僕らのバームクーヘンエンド 年齢を重ねれば自然と増える結婚報告。まずは五つ年上の赤音が結婚し、そして今日は二つ年下の仲間が結婚した。
自分たちだって結婚したり子供が居てもおかしくない年齢なのだが、初恋を引きずってアラサーになってしまった九井と、バイクが好きという趣味を理解してもらえない乾はなかなか結婚までのプロセスを踏むことが出来ずにいた。
最近はお互い忙しくて顔を合わせていなかったが、久しぶりに会えば積もる話はあるのもで。
仕事の話や恋愛の話。たった数時間では話が尽きず、結局結婚式の二次会が終わってから、乾の家の近くにある居酒屋の暖簾を潜った。
三次会に選んだ居酒屋は黄色いランプが温かく二人を迎え、酔っ払いの声で賑わっていた。慌ただしく案内された小さなテーブルに向かい合って座る。脚を広げると通路に飛び出してしまうほど狭い店内だが、学生の頃に戻ったみたいな気分になれて懐かしくも思った。
まずは酒。最初は二人してビールを頼み、たこわさや冷やしトマトなどのつまみだけをテーブルに並べる。
幸せそうな花垣の顔を思い出しながら二人して一気にビールを飲み干すと、続いてポン酒を二合頼んだ。結婚式で食べたコース料理も美味しいが、簡単な酒のつまみの方が酔っ払いには落ち着く。
つまみを口に放り込み、やってきたポン酒を受け取ると互いにお猪口へ酒を注ぎ、調子付いて乾杯をする。
結婚式でもシャンパンを飲んで、二次会でも酎ハイを飲んで、居酒屋でビールとポン酒を飲んで。腹の中が色んなアルコールでごった返す。
まだ頭は回っているが、酔ってふわふわする感覚は大人の皮を無理くり剥いでしまうような強制力を孕んでいた。
「ぷは〜……つかやべーな、とうとう花垣も結婚しちまったな、オレらどうするよ」
「だよな〜、親にもずっと言われてる」
「ココはモテるだろ? 金あるし」
「いや、赤音さん以上に好きになる人いねぇんだよな……」
「それ拗らせすぎだろ」
はは、と乾いた笑い声を上げる乾はまたもや酒を飲み干した。揶揄うような言い方に分かりやすくムスッとした九井は頬杖をついてふい、と横を向く。
「イヌピーだって彼女喜ばすの下手ですぐフラれんじゃん」
「あ?!」
「この前、彼女の誕生日にヘルメット買ってやったんだって? そりゃフラれるって」
「うっせーよ! 一緒にツーリングデートできんだろ!」
「くくくっ、イヌピーそれで女が喜ぶと思ってんの?」
「言ったな……っ!」
九井の煽りに今度は乾が顔を真っ赤にする。流石に公共の場で殴り合いはしないが、その代わりに酒を流し込んだ。そうやって潤わせてやらないと心が乾いて、不安だとか虚無だとか羨ましいだとか色んなものが身体から爆発しそうだった。
女なんて居なくても、と言いたいところだが、周りが次々結婚しているのを見ていると、いつか自分もそうなりたいと思ってしまう。
九井は壁に寄りかかって天井を見上げる。黄色い電球の光がビームのように伸び、視界がぼやけて揺れる。天井を仰ぐ九井を見て、乾も脚を伸ばし、腹から喉を駆ける空気を吐き出した。
「あ〜早く彼女欲しい……」
「オレも……」
「ココは妥協すればすぐ出来る」
「妥協はしたくねぇんだよ」
「我儘だな」
「イヌピーはどんな子がいいんだ?」
「可愛くて巨乳」
「ぶはっ、童貞かよ!」
「もうどんな子がいいとか分かんねぇんだよ」
「せっかくいい面してんのに」
「結局女は金だぜココ」
乾は指を輪っかにして見せる。それに九井も深く頷き、お猪口を口に運んだ。
「分かる〜! つか今更寄ってくる女全員金! マジで花垣の嫁みたいな可愛くて健気な子現れてくんねぇかなー」
「普通って一番ムズくねぇ?」
「分かる。どこにいんだよって感じ」
「マジそんなに理想高くねぇんだけどな、なんで彼女出来ねぇんだろ」
「イヌピーはバイクに割く時間を女の子にあてればフラれなくなるって!」
ゲラゲラと下品な笑い声が店内に響く。しかし、ここには二人しかいない。憧れの赤音もいなければ、まだ見ぬ嫁候補がいるわけでもない。次第に会話はエスカレートし、彼女が出来たらこういうことがしたいだとか、この前ワンナイトした女がめちゃくちゃエロかったとか、そんなくだらない話をぐだぐだ繰り返した。
いいスーツを身に付けて学生のような会話で騒ぐことが出来るのも、乾と九井が幼馴染であるからだろう。仕事仲間との会話では味わうことの出来ない楽しさに手元にあった酒が進んだ。
周りを気にせず下世話な話に盛り上がっていると、すっかり時間は流れ、店員がラストオーダーを取りにくる。最後に一杯、とまたビールを頼み、空っぽになってしまったジョッキや空瓶をテーブルの隅に置いた。
居酒屋の店員はまるで客を追い出すかのようにラストオーダーのビールを置くと、同時にお会計の伝票も突きつけてくる。冷たい世の中だ。北風が吹くような気持ちになり急に静かになった二人は揃ってジョッキに口をつけた。
気付けば賑わっていた店内にいる客は乾と九井の他に二組しか残っていなかった。
「この後どーする?」
「オレん家来れば?」
「イヌピーん家で飲み直す?」
「それあり」
「んじゃ、コンビニ寄って酒買おうぜ」
九井がクレジットカードを出し、一括で会計を済ませる。親友なんだから割り勘でいいのに、九井は面倒臭いからいいと一歩も引かなかった。
しかし乾も社会人としてのプライドもある。しつこく払うと言っていると、それなら宅飲み用の酒は乾が買って、と九井が提案したのでそれに合意してその場は収まった。
ふらつく足元のまま居酒屋を出て、肩を組んでコンビニに向かう。すっかり深夜になってしまった。帰り道の途中にあるコンビニには客がおらず、入店すると外国人男性の店員が静かに佇んでいるだけだった。
普段は使わない買い物カゴに適当な酒を次々と入れる。ビール、酎ハイ、ワイン、ハイボール。おまけにビーフジャーキーとチーズを入れて、乾はポケットの中に無造作に入れていた札と小銭をレジにばら撒いてお会計をしていた。
九井は結婚式用のスーツから小銭が出てきたことに笑いが込み上げ、コンビニであることも構わず腹を抱えて笑っている。
お釣りがいくらなのかも分からない。とにかく戦利品だけ腕にぶら下げ、左右に揺れながら家路につく。
なかなか刺さらない小さな鍵穴に向かって鍵を突きさして、ようやく開いたかと思うと、小さな玄関口で足がもつれて二人して雪崩れるように廊下に倒れた。もらった引出物の紙袋がぐちゃぐちゃに潰れる。しかし引出物のことなど既に二人の頭にはなかった。
いい大人が二人して酔っ払って転ける。その間抜けな光景がおかしくなって、九井は堪えようと必死に口を押さえた。
「くくっ、マジで! ははっ!」
「やめろよココ、ふふっ、止まんねぇだろ!」
転けても身体が痛いのかすら分からない。とにかくよろめきながら壁を伝って立ち上がり、靴を脱いで部屋へと入る。壁に肩をぶつけながら少しずつ前へと進んでいき、手を伸ばしようやくドアノブを握る。部屋はそんな二人とは反対に暗くてじめじめしている。しかし電気を点けるだとか窓を開けるだとかそういう思考には至ることなく、テーブルにコンビニの袋を置いてその場に座った。
ジャケットを床に畳んで置き、ベルトを外して酒へと手を伸ばす。どちらかと言うと先に水を飲んだ方がいいのだが、水がどこにあるのかも分からない二人は乾いた喉に酒を流し込む事しかできない。
流れるようにして買ったばかりの酒を開け、水分で膨れ上がっている胃の中をさすりながら四次会が始まる。
「イヌピー部屋暗くね?」
「懐中電灯点けるか」
「懐中電灯!? くくくっ……マジなんなの、笑かすなってっ!」
乾はテーブルの上にあった懐中電灯の電源を入れ、天井に光が当たるように立てて置く。乾曰く、テーブルランプの代用らしいが、アラサーとは思えない幼稚な発想が面白くて仕方なかった。
ほんのり部屋に明かりが灯る。雑に扱って袋から飛び出した缶チューハイが横たわって転がっているが、そんなことも気にせず手に持っている酒を流し込んだ。
そろそろ眠くなってきたかも。意識が薄れていく感覚の中で、ぼんやりと明日の仕事は仕事になりそうにない。そんなことを考えた。「イヌピー明日仕事?」と今更ながらに明日の予定を確認しようと乾の方へ顔を向けると、隣にいた乾がそっと顔を寄せてきた。
次の瞬間、ふに、と唇と唇が合わさり、その場で固まってしまう。酔って身動きが出来ないのもあるが、何が起こっているか理解することが出来ず息が止まった。
「……え?」
懐中電灯の明かりに映し出される乾の綺麗な顔にまつ毛の影が出来る。急にしおらしくなる乾はいつもと雰囲気が違って色っぽかった。
「キスしていい?」
「は?」
「キス」
「いや、今オマエしただろ」
「彼女いねぇーしキスしたくなった」
再び顔が近づいて、今度はしっかり押し付けられる。九井は逃げることも出来ず、ただされるがままにそれを受け止める。
乾の唇は乾燥してガサガサだけど、ふっくらしてて柔らかい。近くでかかる鼻息や、ふんわりした他人の匂い。くっつけたり、離したりしているとだんだんその気になってしまって、いつの間にか目を閉じていた。
男同士で、幼馴染で、親友で。でも、めちゃくちゃ綺麗で好みの顔をしてる。九井とてキスをするのはいつぶりか分からないし、やっぱ体温に触れ合うのって気持ちいいな。そんなことばかりで頭が埋め尽くされた。
んー、と甘えるような声と共にチュッと吸いつかれ、ようやく乾の唇が離れる。熱い吐息がはー、と漏れ、伏せた瞳がまた九井のことを捉えた。
「へぇ、イヌピーそうやって彼女に甘えんだ」
「……うるせぇ」
「そんなにキスしてぇならしてやるよ」
戯れの延長戦。
乾の唇を食べるかのように大口を開けて齧り付く。調子に乗って食んでやれば、乾も動きに合わせて口を動かしてきた。ぴちゃ、と小さくなっていた水音がやがてねっとりと部屋を響かせ、互いに熱い吐息を漏らし始める。
(ヤバい。キス、気持ちいい)
唇柔らかい、舌ぬるぬるしてる、唾液が混ざって口の中、どんどん濡れていく──
エスカレートしているのは分かっていたが、止めようなんて考えに陥ることはなかった。終いにはぐちゃぐちゃに舌が絡み合い、もつれるように床に倒れる。
その頃にはもう親友という関係性なんてどうだって良くなってしまい、それよりエロい気分をどうにか消化しようと身体が熱くなっていた。
髪を掻き抱き、伸びた乾の前髪を上げる。堀の深い顔立ちに映える大きな瞳が、ジッと九井を見詰めていた。
「ココ」
その瞬間、ぐるりと視界が回った気がした。気付けば乾に組み敷かれ、両腕を床に押さえつけられている。
しばらく互いに見つめ合って、またゆっくりと距離が縮まる。やがて長い髪が頬に触れ、再び唇を塞がれてしまった。激しくないのに、ねっとりといやらしく、乾の舌が弄ってくる。
(これ、ヤバい状況じゃねぇーの?)
まあ、いいか。を繰り返していたら、いつの間にか今からセックスを始めますって雰囲気に変わっていた。
しかし九井も酔って身体に力が入らない。抵抗するべきなんだろうが、キスもセックスも久しぶりだし、気持ちいいし、今日くらいは花垣の幸せをお裾分けしてもらい、花畑にいるような気分を味わってもいい気がした。
髪を伸ばした乾はちょっとだけ昔の赤音の面影があって、違うのに、あの頃叶わなかった夢の続きを見てるみたいで、その首に腕を回してやった。
やっぱキスって気持ちいい。忘れかけていた心が満たされる感覚を存分に味わおうと、九井はそっと目を閉じた。
ぐわん、ぐわんと揺れる頭が急に覚醒し、ハッとして目を開けると朝の爽やかな日差しが部屋の中をほんのりと明るくしていた。
朝、だ──
点けっぱなしにしていた懐中電灯は相変わらず部屋を照らしていたが、昨日の残骸が虚しく散らばっているのを見ると相当酔っていたのだと思い出す。
ガンガン痛む頭を押さえ、昨日ことを思い出そうとする。花垣の結婚式に行って、二次会が終わってから乾と二人で三次会をして、その後に乾の家で四次会だったが、四次会からは記憶が曖昧だった。
何の話してたんだっけ。あれでもない、これでもない、と記憶を整理しているうちに、キスをしたことを思い出した。
忘れたい──が、多分乾も覚えているだろう。なんせ家に来てからはキスしかしてないんじゃないかと思うくらい何にもしてない。現にたらふく買った酒のほとんどは開けられておらず、いくつかが床に転がっている。
昨日は調子に乗って暴れてしまった。二日酔いと共に反省をし、身体を起こす。そこでようやく気付いたのだ。
服を着ていないことに──
「ギャーっ!」
九井の奇声で隣に倒れていた乾が飛び起きる。勢いよく正座する乾と目が合って、しばらく思考が停止した後、嫌な汗がだらだら流れてくきた。
親友に、本来なら見せる事などない恥ずかしい姿を見せてしまった。その羞恥が襲いかかって頭を抱える。
床に無造作に落ちているジャケットを拾い、遠くへ飛んで行ってしまったベルトを取り、スラックスを腕にかける。言い訳するにも無理がある。それに床にはどちらが出したのかも分からない残骸が残ったまま、カピカピに乾燥していた。
「ヒィっ!」
待て待て待て。キスしてこれは出ないだろ。暑くなって脱いだだけだと言い聞かせていたのに、そんな逃げ道を塞ぐかのように現実を突きつけられる。
「昨日のはノーカン! ノーカンだよな……?」
「覚えてる時点でノーカンになんのか?」
「キスだけならノーカンでいいだろ……」
「……覚えてねぇの?」
「何を……」
九井は頭を抱えた。二日酔いで頭が痛むが、それ以上に違った意味で頭が痛い。調子に乗って酔っ払ってそのままなし崩しとかいくつだよ、って自分に突っ込みたくもなった。アラサーが若気の至りなんて言う事自体おかしい気もするが、今後普通の友達でいられる自信がなさすぎた。
さっきから嫌な汗で身体が冷たい。しかし乾は別に何にもなかったみたいにいつもと変わらず大きな欠伸をしてみせた。
「男同士って案外いいんだな」
「え、やっぱそんな感じだったの……?」
「は? 乳首舐めてっつったのココだろ」
「ギャーっ! オレそんなこと言った?」
「言った」
「か、かかかか帰るっ!」
胃の中のものを全部吐き出したいほどに体調は良くないが、失態を晒しすぎて死にそうなほど恥ずかしい。しかも幼馴染の乾に、そんなセンシティブなことを知られたら、これからどうやって親友を続けていけばいいか分からない。
パニックになりながらシャツに腕を通しスラックスを履いていく。
すると乾もよろよろと立ち上がり、まだ半分しか服を着ていない身体を後ろからぎゅっと抱き締めてきた。
「また家来いよ」
「……それ、どーゆー意味」
「別に。彼女いねーしキスするとかでもいいし、たまにヤるとかでもいいし」
「ははっ、冗談……」
「結婚は出来ねぇかもしんねぇけど、例えばパートナーとか?」
「はぁ〜〜〜イヌピー意味分かんねぇ」
「オレ、本気だけど」
固くなって動けずにいた手のひらに指を滑らせる。そのまま絡めてギュッと繋がれ逃げれなくなってしまった。恐る恐る振り返ると相変わらず綺麗な面で九井を見詰めていて、思わず綺麗だと感心してしまった。
結婚とか、彼女とか、成功したいとか、あれとかこれとか。年齢相応な悩みは尽きないけれど、そこに同性の親友と一晩の過ちを犯し、丸め込まれそうになっている、という悩みが九井の中で増えてしまったのだった。
おわり