7️⃣不在の間に胎にされていた5️⃣♀の話。『ありがとう』
たった五文字だった。その五文字が私を動かした。仕事に追われて、疲れていたのかもしれない……明日だったら、違った答えを出した可能性もある。
七海建人は、昼食用にと買った総菜パンが入ったショッパーを手に、職場に向けた爪先をぴたりと止めた。明日にでも連絡しようと思っていたのに。足がこれ以上進まない。
今日だ。今すぐでなければ。
肚を決めてしまったら、心変わりは早かった。頭の中で辞表の文面を考えながら、スマートフォンを手に取った。ずっと消せなかったアドレス帳の一ページ。
『五条悟』
あの日、桜の下で別れを告げてから一度も呼び出さなかった番号。呼び出せなかった番号。
「何かあったら電話して?予定合わせてご飯行ったりしようよ」
社交辞令みたいな言葉を交わした。結局、四年の間、私は一度も連絡しなかったし、彼女も私の電話を鳴らすことはしなかった。
今更、何の用だ。と言われてしまうだろうか。やりがいとか、献身とか、自己犠牲とか。ふわふわと曖昧な理由では、甘いと笑われてしまうだろうか。
発信ボタンをタップして耳元に端末を持っていく。一度の呼び出し音も鳴らずに聞こえてきたのは、
「お客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません」
予想に反した合成音声が耳の奥に響いた。
電話番号を変えたからといって、知らせなければならない義務もない。現在も術師と教員の二足の草鞋を履いて高専にいるはずなのだから、自分が復帰すれば自ずと顔を合わせることになるだろう。
七海は少しばかりの落胆を隠しながら高専に直接連絡を入れ、訪問の算段をつけたのだった。
四年ぶりの学び舎は、記憶の中のものと変わりなかった。この門を再びくぐることになるとは。感慨深く校舎を見上げてから、指定された会議室へと向かった。
「うちは万年人手不足だからな。復帰の申し出は正直ありがたい」
復帰に必要な書類をまとめながら、夜蛾は対面に座る七海の顔を見た。すっかり大人の表情を張り付けた青年は、どこか疲れの色も映していた。
「しかし、どういう心変わりなんだ?四年もたってからこの業界に戻るなんて」
よほど、シャバの空気が合わなかったということか。
「非術師の社会が合わなかったわけではなりません。ただ、もっと自分には適した場所があると思って……」
どうにも、『やりがい』と口にするのは憚られた。それを感じられるか否かは、これからの仕事ぶりによるだろうから。
「そうか。お前が帰ってきたと知ったら、アイツも喜んだだろうな」
「アイツ、ですか」
喜んだだろうな。過去形、推量形……誰を指して。
「悟だよ」
「五条さん……そういえば、彼女は元気でやってますか?」
「七海、悟はな」
夜蛾は重たい口を開いた。そのうち耳にすることだろうが、この場でなら、七海が抱くであろう疑問に答えることが可能だから。
『五条家は、五条悟を当主とすることを正式決定した。高専上層部もこれを承認。当主就任に伴い、五条悟は前線から退き後方支援を担う』
「もう、二年前のことだ」
「五条さんが、当主に?」
もとより既定路線だろう。それはいい。しかし、彼らしくない歯切れの悪い夜蛾の態度が気になった。
「呪術界は、少しは良くなりましたか?」
整った横顔を思い出す。
「呪術界をリセットしたい。時間はかかるかもしれないけど、教育という手段を使って。強くて聡い仲間を増やすんだ。そうしたらさ……」
いつか、夢を話してくれた日があった。力強い眼差しを今でも覚えている。彼女になら、その夢をかなえるだけの力があるだろう。そう思った。
自分は、そんな彼女の元から去った。逃げた。
「何も変わってはいないな」
「それは、おかしくはないですか」
彼女が五条家の当主として辣腕を振るったなら、この界隈も多少は自浄作用が働いた健全な環境になっていてもいい。何せ、当主になってから二年も経過しているというのだから。
「しかしな、悟は……女だから」
その言葉は事実を述べただけであって、性差別的なニュアンスは含まれていなかった。そう、五条悟は女性だ。つまり、
「繁殖にまわされたと?」
「七海、言い方を慎め」
「彼女が過去に自ら言っていたことです。その時は私も咎めましたが」
冗談めかして言うのだ。「サラブレッドもかくや。男なら種牡馬で、女なら繁殖牝馬。だから、私は……」あの時、彼女は待ち受ける運命をどう解釈し、消化していたのだろう。或いは、答えを出せずに腹の底に溜まっていたのかもしれない。
「それで、五条家に跡取りは生まれたのですか?」
彼女との交際は自分が呪術界を去った四年前に終わっている。しっかりと話し合って、別々の道を歩むことに着地した。男性関係を探りたいわけじゃない。強い発言力を持つ五条家の情勢が気になるだけだ……というのは、さすがに苦しい言い訳か。
「その話も聞いていない」
「二年も経っているのに」
そうして呪術界は、彼女を失って再び停滞した。
「夜蛾先生……いえ、今は学長とお呼びした方がいいですね。学長、五条さんが会合などで表舞台に姿を現すことはありますか?」
一目、五条を垣間見たかった。元気にしていることが分かれば、この先に希望はある。術師として、間接的に彼女を支えることもできるだろう。
「いや、そういった場には姿を見せないな」
いつも、代理人が出席するばかりで夜蛾も二年もの間、五条とは顔を合わせていなかった。
「絶対におかしい」
本当に、彼女は今の状況に納得しているのか。満足しているのか。
「五条悟が、改革の一つも推し進めずに大人しく当主に収まっているはずがない」
七海の訴えに、夜蛾は眉間を揉んだ。彼もまた、七海とは同じ思いだった。
「何度も面会の約束を取り付けようとしたが、突っぱねられるか、直前で御破算になる」
あの家を覆うおどろおどろしさの正体がわからない。
「七海。オマエの気持ちもよくわかる。だが、今はまだその機じゃない」
夜蛾のいう通りだった。四年のブランクを少しでも埋めて成功の可能性が高い作戦を練らなければいけない。
「仰る通りです。死なない程度にハードな任務を一つでも多く私に回してください」
本当は、一分一秒だって惜しい。
「並行して体術の稽古をつけてもらいたいのですが。どなたにお願いすればいいでしょう」
一般社会に揉まれ、立派な社畜をしていたのだ。無茶の仕方は体に染みついている。急がば回れ。確実に貴女を迎えに行く。
「五条を連れ戻したいんだって?」
家入から懐かしい名前を聞いたのは、高専の医務室だった。医者と患者という立場で向かい合う二人の間に僅かな緊張が走る。
「どおりでね。無茶な任務ばかり請け負っているかと思えば」
数週間の間、あちこちに生傷をこさえては家入の世話にるのがルーティンになりつつあった。
「死なない程度に働けるなら、好きにしたらいいさ」
どのみち、この業界は人手が足りていないのだ。多少の無理は致し方のないことだった。
「計画の首尾を聞かせて欲しいな」
家の中に引っ込んでしまった五条を高専に連れ戻す手立て。
「それは……」
接触して、連れ出して、逃走する。当主が姿を消したとなれば、追手も来るだろう。そいつらを撒いて、安全圏に到達する。その一連の行動を一人で行わなければならない。
「七海さえよければだけど、私もその計画に一枚噛ませてくれないか」
その言葉は、まるで天恵だった。
「危険です」
「全てを一人でこなそうとするのと、どっちが危険だろうな」
家入の言葉に唇を噛む。独りで始めた無謀な賭けとはいえ、味方は一人でも多い方がいいのは事実だった。
「もう一人心当たりがあるから、声を掛けてみるよ」
とはいえ、七海の思惑が外部に漏洩するのは避けたい。成功に必要な最少人数で計画を遂行することに決まった。
「数日休暇をいただけませんか」
七海が術師としての活動を再開して三ケ月が経った。彼のこなす任務の状況は夜蛾の耳にも頻繁に届いていた。
「そうか。行くんだな」
男の顔を見て、すべてを察した。
夜蛾も、家入も、伊地知も。五条悟を知る人間が抱いた違和感を七海はそのままにはしなかった。想いを口にした。一歩も退く気のない強い語気で。
「五条さんに会いに行きます」
と、確かな覚悟で薄い唇を噛みしめる。男を止められる者は誰もいなかった。
「本当に付き合わせてしまうことになってしまって、何と言えばいいのか」
危ない橋を渡ろうとしている。いや、もう橋の中ほどに立っている。
「いや、いい。私たちがもっと早くに行動を起こしておくべきだったんだ」
七海は家入の運転する乗用車の助手席に座っていた。五条家本家の付近に位置するコインパーキングで二人の作戦会議は始まった。
「猶予は?」
「五日間です」
四方を塀で囲まれた日本家屋を真上から写した航空写真を広げ、二人で見入る。
「この庭にでも出てきてくれたら、接触することもできそうだが」
立派な造りの母屋と屋敷の東側には日本庭園、北側には小さな離れもあった。
「しかし、勢い任せに家まで来てしまったが、アイツが屋敷の中にいるのが前提になってしまうな」
「今回、成果が得られなかったとしても、違ったアプローチで何度でも」
「そうだな。……五条とは切れていたと思ったが」
「別れていますよ。四年前に」
二人が恋人同士だったのは、七海が高専に在学していた間のことだ。
「何がオマエをそうも必死にさせるんだ」
間違いなく御三家の一つにケンカを売ることになる。
「五条さんは、卒業して呪術界を去る私を、笑顔で送り出してくれました」
背中を押してくれた。結局は、出戻ってしまったけれど。
「お互い、全力で大人を頑張ろうなって。けど、」
彼女は今、どこにいる。
「五条さんが今、自らのなすべきこと、彼女自身が思い描いた未来の中にはいないと思って」
余計なお世話かもしれないのに。気が付けば、周囲を巻き込んで危険な博打を打つことになった。
「そうか。愛されてるな。五条は」
「いえ、そういうことでは」
七海の手には夜蛾から手渡された呪骸が握られていた。整った歯並びのうさぎが笑みを浮かべた、はたから見ればただのぬいぐるみだが、視覚共有が可能な代物だ。
「なるほど。さすが学長だ。よくできているな」
呪骸の帯びる呪力は非術師の体内に流れる量と大差がなく、また、呪力のパスを繋いだパペットを動かすことで自在に移動させることも可能だった。
「面白い作りじゃないか」
家入は右手にはめたうさぎを模したパペットを動かすと、七海の手の中の呪骸が身を捩って動き出した。
「これなら、五条家の敷く結界内でも異常を検知されることなく中の様子を窺うことができますね」
「気を付けるべきはオマエだな。七海」
家入は、ドリンクホルダーの缶コーヒーを手にした。
「変に気張って呪力を漲らせるなよ」
「それは……はい。気をつけます」
場合によっては、いや、この作戦は五条悟の奪還が最終目標に掲げられている。穏便に彼女を連れ出すことは端から計算に入れてはいない。
「呪骸で屋敷の中の様子を見ながら、五条の姿があれば掻っ攫う」
「はい」
「屋敷の外まで逃げてきたお前たち二人を私はピックアップして、来た時と同じように京都駅から新幹線で東京だな」
いくら五条家の人間といえど、非術師が多くいる場所では派手に立ち回りはすまい。というのが二人の考えだった。
「車を停めておく場所は統一した方がいいな」
屋敷の東に位置する公道を指す。
「この場所なら大きな道にも出やすい」
「わかりました。では、ここで」
家入の待機地点を確認して、七海は車を降りた。
一日目、二日目と成果を得られずに迎えた三日目だった。
「オマエ、今どこにいる」
「庭に侵入しました」
インカムでの会話にも慣れてきた頃合いだった。
はっきり言って、七海は焦れていた。用意された時間も折り返しに差し掛かっている。何か一つでも、五条に繋がる手がかりを手に入れたいと思っていた。
「平気なのか」
呪骸の目に人影が写らなかったのをいいことに、七海は塀を乗り越えて五条家の庭園に忍び込んでいた。
「おそらくは」
大きなツツジの庭木の後ろに体を隠す。
手にしたパペットを器用に操り、呪骸は這うように庭の中を歩かせながら、目を閉じ集中する。苔むした石、玉砂利、厳めしく曲がりくねった松。人工的に作られた池には錦鯉が泳いで水面に波紋を広げていた。
瞬間、ひゅッと短く息を飲む。
池の淵にしゃがみこんだ女の横顔には覚えがある。短かった総白髪は腰のあたりまで伸び、風に揺れていた。髪の毛と同じ色の浴衣に濃紺の帯と羽織を肩に掛けいる。
痩せた。いいや、やつれたと言った方が正しい。覇気を失った、凡そ最強とは対極の位置にいる憔悴した表情。
折れそうなほど細い指先で摘まんだ餌を水面に撒いて、口元に笑みを浮かべる。
「いっぱい食べろよ」
四年ぶりに鼓膜を揺らしたその声に胸が詰まる。記憶の中の彼女とは似ても似つかぬシルエットだが、間違いなく五条悟の姿がそこにあった。
その姿をもっと近くで、声を聞きたい。目を見て、言葉を交わしたい。
彼女を攫うなら、今しかない。
七海は乾坤一擲の勝負に出た。五条の周囲に誰もいないのを確認すると、呪骸を操作して、彼女の前にはうさぎのぬいぐるみが躍り出た。
「えッ」
緊張から僅かに震える手で操作を続ける。背中を見せてよろよろと逃げ出す素振りを見せ後退させる。
誘いに乗ってくれ……。
そのまま、七海が隠れている白いツツジの庭木のすぐそばまで。
「随分と大胆なんだな」
静かな湖面のような笑みを零すと、五条は立ち上がり、面白半分といった足取りでゆっくりと呪骸の後をついてきた。
「ふふ、刺客でも潜り込んだのかな。僕を殺しにきたの?」
吹けば飛ばされてしまいそうな薄い体。破滅を望むような倒錯的な笑みに白くつややかな犬歯が光る。
俄かに背に汗が浮かぶのを七海は感じた。すぐそこに、もう少しで触れられる距離に……
「強いひとじゃなきゃ、やだよ」
七海が身を潜めるツツジの庭木のすぐ傍で砂利を踏む足音が聞こえ、思わず白く細い手首を掴んで引き寄せた。
「あ、」
短く声を漏らして、五条は体勢を崩して七海の前に両膝をつく姿勢になった。
「やっと、会えた」
絞り出した声に五条は気が付いただろうか。
「え……なな」
言いかけた唇を塞ぐように掌で覆う。
「攫いにきました」
言葉を発することを封じられた五条は戸惑いから瞠目して眼前の男をみた。やがて言葉の意味を理解すると、静謐な空を映した左右の瞳が潤み、揺れ、浮かんだ涙が零れ落ちて手の甲を濡らした。
「私は貴女をここから連れ出したい」
ともすれば独り善がりな願望を口にする。
「貴女が望むのなら、私は、なんだって……」
五条は自らの唇を覆う大きな掌を取り払うと、七海の首に両腕を回し強く抱き着いた。
その勢いに負けて思わず尻餅をついた七海だが、四年ぶりの体温に堪らなくなって抱き締め返した。背骨が軋むような抱擁の中で互いの存在を確かめあう。
ここが敵地のただ中であることを一瞬忘れそうになるほど、甘く切ない触れ合い。
やはりあの時、高専を去るべきではなかった。目の前の彼女を独りにするべきではなかった。
悔恨と愛しさが綯い交ぜになって、溢れそうなほどに胸の中に満ち満ちていく。
「もう、二度と独りにはしません……私の手を取って、全て委ねて」
五条の短い呼吸が耳に届く。ぴたりと合わさった心臓が駆け出して、頭の奥に鼓動が響く。
「五条さん、どうか」
懇願は祈りに似ていた。
「たすけて……七海、たすけて」
か細い声で間違いなく、そう言った。
「私に任せて」
安心させるように囁いた。
「でも、僕、今は術式が使えないの」
彼女が家から出られずにいる原因の一端を知る。
「大丈夫ですよ」
七海建人、男の見せどころだぞ。と丹田に力を込めて拳を握る。
「家入さん。五条さんとの接触に成功しました。これより彼女を連れて合流します」
インカムを使って、家入に連絡を入れる。
「硝子?」
「詳しい説明は後ほど」
しゃがんだ姿勢のまま、左腕を五条の膝裏に通し体を引き寄せる。
「さぁ、目を閉じて。私がいいというまでそのままで」
五条は両手を七海の肩に置いて体を密着させた。何の迷いもないという風に。
「行きますよ」
背中に忍ばせた呪具を手に取る。チャンスは一度きり。失敗すれば、誘拐犯の仲間入りだ。きっと死ぬより辛い目に遭わされることだろう。
立ち上がり、右腕に呪力を集中させる。
瞬間、庭中にけたたましいまでの鈴の音が幾重にも響き渡った。結界が七海の呪力に反応してのものらしかった。
腕の力だけで五条を抱えたまま、七海はナマクラの鉈を握り直し、助走をつける。漆喰の塀めがけて渾身の一撃を叩き込んだ。
鈍い音があたりに沈み、亀裂の入った塀はボロボロと音を立てて崩れはじめる。
もう一撃、と腕を振り上げた瞬間、
「悟様!」
背後で女の声がした。自分を呼ぶ声を聞いて、五条は眉間に皺が寄るほど目を強く瞑り、七海の体にしがみついた。
「なりません!悟様!!」
もう一度、呪力をこめた一撃を放てば、外と内とを隔てる壁は完全に崩れ去った。
「七海、こっちだ!」
最初に設定した地点へと車を回した家入が運転席から顔を出し、手を振る。
「七海?」
「大丈夫。うまくいきます」
七海は呪具の柄をしっかりと咥えると、自由になった右腕も使い彼女の体を横抱きに体勢を変えた。この方がずっと走りやすい。
想像していたよりもずっと軽い女の体を抱いて、男は自由へと向かって力強く地を蹴った。
<現在、鋭意制作中!>