に何故、と思っていたのだが、つまるところ親睦会とは出会いの場の提供であり、俺たちはまんまと客寄せパンダにされたらしい。やっぱり断ればよかった。至は今日既に3回は心の中で呟いた台詞を口に出す。同意、と返事が返ってきた。
重心を移動させて、隣の相手に肩をぶつける。そのまま至が千景を身長ぶん少し見上げると、千景もまた至を見、ほんの少し目を細めた。なにか察されたようだった。そのまま顔を近づけ、唇と唇を触れ合わせる。何となくしたくなった、以外に別段意味はない。一瞬くっついただけでそれはすぐ離れていって、もう一度目と目が合った。途端に気恥ずかしくなって、目を逸らしながら誤魔化すみたいにふざけて笑ってみる。向こうもフ、と同じような表情を浮かべていて、妙に色っぽくなってしまった沈黙がむず痒く、至はすん、とわざとらしく息を吸った。
触れ合わせた肩のまま、しばらくの無言。ドアの向こうの喧騒が鼓膜を微かに振動させる。そうか、あの輪の中に戻らなきゃいけないのか。忘れていた疲労感が至の胸にどっと押し寄せてくる。
「帰りてー……」
思わず口から押し出された思考回路に、千景はうん、と同意の相槌を。そして一呼吸置いてから、おもむろに至の方へ顔を向けた。
「帰ろうか、二人で」
「え?」
いやいや、帰れる雰囲気じゃないでしょ。そう反論する至を他所に、千景はもたれかかっていた壁から背を離してポケットから薄型の財布を取り出す。
「言っただろ、酒弱い設定で通してるって」
「どういう……」
千景は財布から取り出した数枚の札を「二人分の飲み代、幹事に渡しておいて」と至に押し付ける。状況が飲み込めず疑問符を頭に浮かべている至の肩に、千景は長い腕を回す。それにどきりとする間もなく。
「じゃあ今から潰れたフリするから。あとは上手くやれよ」
*
「えー、もう帰っちゃうんですかぁ」
「ごめんね。卯木さん、酔っちゃったみたいで。俺達同じ寮に住んでるから今日はこのまま帰るよ」
客寄せパンダが二匹連れ立って帰ると言い出した時の落胆たるや。大丈夫ですか、と至に体重を預けている千景に数人が声をかける。千景は少し荒い呼吸をしながら無言で数度頷いていた。役者だなー、と共犯者である至は他人事のように思う。
「あの、茅ヶ崎さん」
「ん?」
髪の短い女性がこちらへ近づいてきた。ああ、この子が津田さんか。
「よければ連絡先交換してください」
続く言葉に一瞬言葉に詰まった。それから至は、「あー……丁度充電切れちゃって」と出鱈目を、いかにも申し訳なさそうに。ふっと酔い潰れているはずの千景が肩口の辺りで息だけで笑うのがわかって至はちょっと、と言いそうになるのをぐっと堪えた。
残念がる女性に白々しくまた今度、と頭を下げて、幹事に金を手渡しつつ出口へ。カランカラン、と扉に取り付けられたベルが音を立て、火照った肌に冷たい外気が触れる。
エチュード練、やっててよかった。この時ほど実感したことはない。
*
「良かったんですか、"卯木さん"があんな醜態晒して」
「本当はこんなことまでするつもりなかったけど。まぁいいだろ。ギャップ萌え、ってやつじゃない?」
「それ自分で言います?」
冬の夜を二人、明澄な足取りで歩く。は、と息を吐くと、薄ら闇に白く色がついた。つかれた、と至は独り言を漏らす。時々ぶつかる肩。互いの着衣からは、居酒屋に充満していた煙の匂いが薄らとする。あの空気はもうこりごりだな、と飲み会に出席する度に抱く感想を、今日も抱いていた。
ぬるい沈黙を破るように、ところで茅ヶ崎、と隣の千景は唐突に切り出す。
「今日、このまま帰る?」
なんでもない声色で千景は続け、意味を測りかねた至がそちらを見れば、なにか試すように目を細める。それで、全部わかった。
「……どっちでも?」
対抗するみたいに悪戯っぽい声色で返せば千景は笑みを深くし、意味もなく眼鏡を押し上げる。
革靴の踵が冷えたコンクリートを叩いて小気味いい音が響いていた。二人の行方は夜の街だけが知っている。