そこへ行きたい 透明な花瓶に注がれる水。とぷとぷと溜まった水は開け放ったバルコニーから漏れる日差しでキラキラと輝いていた。その花瓶の中には一輪の花が飾られていて、先日までは蕾だったのに今では大きく花開いている。綺麗な指先。清々しい朝の澄んだ空気に似合った親友の横顔。幼い頃を思い出すような優しい表情になっていく彼がこっちに気付き、少しだけ首を傾けた。
「おはよ、イヌピー」
名前を呼ばれ、呼応するように朝の挨拶を済ませる。花瓶に水を入れていたガラス製のじょうろをテーブルに置き、手際よくキッチンからコーヒーを持ってくる。自分のは八分目、こちらに差し出したものには半分。冷蔵庫から牛乳パックを取り出せば、ぼとぼとと差し出されたコップにミルクが注がれる。
椅子に座り、いつも世話を焼いてくれる彼を眺める。見上げた彼は視線をコップに落としたまま、真剣な表情をしていた。
「食パンとバターロールどっちがいい?」
「どっちでも」
「ンじゃあ、バターロールにすっか」
「うん」
「どれぐらい食う?」
「二個食べる」
「おー、なら全部出しとく」
牛乳パックの蓋を閉めて、パンが入ったバスケットをテーブルに置く。中央にあった花瓶を端に寄せて、じょうろはテレビ台の隅に置いた。お互いが向かい合うように椅子を引けばふんわりと花の香りが鼻腔をくすぐった。
花瓶の中で力強く生きている花の名前は知らない。いつも週末になると駅前の花屋で一輪の花を買ってくる。大きい時もあれば小さい時もある。蕾の状態で、一週間かけて花を咲かせる時もあれば、一週間経った頃には萎れている時もある。
ただ一貫して同じ色のものを買ってくるのはきっと意味がある。
「いただきます」
聞き慣れた挨拶と同時に向かい側の彼がパンに齧り付いて、そんな姿を頬杖をついて見ていた。こうやって朝を迎えるのは幾度目になるか分からないのに、当たり前の毎日に胸がキュッと掴まれたような気がした。
同じくパンに手を伸ばし、大きな口を開けて齧り付く。いつも入れてくれるコーヒー牛乳は毎日同じはずなのに、お気に入りの味がして美味しかった。
「ココは今日も在宅なのか」
「まぁ、そうだな。昼間ちょっと出かけるが夕方には戻る」
「分かった」
「イヌピーはいつも通りだろ?」
「うん」
「なら晩飯の準備もしとく」
朝はまぁ、眠いけど、早起きして過ごす二人の時間が結構好きだったりする。綺麗好きの彼と違って家のことは何度やってもうまくいかないけど、それならしなくていいと甘やかしてくれるのも居心地がいい。
壁掛け時計の秒針の音に、遠くの地上を走るトラックのエンジン音、時たまスズメがバルコニーまで挨拶にやってきて朝のひと時を彩ってくれる。スマホのバイブが鳴ったら着信の知らせを確認して、今度はコーヒーを口に運んだ。そうしているうちに熱い視線に気付いた彼はこっちを見ると少し気恥ずかしそうにふいと顔を背けた。
「イヌピー食わねぇの?」
「食う」
「早くしねぇと仕事遅れンぞ」
「……ココは」
「ん? オレは家にいるから別に」
「ココは赤い花が好きなのか」
一瞬ピクっと反応して、また平然を装う。きっと図星なんだろう。赤い花には理由がある。
「最近赤い花ばっか飾ってんなって思っただけ」
「今が旬の花だからって店員に勧められたんだよ」
「ふーん」
「……なんだよ」
「……キレイだな」
「……そうだな」
手元にあったパンがなくなり、彼は立ち上がった。
ようやくパンを口に咥え、頬杖をついて、綺麗に咲く花びらの枚数を数える。お行儀が悪いと注意されることもあったが、別に二人しかいないんだし、お行儀良くする必要もないだろう。ひー、ふー、みー。手を伸ばして花びらを触るとねっとりとした感触が指に吸い付き、綺麗なくせに力強く生きていると肌で感じる。
そうしているうちに彼は椅子の後ろに立って、頭をガシガシと掻いてみせた。
「何? イヌピー気に入ったの?」
見上げた彼は気まずそうにしていたが、こんなことで気を悪くするほど子供ではない。長い時間が傷跡を塞いでカサブタも痒くないほどに癒してくれているのだから。
「そうだな。今度は青い花も見てみたい」
「あ〜……」
「なんだよ」
「青ってなかなか売ってねぇんだよナ」
「そうなのか?」
「あるっちゃあるけど珍しいんだとよ」
「へぇ」
「入ってもすぐ売れるっつってたし、こっちから発注してもらうように言ってみるか」
優しい視線が向けられて、胸がほんのりと温かくなる。赤い花に狡いな、なんてくだらない嫉妬心を抱いていたが、ちゃんと想ってくれていたことが嬉しかった。
シャツから伸びる細い手首を優しく掴んでそっと指を絡め合う。ギュッと繋いでみせれば彼は不思議そうに目を丸くした。
「どうした?」
「別に」
緩む頬を元には戻せないけど、嬉しくて離したくなかった。顔を隠すようにして腹部にぐりぐり額を押し付けると呆れたみたいに「なんだよオマエ」って笑うから、あの人と同じ、彼の心の奥深くへ、もっと近づきたいと思った。