🌟🎼 白いカーテンが揺れる。殆どが使われず埃を被る旧校舎の一室を見つけたのはいつだったか。
司の通う中学校は新校舎と旧校舎がある。元々旧校舎があって、そこに増築する形で新校舎が出来たらしい。今では学校の役割を果たしているのは新校舎の部分ばかりで、旧校舎には人が寄り付くことすら無くなった。そんな旧校舎に、とある昼休み立ち入ったのがいつの日だったのかは覚えていない。いつものように素晴らしいランチタイムを過ごせる場所を探している時だったのは覚えている。ボロボロで埃まみれで手付かずな様子が見て取れるそこは静けさが漂っていて、その静寂が心地よくて頻繁に通うようになったのだ。そしてある日、その空室を見つけた。
音楽室でもないのにピアノが置かれていて、埃の乗る鍵盤にひとつ指を乗せてみればなんと音が鳴った。長い間放って置かれたものにしてはやけに綺麗に響いた。いつからか、ランチタイムの後はその空室のピアノを弾くのが日課となった
その日もまたピアノを弾いていた。こんな曲がこんな場面で流れていたら素敵なショーになるだろう、と空想しながら弾いていた。自分の生み出す音が静けさを塗り潰していく空間を楽しんで、惜しみながら完結まで持っていくと、観客席など無いはずなのに拍手が聞こえた。自分かピアノか自然からしか音が生まれないその場での予想外の音に驚き扉の方を見やると、少女がひとり、少し気まずそうにしながらも顔を出した。
宵崎奏、と名乗ったその少女は、ピアノの音に惹かれてここまでやって来たらしい。
「思わずここまで来てたんだ。凄くピアノが上手なんだね」
「ふっ、そうだろう! しかしここに人が来るとは思わなかった」
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ガヤガヤと耳に刺さる人混みを目指し慣れない草履で歩く。何か腹に溜まるものを、とまだ遠い屋台を見回していると肩に衝撃が来た。あ、と視線を下げると見覚えのある白い頭。振り返った少女は小さく目を見開く。
「あ、司」
「奏も来ていたのか。すまない、ぶつかってしまって」
「ううん、大丈夫」
祭り会場からは少し距離がある道の端の方で二人立ち止まる。夜空色の浴衣姿で髪を軽く団子に結っている姿は少し見慣れなくて、頬の内側を何度か甘噛みしてから口を開いた。
「奏は父親と来ているのか?」
近くに影は見えないが、と聞けば彼女は残念そうな顔で首を振る。
「その予定だったんだけど、お父さん、お仕事が忙しいらしくて……奏だけでも行っておいでって言われて、来たの」
「そうか」
「司は?」
「オレも似たようなものだ」
「そっか」
ささやかな微笑みを浮かべた奏に、病室のお姫様を思い出す。咲希がいれば、と思わず口の中で呟いたそれは人々の騒めきを超えて彼女の耳に届いてしまったらしい。眉尻を下げこちらを見上げた奏は、少し目を泳がせ、またこちらを見上げた。
「良かったら、一緒に行かない?」
「え、いいのか?」
「うん。一人でいても、人混みで迷ってしまいそうだし」
少し照れ臭そうに笑う奏に祭り会場の方を見て、人の多さに納得する。
「そうだな。じゃあ、一緒に行こうか」
「うん」
自然と、妹にやるようにそっと伸ばした右手を奏は躊躇なく握った。
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やってきた奏に、いつもの隅の席に座る司は大輪の笑顔を見せた。
「奏! 見てくれ!」
目を輝かせながら待ち侘びた様子で鞄に手を入れ、それを取り出す。首に巻いたのは真っ青なマフラーだった。
「咲希がな、作ってくれたんだ!」
「そうなんだ」
とても嬉しそうに笑うからつられて奏も笑みを浮かべてしまう。
「同じ部屋のおばあちゃん達に教わったらしくて。よくできているだろう? それにこんなに長いから、たくさん巻いてあったかくなれる」
一巻きしただけでは床につかないか心配になる長さのそれを二、三度巻き、両手で押さえて笑う姿が微笑ましい。よほど嬉しかったのかその場でクルクルと回り出して、青のマフラーも靡いて揺れる。
「良かったね。似合ってるよ」
奏の言葉に、司はまた顔を綻ばせた。
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ずっと前からスターであったんだ。
いつもの空室での会話にて、ふとそんな話題になった。
「……それは、……大変じゃ、ないの?」
言葉を探して、少し言いにくそうに奏が囁く。
「大変、と思ったことはないな。もう当たり前の日常であるし」
「そ、か。ならいいんだけど……、……でも、わたしはそのままの司が見たいな」
ぽつり、と呟かれたそれに司は目を見開く。
「そのまま?」
「うん。スターじゃない司。その、うるさいのは少し苦手だし。それに、無理に笑ってほしくないから」
奏は司の瞳を覗き込むよう見る。
「そ、うは言われても……もうずっとスターであるために生きてるんだ」
「えと、じゃ、スターの司がそのままの司なの?」
「そうなんじゃないか? 昔からずっとこうだから」
「そう……なら、いいかな」
「いいのか? 煩いの苦手なんだろう。煩くしてるつもりはないんだが、それなら頑張って気をつけるぞ」
「ん。別にあまり気にしなくていいよ。司と話すの楽しいし」
ふわり、と奏は笑う。司は瞳を輝かせる。
「そうか?! そっか、オレも奏と話すの楽しいぞ!!」
とても嬉しそうに笑って、あっ今のは煩いに入るか?と慌てて謝罪するから、奏は笑い声をこぼした。
「ふ、ふふ」
「え、奏?」
「ふふ。楽しいよ。いきなりのおっきな声は驚いちゃうけど。でも、司と話すの楽しいよ」
「そ、うか……」
オレも、と司は笑った。
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自分がいる、と司は思った。昔の、ただひたすらに家族の笑顔を求めてがむしゃらに生きていたあの時の自分が、美しい少女の形をとって目の前にいる、と思った。
側から見れば何処が似ているのか皆目見当もつかないかもしれない。それでも司は似ていると思った。自分がいると思った。大事な人の笑顔を奪い、人生を奪い、己に罰を与え続けることでしか息を吸えない彼女に過去の自分を重ねた。
司は誰かを殺したことはない。愛おしい人の人生を奪ったのは自分ではなく世界の不条理である。けれど笑顔を無くさせてしまったことならある。その時の絶望が如何程のものか。早く笑顔を見せてほしいと冷や汗をかく感情がどれほどのものか。きっと、彼女なら分かるんだろうなと思った。共感が得られると思った。だって自分は今彼女に酷く共感している。大切な人の笑顔を、未来を、好きなものを、全てを、殺してしまった罪悪感。息も吸えなくなってしまうような絶望。罪に相応しい罰を探して、己に課して、それでやっと息をつける感覚。
大罪に相応しいほど己を傷つけてやっと安心できるんだ。その気持ちが痛い程理解できたから。
きっと大丈夫だな、と思った。
彼女は曲を作り続けているし、そのための仲間だって存在する。じゃあ自分と同じだ。ショーをやり続け、仲間を見つけ、そして今自分はとても生きている。彼女よりは浅いが己にとっては酷く重い大罪の全てが許されたわけではない、が、それでも沢山の笑顔を咲かせる毎日が楽しかった。だからきっと彼女も大丈夫なのだ。誰かを救う曲を作るという使命を己に課し、それを続け、そしていつかは彼女自身も救われるんだろうな、という確信が司にはあった。
笑って伝えれば、彼女は笑ってくれた。きっとそうだと囁いて微笑んだ。あの子を救う時が自分が救われる時だと。あの子を救い続けていれば自分は息を吸えるのだと。優しく微笑んだ。だから司も安心して笑った。
誰かのためにしか生きられないなら、その誰かがそばにいてくれればいい。幸い二人にはその誰かがそばにいてくれているから、今日も安心して息を吸えるのだ。
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ああ、じゃあ大丈夫だな。と、ストンと納得してしまった。だって彼と自分は似ている。そりゃ似てないところだって多いが、にしたって似ている部分も多すぎる。まるで鏡だ。体力も声の大きさも表情の動きもいっぱい正反対だが、誰かのためにしか生きれないところなんかがすごく似ていた。だからきっと、鏡が言うならその通りなのだ。彼が今幸せなら、救われているなら、きっと自分も似たような場所に行ける。だからストンと安心して、ゆわりと笑った。彼もキラキラと笑っていた。
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もしかして、あの時の彼は殺されたかったんじゃないかしら。ふとそう思った。
だって彼はわたしだ。
わたしと同じだ。
わたしは今苦しんでいて、彼は過去苦しんでいた。苦しかったその過去、殺されたかったんじゃないかしら。
自分じゃどうにもできない不条理に打ちのめされ、それでも自分ができる何かをかき集めて精一杯笑顔を生み出して。それでも失敗をいくらかして苦しんだ時、殺されたかったんじゃないかしら。