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    山田家に住む夢野

    #ヒプノシスマイク
    hypnosisMike
    #夢野幻太郎
    fantaroYumeno
    #山田一郎
    ichiroYamada
    #山田二郎
    jiroYamada
    #山田三郎
    yamadaSaburo

    夢野、山田家へ

     夢野幻太郎はもうじき死ぬ。
     丸めた原稿用紙と付箋だらけの資料に塗れて死ぬ。エナジードリンクやブラックコーヒーの空き缶たちに囲まれて死ぬ。重厚な書生服に身を包み、老若から男女にまで誉めそやされてきた玉貌を苦痛に歪ませたまま、夢野幻太郎は死んでいく。

     もう師走が近いというのに身体が燃えるように熱いのだ。それなのに冷や汗が湧き出て止まらない。全身がぐっしょりと濡れている心地がいつまでもしていて気色が悪い。きっと布団を通り越して畳にまで染みになっていることだろう。
     水が飲みたい、と何度思ったか知れない。しかし起き上がることはおろか、幻太郎には指先一本動かし方が分からない。
     このような状態になってから、夢と思わしき映像が絶え間なく幻太郎の目の奥に流れていた。歯の抜けたオジサン達が、サンバの格好をしてマカデミアクッキーを手に踊り狂っていた。行ったかどうかすら覚えていない大学の同期から、トスカーナに伊勢エビ釣りに行こうぜ!と誘われた。乱数が創る服によく似た色彩に殴られ続けるような感覚に眩暈がした。
     畜生。ぐわんぐわん揺れる頭の中で幻太郎は叫ぶ。
     目が開かない。今が朝か夜かもわからない。助けを呼ぼうにも携帯電話に手を伸ばせない。

     夢野幻太郎はここで死ぬ。
     夢野幻太郎としてここで死ぬ。
     享年二十四歳。若くして多様な文芸ジャンルで名作を生み出し続け、シブヤ・ディビジョンの代表としてラップバトルに於いてもその言葉で人々を魅了した才人。死後に出された彼の最新作にして遺作は爆発的に売れ、数日間ニュースで取り沙汰された。夢野幻太郎という男は人々の心の中、そして彼の紡ぐ言の葉の深海で永遠に生き続ける。

     ──なんて、最期、冗談じゃない。

     黒い額縁に嵌められた自分の顔を見て「もっといい写真があったでしょ」と幽体になった己が茶々を入れる姿をうっかり想像したところで幻太郎は万力を込めて拳を握りしめた。それが仇になったかどうかは定かではないが、頭の中をぐるぐるとかき回されるような感覚が一層激しさを増した。布団が回る。部屋中が回る。世界が回る。気持ち悪い。あつい。あつくてたまらない。さむい。さむくてたまらない。誰か、乱数、帝統⋯⋯にいさん。誰か俺を助けてくれ。
     声にならない声が唇の隙間から漏れ、閉じた目の奥が涙で満たされるのを感じた。

     そうして、夢野幻太郎は自宅の書斎にてその生涯を終えたのだった。



     何本もの連載を抱え、食事もそこそこにペンを走らせる日々だった。コーヒーとエナジードリンクでひたすら脳を覚醒させ、適当なデリバリー食で腹を満たした。サプリだけで原稿一本を仕上げた日もあった。髭も髪も爪も伸び、数時間の仮眠をとればまた物語と向き合う生活を続けていた。
    「良き仕事は良き睡眠から」と、いつだったか自分でそのように語ったことも幻太郎は忘れていた。そんなことを続けていれば身体を壊すことは自明の理だ。当たり前だ。当然だ。
     そのため、再び幻太郎が目を開けた時、真っ先に「ここが地獄か」と思ったのだ。地獄とは赤黒くどんよりとした空がどこまでも広がる場所だと幻太郎は思い描いていたが、開けたばかりの目に映るのは木製の低い天井と蛍光灯だった。なぁんだ。地獄とは存外、人生を終えた場所と似通った所らしい。
     幻太郎はやや地獄というものに幻滅した。

    「お!やっと目ぇ覚ましたな」
     横たわった幻太郎のすぐ近くで地獄の住人その一の声がした。視線だけをゆっくりと向けると、信号機のような瞳をした男がドンと胡座をかいていた。流石は地獄に棲まう者。なかなかにエキセントリックないでたちをしているなぁと感心しながら幻太郎は、ふと気づく。

     地獄の住人その一は、山田一郎によく似ていた。





    「あなた⋯⋯イケブクロに⋯⋯いそうな⋯⋯餓鬼⋯⋯ですねぇ⋯⋯」
    「おいおい、命の恩人に対して第一声がガキ呼ばわりかよ!っと、大声出してすまねえな。気分はどうだ?」

     ずい、と山田一郎似の男は幻太郎の枕元ににじり寄る。気分、気分か。こうしていざ死んでみると、存外生きていた頃とさほど変わりはしない心地だな。
     そんな率直な思いを幻太郎が口にすると、男はややあって吹き出すように声を上げた。

    「おい、アンタまさかとは思うが自分が死んだと思ってんのか?」
    「ええ⋯⋯だって、ここは地獄でしょう?」
    「は!いやまあ確かに地獄みてぇな世の中かもだけどな」

     はは、ははは、と口に手の甲を当て心底愉快そうに男は笑う。何がそんなにおかしいんだ、と幻太郎はぼんやりとした頭で呆れる。そんな彼の後ろに、天井まで背のある本棚が見えた。そこには生前幻太郎が書いた本や集めた資料がぎっしりと詰まっている。
     視線を反対側に向けると見覚えのありすぎる文机。加えて珈琲の空き缶や原稿用紙諸々が畳の上に散乱しているのが見える。
     幻太郎は目を見開いた。熱鉄の鋭い針はどこだ?俺の舌を刺し貫こうと待ち構える獄卒はどこだ?もしや自分は、夢野幻太郎は生きているのか?
     そんな幻太郎の戸惑いに気がついたようで、男は笑うのをやめて幻太郎をじっと見据えた。それから事の顛末を語り始めた。

    「乱数から依頼を受けたんだ。三日間ずっとアンタにメッセージを送ってるのに既読にすらならなくて心配だ、でも自分も締め切り前で忙しいし有栖川も捕まらないから代わりにアンタの様子を見てきてくれってな。で、見に来てみたら熱出して死にかけてた夢野幻太郎先生を見つけたってわけだ。んで、急遽寂雷先生呼んで治療してもらったのがええと⋯⋯五時間くらい前だな」
    「はあ⋯⋯なるほど」

     なんとまあ間抜けな話だろう。乱数や帝統にならばともかく、たいして親しくもない間柄の人々に自分の不養生で迷惑をかけてしまったなんてと幻太郎は自分を恥じた。申し訳ありませんと横になったままできる限り頭を下げると、山田一郎は再び笑ってみせた。

    「別にボランティアで来たわけじゃねぇから遠慮すんなって!ちゃんとお代はアンタから貰えって乱数にも言われたしな」
    「ええ、ええ、それは勿論。本当に⋯⋯助かりました。ありがとうございます」
    「なんか食いたいもんあるか?ゼリーとかヨーグルトとか⋯⋯あとうどんとスープとか買ってきたんだけどよ」
    「では、ゼリーと何か⋯⋯飲み物をいただけますか」

     おう!と威勢よく返事をして山田一郎は立ち上がり、廊下へと出ていった。そうだ、乱数に連絡をいれなければ、と思い出し枕元に置いてある携帯を手に取る。乱数からのメッセージが何十件も来ていた。最新のものは二時間前だ。

    『イチローから聞いたよぉ!ゆっくり休んで元気になってね!』

     おだいじに、とポップな色をしたキャラクターのスタンプがぴょこぴょこと動いている。携帯を閉じてゆっくりと上半身を起こしてみる。身体の倦怠感は依然として残っているが、目眩も頭痛もしない。確か先ほど山田一郎は神宮寺寂雷が治療を施したと言っていた。彼にもいずれ礼をしなくてはと、幻太郎は大きく息を吐く。
    「待たせたな。起き上がっても平気か?」
     山田一郎はゼリーとスプーン、ペットボトルのお茶を手にして書斎へ戻ってきた。大粒のみかんが入ったゼリーはつるりと喉を通り、甘味が全身に染み渡る。ものの数分で平げペットボトルに口をつける。半分ほど一気に飲んでしまったところで「あ」と山田一郎が思い出したように声を上げた。

    「そうだアンタ、着替えとか風呂はいいのか?」
    「風⋯⋯呂⋯⋯」

     さて、最近湯を浴びたのはいつだったかと思考を巡らせるが、幻太郎には思い出せなかった。おまけに一晩中汗をかき続けていた自分の身体がどんな状態になっているかは想像に難くない。熱で嗅覚が馬鹿になっているのか、この据えたようなにおいがするのが当たり前になっていた。
     申し訳ありません、と再度頭を下げるといやいやいや!と焦ったように男は手を振った。

    「いやまあ小説家って大変な仕事なんだもんな!立てるか?まだふらついてるな。風呂場までは一緒に行こう」

     ぬるめのシャワーを浴び、頭の天辺から爪先までよく洗う。髭を剃って爪を切り、新しい浴衣を羽織って髪を乾かす。幾分さっぱりとしたが鏡の中に映る自分の顔からはゾッとするほど生気が感じられない。よたよたとした足取りで書斎へ戻るとそこに山田一郎の姿はなく、代わりに台所からガサガサと音が聞こえてきた。

    「ゴミ、分別してまとめておいたぜ。あと洗濯物も溜まってたからコインランドリーで回しちまった。畳んで居間に積んでるぜ。山田家流の畳み方なのは勘弁してくれよな」

     毎日デリバリーで届く食事の空き容器が積み重なり、流しには不揃いのグラスや湯飲みやマグカップが増えていく台所のことを、幻太郎はいつしか見て見ぬ振りをしていた。さっと水で洗って乾かせばいい。ゴミ袋に入れて決まった曜日に出せばいい。ただそれだけのことを毎日毎日渋った結果、どこから手をつけて良いかわからなくなるほどの惨状を生み出してしまったのだ。そんな忌まわしい場所が今ではすっかり綺麗になっている。居間へ目をやると三日以上洗面所に放置していたタオルや下着なんかがきっちりと畳まれ行儀良く並んでいた。
     見事なものだ、と幻太郎は思わず嘆息をつく。

    「なあ、アンタ」
    「何でしょうか」

     幻太郎と向き合う山田一郎は、普段の堂々とした様子とは打って変わって「あ、その⋯⋯ええっとな⋯⋯」と言い淀んでいる。なんだ?と幻太郎が訝しんでいると山田一郎はやがて意を決したように顔を上げて口を開いた。

    「“流星と輝石のリンカーネイション"⋯⋯好きなのか?」
    「⋯⋯なんですって?」
    「え、あ、いや、そのな、リンカーネイションシリーズが本棚に全部揃っておいてあったから⋯⋯。アンタも好きなのかと思ってな」
    「ああ、あのライトノベルですか。好きというかあれ、小生が書いた作品なんですよ」

     『流星と輝石のリンカーネイション』は、幻太郎が別名義で出したライトノベルのタイトルだ。ライトノベルとは縁遠そうな男の口から自作のタイトルが出てくるなんて、と驚きつつ答えると、山田一郎は薄く口を開いた状態のまま、きっかり30秒は固まっていた。
     もしもーし、と幻太郎が一郎の目の前でひらひらと手を振ると、「え」と硬い声が漏れ出て聞こえた。

    「え、え?え?は?いやだってアレ⋯⋯あ!ぅうああ!MUGENって、まさか夢幻⋯⋯?えっマジでアンタがMUGEN先生?」

     うぉお、と顔を覆って咆哮する一郎の姿は、幻太郎がぼんやりと持っていた「バスターブロスの山田一郎像」とは大きくかけ離れていた。しかし全く悪い気はしない。しないどころか微笑ましいとさえ思えた。もともと若々しく煌めいている瞳がさらに輝きを増したように見える。
     山田一郎は、"リンカーネイションシリーズ"の大ファンだということを溌剌とした表情で語る。うんうんと幻太郎は頷きながら、あのバスターブロスの長男が自分のサイン会に来る人々と何ら変わりはなく見えるなんて、と少し可笑しくなって笑った。

    「あーすんません!テンション上がっちまって」
    「いえいえ、作家冥利に尽きます」

     ところで、と台所を見渡して先ほどからずっと考えていたことを口にする。

    「萬屋ヤマダさん。依頼料をお支払いすれば、こんなふうに家のことをお手伝いしていただけるのですか?」
    「そりゃまあ全然オッケーすよ」
    「小生、恥ずかしながら締め切り前なんかは家事まで手が回らなくなってしまうのです。お洗濯や料理を時々お手伝いしていただければ大変助かるのですが。それに、今回のような失態はもう二度と起こしたくなくて」
    「あの、それならMUGE⋯⋯夢野さ、夢野先生」
     山田一郎はビー玉のような瞳をまっすぐ幻太郎に向けて口を開いた。
    「ウチ、来ます?」




    「あ!兄ちゃんおかえりー!」
    「一兄、お疲れ様です!お帰りなさい!」
     山田一郎が自宅の扉を開けたと同時に聞こえてきたのは、明るく弾んだ二つの声。彼に続いてお邪魔します、と幻太郎が足を踏み入れた瞬間それは「は?」「え?」と戸惑いを含んだ声色に変わった。
    「シブヤの小説家じゃん。何だよ、兄ちゃんに依頼?」
     山田家次男の二郎がソファから腰を上げ近づいてくる。三男の三郎はじっと押し黙ったまま大きな瞳を細め、訝しげな視線だけを向け続けている。
    「今日からこちらにお世話になります。夢野幻太郎と申します」
     カンカン帽を頭から外し、深々と頭を下げる。
     数秒経って顔を上げると兄弟は全く興味のなさそうな顔で幻太郎を見ていた。もっと取り乱すものかと思っていたが、流石は萬屋家業に携わる兄弟。このようなことには慣れっこなのだろうか。
     幻太郎が拍子抜けしていると、先ほどから沈黙を決め込んでいた山田三郎がハァッと息を吐いて睨むような視線を幻太郎に向けた。
    「お得意の嘘はいいから早く用件を言いなよ。一兄は忙しいんだぞ」
    「そーだそーだ!」
     ああ、なるほど嘘だと思われていたのか、と幻太郎は納得する。いえいえ嘘ではありませんよ、と幻太郎が弁明するより先にスッと山田一郎が前に立ち、キッパリとした声で兄弟達に告げた。
    「夢野先生はしばらくウチに住むことになったんだ。急ですまねえが⋯⋯お前たち、よろしくな」
     兄弟は、山田一郎と幻太郎をそれぞれ見て、ほとんど同時に叫び声を上げた。


     好きに使っていいっすよと山田一郎から案内された先は机と空っぽの本棚、ベッドなどが置いてある六畳ほどの部屋だった。誰も使っていないらしいがきちんと掃除はされているようで、床も家具も塵ひとつない。荷物の入った旅行鞄を机の脇へドサリと下ろし、筆記用具だけ机の上に置く。
     それから青いシーツのかけられたベッドへ腰掛けながら目を瞑り、ふと「いやいや、何やってんだ?」と幻太郎は目を見開いた。つい半日前までシブヤの自宅で死の淵を彷徨っていた男が電車に揺られてイケブクロの何でも屋に厄介になるなんて。
     再び目を閉じ、山田一郎の言葉を思い出す。

    「今やってる原稿終わらせる間だけでもウチに来んのはどーすか?昼間は二郎も三郎も学校で俺も仕事だから執筆に集中できるし、メシも洗濯も任せてもらっていいですし。たまには作業環境変えてみるのも面白そうっつーか。いや、全然別に無理にとは言いませんけど」

     その突飛な申し出に戸惑いがなかったわけではない。ないのだが、好奇心に加え一人で死にゆくことの恐ろしさから少しでも逃れられる安堵を無意識に求めていたのだろう、と幻太郎は目を瞑ったまま考える。
     押し入れから数年使っていない旅行鞄を引っ張り出し、仕事道具と着替えその他諸々を詰めて山田一郎と共にシブヤを出た時の幻太郎は、熱に浮かされたように高揚していた。
     山田一郎が次男三男に事の顛末を説明し、ひとまず納得したような雰囲気になりはしたが、「ぜってぇお前と口なんか聞いてやらねえ」とでも言いたげな顔のまま二郎、三郎は二人とも自室へと篭ってしまった。至極当然の反応だと幻太郎は思う。

    「オイ、小説家」

     部屋のドアがノックされ、次男がひょこりと顔を覗かせる。

    「アンタさ、月見とわかめ、どっちがいい?」
    「はい?」
    「今日の晩メシうどんなんだよ。月見とわかめどっち乗せるよ?素うどんがいいならそれでもいーけど」
    「月見でお願いします」
    「ちなみに俺はかき揚げで兄ちゃんは肉だけど文句言うなよ?お前病み上がりらしいから油モンは駄目なんだってさ。あーあと何玉食う?」
    「一玉でお願いします」
    「マジで?まぁ病人だしそんな食えねーか。じゃあもう降りてこいよな。みんなが揃ってる時は一緒にいただきますするんだよ」
     ビシ、と二郎は幻太郎を指差し、音を立ててドアを閉めた。
     幻太郎は小さく息を吐き出し、ベッドから腰を上げる。
     先ほどまで薄く水色がかっていた窓の外は、もうすっかり夜の色をしている。





     山田兄弟はよく食べた。
     上の兄から十九歳、十七歳、十四歳。なるほど食べ盛りだが自分がその歳の頃、こんなにも食べていたかと幻太郎が呆気に取られるくらいよく食べた。幻太郎がうどん一玉を食べ終える頃に隣に座る山田二郎はかき揚げうどん二玉と肉うどん、ほうれん草のおひたしとれんこんのきんぴら皿いっぱい、卵焼き五切れ、おにぎり三個を平げていた。

    「夢野先生、他に何か食わねー?」

     小鉢に盛られた副菜全てとおにぎりをひとつ食べてしまうとすかさず山田一郎は幻太郎に声をかける。いいえ、お腹いっぱいですと幻太郎が返すと「じゃあラスイチもーらいっ」と次男がおにぎりに手を伸ばし「あっずるいそれ僕も狙ってたんだぞ」「残念だな!ウチでは早いモン勝ちが基本だろ」とバトルが勃発してしまった。
     遠い昔の給食風景を彷彿とさせる、残り物をかけた熱き闘いに次男が勝利する様子を見届けながら、何か食べるよりもお茶が欲しい、と幻太郎は口を開く。
    「あの、山田さん」
     山田一郎に声をかけたつもりだったが「ん?」「なんだよ」「何?」とカラフルな瞳が六つ、同じタイミングで幻太郎を見つめた。ああ、しまったと思うと同時に長男が可笑しそうに吹き出した。
    「ここじゃみんな"山田さん"だもんなぁ。一郎で構わねぇっすよ」
    「では一郎さん、と」
    「一郎」
    「一郎くん」
    「それでいいっす。もしかしてお茶すか?待っててください」
    「急須とお茶っ葉の場所さえ教えていただければ小生が淹れます。流石にそれくらいは自分でやりますよ」
    「そんじゃ明日から頼みます」
     あたたかな湯呑みを両手で包み込みながら、休み時間に友達がこんな面白いことをしただの、授業中に先生がこんなことを言っただの、帰り道にこんなものを見ただの、一日にあった出来事について兄弟達が語り合う姿を幻太郎はぼんやりと見つめていた。
     まるで現実味というものがなかった。テレビの向こうで兄弟役の俳優三人が夕食時の一場面を演じているような、四角いテーブルの左端だけが切り離されているような、そんな感覚に幻太郎はふわふわと身を任せていた。
     だから、「な!夢野先生」と一郎が笑顔で幻太郎を向いた時も「え?」と間の抜けた返事しかできなかったのだ。
    「リンカーネイションシリーズは夢野先生が書いたって話っすよ!」
     いつの間にか学校の話題からシフトチェンジしていたらしい。若者の会話スピードに感心しながら「ええ、そうですよ」と湯呑みを持ったまま幻太郎が頷くと、隣に座っていた二郎が奇声をあげて椅子から立ち上がった。なんだ、二郎もあの作品を知っているのかと幻太郎は瞬く。
     リンカーネイションシリーズは発売当初、その界隈で話題になりこそすれ、アニメなどの映像化には至っていない。ライトノベル以外の作品であればドラマや映画化されたものがいくつもあるが、まさかライトノベルの原作者であることにこの兄弟がここまで食いつくとは思わなんだと幻太郎は表情を変えずに驚く。
     所謂オタクと呼ばれる類の人物なのかもしれない、と幻太郎は一郎の部屋を思い浮かべた。巨大なガラスケースの中に漫画やライトノベルの背表紙がずらりと並んでいたのはどうやら見間違いではなかったようだ。

    「マジかよすっげー!なぁ夢野、どうやったらあんな話思いつくわけ?」
    「秘密でござる」
    「二郎は一巻貸したあと俺よりハマったもんなぁ」
    「あとでサインくれよ夢野!」
    「二郎お前なぁ先生をつけろ!先生を!」
    「構いませんよ。拙者、そのような仰々しい呼ばれ方は好まぬゆえ、一郎君も夢野とお呼びくだされ」
    「いやいや流石に呼び捨てはできねーっすわ。じゃあ夢野さん、迷惑じゃなかったら俺にもサインください!」
     お安い御用ですと一郎に答えながらふと、斜め前に座る三郎に視線が向いた。三郎はどこか所在なさげな様子であったが、やがてスッと立ち上がり食器を重ねてシンクへと向かった。
    「ごちそうさまでした。僕は先に失礼します」
     そして三郎は幻太郎を一瞥し、静かに、しかし力強く階段を登っていった。




     幻太郎が食器を洗おうとすると二郎に止められた。今週の食器洗い当番は自分なのだと言う。それならばお願いしますと二郎に任せて風呂の湯に浸かり、髪を乾かし、与えられた部屋へと戻った。
     執筆を進めようかと原稿用紙を広げた机に向かったが手に取ったペンがやけに重い。こんな日は何を書いたってうまくいかないことは経験則で知っていた。
     えい、とベッドに大の字で寝転び、白い天井とつるりとしたLEDのシーリングライトを見つめる。まだ九時だがどうしようもなく瞼が重い。もう寝てしまおう、と幻太郎は小さく息を吐く。ベッドフレームに置いてあるリモコンを手に取り消灯のボタンを押すと、ゆっくりと暗闇が部屋を覆っていった。


     何の前触れもなく、ぱ、と目が開いた。そこはひどく暗く、そして柔らかい場所だった。
     かたい文机の上でも色の変わった畳の上でもないここはどこだと頭の中がこんがらがる。幻太郎は素早く起き上がり、暗闇の中で必死に目を動かす。目が暗闇に慣れてきたところで見えてきたものは本棚、机⋯⋯旅行鞄──。ああ、そうだ、ここはベッドの中だ。ここはイケブクロの何でも屋の一室だ。
     幻太郎は胸を撫で下ろし枕元の携帯を開いた。午前一時を少し過ぎたところだった。もう明け方かと思っていただけに驚き、ほっとしたと同時に急激に喉の渇きを感じた。
    「お、夢野さん。休憩っすか?」
     キッチンへと降りると夕食をとったテーブルには一郎がいた。小皿や調味料は全て綺麗に片付けられ、代わりにペンが何本かとノートが広げてある。
     九時に眠ったのだがさっき目を覚ましてしまったのだと説明すると、一郎はあははと笑った。幻太郎はどうして一郎が笑ったのか分からなかったが追及はしなかった。よく笑う男だな、とだけ幻太郎は思った。
    「何か冷たいものをいただいても?」
    「ああ、冷蔵庫は好きに使ってください。ただしデザート類は勝手に食わねーこと。あと麦茶がなくなったら沸かしておいてもらえると助かるっす」
    「承知いたしました」
     食器棚からキャラクターのシルエットがプリントされたグラスを手に取り、シンクの上で麦茶を注ぐ。香ばしい液体が一気に渇きを満たしていく。続けて二杯目を喉へ流し込む。幻太郎に背を向けている一郎はカリカリとノートに何かを書いているようだった帳簿だろうか。課題──ではないか。彼は学業に携わっているわけではないらしい。
     まぁ、さして興味はない、と幻太郎は麦茶を飲み干す。
    「夢野さん、グラスは洗って伏せといてくださいね」
     幻太郎に背を向けたまま一郎は言った。




     少年達の喚き声で幻太郎は再び目を覚ました。ここはイケブクロの何でも屋の一室だということは、もう忘れてはいない。のっそりと身体を起こすとカーテンの隙間から差し込む光に襲われ思わず呻きながら目を覆った。少年二人の喚き声は未だ階下から続いている。覚醒前から幻太郎の頭に響いている声の主はおそらく二郎と三郎だ。
    「いい加減にしろよ二郎!もうさっきから十分と四五秒洗面台占領してるだろ早く変われよ」
    「うっせぇなあ!お前と違ってセットに時間かかんだよ」
    「なーにがセットだよ色気付きやがって童貞のくせに」
    「あ?髪の毛セットするくらいで色気付くとかその発想の方が童貞くせぇんですけどー」
    「僕はまだ十四歳なんだから別にいいんですぅ。逆にここで僕が非童貞だって判明したらその方がなんかヤバいだろ。二郎の襟足のハネ具合なんて寝癖とさほど変わんないってことにいい加減気付けよな!」
     このまま聞き続けているだけでシンジュクの会社員のようにげっそりとしそうな会話だと頭の中では思ったが、幻太郎の口元はなぜだか緩んでいた。
     カーテンを勢いよく開けて朝日を浴びる。窓を開けると、ひんやりと冴えた風が幻太郎の栗色の髪を揺らす。
     おはようイケブクロ。
     はじめまして、イケブクロ。
     シブヤまで続く空は晴天だ。思い切り空気を吸い込み窓を閉めたところで、とうとう一郎の雷が落ちる音がした。

    「おはようございます」

     キッチンへ降りると制服姿の二郎と三郎、いつものパーカーに身を包んだ一郎が揃っていた。
    「はよっす夢野さん。よかった、今起こしに行こうかと思ってたんす」
    「俺、アンタの袴じゃないカッコ初めて見たわ。なぁそれ部屋着?旅館じゃねーのに浴衣着て寝んの?超カッケェじゃん」
     幻太郎は木綿の長着をさらりと着こなし、博多織の伊達締めをして立っている。唐突な二郎の褒め言葉に礼を言おうとしたがその間も与えず二郎が口を開く。
    「パンとご飯どっちにするよ?パンなら自分で焼いてご飯なら自分でよそってな。ジャムとバターはここ、ふりかけはあっち。これサラダ。残すなよ」
     朝食を終えた二郎と三郎は洗面所で歯を磨きつつ喧嘩をしていた。馬鹿だ阿呆だといった言葉がモゴモゴと聞こえてくる。器用なものだな、と幻太郎は食べ終えた皿をシンクに運びながら素直に感心していた。
    「行ってきます!」
    「行ってらっしゃい。お気をつけて」
     靴を履いて今にも玄関から飛び出す勢いであった次男三男は自分達を送り出す声の主が兄ではないことに気づき、同時にくるりと振り返った。
    「おう、行ってきます」
    「なんでお前なんだよ。一兄は?」
    「本日の依頼の準備をしておりますよ」
    「ったく三郎、チマチマ言ってんじゃねーよ!お前も遅れっぞ!」
    「うるさいなぁ!言われなくても分かってるよ!」
     ガチャンとドアが閉まる音に紛れて苛立ち混じりの舌打ちが聞こえた。バタバタとした足音はたちまち遠のき、静寂が訪れる。背後からハァ、と深いため息が聞こえた。
    「ホントすみません、三郎が失礼な態度をとって」
    「急な話でしたからまだ戸惑っているのでしょう。押しかけた小生に責はあります。それにしても三郎君は本当に一郎君が好きなのですね」
    「アイツも俺や二郎以外に心を許せるヤツをつくろうとすればもっと生きやすいんだろうけど、如何せんああいうヤツで」
     ハハ、と困ったように笑って一郎は頭を掻く。
    「一郎君もそろそろ出かける時間では?」
    「ヤベ。今日はシンジュクで一日依頼をこなしてきますんで、何かあったら電話ください」
    「ええ、承知いたしました。行ってらっしゃい一郎君」
     スニーカーを履く背中に見送りの言葉をかけると、一郎は振り返ってニカっと歯を見せて笑う。
    「そんじゃあ、行ってきます!」
     二郎のようにこそばゆそうな様子でもなく、三郎のように仏頂面でもなかったが、この兄弟三人はよく似ているなと幻太郎はこの家を訪れて初めてそう思った。
     ドアが閉まり、足音が遠のく。バイクや道ゆく人々の声が時折ドアを一枚隔てた向こうでボソボソと聞こえる。自分だけの呼吸が存在する玄関で幻太郎はひとり、しばらく目を閉じて立ち尽くしていた。




    「ただいまぁ」
    「おや、お帰りなさい」
    「⋯⋯まだいたのかよ」

     三郎は肩から通学鞄を降ろしてぶっきらぼうに呟いた。「僕はお前のことが気に食わないです」オーラが部屋中にびしびしと広がり、無論幻太郎は全身でそのオーラを感じ取っていた。
     三郎は上の兄二人よりもパーソナルスペースが広いのだろうということは少し彼を観察していれば明白だった。そうでなくとも多感な十四歳という時期にライバルチームの一人が自分のテリトリー内で生活するなんて、相当なストレスに違いない。
    「ええ、はい。まだおりました」
    「とっとと小説仕上げて早く出て行けよ」
     翡翠と紺瑠璃の双眼が鋭く幻太郎に向けられる。幻太郎は笑顔を崩さない。雪解けの雫と形容される相貌をつくる筋肉のひとつも動かさない。三郎は朝と同じように態と大きく舌打ちをした。
    「一郎君は十八時頃に帰宅されるとのことでした。二郎君が帰ってくる時間もそれくらいですよね」
    「そんなこと知ってる。さっきまで一兄とは連絡を取り合ってたんだからな」
    「それで小生、夕餉を作ろうかと思いまして。初めての手料理、ハズしたくないので三人みんなが共通して好きな食べ物を教えてくださると僥倖なのですが」
    「は?別にそんなことしなくていいよ。夕食なら僕が作る」
    「いえいえ、三郎君は宿題でもなさっててください。それに何もしないままご厄介になるのはやはり気が引けるのですよ」
    「ったくしつこいなあ!いいって言ってんだろ!」
    「ハンバーグ?」
    「違う!」
    「とんかつ?」
    「違う!」
    「カレー?」
    「違う!」
    「オムライス?」
    「違う!」
    「ダウト」

     低い声でコールされ、三郎はちらりと幻太郎に視線を向ける。幻太郎は笑みを浮かべたまま、人差し指を口元に当てた。

    「三郎君、ひとって嘘を吐くとき無意識に何かしらのサインを出しているものなのです。あなたはオムライスの名前が出た時だけ瞬きの回数が余計に多く、ほんの僅かに声が上ずり視線を逸らしました。他の料理の名前を出した時には見られなかった行動です。他にも指の動きなんかで判断は出来るのですが特に目と声のサインが顕著でしたね。よって、小生はあなた方の好物をオムライスだと判断致しました」
     じぃっと黙って幻太郎の言葉を聞いていた三郎は、ゆっくりと口の端を上げ勝ち誇るように笑った。
    「ヴァージニアの捜査官にでもなったつもりか?カッコつけてるところ残念だけど、僕たちの好きな食べ物はカレーなんだよ!」
     そこまで勢いよく言い切ったところで「あ」の形に口を変えて三郎は固まった。幻太郎は先ほどと全く変わらぬ笑みを浮かべている。そうして、ずい、と三郎のパーソナルスペースに一歩大きく踏み込むと、色違いの瞳に自分が映り込むほど近づいて言った。
    「なんてのは全部嘘で、こうやって三郎君が襤褸を出してくれないかなあと密かに期待しておりました。てへ!ちなみにカレーの時に嘘のサインはバッチリ出ておりました」
    「⋯⋯お前、嫌いだ」
    「嘘ですね」
    「嘘なんかじゃない」
    「嘘ですよ。だって嫌い、なんてお優しい言葉じゃあ収めきれないのでしょう?では!小生は夕食作りに取り掛かります。普段山田家のカレーは何のお肉を使うのですか?」
    「豚コマ」
    「牛の切り落としですかねぇ、ありがとうございます」




     カレーは美味しくできた。一郎二郎はともかくあれだけ静かに激昂していた三郎は食べないだろうなと思っていたがおかわりまでした。しかし昨晩同様食べ終えると食器をシンクに置いて足早に自室への階段を登っていった。
     五合炊きの中身が空っぽになると、食ったー!と二郎が大盛りのカレー三杯が入っているのか疑わしいほど引き締まった腹に手を当て椅子の中で伸びをした。

    「ねぇ、兄ちゃん。なんか三郎機嫌悪くなかった?」
    「俺もそう思ってた。学校で何かあったんじゃねえか」
    「ああ、小生がちょっぴり意地悪してしまったのです」
    「え?マジ?なんで」
    「だって皆さんの好きな食べ物を教えてくれなかったので」
    「五歳児かよ」
    「鎌をかけたら三郎君が引っかかってしまって」
    「あはは、三郎のやつダッセ。アイツ自身そういうやり方すんのが得意だから、やり返されるとめちゃくちゃ怒るんだよなー」
    「やっちまったな夢野さん。三郎は根に持つぞ」

     長男次男はふたり揃ってひひ、と笑みを向けた。





     小説は六割方完成へと近づいていた。登場人物の動きもその口から紡がれる言葉もそれらを取り巻く情景もすべてこの頭の中にある。あとはひたすら原稿用紙と向き合ってそれらをアウトプットしていくだけだ。まあそれが単純に行かないのが執筆作業というものだが。ああほら早速主人公のここの言い回しが気に食わない。もっと他に相応しい言葉があるはずだ。ぺらぺらと辞典を捲りながらコーヒーのマグに手を伸ばすともう中身が空だったことに気づく。

     うっすらとスパイスの残り香が漂うキッチンには、昨晩と同じようにノートに向き合う一郎がいた。
    「帳簿をつけていらっしゃるので?」
     正面に立ち声をかけると、ハッと一郎は顔を上げた。幻太郎の気配に気づかないほど夢中になっていたらしい。
    「ああ、なんだ夢野さんか。いや、今リリックを書いてて」
     幻太郎が覗き込むと、なるほどノートには勢いのある字でびっしりと文字が綴られている。上から斜線で潰された言葉やぐるぐると赤で囲まれた言葉もなんかも見て取れる。
    「成程。MCビッグブローの力強いリリックはこうして生み出されているのですね」
    「なんかここがイマイチキマんなくて」
    「小生でよければお手伝い致しましょうか?お力になれるかどうか分かりませんが、小生も勉強させていただきたく」
     幻太郎の申し出に一郎は瞳だけを上に向け、にこやかに笑みを浮かべ続ける男を見る。

    「いや、ありがたいっすけど俺自身の言葉で完成させます」
    「おや。そうですか」
    「それに夢野先生、別に興味ないでしょ」
    「そんな!バスターブロスの長男がどのように言葉を紡いでゆかれるのか、興味津々好奇津々ですとも」
    「嘘だ」
     どこまでもまっすぐな瞳は逸らされることはない。
     きれいだな、と幻太郎は思う。本当だ。兄弟揃っての虹彩異色症は先天的なものだろうか。左右の瞳の色が違って生まれてくるのは、確か遺伝子異常が原因だった筈と、そこまで考えてそういえばこの家には彼らの保護者らしき人物がいないことに今更気づく。影すらない。詳しいことはさっぱりだが、先の戦争の孤児かも知れない。彼らが積極的に口を開かないうちはこちらから言及するのは得策ではないのだろう。幻太郎がほんの数秒そのように思考を巡らせる間も一郎は瞳を逸らさない。
     幻太郎は諦めて、きゅっと上げていた口角を元に戻す。

    「俺に構うよりコーヒー淹れるついでに二郎と三郎にも何かあったかいやつを持っていって貰えたら助かるっす」
    「では珈琲にミルクを足してカフェオレにしましょう。カフェといえば古代ギリシア語で"統治する"、オレは"口にするもの"。よって王の飲み物として八世紀半ば頃に生まれたものなんですよ」
    「それも嘘でしょ」
    「あらら」


    10

     階段を上る音が聞こえる。三郎でも兄のものでもない。ゆっくりと静かなこの足音は幻太郎のものだ。ペラリと手に持つ本のページを二郎がめくった瞬間、「コンコーン」となぜか口でノックを知らせる声が聴こえた。思わず小さく身体が跳ね、太腿をデスクにぶつける。痛い、と声にならない悲鳴をあげた。読んでいた漫画をベッドに放り投げ、椅子を引いてドアを開けると、盆に三つのマグカップを乗せた幻太郎がにこやかに立っていた。
    「一郎君からの差し入れです」
    「やった!兄ちゃんのカフェオレ甘くてうめーんだ」
    「試験勉強は捗っておいでですか?」
     マグカップを手にして綻んでいた二郎の顔がこの一言により一瞬にして曇り模様を見せる。幻太郎は「おやおや」と口元に手を当て目を光らせた。
    「ゲーム⋯⋯もしくは漫画に逃避していたのでしょうか」
    「え、な、なんで」
    「ドアの向こうから負のオーラを感じましたから。小生そういうのわかる系男子なんですよ。あー勉強ってめんどくせぇー!わかんねー!こんなん将来の役に立つのかよ的なオーラを⋯⋯」
     もちろん嘘だ。十人いれば九人嘘だと鼻で笑う嘘だった。しかし二郎は残りの一人であったため、「マジでか⋯⋯ヤベェ」と目の前のペテン師に慄き、兄ちゃんには言わないでともともと下がっている眉をさらにハの字にして懇願した。
    「だってホント意味わかんねーもん。英語とか数学とかならまぁ将来なんかの役に立つかもしんねーけど、古典て。昔の人の書いた話とか言葉とか勉強するだけムダって思っちまって全然進まねーの」
     二郎は机の上に目をやる。苦し紛れに数行文字を書いただけでまっさらなノート。その隣には教師に言われたからとりあえず引いただけの蛍光色が目に痛いテキストが投げ出されている。
    「源氏物語ですか?」
    「そ。もう今じゃ使わねぇ言葉をわざわざ今の言葉にしてまで勉強する意味が分からねぇ。ただでさえ勉強って苦手なのに俺には関係ない昔の人の話なんか」
    「はぁ、源氏物語と二郎くんにはなんの関係もないと」
    「関係なんてねぇだろ」
     椅子の上で足を組み眉根を寄せる二郎を見ながら、幻太郎はそっとテキストに指を寄せる。
    「源氏物語。紫式部の手により平安時代中期に成立した日本の長編物語。光源氏と女性たちの恋愛物語を中心に、紫式部から見た貴族社会に関わる話などが描かれ世界三大古典として世界中で多くの諸言語に翻訳もされています。およそ七十年間におよぶ時代が描かれその文字数はおよそ百万字。登場人物は五百人ほどです。二郎君のテキストに載せられているのは源氏物語のほんの、ほんのほーんの一部にしか過ぎません」
     立て板に水のごとく説明されたが二郎はその半分も理解ができなかった。登場人物五百人て、"とある化学の黙示録"のキャラクターより多いな、とだけ思った。
     ひく、と口の端を震えさせる二郎に軽く目線を送り、幻太郎は微笑む。
    「先程二郎君とこの物語の間にはなんの関係もないと仰っていましたね」
    「おう」
    「日本の物語文学は"源氏"に高まって、それで極まり──。そう評した小説家がおります」
    「アンタ?」
     二郎の言葉に幻太郎は二、三度目を瞬かせたのち、口に手を当てくっ、と喉を鳴らして笑った。その笑い声は次第に大きくなり、終いには堪えきれず頭をのけぞらせて笑った。普段すかした男があんまりにも可笑しそうに笑うものだから二郎は段々と居心地が悪くなり「誰だよ」と叫ぶようにして尋ねた。
     ひとしきり笑った幻太郎はふぅふぅ息を整えて二郎に向き直る。

    「はぁ⋯⋯ふふ、申し訳ありません。川端康成ですよ、ご存知で?」
    「んーなんか聞いたことはある。でも誰かは全然知らねー」
    「国境の長いトンネルを抜けると、雪ほにゃらら」
    「ゆ、雪⋯⋯?あ!雪国?」
    「ご名答。川端康成は近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人です。ノーベル文学賞も受賞しています」
     へースッゲ!と二郎は素直に呟く。まどろっこしい経歴よりもノーベル賞受賞というインパクトの方が印象に残った。
    「その川端康成が愛読し、日本の物語文学の最たるものと評したものが源氏物語です。そして、彼と師弟関係にして好敵手であった小説家がおります。ああ、それもまた小生ではありませんよ勿論。三島由紀夫⋯⋯金閣寺。ご存知ない。潮騒。ご存知ない⋯⋯あ、三島事件なら?そうですか、そうです。その小説家です。そしてその彼が絶賛した芸術作品がありました」
    「⋯⋯」
    「風神雷神図です」

     二郎は薄く口を開け、じぃ、と幻太郎を見つめる。

    「うわマジで?」
    「ね、全く関係ないなんてことなかったでしょう。何事も遡ってみればの紙ように薄くとも、糸のように細くとも何かしら繋がりがあるものです」
    「いやちょっと待てそれはすげーと思ったけどさ、結局全然テスト勉強は進んでねえ」
    「おや、申し訳ございません。衒学趣味が露見してしまいました。して、何がわからないのです?」
    「げん⋯⋯?んんと、話の内容もよくわかんねーけど和歌ってやつの意味もどうにも分かんねえ。あ、洒落じゃねーぞ」
     二郎は長い指を開いて幻太郎に向ける。
     幻太郎は口元に手を添え考え込むように目を閉じた。
    「和歌は散文とは異なるものですからねぇ。意味も大事ですが、それと同じ重みを持った言葉の旋律を忘れてしまっては味気のないこと。ラップも同じでしょう?」
    「意味わかんねーけどまあ確かにそう言われればそうかも。でもさぁテストはちゃんと答え書かなきゃ点数にならねえから」
    「学校教育の現場においては心で感じとっても紙の上に正答を書かなきゃ零点ですものね。マジ卍です」
    「うわ微妙に古っ!」
    「はい。たかだか数年前にぽんとうまれた言葉ですよ。新しい言葉があらわれては咀嚼されもせず軽く吐き出されゆくのが現代ですが、古典の言葉は実に重い。時代を超えて受け継がれてきた叡智による重みです。その重さに触れ、味わうことこそに意味や意義があると思うのです。特に言霊を扱う我々は──。でもまあしかし、テストの前では小生の主張は小鳥の囀り。まずは物語の内容を理解するところから始めましょうか。さて、H歴の文豪夢野幻太郎は紫式部の最高傑作を現代どころかライトノベル風にだって訳せますがいかがです?」 
     そこまで息もつかずに述べてみせた幻太郎の顔を、二郎はたっぷり一分は見つめていた。
     やっぱり目の前にいる男の言うことはよく分からなかったが、最後の方に聞こえたことはかろうじて脳が受け入れた。
    「え?なに?付き合ってくれんの」
     幻太郎の懇切丁寧な訳の甲斐あって、光源氏からの寵愛を受ける桐壺の心労を二郎がやっと理解できた頃。三郎へ持って行くはずだったカフェオレはとうに冷えきっており、二郎と幻太郎は顔を見合わせて(しまった)と汗をかいた。


    11

     山田三郎は考えていた。
     白黒の市松模様の盤面と、その上に並ぶ駒に向き合い考えていた。しかしその思考はほんの数秒ほどのもので、すぐに白のナイトを動かし、黒のポーンを獲る。その手で置いているチェス時計チェスクロックのボタンを押した。そしてまた数秒考え、今度は黒のクイーンを前進させ時計のボタンを押す。
     三郎はよく一人でチェスを指す。
     もちろんPCでネット対戦をすることの方が多いが、こうしてときどき本物の盤や駒に触れたくなるのだ。
     そして今日がまさにその気分だった。
     学校から帰宅すると兄ふたりの姿はなく、数日前に突然やってきたいけすかない小説家の出迎えもない。PCに向かい三ゲーム勝利したところで飽きてしまい、チェスのセットを持って自室から事務所へと移動した。こうして待っていればいずれ一郎が帰ってくるだろう。座り直すとギ、と革張りのソファが軋む。さあ、どう詰めようか。
     白の駒を進めて時計を止める。
     黒の駒を進めて時計を止める。
     三郎は夢中だった。
     だから事務所に誰かが入ってきたことにも気が付かず、目の前にスッとのびてきた白い指が黒のビショップを手にしたことに気づいたときも、声を出さず心臓だけをばくんと鳴らしたのだ。
    「あと七手先で詰みチェックメイトです」
     三郎はゆっくりと顔をあげる。驚嘆に丸くなった瞳には、口元に薄く笑みを湛える小説家が映っていた。
     急に出てくんなよ。とか、勝手に触るなよ。とか、お前まだこの家にいたのかよ。とか、不機嫌さをあらわす言葉をいくらでも目の前の男にぶつけられたはずだった。実際、三郎は一瞬にして十五の罵倒を思いついていた。
     しかしソファの上で駒のように固まった三郎の口から囁くように出てきた言葉は、そのどれでもなかった。
    「お前⋯⋯チェス、できるのか?」
     てっきり三郎からのお叱りが飛んでくるものとばかり思っていた幻太郎は意外そうに一度だけ瞬いた。目の前の少年は、普段煙たそうに向けるまんまるい瞳を光らせている。
    「嗜む程度ですが。ルールや駒の動かし方は心得ていますよ」
    「わ、なんだよ上等じゃないか!ほら、こっちに座れよ」
     ぱしぱし、とソファを叩く少年に圧倒され、幻太郎は言われるがままに身体を沈める。三郎は向かい側に座り、駒を並べ直しはじめた。


    「あと八手先で詰みです」
    「はぁ!?お前また⋯⋯クソっ!」
    「確かめてみますか?」
    「いいや、もう十分だよ。投了する」
     三郎は自陣のキングを指で倒した。ゼロ勝、五敗。
     チェスは嗜む程度だと遜っていた男は腿の上で手を重ねて微笑んでいる。別に自分が悪い手を指しているわけではない、と三郎は思う。しかしある程度互いに駒を動かしあっているうちに男は歌うように言うのだ。

    「あと五手で詰みです」

     はじめはなんだコイツ、と思いながらも警戒して駒を動かしていた。しかし、結局は男の言う通りに勝敗がついてしまう。くっそぉ、と唸りながら三戦目から付け始めたスコアシートを食い入るように見つめた。
    「三郎君はチェスがお得意なのですね」
    「はあ?何それイヤミかよ」
     スコアシートから目を離さず言葉を返す。しかししばらく経っても相手からの返事がなく、三郎は視線を目の前の男に向けた。いつもの貼り付けたような笑みとは違い、明らかに、困ったように微笑んでいた。その笑みを見た瞬間、三郎は初めて、幻太郎に向けた言葉を後悔した。
    「⋯⋯ごめん。うん、チェスは得意っていうか好きなんだ。まあ僕ボードゲームはなんでも好きだけどさ。チェスは芸術、科学、スポーツ、これらすべてだ⋯⋯って言われるくらいのゲームだし特別かな」
    「カルポフですね」
     三郎は頷く。そして、スコアシートをテーブルの上に置き、まっすぐに幻太郎に向き直る。しかし、向き直ったはいいがああ、とかうう、とか何か言いたげに口元で指をまごまごと動かしているだけだ。
    「なあ、夢野あのさ。夕飯作るまで時間があるからさ」
    「はい」
    「で、今日の夕飯は僕が作るから、だからそれまで時間があるから⋯⋯だからさぁ⋯⋯」
    「三郎君」
    「な、なに」
    「小生ともう一戦交えては下さいませんか?久しぶりに駒を動かしてみたらなんだか楽しくて。三郎君がよろしければの話ですが」
     幻太郎の申し出に三郎は「うん!」と思わず言いかけたがすんでのところで言葉を飲み込み、かわりにふうっと小さく息を吐いた。
    「まったく、しょうがないなぁ」


    12

     夕食後。いつものように執筆作業を進める途中で喉が渇き、キッチンへ降りていくとこれまたいつものように一郎がノートを広げていた。幻太郎が声をかけるより先に一郎は顔を上げた。
    「夢野さん、ありがとな」
     冷蔵庫を閉めながら「はて?」と返す。幻太郎には本当に一郎のありがとうの意味が分からなかった。
    「昨日あれから二郎の勉強見てくれたそうで。三郎もさっき夢野さんとチェスしたんだーってこっそり教えにきてくれて。あいつああ見えてすげぇ喜んでますからね」
     「ああ、成る程。そんなこと」
     礼には及びませんよと返すと一郎は頭を振った。
    「俺じゃ勉強も満足に見てやれねぇし、テレビゲームとかオセロとかのゲームしか三郎に付き合ってやれなくて」
     兄の役割としてはそれで十分だろう、と幻太郎は思わず突っ込みたくなる。十九歳。雄大なキャンパスを友達と歩き、講義を受け、サークルに顔を出してから夜はバイトをし、その足で明るい夜の街をバイト仲間や恋人とぶらつきながら笑いあっていい年頃だ。
     しかし目の前にいる十九歳は朝から兄弟のために朝食をつくり、萬屋として猫の捜索から犯罪者の捕縛と難易度ピンキリの依頼をこなし、兄弟とともに食卓を囲み、己の言葉と向き合っている。シブヤの[[rb:邸> いえ]]でペンを握りしめていた頃には全く考えもしなかった。敵対関係にある長男の日常なんてカケラも興味は無かった。
     いけない。
     そこで思考を止め、幻太郎はつめたいグラスを両手で握りしめる。
    「一郎君は」
    「うん?」
    「一郎君は、何か望みはないのですか。勉強でもゲームでも小生、ある程度のことにはお付き合いできますが」
    「なんすかそれ」
     一郎はいつものようにからっとした気持ちのよい笑い声をあげる。
    「夢野さんをうちに連れてきたのは俺たちに付き合わせるためじゃねっすよ。小説仕上げるためでしょう」
    「まあ、ええ。そうですが⋯⋯」
    「でもそうだなぁ、これからも二郎と三郎によくしてやってください。それが俺の望みっすね」
     幻太郎が口を開くより先に「ところで」と思い出したように一郎は問いかける。
    「肝心の小説は進んでんすか?」
    「ええ、もうばっちりですとも。九割方書き終えました」
     一郎は「嘘だ」と即座に返す。
     幻太郎はグラスを手にしたまま首を傾げた。



    13

     翌朝、幻太郎がキッチンへ降りるといつものように三兄弟が揃っていた。おはようございます、と眠気を含んだ声で挨拶をすると、「おはよーございます」「はよっす」「おはよ」と三者三様の挨拶が返ってくる。
     兄弟はわしわしと朝食を掻き込み歯を磨き、揃って玄関へと向かう。一郎はヨコハマで依頼された仕事があるらしい。幻太郎は靴を履く三人の背中に声をかける。
    「みなさんお気をつけて行ってらっしゃい」
    「行ってきます!」
     三郎までもが照れ臭そうな笑顔を向けて、明るいイケブクロの空の下に飛び出していった。



     昼を過ぎると集中力が流石に切れ、鞄に筆記具と原稿を入れて幻太郎は街へと繰り出した。
     駅近くのカフェへ足を踏み入れ、珈琲を注文する。若い店員だけでなく、テーブルで携帯を弄っていた女性やパソコンに向かっていた男性、それどころかここに着くまでにすれ違った人々の視線が自分に注がれていることに幻太郎はとっくに気付いている。
     シブヤ・ディビジョン代表のひとりだ、テレビに出てた人気作家だ、なんか袴着てる人がいる。
     どういう額縁に当てはめられて見られているのか幻太郎は気にも留めない。
     窓際の明るいカウンター席に腰を落ち着けて窓の外に目をやる。花霞のように昔ながらの喫茶店ではないが、ポップなカリグラフィの溢れる店内での執筆作業は新鮮で、これはこれでまあいいかと幻太郎は珈琲を啜る。
     平日の十五時の店内は人も疎らで、相変わらず見られてはいたが声をかけられることはなかった。
     存外筆が乗り、これなら明日にでも脱稿できるのでは、とペンを走らせているところに携帯が震えた。
    『もっしもしー?乱数だよー!』
     幻太郎は思わず耳から携帯を離す。いくつか音量を下げてから返事をした。
    「お久しぶりです乱数。その節は大変お世話になりました」
    『えっへん!ナイスアシストだったでしょ?てゆーか、ゲンタロー今どこにいるの?家に行ったのに誰も出ないからまた何かあったのかと思っちゃったよ』
    「ああ、うちへ来たのですか。小生、実はいま⋯⋯」
     イケブクロにいます、萬屋ヤマダに住んでいますと幻太郎が事の次第を乱数に説明すると、『えー!そうなのぉ〜?』と電話の向こうで叫び声を上げた。幻太郎は眉根を寄せ、再び受話音量を下げる。
    『そっかぁ〜。でもなんもなくてよかったぁ』
    「申し訳ありません。お伝えしておけばよかったですね」
    『んーん!そ、れ、よ、りぃ〜!!イチローたちが可愛くなったからってイケブクロの仲間入りしちゃメッだよ?ゲンタローはボクたちのポッセなんだからね?』
    「すみません乱数⋯⋯!小生、山田家四男の幻太郎になり申しまして⋯⋯!」
    『そんなこと言ってたらホント〜に絆されちゃって帰ってこられなくなっちゃうよ?そしたらボクもダイスも許してあげないんだからねっ』
     はいはい嘘ですよ、と受け流して通話を切る。
     イケブクロの仲間入り?絆される?乱数の言葉を反芻する。ありえない、と幻太郎は誰にも気付かれないよう小さく笑った。



    14

     今日一日にあった出来事を各々話し合いながら夕食を囲み、風呂に浸かり、部屋に篭って原稿用紙に向き合う。一週間も経つとすっかり幻太郎はそんな生活に慣れてしまった。
     資料の文献をぺらぺらと捲っているとドアをノックされた。入っていい?と遠慮がちな声は三郎のものだ。どうぞと返事をすると、ドアの隙間からそっくり声と同じような表情をした三郎の顔が覗いた。その手にはチェス盤が抱えられている。
    「あのさ、作業が終わってからでいいからさ、またチェスの対局してくれないか?」
    「おや、喜んで。丁度休憩しようかと思っておりましたから、何なら今からでも構いませんよ」
     ぱ、と三郎は顔を輝かせる。まるで長男に向ける顔じゃないか、と思ったところで幻太郎は頭を振る。
     三郎は盤と駒、時計をセットして準備万端といった様子で幻太郎を見ている。

    「あと四手でお前の詰みだ」
     一戦目はステイルメイト、引き分けだった。そして二戦目にして三郎は高らかに幻太郎の詰みを宣言する。
     この少年、非常に頭が良いのだろう。それに加えてかなりの負けず嫌いだと幻太郎は三郎の顔を見ながら思う。昨日の五敗から一体どれだけのことを学んだのか幻太郎には想像もつかなかった。
     幻太郎は口元に手を添え数秒思考する。
     その間、白と黒の駒の動きを数手先まで脳内で再現し、黒のクイーンを手に取り盤上に置く。
    「いいえ、あと五手先でそちらの詰みです」
     先ほどまで誇らしげだった三郎の顔が一瞬にしてくしゃりと変わる。しかし怒ることも嘆くこともせず、淡々とスコアシートにペンを走らせていた。
    「驚きました三郎くん、上達のスピードが異常ですね」
    「勝った局より負けた局の方から多く学べる」
    「⋯⋯良い棋士になるには何百回と負けなくてはいけない」
    「カパブランカ。チェスの天才だ。ね、夢野、もう一戦だけしよう」
     手早く駒を並べ直す三郎は少年然として見える。いや、少年というよりもテーマパークに訪れた童子が早く早くと父母の手を引くようだなと幻太郎は思った。

     三戦目もステイルメイトだった。
     三郎はスコアシートを見つめながらうんうんと唸っている。
    「小説家って頭いいんだなぁ。新しい発見だよ」
    「三郎君も成りますか」
    「いやだよ。僕は将来一兄の仕事を手伝うんだ。それに、小説家って短命そうだろう。僕はこの先もずっとチェスをやりたいんだ。チェスをするには人生は短すぎる、なんて言葉もあるくらいなんだからな」
    「それは残念。それにしても本当に上達が早い。ご学友なんかは三郎君とチェスをしても歯が立たないのでは?」
     三郎は返事をしない。
     チェス盤に視線を落とし、じっと駒を見つめている。長い睫毛がその顔に影をつくる。
    「チェスができるやつなんてクラスにも同学年にもいない。みんな何考えてるのか理解もしたくないほどの馬鹿ばっかりだから。そもそも⋯⋯」
     三郎はそこで閉口する。
     幻太郎が薄々勘づいていたことだが、この少年にはおよそ友人と呼べる存在がいないのだろうということが確信に変わってしまった。夕食どきにぽんぽんと覚え切れないほど他人の名前が出てくる二郎対して、三郎は授業や登下校中に見たものの話ばかりしていた。
     チェスは、数学や音楽のように、天才児たちの託児所。
     幻太郎はぼんやりとそんな言葉を思い出していた。
    「でも、別にいいんだ。だって僕には一兄がいる。おまけして二郎も。だから⋯⋯」
    「友達なんていらない」
     先に続く言葉を口にすると、ようやく三郎の瞳がチェス盤からあげられた。緑と紫の色をしたそれは、先ほどまでの熱を喪っている。
    「かつて⋯⋯そのような言葉を吐いた男がおりました。孤独で孤独でたまらなかったはずなのに。虚勢の鎧を纏って周囲を睨みつけておりました。夢物語だけが唯一の友でした。しかし、珍妙なことにそんな男に手を差し出す者がおりました。男は一度は突っぱねたものの、その人の手を取りました。その友人はもう一人知らない者にも声をかけていたようで、男には一気にふたり、友人ができました。男ははじめ、猜疑の目を友人らに向けておりました。歩んできた人生も、好きなことも得意なことも全く違うふたりと過ごすことに戸惑も覚えました。しかし、一緒に過ごし、あらゆる災難を共に乗り越えるうち、男にとっていつしか彼らは掛け替えの無い友であり仲間になっていたのです」
    「オチは?」
    「ありません。この話には教訓も救済もありません。ただただ、何も持たない男に友人ができたという、それだけの話です。生憎ですが、三郎君にもいずれ心を許せる人が現れるとか、生きることと友の素晴らしさとか、そんな大それたことを無責任に説けるほどの人生を小生歩んではおりません。だから三郎君」
     トン、と幻太郎は市松模様の盤に触れる。
    「チェスをしましょう」
     勝敗も戦法もどうでもよかった。
     目の前の少年の友人事情など幻太郎にとってはどうでもよかった。
     ただ、今だけはこの天才の託児所の先生になれるのであればと、そう思っただけだった。
     幻太郎は駒を動かした。
     大きな色違いの瞳がゆらゆらと揺れていることに気づかないふりをしながら、孤独な天才児と向き合っていた。


    15

     目を覚ますと午前八時。今日は土曜日。
     兄ちゃんへの依頼は午後からだったよな、とひとりごちた後、二郎は寝巻きのまま勇んで隣の部屋の扉を叩く。
    「おーい夢野、起きてっか?朝メシ食ってからさぁー⋯⋯」
     扉を開けた二郎は、部屋の中を見回して数秒固まったのち絶叫した。
    「ウ、ウワァーッ!おまっ⋯⋯三郎か?何してんだ!?」
     幻太郎がいるはずのベッドの中に、弟が丸くなって目を閉じ、すうすうと寝息をたてている。そして、部屋の主は窓際のデスクの上に突っ伏して眠っている。
     なんで三郎がこの部屋で寝てんの?と二郎が汗をかいていると、先ほどの絶叫が耳に届いたのか二人とも低く唸って目を開けた。
    「この馬鹿そうな声⋯⋯二郎か?朝からうるさいなぁ」
    「おや⋯⋯二郎くん、おはようございます」
    「なんで三郎がここで寝てんだよ!」
    「え?あ⋯⋯ホントだ」

     三郎はベッドから身体を起こし、呆けたような顔をしている。

    「もしかして僕、チェスの途中で寝ちゃってた?」
    「ええ。あの時はもう三時を回っておりましたから⋯⋯。ですので小生がそちらに三郎君を運んだのです」
    「そっか、ありがとな」
    「は?お前ら夜中の三時まで遊んでたのかよ」
     二郎は扉の側で眉を顰める。
     これはまずいぞ一郎にばれたら怒られてしまう、と幻太郎と三郎が同時に思ったところで二郎は人差し指をびしっと立てて口を開く。
    「じゃー朝は俺がこいつ借りるからな」
    「はは、ご愁傷様だな。低脳の二郎相手じゃどんなゲームも張り合いなくてつまんないだろうに」
    「は?ゲーム?休み中の課題見てもらうんだけど」
     休み中の課題見てもらうんだけど。
     三郎は次男の口から飛び出してきた言葉を数回脳内でリフレインさせたのち、ベッドから跳ね起きて転がるように階段を駆け降りた。
    「いっ、一兄〜!二郎が!二郎の頭がおかしくなってます!!いえアイツは元からおかしいんですが、一兄ー!!」
     階下から聞こえたその声に、二郎はフンと鼻を鳴らす。幻太郎は手櫛で髪を梳きながら問いかける。
    「二郎君、何の課題が出ているんです?」
    「数学と英語」
    「⋯⋯畑違いですが善処しましょう」
    「なあ夢野」
    「ええ、何でしょうか」
    「俺とゲームすんのつまんねぇ?」
     何かと思えば先ほど弟に言われたことを気にしているのか。課題を終えた後に二郎とするのは、三郎が好むような知略戦略のボードゲームではなく、コントローラーでキャラクターを動かすテレビゲームだ。あまり経験がないぶん、二郎の方がずっとうまい。
    「そんなことはありませんよ。必殺技の方法、教えてくださいね」
    「おう!」

    16

     休日は二郎も三郎も萬屋の手伝いをするのだと誇らしげに昼食の席で語り、三人は揃って玄関で靴を履く。
    「別にお前たちついて来なくてもいいんだぞ?休みの日くらい家でゆっくりしてていいのに」
    「いつも手伝いたいのに学校行かなきゃなんないから、休みの日くらい手伝わせてよにーちゃん!」
    「そうですよ一兄!僕達⋯⋯いえ、僕が手伝いたいんです」
     一郎は困ったような嬉しいような、とにかく複雑な顔をしたのち笑顔で弟たちの頭を撫でた。二人とも幻太郎が見たことのないくらいにふやけた顔をしている。一郎が幻太郎を振り返る。
    「ってことで俺らちょっと出てきますね。近くに住んでるじいちゃんからの依頼なんで、夕方前には帰ってこられるとは思うっす」
    「ええ、お気をつけて行ってらっしゃい」
    「行ってきます!」
     いつものように兄弟を送り出した後、自室に戻り筆記具を鞄に詰める。紬から書生服に着替え、帽子を頭に乗せ、ブーツの紐をかたく結んで萬屋ヤマダを後にする。


     この間のカフェに向かうと、流石に土曜日は混み合っていた。幻太郎はしばらく列に並んで珈琲を注文した。
     幸い窓際のカウンターは空いていた。相変わらずじろじろと不躾な視線が四方八方から幻太郎に向けられるが、涼しい顔でペンを走らせる。
     店員の明るく弾んだいらっしゃいませ、スピーカーから流れるジャズに似せた音の調べ、若い女子集団の弾む雑談、眼鏡をかけた男性のタイピング音、走ってはダメと子どもを諌める父親の声。
     すべての音が混ざり合い、ひとつのかたまりとなって幻太郎を覆っている。悪くはない。まったくの静寂より、こうしてある程度の雑音がある環境の方が集中できた。
     あと二場面ほどで完成に近づいたところで、ううんと大きく伸びをする。冷めてしまった珈琲に口をつけながら窓越しに行き交う人々をぼんやりと目に映す。
    (あの女性はかつては有名なダンサー。足を悪くしてから今は家庭に落ち着いているが、家族に隠れて夜な夜な地下の一室で踊っている)
    (あそこに座る老人には八人の孫がいる。クリスマスに何を買ってやろうかと昨年のクリスマスが終わってからずっと考えているが答えが出て来ない。あそこの会社員は、あの白人は⋯⋯)
     空想にも飽きたところで携帯に触れると午後四時を少し過ぎたところだった。
     全ての所持品を鞄にしまい込み、依然として賑わうカフェを後にする。


     三兄弟より早く帰宅したら夕食を作ろうと思いながら幻太郎はイケブクロの街を歩く。冷蔵庫の中の食材を思い浮かべているところに、前方から体格の良い男性が連れ立って歩いてくるのが見えた。幻太郎は少しばかり右側に寄って歩みを進めたが、すれ違いざまひとりの男性と肩がぶつかった。
    「申し訳ありません」
     小さく謝罪してそのまま通り過ぎようとしたところ、強い力で肩を掴まれた。
    「いってぇんだけど?」
     ドスの効いた声で先ほど肩がぶつかった男が幻太郎へ詰め寄る。きついタバコの匂いに幻太郎は眉を顰める。一緒に歩いていた男たちは「オイオイやめとけよぉ」と下卑た笑いを浮かべている。
     イケブクロはいい街だが、その中には悪い奴らもごまんといるから気をつけろと以前一郎に忠告されたことを思い出した。確かにシブヤではこんな強引な絡み方をされたことはない。
     五人の男のうちの一人がまじまじと帽子の下の幻太郎の顔を覗き込む。
    「なぁ、俺コイツ見たことあるぜ」
    「誰?有名人?」
    「テレビで見たんだよ。あ、ディビジョンバトルのヤツだよ!シブヤの代表チーム!」
    「うわマジだ。ナントカポッセのメンバーじゃん?ヤベ」
    「なんでブクロにいんの?どーでもいいけどコイツやっちゃえば俺らさ、一郎ばりの有名人になっちゃう?」
     男たちは懐からそれぞれマイクを取り出し起動させる。
     幻太郎は小さく息を吐き、外套の下に手を入れた。
     男たちの持つそれは、幻太郎のもつ正規のマイクとは違い違法とされているものだった。ここ最近違法マイクが出回りすぎだろう仕事をしろ中王区、と幻太郎は胸中で毒づく。
     一ヴァースでいっぺんに四人の男を地面へ転がす。
     肩をぶつけてきた男ががなり声でマイクに口を近づける。まったく大したことのないリリックだが、違法マイクの出力は幻太郎が想像した以上の衝撃で脳に響き、ぶわりと汗が噴き出した。一瞬目の前が暗くなったが舌を噛んで意識を戻す。反撃しようと口を開くが、違法マイクの影響かヒュウと掠れた音が喉から出るばかりだった。
     これはまずいな、と幻太郎は眩暈のする頭を押さえる。マイクをかたく握りなおすと、頭の中をぐるぐるとかき回されるような感覚が一層激しさを増した。足元が回る。街が回る。世界が回る。気持ち悪い。
     誰か、乱数、帝統。
     誰か。
     祈るように友人の名を唱えた瞬間、幻太郎にマイクを向けていた男が突然叫び声をあげてその場に蹲った。
     何事か、とふらつく頭で後ろを振り返ると、そこにはイケブクロの三兄弟がマイクを手にして立っていた。
    「大丈夫っすか?」
     一郎が手を差し出す。幻太郎がゆっくり手を伸ばしてその手を掴むと、強い力で引き上げられた。
     二郎と三郎が側に駆け寄る。シブヤの代表ともあろうものがこんなチンピラ相手に情けない、とこの兄弟達に侮られたに違いない。頭を押さえながら二郎と三郎の顔を見た瞬間、ぐらついていた幻太郎の意識は一気に鮮明になる。
    「大丈夫か?」
    「夢野、怪我はない?」
     心底不安そうに幻太郎を見ているのだ。侮りも見下しも軽蔑もなく、ただただ幻太郎を気遣う気持ちだけがそこにある。

     ああ、と幻太郎はゆっくり瞬く。
     ああ、駄目だと頭の中で鳴り響く警笛を聴く。
     駄目だ。
     ここにいてはもう、駄目だ。



    17

     夕食後。バタバタと階段を駆け登る音。言い争いをする声。勢いよく開く扉。誰が訪れたのかは明白だった。
    「なー夢野!兄ちゃんと一緒に下でサッカー見ようぜ!」
    「ふざけろ二郎!こいつは僕と一兄と一緒にブロックスやんの!」
    「それ四人でも出来んだろーがじゃあ俺も入れろよ!」
     しばらく兄弟は掴み合い、やがてぴたりと止まった。誘いをかけた男が何も答えないからだ。
    「夢野、何やってんの?」
     部屋の中の違和感に気づいた三郎が幻太郎に問いかけた。本棚に詰められていた本がない。資料やペンが散乱していたデスクの上はつるりときれいに片付いている。そして、いつも入浴後は浴衣を着ているはずの幻太郎は見慣れた書生服を身に纏い、旅行鞄を手にしている。
     三郎は眉を顰めた。
    「何、やってんの?」
     再びの問いに、幻太郎は兄弟に向き直り短く告げる。
    「小説を書き終えまして」
     嘘だった。
     完結までは残り数頁。それでも一刻も早くここから出ていかなければならない、と焦りにも似た思いで幻太郎は立っていた。二郎と三郎の顔を見ないようにと努めていたが、耐えられずに幻太郎はちらと視線を二人に向けた。そして、それをすぐに後悔する。
    「そっか。そういやお前そういう目的でウチに来たんだっけか。お疲れさん」
     二郎は名残惜しそうに笑っている。三郎は唇をかたく結んで床に目線を落としている。そんな兄弟の顔を見て幻太郎はそっと唇を噛む。
     駄目だ、そんな顔をするな。これでは駄目だと胸の内で叫びながら、つとめて静かに二郎と三郎に言葉を向ける。
    「それにもう飽きたんですよ。あなた達のようなお子さまの相手をするのは。やはり執筆は一人で行うに限ります」
     そう言って、幻太郎は二人に背を向けた。窓の外から見える街灯のことだけを考える。声は震えていないだろうか。兄弟からの言葉はない。続けて幻太郎は口を開く。どうか冷たく聞こえますようにと祈りながら。
    「それに野蛮なイケブクロの風は性に合いません。今日のようなことはもう勘弁被りたいのです。小生はシブヤに帰ります。次にお会いするのはディビジョンバトルでしょうが、馴れ馴れしく声なんかかけないでくださいね」
    「⋯⋯なんだよ、それ」
    「わけわかんねぇよ⋯⋯」
     初めてこの家へ訪れた時のように突っぱねてくれ、と幻太郎は思う。これでいい。これで心穏やかにこの家から出て行ける。
     しばらく誰も身じろぎすらしなかった。

    「嘘だ」
     張りつめた部屋の空気に亀裂を入れたのは、一郎の声だった。依然として黙りこくっている兄弟達の前に立ち、幻太郎の背中に向かって投げかける。
    「全部嘘だ」
     芯の通った力強い声には、もう何を語ったって無駄なのだろう、と幻太郎はそっと目を閉じる。チェックを宣言されて足掻くほど愚かではない。
     そう、嘘だ。全部うそだ。
     しかし喉元で留めているこの言葉が本当だとして、一体誰が信じるのだと幻太郎は思う。自分自身でさえ未だに信じていないのに。
     それでも幻太郎は目を開ける。ゆっくり振り返り、兄弟三人の顔を順番に見て口を開く。

    「小生、あなたたち兄弟がかわいいんです。
    嘘みたいでしょう」

     ぼろ、と三男の左目からこぼれ落ちる涙が、スロウモーションのように映った。


    18

    「なんでそれで出ていくんだよ。もう少しいりゃいいのに」
    「これ以上あなたたちと一緒にいたらもう、シブヤへ帰れなくなってしまうような気がするのです」
    「そんなもんか」
    「そんなもんですよ」
    「アンタが先生だったらよかった。そしたら意味わかんない勉強もちったぁ分かる気がするのに」
    「小生だって、指導要領に従っていたらこんなに時間をかけて教えるなんて不可能ですよ」
    「そんなもんか」
    「そんなもんですよ。テストで満点取りなさいなんて言いませんから、これからも学ぶことを諦めないでください。"二十歳だろうが八十歳だろうが、学ぶことをやめた者は皆老人"です」
    「⋯⋯年をとったから遊ばなくなるのではない」
    「遊ばなくなるから年をとるのだ──。よく遊び、そしてよく学んでください」
    「ここ、どういう意味」
    「あかなくに まだきも月の隠るるか 山の端にげて 入れずもあらなむ⋯⋯あかなくに、とは名残惜しい、満足していないという意味です。逆接⋯⋯けれども、という意味で使われることが多いですね」
    「あかなくに」
    「ええ」
    「なあ、終わったらスマブラやろうな」



    「まだ僕、一度もお前に勝ててないのにさ。なんだよ。勝ち逃げかよ」
    「おや、まだこのゲームは終わってはいませんよ」
    「あと三手で詰みだ」
    「いえ、あと六手先で三郎君の詰みです」
    「⋯⋯明日からまたAIとの対戦に逆戻りだ」
    「たまには小生の邸に来たらよいじゃありませんか」
    「いいの?」
    「ええ、将棋も囲碁もオセロもトランプも花札も賽子もお菓子だってありますよ。最後のみっつは乱数と帝統が置いてったものですが」
    「お前たちは仲がいいよな。てんでばらばらに見えるのに」
    「友人ですから」
    「チェック。四手で詰みだ」
    「⋯⋯」
    「⋯⋯」
    「チェックメイト」
    「ああ、クソッ」
    「小生はシブヤへ戻り三郎君はまた学舎へと向かいますがいつだって来訪をお待ちしておりますよ。だから、ねぇ、三郎君。そんな顔しないで」
    「⋯⋯人生は、チェスとは違う」
    「ええ。チェックメイトの後も、ゲームは続くのです」


    19

     終電に間に合うようにシブヤに帰るつもりだった。しかし、次男と三男と話し込むうちにすっかり夜が更けてしまったため、幻太郎の出立は明日の朝へと延ばされた。
     二つのグラスに麦茶を注ぎ、一郎へ差し出す。地獄の最中にいた自分が、こうして山田一郎と向かい合うことになるなんて、と幻太郎は不思議な気持ちで目の前の男を見据えた。
    「一郎君、本当にお世話になりました」
    「いえいえ、ここなら落ち着いて執筆できる⋯⋯なんてことはなかったっすね。でも大方書き終わったみたいでよかった」
    「一郎君もリリックは書き上げたのですか?」
    「おう!んで、今日アンタに絡んでた奴らにぶつけたっす」
     一郎はぐっと親指を立ててみせる。
    「あなたには二回も命を助けられてしまいましたね。本当にありがとうございます」
     礼なんか、と手を振る一郎の言葉を遮るように幻太郎は続ける。

    「小生を助けてくれてありがとうございます」
    「うん」
    「邸を綺麗にしてくれてありがとうございます」
    「うん」
    「ここへ連れてきてくれてありがとうございます」
    「うん」
    「兄弟、を⋯⋯、思い⋯⋯出させて、くれて」


     幻太郎は口を閉ざす。一郎は黙って向かいの男を見つめている。
     幻太郎の口から先の言葉の続きが紡がれることは終ぞなかった。何かを閉じ込めるように幻太郎は口元だけで小さく笑う。それから顔を上げ、いつもの調子で一郎に詰め寄った。

    「ねぇ一郎君。本当に一郎君は何か望みはないのですか。報酬以外に小生がお返しできることはないのですか。小生があなたの立場だったら五十年先だって相手に恩を着せますよ。そりゃあもう十二単並みに着せまくりますよ」
    「夢野さんって案外律儀な人なんすねぇ。俺の望みったって別に今後のバトルで絶対手ぇ抜かないとかでいいんすけど。⋯⋯あ!じゃあ、そうだな」
     一郎は笑ってパチンと指を鳴らす。
    「リンカーネイションシリーズの続きが読みたいっす!」


    20

     書生服の襟を正して外套を羽織る。髪を軽く整えて帽子を被る。靴紐を結んで爪先で軽く蹴る。手にした旅行鞄は思い出の分だけずしりと重い。
     幻太郎が振り返ると三兄弟が見送りのためにと揃っている。誰も何も言わなかった。幻太郎が口を開かなかったのは、何か言えば年甲斐もなく泣いてしまいそうだったからだ。
     兄弟達もそうなのだろう、と幻太郎は思う。たぶん。きっと。おそらくそうだ。
     ドアノブに手を掛け軽く押す。山田家へ来たばかりの朝と同じように冴えた風が吹き込み、幻太郎の頬を撫でて消えた。

    「行ってらっしゃい!」

     三人の兄弟達の声に背中を押され、帰路への一歩を踏み出す。シブヤへ続く空の下は今日も明るい。幻太郎は歩く。振り返りも立ち止まりもせずに幻太郎は歩き続ける。
     そうして、ようやく兄弟達の声を振り切ってしまった頃、幻太郎は雑踏の中でひとり立ち止まって天を仰いだ。

     おはようイケブクロ。
     さようなら、イケブクロ。


     太陽の眩しさと空の青さが目に染みて、ほんの少しだけ目を細める。
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