音「今日はここまで」
含光君の言葉が蘭室に響き渡ると同時。
スパーー―ン!
蘭室の扉が勢いよく開かれた。
何事かと各世家の子弟たちが扉を一斉に振り向いた。
「魏嬰?」
藍湛は扉の前にいる魏嬰の行いに眉を顰めた。
大きな音を立てないという規則破りを犯したために顰めたわけではない。
普段奔放な行動を起こす魏嬰だが、彼なりに雲深不知処での弁え方を心得ている。
そんな彼が、蘭室の授業が終わったと同時に乱暴に戸を開け、いつもの明るい表情を俯け隠しきって、ふらりふらりと藍湛のもとへ歩んでいた。
「魏嬰?」
返事の返さない魏嬰に藍湛は胞の裾を払って立ち上がると、それに気づいたように魏嬰は歩みを止めて倒れこんだ。
わぁとなる子弟たちの声を制し、藍湛は魏嬰を受け止めると、その胸に魏嬰は何かを囁いた。その言葉に少し小首をかしげる藍湛。
子弟たちも授業や他のあれやこれやで魏嬰とは知らない仲ではない。心配そうに倒れた魏嬰を見つめていた。
「問題ない、君たちは部屋に戻りなさい」
それをなだめる様に藍湛は子弟たちに声をかけた。
2.
「魏先輩!」
遅れて蘭室にやってきた思追は、含光君とそれに抱えられる魏嬰を見つけた。
「ああ、やはりここに居らしたのですね」
「何があった」
確か魏嬰はこの数日、思追や他の子供たちと夜狩に出ていたはずであった。
それほど難しい夜狩ではなかったはずだ、なのに今来た魏嬰の姿は泥と埃にまみれ、顔は青白いを通り越して白い。
最初藍湛は何か夜狩でしくじりがあったのかと内心慌てたのであるが、彼を支えた時に見た霊脈には異常は見られず、何より魏嬰が意識をなくす前につぶやいた言葉が
「眠い」
である。藍湛にはさっぱり意味が分からなかった。
「それが、邪祟そのものは大した事はなかったのです。ただ、問題は数と範囲でして」
「魏嬰が対応を?」
つまり、その多くの邪祟を魏嬰が退治したために疲労したのか、そのように尋ねた含光君に思追は首を振った。
「いえ、邪祟は我らが三日三晩かけて退治し清めました。魏先輩は私たちの監督を。ですが魏先輩は終止何か苦しそうで、休むときも寝付けないようでした」
藍湛は魏嬰を横抱きに抱えた手に力がこもる、そして先を促すように思追を見た。
「魏嬰は何か言ったか」
思追は又も首を振る。
「ほとんど何も、…ただ3日目の夜、疲労の限界だったのか一言だけ『うるさい』と」
「………」
少し思案した後、藍湛は三日三晩邪祟を払い続けた思追を労い、下がらせた。
魏嬰を抱えながら、蘭室に置いたあった子弟の課題を集め叔父の部屋まで持ってゆく。
叔父は今にも何か言いたそうであったが、胸で眠る魏嬰の顔色を見ると黙りこみ、今日の務めは終わりだと告げられた。
抱えた魏嬰を離せなかったため、拱手は出来なかったが頭を下げて藍湛は静室に帰っていった。
3.
静室の扉を静かに開け、そっと閉めると魏嬰を起こさないように寝台に下ろそうとして、その手を止める。
『眠い』
魏嬰は倒れる前にそう言い残した。
ならばなぜ、真っ先に静室に行かず蘭室にいる自分のもとに来たのだろうか。
根拠もなく、藍湛は魏嬰を手放せることも出来ず。己も寝台に上がると魏嬰の服を寛がせて、自分の胸に横抱きのまま眠らせた。
一炷香足らずの頃、魏無羨はようやく身じろぎをし、長いまつげを震わせながら瞼をあげると傍らの藍湛に視線を向けた。
「あぁよく寝た。まさか藍湛ずっとこうしてくれていたのか、道理でよく眠れたわけだ」
「うん」
ゆっくりと身を起こすと首を振って眉を思いきり顰めた。
「参った参った、本当にここ3日ろくに眠れやしなかったもんだから、とにかく眠りたくて藍湛のとこに真っ先に行ってしまった。もしかして迷惑だった?」
「ちっとも」
それを聞くと魏無羨はにっこり笑い、今度はわざと藍忘機の胸にもたれかかった。
「本当にここは静かだな。何の『声』も聞こえない。藍湛の周りはいつも清浄で澄んでいる」
「そんなに煩かった」
「煩いなんてもんじゃない、あれはただの騒音。死者の声なんて本当聞こえていいものじゃないな」
「そう」
魏嬰には世界はどのように聞こえているのか、死者のない土地などほとんどない、安らぐ場所などあるのだろうか。
藍湛はまたうとうととしだした魏嬰の耳を無意識にそっと押さえていた。それに気づくと魏嬰はくすくすと笑う。
「大丈夫藍湛。藍湛の周りは本当に静かなんだ。さすが含光君、死者すら恐れをなす光の君」
揶揄うように言うと、「いや」と顎を撫でて、寝台のトントントンと叩いた。
トントンと鳴らす音は規則正しく、どこか心地よいテンポで魏嬰長い指が寝台を弾いている。
「知ってる藍湛?これお前の心臓の音なんだよ。俺はどうやらこの音が一番好きらしい」
トントントン、鳴らす魏嬰の指が楽しそうに弾いている。
藍忘機はもしも今、彼の指の速度が速くなってしまったらどうしようか、などと考えてしまう。
その心配は全くの無用だった。魏嬰はすぐさまその指も動きも緩慢になり、再び瞼を下ろすこととなった。
藍忘機はほっと息をつくと、魏嬰を胸に抱え直した。
そして落ち着かない心臓の音とともに、静かに己の瞼も閉じた。
(完)