ポメアディアン 疲れた。
仕事を終え、体を清めた僕の口がそう動いた。
今まで傷つけてきた人達の顔。人を殺す事でしか生きていくことが出来ない自己嫌悪。それらが思考を黒く埋めつくし溢れ出す。
水滴として落ちていくそれをぼんやり眺めながら、階段をのぼり、二階にある自分の寝室の扉を開けた。
暗い部屋。
誰もいない部屋。
今の自分の脳みそみたい。
そう思うと入れなくて、入ったらもう二度と出られなくなりそうで、僕は後ずさった。
自然と足は階段に向かい、登っていく。そしてたどり着いた 3階丸々使われた部屋のドアを開けた。
ここにも誰もいない。この部屋は、一週間に1,2回しか寝室として使われないのだ。
けれどここは自分の部屋よりも物が多いし、ずっと明るく見える。そしてなによりこの、爽やかでほっとする大好きな匂いが、僕の脳を埋め尽くす黒を少し拭き取ってくれた。
もっとこの香りに包まれていたくて、僕はフラフラと部屋に入り、部屋の奥にある布団へ倒れ込んだ。
深く息を吸い込む。布団からはみ出た手足を丸める。匂いが強く香る枕やぬいぐるみを抱きこむ。
そうして僕はやっと、何日ぶりかのまともな睡眠を摂ることが出来た。
翌朝。瞼を貫いてくる日の光に起こされた。眩しさから逃げるために、僕はぬいぐるみに鼻先を埋める。けど、なんか物足りない。
一晩中僕と一緒にいたぬいぐるみでは、僕の大好きな匂いが薄れてしまったのかもしれない。
集めなきゃ。
もやもやとした焦燥感に駆られ、僕は布団から這い出た。
何故か足で立つのが難しくて、手も使って歩いていく。
布団の次に匂いが集まっている場所は……クローゼットだ。
いつもより手が不器用になっているから、鼻先も使ってなんとか引き出しをこじ開ける。何とか開いた隙間から、求めてた匂いがふわりと立ち上がった。
これだ!
僕は手前にある服を咥えて引っ張り出した。そのまま布団へと引きずっていく。ぬいぐるみの上に被せると、より一層、これだ!という気持ちになった。
もっと集めよう。
別の引き出しや扉もこじ開けて集めていく。
特に匂いが強い服だけを選んで集め終えたら、次は布じゃない匂いだ。服に比べて数は少ない。けれど、机の上にある複雑な構造をしたペンや、そのインクを消せる白いゴム、小さくて分厚いのに軽い本とかは、しっかりと匂いが付いていた。それから、椅子の上のクッションやブランケットも。
匂いが強いものを全部布団の上に集めると、こんもりした幸せな山ができた。今度はそれを少し崩して、僕が真ん中に入れるように窪みを作る。そしてそこに勢いよく飛び込んだ。
完成だ。
どこを向いても大好きな匂いでいっぱいで、起きた時に感じたモヤモヤが小さくなっていた。視界の端に入る僕の髪と同じ色のふさふさも、満足気にゆらゆらしている。
達成感に包まれウトウトしながら、考える。
僕自身にもこの匂いが付いたらいいのになぁ。そしたらずっと一緒にいられるのに。
でも、起こるなら逆かもなぁ。ここにある物達についてる匂いが、僕の匂いで起きかわっちゃうかも。今朝のぬいぐるみみたいに。
だって僕が匂いの元だから。
周りにある僕の大好きな匂いたち。この匂いの元は、ここにはいないから。
急に、小さくなったはずのモヤモヤが膨れ上がって、目が冴えた。
この匂いの元がいない。それがこんなにも不安で、悲しくて、寂しくて……。
そうだ、僕は寂しいんだ。だから沢山匂いを集めて紛らわそうとしてた。
寂しいことを自覚したら、どうしても匂いの元に会いたくなった。
呼んだら来てくれるだろうか……。
その人の名前を声に出して呼んでみる。高くて、細くて、とても情けない声。
それが部屋に吸収されて、消えてしまう。それが更にどうしようもなく寂しくなって、僕は夕日が差し込む部屋の中で鳴き続けていた。