スタンダードに私が「死」を体験してからすぐのことだった。この日は何故か、夜遅くに出歩いていた。普段ならとっくに布団に入って寝ているような時間だが、この日は別だった。
灯りのない道を進んでいると、遠くから叫び声が聞こえたような気がした。こんな夜道で叫び声を聞くなど、あまりいい気分はしなかった。
もう一度、今度は違う声が響いた。
「――助けてくれ! 金ならいくらでも払う」
助けてくれ、声の主は確かにそう言った。助けてくれ、と。私はもと来た道を辿って、声の主を探した。こんな非力な人間が何の役に立つかもわからないが、このまま放っておくわけにもいかない。
声の主はすぐに見つかった。普段は使われない丁字路の奥で、小さくなって震えていた。
いかにも高そうなスーツや時計を纏った身体は、血溜まりに沈んでその輝きを失わせていた。
「……褒美はたんまりはずんで貰うきのぉ」
聞き慣れない訛りだった。そう呟いた人物は、鈍く光る細長い物――それが日本刀だということに気づくにはしばらくかかった――を振り上げて、目の前の人物を容赦なく斬った。
人が斬られているところは初めて見た。本来なら、血相を変えて「人殺し!」とでも叫ぶところなのだが、私はその躊躇いのない一振りを呼吸すら忘れて眺めていた。
一方、見事な切り口で肉塊と成り果てたものは、先程まで生きていたことを示すように痙攣していた。誰が見ても恐ろしい光景だろう。目の前で人が斬られるなど、現代ではあり得ないことだ。
だが、それは実際に起こった。
人殺しの顔はよく見えなかった。暗がりだったし、パニック状態で平気で人を殺める人物の顔をよく見ろという方が無理がある。
人殺しは死体に近づいて何かを物色し始めた。こいつ、ただの金目のもの狙いの強盗なのだろうか。それにしては、金なら払うと命乞いされたのにも関わらず斬っていたな、などと考えを巡らせていた。人殺しがものを盗んでいる間に逃げてしまおうか。
ただ、逃げようとも思えなかった。逃げたところで結果は見えている。逃げなかったところで、それは変わらない。
目の前に突きつけられているのは「死」のみ。
大声でも出してみようか。もしかしたら、私のようにここに来る愚か者がいるかもしれない。
「……あ、っ……」
全くもって役に立たない声帯だ。肝心な時にその役目を果たせないなど、臓器として恥ずかしくないのだろうか。
先程のかすれ声を聞いたからか、人殺しは血みどろの手を止めてゆっくりと立ち上がり、べちゃりと音を立てながら血に濡れた革靴を私の方へ向けた。
人殺しと目が合う。
右目は髪に隠れて見えないが、こちらを見下す左目からは、なんの感情も見て取れなかった。満月のような瞳がこちらを見据えているのは、辛うじて理解できた。
「おまんにゃ恨みはないが……、これも仕事じゃき、諦めとうせ」
諦めろ、そう言った口調はあまりにも呆気なく、そして無機質な響きだった。まるで木人形に話しかけるような、殆ど独り言といっても過言ではないほどに、今から殺す相手にかける言葉とは思えない淡白さだった。
無関係な人間を殺す時に言う、お決まりの文句なのかもしれないと思った。もしそうだったとしても、既にモノとして扱われたような気がして、少し腹が立った。
何か言い返してやろうとして、一つ呼吸をした。その次の瞬間には、鈍く光る日本刀が自分の腹に刺さっていた。突然の出来事に反応が追いつかない。痛みすらも自覚する暇がなかった。事実を認める前に、刺さっていた日本刀は横一文字に滑っていく。あっという間に私の腹は捌かれた。
鮮やかな手つきで私を斬って見せた人殺しは、笑った。正確には、笑い声のようなものがあたりに響いていた。耳障りなその声は止むこともなく、遠のく意識の中でもはっきりと聞こえていた。
これは、死にゆく中に見た夢かもしれないが、最期にあの人殺しは死んでいくだけの私の首を刎ねた。確実にとどめを刺すためか、繰り返した殺人に興奮したのか。どちらにせよ、人殺しを仕事と呼ぶような奴がまともであるはずがない。
この場所に来たことを悔やみながら、私の意識は血溜まりの中へ沈んだ。