忘れないでくれ「ほらココ、チュー……」
バイク屋の硬いソファーに寝転がり目を閉じる。唇を差し出して濡れた感触を待っているが、実際に触れたのは弾力のある柔らかなものだった。
それが唇じゃないことを乾は知って、ぎろりと目を剥きココを睨み付けた。
黄金色をした透き通る瞳に黒い身体。唇にはピンク色の肉球が添えられ、悪気もなくパチパチと瞬きをする。
裏口からガタン、と重い鉄扉が閉まる音がなると、しっかり掴んでいたはずのココは手の中を抜け出し駆けて行く。
そして炎天下に蒸され汗だくになった龍宮寺の足にピョンと飛び付いた。
「うおっ! コラ、暑ぃだろ。くっつくなって」
どんよりとした梅雨が終わり、ここ最近は真夏日が続いている。店はクーラーの人工的な風で涼しいが、体内はずっと熱を持っているような感じがした。
ウザそうにしながらも足にしがみつくココを持ち上げると胸に抱いて頭を撫でる。龍宮寺に触れられているココは嬉しそうに目を閉じながら頬を擦り寄せていた。
「あ〜涼しい。外暑すぎてやってられんねーから明日はイヌピーが掃除しろよ」
「えー」
「え、じゃねぇし! ソファーでゴロゴロしてんだったらやれって!」
クーラーの前で涼む龍宮寺が振り返ると、抱えられたココと目が合う。龍宮寺の腕に顎を乗せて、気持ちよさそうにゴロゴロ喉を鳴らしながら。
ココは乾が拾った黒猫だった。雨の日に母親とはぐれてしまって地面に横たわっていたところを乾が保護した。雨に打たれて動くことも出来ずにいたココが昔の親友と重なって、放っておくことが出来なかったのだ。
最初は元気になったら手放すつもりだったのに、一緒に居ると、もうちょっとだけ長く一緒に居たくなって、気付いた時には龍宮寺が動物病院に連れて行き、店で飼ってやろうと提案してくれた。
今ではすっかり看板猫になり店の中を自由に駆け巡っているが、面倒を見てくれる飼い主を勘違いしてしまったようだ。
それには納得がいかなかった。
「ココ、こっちに来い!」
ソファーから勢いよく起き上がりココへと近づく。自分が拾ってやったにも関わらず龍宮寺にばかり甘えるココがムカついた。
「にゃあ」
乾はココの身体を掴むと無理矢理引き剥がさうと引っ張る。しかしココも龍宮寺の作業着に爪を立てて放さないと抵抗を見せた。
「痛ぇって!」
乾とココに引っ張られた龍宮寺は倒れまいと踏ん張っているが、どちらもやめようとしない。
乾とココは人間と猫にも関わらず精神年齢は同じくらいだろう。普段からよく喧嘩もすれば疲れ果てて一緒に寝てることもある。
しかし龍宮寺は、乾とココの関係はそれだけではないと分かっていた。
「つかイヌピーが元カレの名前とか付けるからココが嫌がってんだろ!」
「元カレじゃねぇし」
「じゃあなんだよ」
「ココなんて猫とか犬につける奴いっぱいいんだろ」
「じゃあココじゃなくても良かっただろ」
「うるせぇよ。ほら、ココ、こんなヤツじゃなくてオレんとこ来い!」
痛いところを突かれ意地でも龍宮寺から離したくなった。乾は力ずくて引っ張ると、ココの爪が掴んでいた作業着から離れてしまい、二人して後ろへよろめく。
その後、ココが激しく鳴きながら身体をくねらせ乾の手から床へと着地した。
龍宮寺はでかい溜息を吐くと「店にいても疲れる」と言い残し煙草を吸いに出て行ってしまう。
乾とてイライラしていたが、寂しそうに鳴きながら龍宮寺の後を追いかけるココを見て、一緒に煙草を吸う気も失ってしまった。
どいつもこいつも龍宮寺ばかりだ。取り柄なんてないことくらい分かっているが、せめて動けなくなってるところを助けたんだから、媚びてくれたっていいんじゃないか、と思った。
「はぁ〜〜〜だりぃなァ」
仕事じゃなかったら、海までバイクを走らせて、こんなちっぽけなこと忘れてしまいたかった。そうすれば広い心でココを受け入れてやるのに。
乾は目を閉じ、瞼の裏でいつか見た群青色の海を描く。古臭い匂いが取れない店だが、肺にいっぱい空気を吸えば、潮風が髪を撫でるような気がした。
「にゃあ」
龍宮寺を見送りに行ったココが帰ってくる足音がする。構って欲しいのだろうが、乾は知らんふりをして子供みたいに拗ねてみせた。
そんなに龍宮寺がいいなら龍宮寺に可愛がってもらえ。突き放すような気持ちが孕む。我儘だと言われても、ココに好かれたいと思う度に惨めになった。
小さな足音が近づいて、すぐ近くでまた鳴き声がする。
ココはしばらく静かにしていたが、そのうちひょいと乾の上に飛び乗り、胸の上に座ってくっついてきた。
体温の温かさと重みが心地いい。
もうこのまま何にもせず過ごしたいような、怠惰な気持ちが重石になる。
頭がぼんやり現実を霞ませた時、不意に唇が冷たく滑った。鼻先にまで舌が伸びて、思わず目を開ける。
ココは乾が目を覚ますとひょこっと床に飛び降りて、また龍宮寺を探しに行ってしまった。
乾は濡れた唇を腕で指で拭って、それが確かかどうか確かめる。そしてさっきまで拗ねていた気持ちがひっくり返った。
「……オマエは寝てる時にしかキスしねぇんだな」
重い身体を起こして、ココの姿を追いかける。龍宮寺が出て行った裏口の扉をガリガリ引っ掻きながら帰りを待つココを乾は抱えて撫でてやった。
「ココは悪いヤツだ」
「にゃー?」
「オレのこと弄びやがって」
「にぁ、にぁ〜」
「こんなにオレはココのこと好きなのにな」
丸い頭に顔を埋めて、ぐりぐり押し付けてやる。腕の中でココは居心地が悪そうに唸っていたが、もう気にしないことにした。
消えない記憶の端くれと一緒に腕の中にいるココを抱き締めて、この後悔が消えないようにと胸に刻み続けている。
おわり