いつか巡り逢うその瞬間 厄災ガノンの本体、ガノンドロフが目の前に立ちはだかっている。
目を剥くスピードでこちらに伸びる怨念の手から逃れることは出来なかった。聖剣・マスターソードとそれを握る己の右手は怨念にじわじわと侵食されていった。
右腕に走る激痛に意識が飛びそうになる。
特に、マスターソードに触れている手のひらは言葉に出来ぬほど痛かった。まるで“マスターソード自身の”痛みが、繋がった部分から流れてきているみたいだった。
「リンクっ!!」
後ろから己を呼ぶ叫び声が聞こえた瞬間、激痛で霞んでいた意識が現実へと押し戻される。
ハッとして後ろを見ると、まさに今この瞬間、ゼルダが裂けた大地に飲み込まれようとしていた。
「…っ!」
考えている暇などなかった。気づけば自分は怨念に侵食されたマスターソードを投げ捨て、大切な人に手を伸ばしていた。
「ゼルダ!」
二人して頭から落ちていく。この高さからでは、もう助からない。助からぬならせめて彼女が苦しまないようにと、落ちていく彼女の手を掴み、引き寄せ、抱きしめる。彼女の頭を胸の中に収めて、強く強く。
谷底はとても暗かった。いつ地面に押し付けられるかも分からぬ恐怖からか、胸の中の彼女は震えていた。
「何があったとしても、俺はいつだって君のそばにいるから…
君は何も恐れることは無い。
……俺と一緒にあっちまで行こう。」
優しく囁けば、いつしか胸の中の震えは止まっていた。
しばらくして、己の意識はぶつりと途切れた。
***
ここは一体どこなのか。
暗くて何も見えない。三六〇度辺りを見回してみても、底なしの暗闇が己を襲うだけだった。
『…………ク………………』
誰かの声が聞こえる。無機質な、しかしどこか懐かしくも感じる不思議な声だった。
『……………………………リンク……………………』
己を呼ぶ声に応える。
「君は一体誰なんだ?」
『……ワタシは、貴方の剣に宿る精霊。』
「剣って、マスターソードのことか?」
彼女に問いかけた瞬間、目の前を眩い光が包みこんだ。眩しさできつく閉じた瞼をゆっくりと開けば、青い精霊が己を見据えていたのだった。
『イエス、リンク。ワタシはマスターソードに宿る精霊です。』
チクリと胸が痛む。長い時間を共にすごした相棒を、俺は間髪入れずに投げ捨てたのだから。
思わず、気まづさで目を逸らしてしまう。
「ここは一体どこなんだ?」
問いかけながら、自分の重い心を表したかのような真っ暗闇の世界を一瞥する。
『ここはあなたの精神世界です。あなたは無傷に近い状態で生き延びましたが、今はまだ意識の底に留まっている状態なのです。
…………あなたは目覚めなければなりません。復活した“あの者”を倒し、再び封印せねばならないのです。』
「っ!!」
そうだ、思い出した。
ガノンの本体が封印から目覚め、自分はそれを倒さねばならなかった。しかし、自分にはそれが出来なかったのだ。
そこまで考えてハッとする。
「そうだ!ゼルダはどうなった?君なら何か知ってるんじゃないのか!?」
なりふり構っていられなかった。二人して死んだと思ったのに、なぜか自分だけ生きていた。
こうして一人、ゼルダを守れなかったのにのうのうと生きている自分に嫌気がさした。
しかし、残された可能性が少しでも残っているなら、いつまでもこうしてうじうじしている訳にはいかなかった。
こうして自分が生きているなら、ゼルダもどこかで生きているはずなのだから。
僅かな希望を頼りに目の前の精霊に問いかける。
目の前の青い精霊は少し目配せをした後、ゆっくりと口を開いた。
『…………ゼルダ様は生きておられます。』
「っ!よかった………」
しかし、安堵のため息をつこうとした瞬間、精霊の纏う雰囲気が重苦しいものに変化した。
「どうかしたのか?」
問いかければ、精霊はどこか重々しげに告げたのだ。
『ゼルダ様は生きておられます。しかし、ワタシの力が及ばず、完全に護りきることが出来ませんでした。
いわば、一種の仮死状態にあるのです。
………かつてのあなたの様に………………』
その言葉を聞いた途端、目の前が真っ暗になった。
なんで……………
「なんで君は、俺を優先したんだ………………」
『………………………』
「君はゼルダを“護りきれず”って言ったんだ。なら俺が今こうして生きているのも、君の力のおかげなんだろう?」
『………………………』
いつまでも言葉を返さぬ精霊は、少し目を伏せ、虚空を見つめていた。
「ごめん、変なことを言った。君は命の恩人なのにね…」
気の重くなるような沈黙を先に破ったのは精霊の方だった。
『………あなたを優先させたのは、あなたがガノン討伐に一番必要な存在だったからです。
しかし、人間たちのいうところの“私情”がなかったのかといえば、…嘘になるのかもしれません。』
………“私情”だって?
「………君は不思議なことを言うんだな。君が俺の事を知っていたとしても、俺は君のことなんてひとつも知らないのに。」
いや、嘘だ。
はじめて剣を引き抜いた瞬間、剣の手入れをする瞬間、共に敵と戦っている瞬間、そのどれをとっても、俺には剣の“声”が手に取るようにわかっていた。
何を言っていたのかはわからなかったけれど、触れた手のひらから伝わってくる“感情”がそこには確かにあったのだ。
だからこれはただの八つ当たりだ。彼女を、ゼルダを守れなかった自分を棚に上げて、相棒の剣に八つ当たりをしているのだ。
自分の頭を駆け巡る嫌な思考に打ちひしがれていたら、目の前の精霊はおもむろに俺の問いに答え出した。
『………それは、そうなのでしょう。
けれど、いつの時代も“あなた”は、一番最初の“あの人”に似ているから………。
…………自分でもよくわからないのです。
けれど、“あの人”はいつも言っていました。
「大切な人を護りたいと思う気持ちに理由など要らない」と。』
どこか抽象的に語る精霊ではあったが、俺の事を大切に思う気持ちだけは伝わってきた。
そして、それを嬉しいと思う自分も確かに存在したのだ。
「俺は君について、詳しいことは本当に何も知らないんだ。
でも、君が俺を大切に思うのも、俺がそれを嬉しいと思うのも、きっとなにか特別な理由があるんだろ?」
『…………………………』
俺の問いかけに、それでも青の精霊は何も言わずに俺を真っ直ぐ見つめ続けた。
「無理に理由を言う必要は無いよ。
きっとその感情は、君の心の中だけで大切にされるべき感情だ。外の誰かが勝手に踏み荒らしていいものじゃない。
…………それじゃぁ俺も行くとするよ。自分の“大切な人”を護るために。」
困った顔で笑いかければ、ふいに彼女は固く閉ざしていた口を開いた。
『………リンク、よく聞いてください。
ワタシは、“マスターソード”は、いつの時代もハイラルに蔓延る強大な“魔”を封印してきました。
しかし今、ワタシはガノンの怨念に侵食され、先が長くありません。
ワタシがこの世から消え去れば、復活したガノンを倒すすべがほぼ全てなくなってしまうと言っても過言ではない。』
「………それじゃぁ俺はどうすればいいんだ?」
『ゼルダ様です』
ゼルダ…?
一瞬、精霊が何を言っているのか分からなかったが、しばらくしてゼルダの封印の力のことを言っているのだろうと気がついた。
ところがここである問題が頭の中を駆けぬける。
「でもゼルダは先の戦いで封印の力が使えなくなったんじゃなかったのか?」
俺の言葉に、青の精霊は何かを思うみたいに目をふせながら口を開く。
『あのお方は、代々ガノンを封印してきた王家の血を引く者。ガノンについて、王家の者にしか共有されない情報が少なからずあるはずです。長い年月をかけて蓄積されたその情報を、あなたはゼルダ様から聞き出す必要があります。
……………そのためにリンク、あなたはなんとしてでもゼルダ様を生かす義務があるのです。』
「………………………………………」
『それに、あのお方は女神様の血を引く直系の子孫…。ならば、彼女の心の中に、今も“あの人”が生きている可能性は捨てきれない。』
「……………“あの人”?」
『ハイラル王家の始祖、女神ハイリア様です。』
サラッと告げられた衝撃の事実に目を白黒させていたら、精霊がこともなげに告げたのだ。
『かつて、大地を支配した魔の者たちをトライフォースによって封印するため、人間に転生した女神様がおられました。ハイリア様です。
そして、ハイリア様は人間に転生し、“ゼルダ”と名付けられました。
そしてハイラル王家は代々、初代ゼルダ様の血を引き継いできたのです。
いわば彼らは神の血を引く者たちと言えます。』
ひと呼吸おいて、精霊は続きを語り出した。
『先の戦いで当代ゼルダ様は力を失われたと伺っております。ですが、ゼルダ様のお身体を媒体にして、ハイリア様と接触を試みることが出来れば、ガノン討伐の具体的な策を編み出すのも不可能では無いと思われます。
特に、トライフォースに関する話題は必ず持ち上がるものと思われます。』
トライフォース………精霊の話によれば、かつて女神が魔の者たちを封印するために使用したとされるもの、だっけ。
「そもそもトライフォースってなんなんだ?」
なんとも場違いな質問をしたのは自分でもわかっている。恐る恐る無機質な精霊の顔を覗き込めば、少しガッカリしたような表情を向けられた。
『リンク…あなたには少し……失望しました』
「わざわざ口に出して言わなくたっていいだろ…」
感情の乏しげな精霊に失望されてこっちまで悲しくなってくる。
『失礼いたしました、マイマスター。
トライフォースというのは、三つ揃えばなんでも願いを叶えると言われている黄金の聖三角です。』
「そんなものがこの世に存在していいのか?」
なんというか、それではトライフォースが悪い奴らに利用されて世界が大混乱になるだけだと思うのだが。
そんな考えとは裏腹に、精霊は俺の質問に答え出した。
『トライフォースはこの世に存在せねばならぬモノ、いわば世界の理なのです。破壊すれば世界の秩序も崩れ落ちます。』
「へぇ……まぁ、よくわからないけどなんとなくわかったよ。
…その“トライフォース”を使って、古の女神様みたいにガノンを封印しようってわけだろ?」
『理解が早くて助かります。』
………なんとも突拍子のない話である。信じろと言われる方が難しい話だ。
しかし、己の精神世界で剣の精霊が語りかけてくるこの現状こそ、信じ難い状況とはいえないだろうか。
その“信じ難い状況”がこうして現実に起こっているのだから、俺は目の前の精霊の話を信じてみる価値はあると思ったのだ。
「……わかった。その話、信じようと思う。
だけどそもそも女神様が俺たちの前に現れてくれる保証なんてあるのか?」
常人なら答えられなさそうな問いに、それでも精霊は即答した。
『100%、現れると保証します。』
「なんでそう言い切れるのか?」
『女神様の残された、魔を打ち払う神器“マスターソード”がこの世から消滅するからです。』
「………………………………」
『ワタシはハイリア様によって唯一造られた、現世の魔を打ち払い封印することができる剣。
その剣が消滅すると知れば、創造主たる女神様は必ずやあなたたちの目の前に現れます。』
「…………………………………」
『それまでの期間、あなたはゼルダ様を安全なところへ避難させ、回復に務めてください。それが出来る技術を持つ人物をあなたはよく知っているはずです』
「…………………………………」
………ああ、君の考えていることはよく分かったよ。
君は、君が大切だと思った人達を全て救っている。
君のその信念が、俺やゼルダだけじゃなく、ハイラルを愛する全ての人々をも救うのだ。
………だけどそこには君だけがいない。
世界を救った君を知るものは存在しない。
その事実を、君は受け入れられるというのか。
「……………君が生き続けられる方法は、他にないのか?」
この質問は矛盾している。
なぜって、俺が見捨てたんじゃないか。
苦しい時も共に戦い続けた、大切な相棒を。
それでも問わずには居られなかった。
この感情の乏しい精霊と、俺はまだ冒険を続けていたいから────────
それでも、俺が振り絞って声にした問いに、目の前の精霊は無慈悲なまでに応えるのみだった。
『………ワタシの本来の役目は、魔の根源・ガノンの残留思念の封印、聖地の守護、そしてあなたたちの──ゼルダ様と勇者リンクを護ることにありました。
ガノンの怨念に蝕まれ、あなた達を危険に晒す失態を犯したワタシには、元よりこの世に存在すべき理由などないのです。』
「………そうだったとしても、それが君を──“ファイ”を助けない理由にはならない。」
『っ!』
その言葉を聞いた瞬間、精霊の表情に変化が現れた。常人なら気付かぬほどの、些細な変化である。
それでも俺が気づかないはずはないのだ。
いつの時代も、“リンクの魂”は君と共に冒険してきたのだから。
無論そのことは目の前の精霊も分かっているだろう。
しかし、彼女が首を縦に振ることは無い。
もはや“ファイ”は、俺の中に眠る“過去の魂”と対話する気はないのだろう。
“ファイ”は、覚悟を決めたような雰囲気で語り出す。
『あなたはわかっていない。
世界はとても美しく、残酷なまでに合理的にできている。
世界の秩序を保つ一員であったワタシは、存在する目的である使命の達成を果たせなくなった瞬間に世界から切り捨てられる。
…………これは元より定められたことなのです。』
「……そんなの、誰も自分の目で見ていないただの憶測だ。
それに、やってみれば案外上手く助かるかもしれない。」
心の中を燻る言い表しようもない感情はいつの間にか口をついて表に顔を出していた。
その言葉を聞いた精霊は、終ぞ無表情だった。
でも俺にはわかった。彼女は無表情で“怒って”いた。
『………個人的感情に走ると、上手くいくものも上手くいかなくなります。
あなたの行動がハイラルの未来を左右するのです。
………もしあなたがワタシのことを想うなら、“ワタシがあなたたちを助けた”という事実がハイラルの未来のためになったと思えるような結果を残してください。』
「……それで君は満足なのか?」
『満足です。』
即答する精霊に、未練がましく問いかける。
「なんで断言出来る?」
そしたら彼女は柔らかに微笑んで告げたのだ。
『“大切な人の助けになること”がワタシの幸せだからです。』
***
硬い地面の感触と、谷底を吹き抜ける背筋も凍る冷たい風を感じながら、気だるく意識が浮上した。
体はまだどこかふわふわしていて、未だ自分が生きていることに実感が湧かない。
先程までの“現実”が、まるで“夢”のようだった。
恐る恐る閉じた瞼を開ければ、ガノンの怨念に侵食された右腕が視界に入ってきた。
痛みはないが、ガノンの怨念の模様を刻む右腕は、己の戒めとして心の中に重くのしかかってきた。
「そうだ、ゼルダ………」
ズキズキ痛む頭を押えながら起き上がり、隣に横たわる彼女に近づく。いくら肩を揺すっても、彼女が目を開くことは無い。
それでもゼルダは生きている。
彼女の胸に耳を当てれば、“ファイ”が生かした命の鼓動が聴こえた。
頬に何かが滴る気配がした。
「涙」なんて、百年前、騎士になって感情を殺したあの日以来、流したことなどなかったのに。
それなのに今は何故か、溢れて溢れて止まらなかった。
頬を流れ落ちる水滴はとても温かかった。
その温かさは、“生きている喜び”、“生かしてもらった感謝”、そして、“消滅した相棒”のことをひしひしと胸に訴えかけてきた。
涙の洪水は留まることを知らなかった。
さて、散々泣いて声も涸れてきた。
いつまでも泣いている訳には行かないのだ。
それに、君が生かしてくれた命を無駄にするつもりなど、毛頭ない。
目元を拭い、ゼルダを抱え、立ち上がる。
「ありがとう、“ファイ”。
いつかまた、共に冒険しよう。」
ぽつりと呟いた感謝の言葉は、最後まで君に届いただろうか。
***
ガノンの怨念に取り込まれ、消滅する寸前のワタシの耳に、“彼の魂の声”が聴こえてきた。
「ありがとう、“ファイ”。
いつかまた、共に冒険しよう。」
嗚呼、最後まで聞こえていましたよ。
もし精霊に輪廻転生が許されるなら、ワタシは次も、あなたの剣となるでしょう。
Fin