朋友へ「邪魔するぞ」
ためらいもなく入室してきた恵棟の声に、友尚は目を覚ました。
寝台の余白から身を起こすと、被せていた数枚の衣類が床に落ちる。
布団はどうした?と聞いた所で想像つく答えを聞く必要はない。
友尚が衣服を拾い上げ袖を通す間、恵棟は足元に転がっていた鞘におさめる小刀を探し始めた。
「……それは、どうした」
恵棟の片手に乗せられていた子猫に、友尚は眉根を潜めた。
「ここへ来る途中拾った。母親と逸れたようだ」
丁度良い、と恵棟は無理矢理、子猫を友尚に渡す。
友尚の手の上に乗った子猫は体全体を震わせ、不安そうに辺りを見回しながら小さくみぃ、と鳴いた。
「この猫を世話してやってくれ」
「猫の面倒なぞできるか」
返そうとしても恵棟は頑なに受け取らない。
「猫の世話をしていたら少しはましな生活になるんじゃないか」
反論する友尚の声を聞くまもなく、恵棟は部屋を出て行ってしまった。
いつからいたのか、蝋燭の灯りに照らされた猫が友尚を見上げていた。
恵棟が拾った子猫は友尚の食事の支度をする下女が食べ物を与えたおかげか、毛並みの美しい成猫に成長していった。
好奇心旺盛な子猫は官邸内のあちこちに出向いていたが、成猫になるにつれ、友尚の前に姿を見せることは少なくなっていった。
時折、遊びに来る恵棟には懐き、友尚に対しては彼の姿が見えていないのではないかと思う程、勝手気ままに過ごす。
友尚も猫の様子は気に留めない。
彼の部屋と性癖は、何ひとつ変わっていなかった。
その猫が友尚の側で前足を揃えちょこんと座っている。
猫の気まぐれかと思い、衣服を脱ぎ捨て積み重なった書物の隙間から探しだした器に酒を注ぐ。
確か2日前に購入した小魚の干魚を肴に呑む友尚を、猫はじっと見つめ続ける。
干魚をちらつかせても、あっちへ行けと手を振って追い払う仕草をしても猫は動じない。
息を吐き、器をその辺に置いた友尚はごろりと寝台に寝転んだ。
背中に当たった筆をぽいと放り投げると、猫は動線を追って首を動かす。
落下し、何回転かして動きが止まった筆に興味が失せたのか、再び友尚を見つめ直す時にはすでに友尚は猫に背を向けていた。
自身の腕を手枕に微睡みはじめると、足元にふわふわとした感触がする。
上半身を起こしてみれば、猫が友尚の足の下にある上着を咥え引っ張っていた。
ほんの少しだけ足を上げてやると、上着はすんなりと動く。
再び寝入ろうとする友尚に、猫は咥えた上着をぐいぐいと押し付ける。
まるで、これを着ろと言っているかのように。
「恵棟か、お前は」
渋々起き上がり、朋友の名を何気なく口にすると猫はなぁ、と鳴いた。
友尚の上着を羽織る動きが止まる。
いつでも本音を言い合えた数少ない相手。
友尚の官邸に来れば片付けろと口うるさく言われても面倒だと我を通したのは、たわいもないやり取りが出来なくなる日が来るとは夢にも思わなかったからだった。
かつての主、阿選の下した命に戸惑いながらも出陣していた頃、恵棟は恵棟なりに阿選と戦い、敗れた。
再会した時、虚な表情のままただぼんやりと、どこか遠くを見る朋友に、友尚は何もできなかった。
恵棟は今、驍宗の復位後に設けられた静養所でひっそりと暮らしている。
近頃は多忙を理由に恵棟を訪ねることはしなかった。
できなかった、という方が正しいのかもしれない。
訪問する度に顔色悪くやつれていく恵棟の姿を見るのは辛く、声をかけることすらできなかった。
「恵棟……」
猫に向かい尋ねると、猫はもう一度鳴いた。
瞳がきらりと光ったように見えた。
伸ばした友尚の手をかわし、猫はするりと寝台を降りる。
振り返り小さく鳴くと、玻璃へと向かう。
追いかける友尚から逃れるように細く開いていた玻璃から出ると、猫の姿は夜の闇に消えた。
恵棟の容体が変わったと友尚の元へと知らせが来たのは、2日後の明け方の頃だった。
あの日以来、猫は友尚の前に姿を現わすことはなかった。