無題(無名)「おや、またあなたウチへ来たんですか」
スイセンの香りがくすぐったい庭から顔を覗かせると、家の主である男は少し困ったような、嬉しいような、そんな顔をして俺に近づいた。よう、久しぶりだなと答えてみせると男はやっぱり困ったように小さく息を吐いて「お入りなさい」と目を細める。縁側に座り込むと、男もそこに置いてある椅子に深く腰を落ち着けてじぃ、と俺を見ている。幻太郎、と男の名前を呼ぶと、彼は「食べ物ならありませんからね」とひとさし指を立てて軽く振った。腹が減った、何か食わせてくれとぼやいてみせると男は「おいで」と椅子に深く体を預けたままその白い腕だけをこちらへ伸ばした。
夢野幻太郎は俺の友人だ。
いつだって大きな家の一室で何やら物を書いていて、それで食っているらしい。たまに顔を覗かせて声をかけると、死人のような顔で出迎えたり、逆に怖いほど爽やかな笑顔でメシを与えてくれたりする。そんな友人は、痺れをきらしたように椅子の中で両腕を上下に振っている。
「小生、あまり気の長い方ではないのですよ」
幻太郎の身体はいつも不思議な匂いがしている。文字を書くための液体の匂いだろうか、それとも畳の香りだろうか。幻太郎に身体を預けていると頭をぐしぐしと撫でられる。痛い、と抵抗するものの全く力を弱める気配を見せない。それどころか俺の身体をぐるりと囲っている細い腕にギュウと力が込められた。
「まったく……ここのところ姿を見せないでいたと思ったら急にふらっと現れるんですものね、あなた」
「俺だって忙しいんだよ」
そう返事をすると、幻太郎は呆れたようにちいさく笑った。
「あなたっていつもどこで眠っているんです?」
幻太郎は俺の首の後ろを細い指で撫でながら、唐突にそう聞いた。普段は路地裏や店の軒下や公園かな。でもいまは幻太郎の膝の上だと答えるが、尋ねてきた幻太郎本人からの返事はなく「今日は冷えますねぇ」と庭を見つめてのんびりした声をあげる。
「あなた、すこし痩せました?」
俺の背中や脇を撫でながら幻太郎は呟いた。なんとなくくすぐったくて身を捩り、そのまま幻太郎から離れて庭へ降りる。空を見上げると俺のあまり好きではない色をしていて、スイセンの香りに混ざって遠くに雨のにおいもした。椅子の中の幻太郎は、鈴が鳴るみたいな声を俺に寄越す。
「今夜はあたたかいところを見つけて眠りなさい。雪になるようですよ」
2
次に幻太郎の家を訪れたとき、庭のスイセンはもう枯れかかっていて、幻太郎は畳の部屋で倒れていた。
たまに死にそうな顔をしていることがある男がついにほんとうに死んだかな、と思った。死んだ人間ってこんな匂いがするんだな、とも思った。まあとりあえず確かめようと近づくと、「ヴ、ん」と死体が鳴いたからまあ驚いた。飛び上がって二、三歩後ずさる。ほどなくして死体の幻太郎はゆっくり、ゆっくりと重そうな頭を上げた。鳥がつくる家のような髪の毛の奥に、どろんとした目玉がふたつ見える。
「生きてんのか?幻太郎」
「は……あなたまた……来……」
幻太郎はそれきりまた顔をへしゃ、と畳に伏せて動かなくなった。そんな幻太郎のまわりをぐるぐると回る。ぴくりとも動かない幻太郎の手にはペンが握られていて、まわりには紙が散らかっている。意味がわからない。
普段ぽろぽろと言葉が出てくる唇がほんのわずかにひらいていて、そこからはスウ、と空気のような音が規則的に漏れ出ていた。
眠っているのだ。
なんだお前、なんだなんだと怒ってみせるがやっぱり幻太郎からはなんの反応もなく、やがて俺は怒るのも幻太郎の周りをぐるぐると回ることも諦めてそのまま死体のような男の傍になんとなく座り込んだ。腹が減っていたし、こんなに大きい家の隅っこでこのままほんとうにひとり死んでしまったら、多分、きっと、絶対に寂しいんじゃないかと思ったのだ。
この男はいつもこの家にひとりでいる。
寂しくはないのかと尋ねたことがあるが「あなたって意外と毛がつやつやですよね」と頭を撫でられてはぐらかされた。
3
スイセンの植えられていた場所に知らない花が咲いていた。スイセンよりもずっといいにおいがする。花は好きじゃない。食べたところで美味しくはないし、なによりにおいが好きじゃない。ところでどうして俺はスイセンの名前だけ知っていたんだっけか、とぼんやり思ったところでまあどうでもいいか、とその疑問を投げ捨てた。
庭から幻太郎を呼ぶと、ややあって家の奥から家主が出てきた。今日の幻太郎はちゃんと生きているし、髪の毛も整えられている。瞳もキラキラしているし、声だって俺が知っている響きを携えている。
それなのに、なんだか変だな、と思う。その"なんだか"を見つけられずにいると幻太郎はゆっくりとした動きで縁側へと腰を下ろした。
「どうした?幻太郎お前なんか変だな」
「ごはんならありませんからね」
別にいらねぇよ、さっき公園で馴染みのおっちゃんから食わせてもらったし。と答えると幻太郎は何も言わずにじ、と俺を見ていた。
あれ、と思う。
幻太郎が変なのか俺が変なのか、やけに幻太郎の顔がぼやけ見える。
「あなた」
幻太郎が何かに気づいたように俺に手を伸ばす。俺に触れるすんでのところでピンポン、と何か合図のような音が鳴った。幻太郎はその音に振り返り「はぁい」と大きく口を開けて声をあげた。
「幻太郎」
遠くで幻太郎を呼ぶ声がした。
鈴みたいな幻太郎の声とは違って、砂みたいにざらざらとしていて、どこか聞いたことのある気がする声だった。瞬間、幻太郎は弾かれたように立ち上がり、声のする方へと走っていった。庭に残された俺も少し迷ってから幻太郎の後を追った。
家の中に勝手に入ったら怒られるかな、と俺は身体を小さくして幻太郎の背中を見ていた。幻太郎は玄関で立ち止まり、ざらざら声の男と向かい合っていた。しばらく二人ともじぃと黙っていた。
何してんだこいつらは、と俺が思ったと同時に幻太郎が口を開く。わずかに震えていた。怒っている音がする。
「一体、どこに、行っていたんですか、帝統」
だいす、と呼ばれた男と幻太郎は、幻太郎の言葉を皮切りにしばらく言い合いをしていた。「借金が」とか「出稼ぎに」とか「連絡のひとつくらい」とか互いが互いの言葉を遮って会話が進んでいた。なんだケンカか、と思ったところで幻太郎がいつも俺の身体を撫ぜる手を男に伸ばした。おお殴り合いかと唾を飲んだが、その手は男の首に回された。男はしばらく固まったままでいたが、ゆっくりと幻太郎のからだを抱きしめていた。
その瞬間何もかもわかったような気がして、ああ、と俺は瞬いた。二人に背を向けていつも出入りしていた庭へと飛び降りた。
「行ってしまうのですか」
後ろで幻太郎の声がする。
俺は立ち止まって振り返り、にゃあんとひとつ鳴いてみせた。
よかったなぁ、幻太郎お前、ひとりっきりじゃあなかったんだな。
幻太郎はよくわからないといった様子で僅かに首を傾げた。もう幻太郎がどんな顔をしているかよく見えないが、多分そんな顔をしているのだろう。それでいい、と俺は思う。
空は青く、空気は甘い。もうじき土の中で眠っている生き物たちが蠢く季節がやってくる。ト、ト、と人を避けて歩きながら、そういえばスイセンの名前を教えてくれたのは幻太郎だったなあと思い出し、もうひとつだけ小さくないた。