ラーハルト〜離岸ラーハルトは返り血で汚れた顔と手を湖で洗った。
服も乾いた血でゴワついて不快だが拠点に戻るまで我慢するしかない。
我が騎竜は水を飲み終えただろうかと、ラーハルトは顔を上げようとしてヒクリと頬が強張らせた。
水面に映る青肌で両頬に黒の紋様のある若い男は、幼いころ死別した父に驚くほど似ていたからだ。
ラーハルトの父の記憶は極僅かで、母子の住む家に食料や褒賞なのか略奪したのか貴金属などを持ってやってきては2〜3日過ごし、またふらりと去るというものだった。
父が家にいる間は、二人で近くの森に罠を仕掛けたり、父が愛用の槍で捉えた獲物の血抜きや毛皮の処理などをしてすごした。
特に父子の間に会話はなく、魔族の基準で普通の親子仲だったのかは未だにわからない。
だが少なくとも父と母が亡くなった後バラン様に拾って頂くまでその技術が我が身を養ったのは確かだった。
ラーハルトは時々考えることがある。
もし自分の容姿が父の特徴に似ず、母のように「人間らしい」姿をしていれば母はあれほど迫害されずに済んだのではないかと。
考える度にそんな筈はないと結論がでるのに、我ながら未練がましいとラーハルトは軽く頭を振った。
父に関する最後の記憶は、ある日父の知人らしい魔族が半分に折れた槍を母に渡し、夫の死を悟り母は泣き崩れたことだった。
魔族と恋におち半魔の子を産んでも、母は人間社会に生きていたため、畏怖の対象である父亡きあと「人間」による母子への差別と迫害は激化した。
もともと裕福ではない生活が更に困窮し、母が病に倒れて医師を呼ぼうとしても取り付く島もなく断わられた。
穢れた母子を積極的に殺したくはないが、自分達の目の届かない所で死んでほしいという人間共の浅ましい希望はラーハルトが11才になった頃、母の死という形で半分叶った。
父が亡くなってから気力が萎えた母がひっそりと息を引き取った後、半日たってもラーハルトは枕辺から動けなかった。
頭では母を葬らなければならないとわかっているのに、このままじっと動かなければ母と父の側にいけるという後ろ向きな願望がラーハルトの身体を縛っていたのだ。
息をひそめて既に冷たくなった母の手を擦っていた時、それはおこった。
建付けの悪い扉が吹き飛び、家全体が軋む。
音というより衝撃が肌に、身体全体に叩きつけられた。
いまだ続く振動が己の鼓動だと意識に上った時、自分が身を守る為に床にうずくまっていたことに気づいた。
ああ、自分は死にたくなかったのだと
悟りラーハルトはのろのろと腰を上げ、生きる為に爆音と衝撃の原因を知るべく外に出た。
家の直ぐ側にある森から常に聞こえている鳥や獣の鳴き声が聞こえず静まり返っている。そして遥か遠くに眩しい白い雲柱が天に刺さっていた。
人知を超えたモノは猛々しくも美しい。
しばらく雲柱に見惚れたあとラーハルトは母を亡き父の墓の隣に葬った。
亡骸が戻らなかった父の墓は、僅かな遺品を埋め目印として自然石を置いただけの物で、母はよくその前で泣いていたものだった。
正式な婚姻をしていなかった両親は、人間種族の契約である「死が二人を分かつまで」には縛られず「死しても寄り添う」ことになった。
そして俺は、生きる為に成すべき事をしよう。
半分折れた父の槍と僅かな身の回り品だけを持ち、母と過ごした家を離れた。
それがラーハルトの母が最後まで離れられなかった「人間社会」との決別だった。
グルル、と騎竜が主を呼ぶ声に応えてラーハルトは歩み寄る。
騎竜の側に小舟が朽ちかけた縄で湖岸に繋がれていたのがラーハルトの目についた。
未練がましい、と指の先で触れただけで縄は千切れ、ゆらゆらと湖の中心に向って小舟は動いていった。
俺は「人間」から離れて「魔族」になることを選んだ。
あの小舟は自ら選んだ行き先に辿り着くだろうか。
ラーハルトは騎竜に跨がり拠点へ帰るべく手綱を引き絞った。