無題 人は死んだら広い広い一面の草原に行く。
しかしそれはよく見ると全部セロリだ。
いつだったか、死んだらどうなるのか気軽に死ぬアホに気軽に尋ねた。返ってきた答えは衝撃的で、死んだら問答無用で地獄行き確定。ひどすぎる。右を見ても左を見ても地平線の彼方まで続く悪魔の草原を想像して、死にたくないと泣き喚く俺にドラルクはなんて言ったんだったか。笑っていたのは間違いない。真っ白で無駄に立派な牙を剥き出しにしながら、俺を指差してムカつく顔で笑っていた。
ドラルクの声が聞こえにくい。最初はあいつが小さな声でボソボソ喋っているせいだと思っていたが、どうもそうではなくて、俺の耳がおかしくなっていただけらしい。もしかすると意識が一瞬飛んでいたのかもしれない。危なかった。うわんうわんと邪魔していた耳鳴りがチューニングを合わせるように徐々に治まり、声がはっきり聞こえ始める。それでも俺はまだドラルクが呪文か何かを唱えていると思っていて、それがちゃんとした日本語だと気付くのに更に少しだけ時間がかかった。
「……潰したバナナに、溶かしたバターを混ぜて……最初にバターを混ぜるとしっとり仕上がる……しっとりさせるなら、一日寝かせておくのもいいけど、ジョンも君も……どうせ待てないだろうから」
ドラルクは時々つっかえながらも喋り続ける。バナナとバターが合わさり、そこへ砂糖と卵と小麦粉も混ぜられたところで、俺はようやくそれがいつもこいつが作っているバナナケーキのレシピだと気付いた。
ドラルクに何か喋ってろと言ったのは俺だ。ここで眠ったらヤバいのは自分でもわかっていたから、そう頼んだ。退治は終わった。救急車も呼んだ。あとは到着を待って、俺が運ばれるだけだった。
「ジョンはチョコとか、キャラメルを入れたのが好きだけど、きみはバナナケーキだけは意外とシンプルなのが好きだよね。甘党だから色々入れた方が喜ぶと思ってた……いや、喜んでたけど、でも、食べた時の反応が、……」
その後に続く言葉はなかった。代わりに、ふーっと吐き出された息が微かに震えていた。それが、俺が思い出せない俺の反応を思い出して笑ったからなのか、タバコと埃とカビが混じったみたいな悪臭の中で嗅ぐ血臭に酔いでもしたからなのか、俺には判断がつかない。
ドラルクが黙ったほんの短い時間、カチカチカチと硬いもの同士がぶつかるような音がした。どこかで聞いたことがあるような音だった。レシピの暗誦が再開しても俺は音の正体について考えていて、何度かドラルクにちゃんと起きているか確認された。
「オーブンの温度は170℃で四十分、型に入りきらなかったのは別で焼いてマフィンにしてもいい……」
頭の中だから、焼き上がり時間を無視してすぐにケーキが完成する。味も匂いもすぐに思い出せた。夜食の後に出されるデザート。ジョンと一緒に食べて、食べないくせにドラルクは同じテーブルにいて、何が面白いのか飽きずにいつもこっちを見ていた。ドラルクはべらべら料理の薀蓄を垂れることもあるけどいつの間にか黙っていて、そういう時ふと顔を上げると、静かになった部屋の空気があったかいことに気付く。あの瞬間が好きだった。でもそれを深追いしようとすると途端に強烈な血の味に全部が覆い隠されて、幻想のバナナケーキは跡形もなくどこかへいってしまう。くそ。そう言ったつもりだったが、実際には口の端をちょっと動かせただけだった。
ガチン、とまたあの音がした。
「バナナ二本、卵一個、牛乳が……おい目を開けろ!」
ドラルクがまた何かのレシピを諳んじる。材料だけ聞いても俺には何が出来あがるのかわからなかった。だがきっとまた食べたことのあるもので、俺が好きなものだ。
思っていたよりも近くで怒鳴られたから、一言うるせぇと怒鳴り返してやるつもりで必死に瞼をこじ開けた。視界はなかなか焦点を結ばないが、ドラルクの顔がすぐそこにあることだけはわかった。ガチガチ鳴っていたのはドラルクの歯がぶつかり合っている音だというのも、この時気付いた。
寒いの? 違うか。そんな歯の根が合わないほど凍えているならこいつはとっくに死んでいる。ドラルクは死ぬどころか俺に息の仕方を教えるみたいに大袈裟に呼吸を繰り返していて、なのに何故かずっと息苦しそうだ。ドラルクの三白眼は今や四白眼になって、白目のところがキラキラしている。苦しそうに歯の隙間から細く長く吐き出される息も湿っていて、使いどころがないくせに真っ白で、無駄に立派なあの牙も相俟って、ちょっとだけ獣の口の中を覗いている気分になった。
俺、死ぬかも。
「クソ、また血が……、止まれ、止まれ! ロナルド! いつものゴリラパワーでもなんでもいいから血を止めろ!」
ドラルクが必死で俺の腹を押さえていた。無茶言うなボケ。もう死ぬから何も感じられないのか、ドラルクの力がザコすぎるから何も感じないのか、わからなかったが、ドラルクを止めようにも最早指の一本すら動かせない。もういいと言ってやりたかったけど、出てくるのは口の中に溜まった血だけだった。
止まれ、止まれ、とブツブツ繰り返す声を聞いているうちに、思い出してきた。
人は死んだら広い広い一面の草原に行く。
しかしそれはよく見ると全部セロリだ。
ドラルクは、君は目を瞑ってそこでじっとしていろと言った。
あちこち逃げ惑われたら探すのに苦労するから、君はそこで大人しく、私が迎えに来るまで待っていろ。その後は、優しい私が君の行くべきところへ連れて行ってあげようじゃないか。
ただの冗談。その場限りの戯言だ。悪魔の草原はドラルクがでっちあげた嘘だし、本当だったとしても俺は多分あれに囲まれたら大人しくなんてしていられない。もし本当に探しに来てくれるなら、ドラルクはさぞ俺を見付けるのに難儀することだろう。
俺はあの時死にたくないと言ったけれど、実際のところ退治人になった時点で、いつかこうなるかもしれないという覚悟はしていた。出来ていたつもりだった。
はぁ、はぁ、と湿った呼気が獲物を警戒させない動きでゆっくり近付いてくる。ガチガチ牙がぶつかる音が激しくなる。ドラルクが俺を噛もうとしているのだとわかった。
「こうするしかない」とドラルクは言った。俺に言ったのか自分に言い聞かせたのか、全世界に向けて先に言い訳したのかもしれない。牙が近付いては離れていく。ドラルクは口を大きく開け、躊躇うように閉めるのを繰り返す。牙は俺の首にいつまで経っても刺さらなかった。ドラルクは消沈したように俺の肩に額を当てて、「できない」と泣いた。ロナルド、ロナルド、と、それしか言えなくなったみたいに、あとはもうひたすら俺を呼び続けた。
何か喋っていろと言われたドラルクが、それを狙ってやったのだとしたら大成功だ。
俺はもうこいつのバナナケーキがもう一度食いたくて仕方がなくなっていたし、こいつが否定したって俺に泣き縋ったことを揶揄いたかったし、勝手に転化させようとしたこともちゃんと許してやりたいし、お前がそんな顔するならそれもありかなってちょっと思ったことも伝えたいし、今もまだ諦めないでいてくれることに礼を言いたい。今俺の中にあるのはこいつへの未練ばっかりだ。
ちくしょう。
死にたくねぇ。
俺が化けて出るとしたら、ドラルク。それはお前のせいだ。