兄をダメにする弟 会社からの帰宅後、脹相はスーツを着替えもせずにリビングのソファに座り込んでいた。
脚は閉じられておらず、腕はだらりとソファの縁にかけられている。ひどく疲労感があることが見て取れる。
──まだ水曜か……。
脹相は内心でため息をついた。週末が来るのが遥か先に思えた。どうしても月末は仕事が立て込みがちなのは仕方がないと考えているので、不平や不満はなかった。彼はただただ疲れていた。
どれぐらい脹相がそうして呆けていた頃だろうか。
「ただいまー!」
玄関を開ける音に次いで、悠仁の元気な声が廊下に響いた。
悠仁はリビングに足を踏み入れ、脹相の姿を見つけるともう一度改めて「ただいま」と声を掛けた。
「おかえり」
体勢はそのままに脹相は顔だけを向けて返事をした。ちゃんとしなければと思っても体が思うようにならなかった。
「あらら? 兄ちゃんお疲れ?」
悠仁の言葉通り“お疲れ”であったが、お兄ちゃんとして、弟の前でこのまま疲労感をだだ漏れさせているわけにはいかない。
それに弟は腹を空かせているに違いない。
そう考え、疲れているかどうかにはあえて触れず、
「夕飯、まだだな? 今、準備するから」
おもむろに立ち上がろうとした。が、そうする前に、脹相の前に悠仁が立つと、膝でソファに乗り上げてきた。
「ゆ、悠仁?」
戸惑う脹相の声は身体ごと悠仁に抱き込まれ、そうして、ぽふぽふと弾むように頭を撫でられた。
「……兄ちゃんはいつも頑張ってるよ」
「頑張んないときも、あっていい……いや、必要だよ」
悠仁は『よしよし』などと声に出しながら、腕の中に収まる兄の頭を撫で続ける。
──何か嫌なことでもあったと思われただろうか︙︙。
仕事の繁忙による肉体的な疲労に精神が引っ張られているだけなので、これといった心配事などはない。必要以上に気遣わせてしまったかと、『大丈夫だ』と伝えなければならないと思った。しかし、悠仁の口からはさらなる甘やかしの言葉が続く。
「晩ごはん、兄ちゃんもまだでしょ。俺作るよ。簡単なものだけど。冷凍庫にたらこあったっしょ? あれ使っていい? たらこスパ作る。どう?」
純粋に自分のことを労り、甘やかそうとしてくれている。悠仁だって学校での疲れも、課題だってあるかもしれない。それでも自分のことを優先して考えてくれている。
そう考えると、脹相の胸は温かい気持ちで満たされ、何も言えなくなってしまった。
「食べに行く、って感じでもないよね。昨日の残りのカレー︙︙は今朝俺が食っちゃったからな。兄ちゃんが作るの、俺の作るのと違うのに妙に美味いんだよな。兄ちゃん料理じょうず〜」
ふかふかの毛布で包むような声音に、脹相は赤子のようにあやされている気分になる。実際あやされているとしか言えない状況だが。抱き締められながら降り注ぐ言葉は、耳から心地好い音として入るだけでなく、身体全体に染み入るようだった。
お兄ちゃんとしてしっかりせねばという思いはあるが、今は兄としての矜持は置いておき、素直に弟に甘えることにした。
「︙︙いい。たらこスパがいい」
悠仁が提案した夕飯の献立を肯定する返事をすると、悠仁の腰に手を回し、抱き締め返した。
「決まりね」
「︙︙俺もやる」
「そう? じゃ、兄ちゃんは……サラダ用にレタスちぎって」
「︙︙ちぎる」
「うん、そんじゃ」
そう言い離れそうになった悠仁の身体を引き止めた。
「……もう少し」
「ふふ。いくらでもドーゾ」
ここまでしてしまったら──とことん甘えてしまおう。
そう考えた脹相の口からは、悠仁へのさらなるお願いが出てくる。
「今夜は一緒に寝たい」
「うん。寝ようね。俺の部屋がいい?」
頭を押し付けるように頷く。
「お風呂も一緒に入ろっか。シャンプーしたげる。そ、し、て、今ならなんと、ドライヤーかけたげるところまでセットで〜す」
後半は通販番組のように冗談めかした口調だったが、毛先まで労るように髪に指を通す手つきは慈しみに溢れていた。
そこまでしてもらっていいのかと思うが、悠仁からの愛情を一身に受けることを想像すると、それだけで夢見心地だった。
「これ以上、お兄ちゃんをダメにするな……」
甘やかされることへのせめてもの抵抗。だがそれも口だけだ。拒絶の意思がまったくないことは悠仁にもわかっている。
「あはは。兄ちゃん今ダメになってんの? そういやあのクッションけっこうやばいよね。実際店頭で座っちゃったらしばらく動けないもん。家にあったらダメだわ。たぶんずっと座ってる」
家具屋で見た商品を思い浮かべながら話す悠仁。
ビーズクッションに包まれ動けなくなっている悠仁の姿と──自分のことをどろどろに溶かしてしまう存在に包まれ動けなくなっている──己の姿のイメージが重なる。
「ああ、アレもよくない。よくないな」
「“も”?」
「……なんでもない」
これ以上溶かされてしまう前に離れなければ、と脹相は考えた。だが離れるのは──先刻悠仁が言った『いくらでもどうぞ』に、もう少し甘えてからにしようと思った。