『染み入る声』 誰にでも感じるものではない。ふとした瞬間に触れられた時の、その空気と呼吸、その人の胸がクッションのように、受け止める腕のタッチの柔らかさ、それが、ああこいつなら分かる。という人物ではない相手から感じたら、ときめくどころではない。
「オーライオーライ」
と言いながら二、三歩後ろに下がる。俺としたことがその時は、ゆっくりと落ちてくるボールしか目に入っていなくて後ろに気を配れなかった。
ポーンとボールをネット上目掛けて打ち上げた後、とすんと誰かの腕にキャッチされた。ボールではなく、俺自身が。
「わわ、ごめん、誰――」
そこに彼がいなければ、雑多に置かれた荷物やパイプ椅子にぶつかってひっくり返るところだった。
「あ、赤葦? 悪い。後ろ見てなかった」
「いえ、たまたまここにいたので」
ありがと、と礼を言って、心臓を落ち着かせようとした。
後ろから両肩を遠慮がちに、でもしっかりと掴まれて背中が赤葦の胸に受け止められる。それだけで、赤葦の優しさ、人に気遣える人間であるのが瞬時に伝わってきた。
身を捻ってその人の顔を仰ぐと、今までになく近くにある瞳。伏せ目がちな彼のくっきりとした二重。「危ない」と掛けられる声。目の前にある口許。
このままこの腕の中に収まっていたい……などという、彼に奪われかけた視線を思考と共に無理やり引き剥がし、軽くその胸を押して離れた。
顔が熱い。
赤葦とは、同じセッターとはいえこの合宿中もそんなに接点はなかった。
彼には既に、いつも練習を共にしているグループがあったし、そこへは月島や日向は混じっていたようだが、俺はスタメンでもなく正セッターでもなく、最前線でプレーする彼らとは違って別にやりたい練習があった。
けどその出来事以来、なんとなく彼を目で追ってしまう自分がいた。
傍目からでも分かる、木兎への尊敬の念。掛ける言葉は辛辣で、笑顔も殆ど見られない。のに、不思議と相手に対して真摯でいるのが分かるのは、その物腰なのだろう。それ程親しくない自分に対してでも、全てを包み込んでくれそうな柔らかな、まるで自分がボールになって、彼の両手の指先でそっとトスを上げられるかのように。
困ったことに、これは恋なのでは……と思い至ってからは、あえて彼の近くに寄らないようにした。
他校で学年も違うし、東京と宮城では合宿が終わればそれまでだ。
赤葦が黒尾や木兎に絡まれて、雑魚寝部屋で耳にした梟谷のマネの誰々は何年の誰と付き合ってるだの、赤葦彼女できた? 木兎さんのお世話でそんな暇ありません。そっか木兎の卒業後狙いか~。いや俺は卒業してもあかーしとは別れない! だの、彼らのそれは冗談だとして、赤葦に彼女はいないという情報を耳にしてほっとしている自分に呆れてしまう。
特定の相手が今はいないとしても、そんなの秒で変わるのがDKなんだから。
(俺のこの気持ちも、一過性のものなんだろうし)
離れれば忘れるもんだ。
少々甘く見ていた。わざと梟谷のメンバーからは離れて、赤葦の姿も目に入れないようにすればする程、自分が他の誰かに触れた時。誰かが俺の肩に触れた時。瞬間、瞬間に彼に触れられた時の感覚が蘇って、想いは募る一方だった。俺は結構諦めが悪い。
そうこうしているうちに合宿は終了し、宮城へ帰る日に自分から一度だけ、彼に触れて気持ちを再確認するつもりだった。
「じゃあ……ありがとな赤葦。お疲れ」
右手を差し出して、彼がそれに釣られて二の腕に力を入れ、手のひらと手のひらが合わさる。
俺より背も高いんだから当たり前だろうけど、その指先が俺の手首まで届いて包み込まれそうな程の大きさに驚いた。
彼の親指が、するりと俺の手の甲を撫でる。びりびりと背骨や脳にまで痺れが走って、これはもう自分の気持ちを確認するまでもない。
(忘れた方がいいのかな。でも、)
次に会った時、赤葦は俺の名前も覚えてないかもしれない。彼には忘れられても、俺はこの甘く痺れる感覚にしばらく浸っていたいと思った。
「菅原さん――!」
バスの乗降口の階段に足を引っ掛けた瞬間、呼び止められる。後ろに続いていたメンバーを先に行かせ、振り向くと、
「あの……連絡先、教えて貰えませんか」
自分の名前を呼ばれたその声だけで心臓がぎゅんぎゅんと痛みを発したというのに、その言葉と、彼の真剣で切なげな表情に息が詰まって喉元が苦しくなる。
「……いいの?」
って、何が? なのか、口にした自分でも分からない。
「お願いします」
それこそお願いしたかったのはこっちなのに、彼らしくもないその小さく震えた声に涙が出そうになった。