空虚「悪いな、後始末までさせちまって」
「ココの命令だ。逆らうわけねぇだろ」
「これからは他の奴らに任せるから、ヘマすんじゃねぇぞ」
九井の手が乾の頬に触れる。まるで子犬を愛でるように優しい接触に乾は目を閉じた。
黒龍は東京卍會に吸収され、稀咲とマイキーを筆頭に反社会勢力として力を広げる。振り返れば何故こんなところまで来てしまったのかも分からないが、後戻りは出来なくなった。
人を殺す。さっきまで偉そうなことを喋っていた奴がただの瓦礫になる。恐怖にも慣れてしまった今では、ベルトコンベアーに乗るケーキを潰すような感覚で人を殺せるようになった。
刻一刻と迫るのは死の匂い。いつか自分にも襲いかかる終わりの時間。
「イヌピー」
その声にはっとして閉じた瞳を開けた。そっと手が離れると、九井はテーブルにワイングラスを二つ並べる。
「せっかくだから飲まねえか」
身を隠す為に用意されたタワーマンションは簡素で必要最低限のもの以外はなにもない。テーブル、ベット、冷蔵庫、クローゼットと、ビジネスホテルにあるものくらいが見えないようしまわれている。
九井はクローゼットからワインボトルを取り出すと二つのグラスにそれを注いだ。深い赤色がグラスの中で揺れ、さっき始末した人間の血の色を思い出した。
「ほら。乾杯」
静寂に小さなガラスの音が鳴る。そっとグラスに口をつけると、血の味とは程遠い、苦味が舌に広がった。コルクを舐めているような舌触りに、ずっしり脳を痺れさせる。あまり眠っていない視界は微かに霞み、ふんわり幻想を見ているような気分だった。
「今月も稼ぎは上々だ。もっと多くの上納金を渡せば黒龍の再建も近いだろうな」
「ああ。ココが言うなら間違いねぇだろ」
「そうなったら大寿も喜んでくれるかな」
「大寿は……そんなことどうでもいいんじゃねぇか?」
「ははっ、それもそうだナ」
黒龍の再建は失敗だった。九井は上納金次第だと夢を見させるが、実際に稀咲がこの組織を黒龍に譲渡するはずもない。
分かってる。分かってはいるが、僅かな夢や希望がなければ闇に引き摺り込まれそうになって、黒龍再建の夢を語る。
夢は東京の街のようで、東京の街は宝石のようだった。
オレンジ色の光が散りばめられ、夜なのに昼のように明るい。その景色に多くの人間が魅了され、美しいと溢すのか数えきれないだろう。
しかし乾は何故か胸が締め付けられるほど切なくなり、目を細めてその光から逃げ出した。
何もかも全部捨てて、終わらせたい。そんな気持ちにさせる景色だった。
「なぁココ。この高さから落ちたらオレたちはどうなる?」
ガラス張りの窓を覗き込んでそう聞いた。
「即死だな」
当たり前だろう、そう言わんとばかりに言い切った。その答えは正論で、聞いた乾も分かっていた。
「イヌピー、あんま変なこと考えんなよ」
「考えてねぇ。オレはココを置いて死んだりしねぇよ」
「そうだな。オマエにはオレの護衛っていう立派な仕事がある」
「そうだ」
「オレを置いて死んだらオレは稀咲にコキ使われてそのうち死ぬな」
「だから、そうはさせない」
「……んじゃ、オレが死にてえって言ったら死ぬのか」
くだらない話だろうと鼻で笑う。しかし乾は大真面目にこくりと頷いた。
「ああ。オマエを抱えて一緒に死ぬ。せめてココが痛い思いをしないようにオレが盾になって死にたい」
張り詰めた空気が一瞬、柔らかくなって乾は慌てて九井に駆け寄った。さっきまでしっかりと立っていた膝ががくりと折れ、瞼がゆっくり閉じられる。
抱き締めた身体は僅かに震えて、落ち着いた呼吸が乱れていく。
すぐに九井の身体を抱き上げてベッドへ寝かせてやった。着飾ったスーツとローファーを脱がせ、そっと覆い被さる。
「ココ。ちょっと疲れたな」
「悪い」
「水飲むか? 身体冷やさないように毛布持って来てもらうか?」
「イヌピー……」
伸ばされた手が頬に触れる。指先が震えていて、でもしっかりと乾を求めてくる。その手を取り、しっかりと5本の指を絡め取った。
胸が騒めく。嵐の前の静けさのような空間に唇を噛み締めた。
求められたい。ずっと自分だけを見ていて欲しい。側にいなきゃダメだと、実感して欲しい。
次第に涙が滲み、歪んでいく顔を眺め、酷く興奮した。
乱れる呼吸の狭間に、言葉にならない言葉を紡ぐ。その文字が声になる前に、唇を押し付けて奪ってやった。
生暖かくて柔らかい。堪らない感触に夢中になる。言葉を紡げないように、隙間を埋めるように噛みついて、舌を差し出し絡めとる。
九井の瞳からはボロボロと涙が溢れ、指で拭いながらキスを繰り返す。
大丈夫、大丈夫。絶対、離れないから。安心して眠ってくれよ。
そう言ってやりたくてキスをした。
翌朝は晴天だった。雲ひとつなく晴れ渡っていて、湿った空気に満たされた部屋とは全く違って見えた。
乾が目を覚ましても九井はベッドに沈んだまま起きる気配はない。
無防備な寝顔がまた愛おしくなって、頬にキスを落とした。
「……」
部屋の外で待機している兵隊に二人分のスーツを持って来させ、乾は先に腕を通す。
昨晩、遅くまで働いていたから朝は遅く、まだ平和な時間を過ごしている。
眠気覚ましにコーヒーを飲み、明るみに佇む東京の街を端から端まで見渡して行く。
「綺麗だ」
澄み渡った気持ちでそう呟いた。ただただ太陽の下で朗らかに映る景色が美しかった。本来であれば、この世界の住人であっただろうに──今となっては憧れてしまう。
「連れ出してやりてぇなァ……」
今までの行いを振り返ればどう考えたって地獄行きだ。何人の命を奪ったのかも分からない生き方だが、本当は晴れやかなところで眠ってみたかった。
乾はベッドに戻り、九井の眠る横に座った。シーツから放り出された手を取って、甲にゆっくりキスをする。
「好きだ」
世界で一番。他のものは何にもいらないと思えるくらい、九井だけが好きだった。どれだけ手を汚してしまっても、どれだけ地獄の淵に立とうとも、この気持ちだけは純粋だと胸の中にしまっている。