春香(仮)二○一八年 四月──
『小田原インターは現在、事故の調べのため上り八キロの渋滞です。東名高速道路上り、大和トンネル付近でトンネル工事のため十キロの渋滞となります。以上、交通情報でした。──只今生放送の途中ですが、速報が入りました。先日、渋谷のナイトクラブで起こった、乱闘事件に犯罪組織・梵天が関与していることが分かりました。被害を受けた四十二歳の男性はすぐに病院に搬送されましたが、昨日午前十時頃に死亡が確認されました。今年に入って梵天が関与している事件は三回目となり、警察は今までの事件との関連性を調査しています。また梵天の首領である佐野──』
ブチっと電波の切れる音を遮るように店先につけていた風鈴がチリンチリンと大きく揺れる。春先の突風は地面の砂を巻き上げながら、花粉を遠くへと飛ばしていた。
くしゅん、とくしゃみをひとつ。ずるずる流れる鼻水を啜って、晴れ渡る空を見上げる。視界には、風に舞う桜の花びらが流れ落ちた。
もうバイク屋を開業してから十年以上が経ち、繰り返される季節の中をただ息をして過ごす。
大きな変化も、変わったこともなく、龍宮寺と共に過ぎゆく時間をすごすのは昔と変わらないように思えた。失っていたはずの命が長らえただけ。生きていれば良いことがあるなんて言う人も居るけれど、それは綺麗事に過ぎないことくらいよく知っていた。
今日は、一人暮らしの部屋から少し早くバイク屋に出勤し、近くの花屋で花を買った。
柔らかい日差しの下、次第に冬の寒さを和らげる暖かさに包まれた東京は本格的に春が到来したと言っても過言ではないだろう。
隣では龍宮寺がバイクのキーホルダーにつけていたクマのフィギュアを握り、太い指でシルバーのリングへ通そうとしている。細かい作業に舌打ちをして苛立ちを露わにしていたが、ラジオを切ると何事もなかったかのように仕事に戻り、朝から整備に来た常連の客に愛想笑いを振り撒いている。
ノートパソコンの上に置かれた龍宮寺のバイクの鍵は、まだクマのフィギュアが取れたままだった。
乾はカウンターに置いた自分のバイクの鍵を手に掴み、キーチェーンを指に通す。作業用のブーツから久しぶりに履くハイヒールに脚を突っ込むと、少しキツくて爪先がじんと痛んだ。
「痛ってぇな……」
もう何年履いているか分からないハイヒールは塗装が剥がれて何度も修理に出している。龍宮寺には早く捨てろと言われているが、ヒール部分が折れても、少し裂けても、新しいものに替えたり、捨てようとは思えなかった。
店先の客が帰ったら出よう。駐車場に停めた愛機に鍵を差し込み、店にあったビニール袋に花を突っ込む。上着を着ていくつもりだったが、陽が差す場所に居ると暑すぎて、店に戻ってハンガーに掛けた。
常連客は店の中で椅子に座り、世間話に花を咲かせていた。その視線に龍宮寺が気付き乾を覗き込む。口パクで「悪ぃ、行っていいぞ」と合図をくれたので、頷いて差しっぱなしにしていた鍵を捻ってエンジンをつけた。
キュキュッ、ドドドド、ブォンブォンブォン──
あの頃より控えめになったエンジン音が鳴り、シートに跨る。前々からバイクの人気は右肩下がりではあったが、最近は本当に利用者が少なくなった。一緒にヤンチャしていた奴らもいつしか普通の会社員になったり、店を経営していたり、すっかり大人になってバイクの改造もほどほどにしている。それに、バイクなんて運転しなくてもタクシーに乗ってしまえば手間なく目的地へと辿り着くことが出来る。
乾とてそれが難しいわけではない。しかし、心のどこかでまだ手放す諦めがつかなかった。
ステップに足をかけ、知り尽くした東京の街を駆け抜ける。顔に吹き付ける風はまだ冷たさを孕んでいるものの、目を覚ますには丁度いい気温だ。
春は、色んなことを思い出す。そして後悔もまだ残っている。
スマホホルダーにスマホを立てかけ、プレイリストから懐かしい曲を流して走る。明るい未来に胸を弾ませ、前向きになる歌が次々とかかり、その度に胸が熱くなった。
涙を吹き消すには丁度よく、そして悲しみに寄り添うには酷く、でも一年に一度くらいはこんな気持ちを思い出して泣いたっていいだろう。それを理解して許してくれているから、龍宮寺も乾を見送った。
都心に無言で佇む墓地に到着し、近くの駐車場にバイクを停める。平日だからか人が少なく、盆地に太陽の暑さが広がっているように思えた。コンクリートを見ると、ほんのりと陽炎が漂い、太陽光の暑さが目に見て分かる。
乾は花の入ったビニール袋を取り、芝生に覆われた墓地に足を踏み入れる。乾いた石ころがあちこちに転がり、草の匂いが鼻腔を満たす。ヒールが砂を踏み締めじゃりじゃり音を立てていた。
「乾家之墓……」
磨かれた墓石が日差しで反射する。そこに自分の顔が写って思わず目を逸らした。もう何年も会っていない両親が、墓参りに来ていたのだろうか。色とりどりに咲く花が生き生きと空に向かって開いている。
乾はビニール袋の中に入っている花を見て、それを墓石の前へと置いた。その場にしゃがみ込み、じっと墓石を眺める。そうすれば何故か今は亡き赤音が笑っているように思えた。
「元気にしてっか、赤音……」
呟いても返事はない。その代わり近くをヒョコヒョコ歩いていた雀がチュンチュンと鳴いていた。
「オレももう二十九になる歳だ。赤音が生きてたら、三十四か? すげぇ、年取ったな」
上手く笑ってるつもりなのに、ぎこちなくて苦しい。涙が喉元まで迫り上がって、このまま大声を上げて泣きたいのに、錆付いた心ではどうにもならなかった。
「もし赤音が生きてたら、ココと結婚してたか? アイツ、ずっと赤音のことばっかで……すげぇよな、愛ってヤツ? もう、オレも会うことは出来なくなっちまったけど……オレは何のために生きてんだろうな」
教えてくれよ。そう願っても赤音は答えてくれなかった。涙の膜で目の前すら良く見えなくなって、俯いて静かに涙を落とした。
赤音を救いたかった命。代わりに生かされた命。もう意味なんてどこにもないような気がしてずっと胸が苦しい。本当は側にいて友人のために使いたかった命だけれど、今は会うことすら許されない。いや、もうこの世には存在しないのかもしれない。寂しくて、悔しくて、申し訳なくて、でもどうすることも出来なくて、苦しくて辛い。そして、忙しなく過ごしている時は、それすら頭の中からどこかに消え去って、残酷だと自分を責めた。
たまに龍宮寺と二人で飲んでいると、こういう追悼式のような日がやってくる。行き場のない感情をただ寄り添って分かち合う成人男性二人はどうやったら前へと進めるのだろうか。
どうか、教えてくれよ。
墓の前で何度も問う。今すぐしがみついて助けを乞いたいが、いつの間にか大人になり、理性が己を止めた。
涙と鼻水が喉に流れ、しょっぱくて頭がくらくらする。このまま帰ったら龍宮寺はまた「飲みに行くか」と誘ってくるだろう。いつの間にか、忘れられない友人より長い付き合いになってしまった。なのに、まだあの頃からずっと動けずにいる。
前進しているようで、ただ足踏みをする毎日を見て見ぬふりをしてこれからも生きるのだろうか。そう何度も思うのに、解決策などひとつも見つからない。
涙が落ち着いて、胸がスッキリしたタイミングで思い切って顔を上げる。空が高く、風が軽い。薄い雲からも青さが透けて見えている。
ああ、春だ。もう何年もひとりで過ごした新しい季節。頬を濡らす涙が乾き、身体の中に渦巻く毒のような感情を洗い流してくれる。乾はそっと目を閉じ、情けない顔を腕でしっかり拭った。
ようやく帰る気になって立ち上がり、バイクを停めた駐車場へ戻ろうと足を向ける。その時、春風がビュンと吹き抜け、時間が止まったかのように胸がギュッと縮こまった。
「……ココ?」
長い白髪が風に揺れ、そしてまたさらりと落ちる。向かい合うようにして立つ彼は目を丸くしてジッと乾を見詰めていた。
心臓がドクドクと加速していく。長らく会っていないが顔を見ただけですぐに思い出した。線が細くてヒョロリとしたスタイルや切長の瞳、彼を纏う知的な雰囲気まであの頃と変わりなかった。
会いたかった、はずなのに、何から口にすれば良いのかわからない。元気にしてたか? 今は何してんだ? 前より痩せたな。幸せに暮らしているか──
ただ口をあんぐりと開けて、声にならない気持ちが胸に詰まる。このままゆっくりビールでも飲みながら、話したい。そんな思いは届かず、彼は背中を向けた。
「待てココ!」
そう言えば足を止めるものの、何も言葉にはしない。乾は少しだけ近づいて、肩に触れようと手を伸ばした。
「やめろ」
「……っ!」
「オレには監視がついてる。下手に動くと殺されるぞ」
「……」
「もうここには来ない。じゃあな、イヌピー」
ペタンコの草履が土を蹴って、そのまま遠くに消えていった。乾はただその後姿が消えゆくのを眺めることしか出来ず、しかし思いも寄らぬ再会に胸が熱くなった。
ココが、生きてた──
これ以上に嬉しいことはない。今度は安堵の涙が溢れ、その場で口を手のひらで覆う。アラサーのオッサンが恥ずかしげもなく声を出して泣いているなど、側からみれば可笑しいかもしれないが、そんな世間体を気にしている場合じゃなかった。
「うっ、く……うぅ……ッ」
久しぶりに履いたヒールで足が痛い。このヒールは昔、九井がくれたものだった。「イヌピーに似合うと思って買ったんだ」と舌を出して、楽しそうに渡してくれて、真っ暗なアジトの中が昼間みたいに明るくなったような気がした。
乾にとって九井はかけがえのない光で、生きがいだった。決別してから消息が途絶え、生きているのか死んでいるのかも分からない世界で、ただ呼吸をしながら日々を送る。そんな十数年間が、再び色をつけようとしている。
過呼吸になりそうな身体をどうにか落ち着かせ、近くにあった水汲み場で顔を洗う。思い出せばまた涙腺が緩みそうになるが、手のひらで強く顔を叩いた。
気付けばもう昼が過ぎ、マナーモードにしていたスマホに龍宮寺からの着信履歴がいくつも残っていた。長くいすぎたと駐車場に戻り、バイクのエンジンをかける。
ブォン──
まだ、九井が近くにいたら、聞いていたらいいと思う。バイクの音で乾を思い出して、焼きついた記憶を引き摺り出したい。そしてもう一度会って会話がしたい。今日みたいな別れの予告ではなく、昔みたいに普通の友人として。
ハンドルを握る手のひらに力が入り、ぐっとエンジンを回した。
乾は来た道を急いで戻る。早く、早く店に戻ってやらなければならないことがある。幸い、一緒に店を経営しているのは、元東京卍會の副総長、龍宮寺堅だ。出来ることはあるに違いない。
収まることのない胸騒ぎに速度を上げて、晴れ晴れとした東京の街を駆け抜けた。
つづく