バレンタイン「うう〜〜さぶっ…………」
昨日までの春の陽気はどこへやら。
「今日は冬に逆戻りしちゃったらしいからね」
「うへぇ、寒いわけだよ」
ため息混じりに呟き、そういえば朝の報道番組でもそんな事を言ってたなと思い出す。寒さに体を丸めた俺とは違い、寒さなど感じさせない歩みをしている相棒はさすが何かと俺と比べて「鍛えてるからね」と豪語するだけはあるというべきか。
ぴゅ〜っと吹き抜けた寒風に身を震わせながら隣へと視線を送れば、指先の赤くなった手を擦り合わせ、まさに広げた手の平に「はぁーっ」と温い息を吹きかけているところだった。一瞬じんわりと温まった指先も凍えるような寒さの中ではすぐさま熱を失ったようで、熱を閉じ込めるように再び手の平を擦り合わせる。
吐く息が白く煙り、やがて空気中に溶けて消えていく様子を追いかけるようにぼんやりと空を見上げる。水色を濁らせたような寒々しい空の下、今日がいつもと違うのはどうやら寒さだけではないらしい。なんだかいつもより騒がしいというか。
「和人、ちょっといい?」
「ん?」
いつの間にか俺を見つめていたユージオへ視線滑らせると、これまたいつの間にやら俺の手を取っていたユージオが自身のポケットへと一緒に俺の手を突っ込むではないか。
一拍遅れてぎちりと固まった俺が足を止めると不思議そうに首を傾げるユージオ。
「こうしたら温かいだろ?」
「それは……そうだけどさ」
そうじゃない。
気恥ずかしいことをするユージオに思わず周りを見渡してしまう。
だって、これは一体どうなんだ。見た目的に、というか。いくら俺たちが周知の仲の良さを発揮しているとはいえ、だ。
温かいけど、緊張でじっとりと汗ばむ手のひらに指先までじんわり痺れる。
手を繋ぐのなんて初めてじゃないのに、こう毎回ふわふわと小っ恥ずかしい気持ちになるのがどうにも慣れない。
「だめかい?」
「だめ、じゃない」
「良かった」
ふわりと微笑うユージオに、こいつが喜んでくれるならまぁいいか、なんて。俺も心が温かくなる。
再び歩き出したユージオの歩調に合わせていると、嬉しそうに「温かいね」なんて、目を細めるユージオが可愛くて。
気付くと俺は「ずっと繋いでいたいな」なんていつもなら言わないような台詞を吐いてしまっていた。
「はぁぁぁーっ」
「もーう、なによキリト。そんなでっかいため息なんて吐いちゃって」
「ようリズ。いや恋って怖いなと思ってさ。……思い返すと恥ずかしすぎる」
「なーに?それってあたし達に対する当て付け?」
「いややや、そんなんじゃないって」
「そんな事いうあんたには、チョコレートあげないわよ」
目の前でカサカサと箱を振るリズに目をパチクリとさせる。
「チョコレート?」
「言っておくけど、もーちーろーん義理ですからね。ぎーり!」
そう言って手渡されたのはピンク色の包装紙に包まれた箱が可愛くラッピングされたものだ。
照れたような表情で手渡すリズの様子に、「サンキュー」とそれを受け取りながら、何かを忘れているような違和感が胸中に渦巻く。
(なんだ?俺は何かすごく大切なイベントを忘れているような――)
そもそも何もないのにリズが急にこんな可愛くラッピングされたチョコレートをくれるんだろうか。っていうのは彼女に失礼かもしれないけど。
遅れて教室へとやって来たシリカとアスナにリズが大きく手を振る。
教室中なんだか朝から浮ついていて、その理由を見つけられないままおはようの挨拶を済ませると途端シリカの纏う空気も甘やかなものへ変わった。
「それで、その早速なんですけどキリトさん!」
「うおっ、な、なに?」
ずいっといつになく積極的に身を乗り出したシリカに危うく椅子から転げ落ちそうになるところをすんでのところで踏ん張って耐えてると、ガサゴソとピナのぬいぐるみがついた鞄を漁って目当てのものを取り出す。
手作りなのだろうか。可愛いリボンでラッピングされた箱をずいっと俺の眼前に突き出した。
「ハッピーバレンタイン、です!」
「え」
「あの……受け取ってもらえますか?」
「あ、ああ、もちろん。ありがとう、嬉しいよ」
「それじゃあキリトくん、私からも。はい、ユージオくんと一緒に食べてね」
「アスナも、ありがとう……ってバレンタイン!!!」
そうだ、バレンタイン!!!
ようやく朝から少し騒がしい女の子たちや、そわつく男子に浮ついた空気。三人から貰ったプレゼントに合点がいく。そして重大な事件にも。
「ちょっと、なによ急に。びっくりするじゃない」
「わ、悪いつい」
「まさか……とは思うんですけど、もしかしてキリトさん……バレンタインの事忘れてました?」
「もうーシリカちゃん。さすがのキリトくんだって、ユージオくんと初めて過ごすバレンタインだもの。忘れてるはずないわよ」
「そっ、そうですよね。あたしったら早とちりしちゃって」
「そうよー?シリカ。キリトに悪いわよ……ってキリト?まさか、本当に忘れてた訳じゃないわよね」
「か、返す言葉もございません……」
いつもはあまり縁のない行事な訳で。自分から用意することなんてないから、すっかりそんな日があるなんて忘れてた。
いや、考えてみれば街中バレンタインシーズンに掛かる音楽で溢れていたし。コンビニやスーパーなんかでもお手軽に買えるバレンタインチョコレートが陳列されていたような気もする。
それにバレンタインの短期間で行われる限定クエストについては確かにそれと意識せずにチェックはしていた。
「さ、さすがにやばいか?バレンタイン忘れるのって」
「そりゃあそうよ!女の子にとっての一大イベントだもん。ってアンタは男だけど――」
「いいえっ、リズさん!最近は男の人から渡す逆チョコも流行ってますし、ぜんっぜん関係ないですよ!」
「ぎゃ、逆チョコ……?」
「あー!確かに。花?を贈るっていうのもあるんだっけたしか――」
「フラワーバレンタインね!イギリスでは薔薇の花束にメッセージカードを添えて贈るって聞いたことがあるわ」
女の子達がきゃっきゃと騒ぐ言葉が右から左へと流れていく。
ユージオも俺からのチョコを楽しみにしてたりするのだろうか。そもそもあのユージオのことだ。女の子からのチョコだっていっぱい貰うだろうし、俺があげても迷惑になるだけかもしれない。もしかすれば俺も忘れてたくらいだし、あいつだって――。
そこまで考えてユージオが忘れてる訳ないよなと思い直す。それにあれだけ俺のことが好きなユージオくんに限って喜びはしても迷惑がる事なんてないだろうし、そう考えてしまうのは俺が盛大に忘れていた事からくる言い訳だよなぁなんて考えていると、まさしくそのユージオからメッセージがきている事に気付いてスマホを操作する。
「もしかしてユージオくんから?」
「ああ、今日の帰り家に寄って欲しいって」
「へえ〜やったじゃない、キリト」
「きっとユージオさんからの逆チョコですよ!」
「え、そうなの?」
いや、そうかも知れない。
俺より断然マメなユージオならあり得る。むしろ俺から渡すよりもその方が自然な気さえして来た。
了解のスタンプを送ってから再びスマホに視線を滑らせると、ありがとうと小さく跳ねる犬のスタンプが送られてきていて少しユージオっぽいそのスタンプにクスリと笑っていると。
「〜〜っ!」
「はぁーっもうなぁに?こーんな可愛い女の子差し置いてイチャイチャしちゃって!」
「イっ……イチャイチャなんてしてないって!」
「顔がにやけてますよ、キリトさん」
「しょうがないわよ、キリトくんったらユージオくんにゾッコンだもの」
俺がユージオにゾッコンなのは間違い無いけど。
『帰ったら、朝の続きもしようね』
間違いなくユージオから送られてきているメッセージに火照る顔が熱い。
俺は三人から隠れるように顔を伏せたのだった。
メッセージ通りユージオの家の前について一呼吸。
〝朝の続き〟その文字列を思い出すだけできゅうと胸が高鳴る。
「いかんいかん」
こんな緩みきった顔のままユージオの前に行ったら何を言われるか。
しかし朝の続きってのは、今朝小学生に邪魔されてし損ねたキスのことだろう。道端でそんなことしようとしていた俺らに非があるから小学生に邪魔されたっていうのもお門違いかもしれないけど。
「あ、いらっしゃい和人」
「よう」
そんな事を考えていると、扉が開いてユージオが出迎えてくれる。今はユージオ一人しかいないようで、家の中はシン……と静まり返っていた。
ユージオの部屋に入って、いつもの定位置であるベッドに腰掛けるとどっさりと山のように置かれてるバレンタインプレゼントの山が視界に入って目を瞬かせる。
「それ」
「ああ、うん。本当は恋人がいるからって断ったんだけどね、どうしてもって」
勇気を出して渡してくれた女の子の気持ちをそれ以上無下にする訳にもいかないしねと続けたユージオが俺の側に腰掛ける。
俺が来る直前に用意していたんだろう。コトリと置かれたマグカップから漂うコーヒーの香りに鼻腔が擽られた。
「君も甘いものが好きだったろ?折角だから一緒に食べようかなって」
「ああ、そういう」
思わず残念そうな声が出て、勝手に気まずくなって視線を逸らす。
ユージオからチョコレートを貰えると思い込んで来ただけに、たくさんの女の子からチョコを貰う姿を想像するだけで胸の奥が何だかもやもやとする。
「どれも美味そうだな。手作りとかもあるんじゃないか?」
美味しそうだとは思うけど、うまく感情が込められない。騒つく心が苦しい。
俺もアスナ達から貰ってる手前、こいつにだけ貰うななんて――そんな嫉妬と独占欲むき出しな事は言えないし、言いたくもない。
男同士なんだから、バレンタインイベントなんてそもそも関係がないだろうし、というか俺だって忘れてたんだからユージオを責めることなんて絶対出来ないけど。
「ねえ和人」
「え――」
思わず呆けた俺の唇にユージオのそれが押し当てられると、なにか固形物に割開かれる唇に驚いて眸を見開く。
「んぅ!?」
思わず突き飛ばしかけたのをすんでのところで耐えれば、その手を優しく絡みとられて合わさる手の平に心臓が煩く脈打つ。そのままユージオの舌と共に侵入した固形物が舌へ擦り付けられる感覚にぞわりと腰が震えた。
――チョコレートだ。
「ん……っふ、ぁ……っ」
固形だったそれが俺とユージオの熱に溶けて、どろりと舌に絡んだ。甘くて濃厚な香りが急速に鼻腔に広がって、蕩けるほど甘いチョコレートの味が口腔を支配する。
「ゆ、……っんく、……ッじぉ、」
唾液とチョコレートが混ざり、飲み込みきれなかった分が口端から溢れるのも構わずに続けられると口の中がチョコレートの甘さでいっぱいで訳がわからなくなる。
甘い香りに混ざって大好きなユージオの匂いに包まれると、堪らなく胸が高鳴って、早まる鼓動に頭がぼうっと煮立ってくらくらした。
「……っは、は……ッぁ…………っ」
名残り惜しげにちゅるっと舌先を吸われて、ようやく離れた頃にはチョコレートの味はすっかりなくなっていて。
いや、そもそも何で俺はユージオとキスしてるんだ。
うまく食べられない赤ん坊みたいに口元をべたべたに汚してぽかんと見つめていると、口元のチョコレートを舐めとったユージオが宝石みたいに綺麗な顔をより際立たせるみたいにふっと笑みを溢す。
「ハッピーバレンタイン、和人」
「え、あ……」
「なんだよ、その反応。僕から贈るのはそんなにおかしいかい?」
「い、いや、違くて」
いっぱいいっぱいで反応が追いつかないんだよ!
思わず心の中で突っ込んだ俺がへなへなと腰を抜かしたみたいにベッドに背中から倒れ込む。
「……っはは、……くくく」
「え?え?なんだよ……?」
何だかあれこれ悩んでたのが馬鹿らしく思えて、腹の奥から笑いが溢れる。
不貞腐れたように唇を尖らせた次は急に笑い出した俺に戸惑うユージオが何だか可愛くて。腹筋を使って勢いよく起き上がると、隣に座って困ったように俺を見詰めるユージオにニッと笑う。
「すごく、嬉しいよユージオ。ありがとな」
「う、うん!あ、でもね和人、もちろんさっきのチョコレートだけじゃなくて」
「え?」
「こっちが本命なんだ」
さっきのだけでもユージオがくれたってだけで十分嬉しいのに。
そんな事を考えながらユージオが持ってきた結構大きめな袋に視線を滑らせると、それをひっくり返した瞬間ドサドサドサ!とベッドに広がる箱、箱、箱、箱!
「うわっ、なん、なに、これ」
「何ってチョコレートだよ」
「チョ……え、これ全部?!」
「うん、和人にあげようと思ったらどれも美味しそうだから迷っちゃって」
だからってこれ全部買ったのか?!
全部違う菓子メーカーのバレンタイン仕様の包装紙に包まれた箱の数に思わずあんぐりと口を開けてしまう。
本当は作ろうかとも思ったけど、あまり得意じゃないし。って付け足したユージオが恥ずかしそうに笑う。俺としてはそれも食べたかった所だけど。というか、今度作ってもらおう。
「全部、俺に?」
「うん」
それでも、バレンタイン特設コーナーで女の子ばかりの中目立つだろうに、俺のために買ってきてくれたんだ。女の子に揉みくちゃにされながら、チョコレートを選ぶユージオを思い浮かべるだけで、堪らなく嬉しくてにやける。
俺が喜んでいることなんて顔を見て分かったんだろう。ユージオが俺の表情を見るなりホッとしたように微笑った。
「ユージオ、すごい嬉しい」
「ふふ、和人に喜んでもらえて良かった。さすがに買う時はちょっと恥ずかしかったけどね」
「だろうな、女の子ばっかりだろ?」
「うん……あれは戦場みたいだった」
「大袈裟な」
「ほんとなんだって!来年一緒に買いに行けば分かるよ」
ユージオの中では来年も、変わらず俺が隣に居るんだから、ほんと些細なことで俺を喜ばせるのが上手い。
「にしてもお前が貰ったチョコレートも併せてこの量、全部食ったら虫歯にでもなりそうだな」
「そうならないように食べ終わったら僕が歯磨きしてあげるよ」
「自分で磨けるっての」
軽い冗談を交わしながら、ペリペリと可愛いラッピングを剥がしていく。
ぱかりと箱を開けると果物の形にデコレートされたチョコレートが艶やかに光る。
「わっ、!なにこれうまそう」
「食べてみてよ」
「あむ……ん〜!これ、キウイ?すごっ、うまい」
「これも、あとこれも凄く可愛くて美味しそうなんだ。こっちは動物の形しててね――」
「……はは、わかった、分かった。まったく、そんな急かさなくったって全部美味しく食べるって」
「う……だって、全部和人がどんな表情をしながら食べるのか考えながら買ってたからつい……」
次々に説明してくれるユージオに小さく吹き出しながら、やはり胸中に渦巻くのは用意できなかったチョコレートの事だ。
ユージオはこんなにも俺を想って選んでくれたってのに、俺は何も。
「ごめんな、ユージオ……その、俺チョコレート用意してなくて」
「ふふ、そんな事気にしてたのかい?いいんだよ、僕が渡したかっただけなんだから」
「でも……あ、そうだ折角買ってくれたんだし、お前も」
一緒に食べないかと伝える前にふるふるとユージオは首を振ると、一粒チョコレートを摘んだユージオが俺の唇へとそれを押し当てた。
「僕は和人が美味しそうに食べる姿を見れるだけで満足なんだ」
にっこりと笑うユージオに不覚にもきゅうんっと胸が締め付けられる。
こいつ、可愛すぎるんだよ。餌付けされるようにチョコレートを咥えながら覗き見たユージオはたった少し笑みを浮かべるだけで、写真集でも出来てしまうじゃないかってくらい顔がいい。
「それに」
ふわりとした亜麻色の癖毛を揺らして、俺の手を握る。その瞬間、和やかな空気を一掃する雄の気配にぞくりと背筋が震えた。
どくり、どくりと。
全身で脈を打って、繋いだ手にじんわりと汗が滲む。
「美味しそうに食べる和人を僕は食べるから」
「な、……っ」
ポロリと口から落としたオレンジのチョコレートをすくうようにキャッチしたユージオがすぅっと瞳を細める。その深い眸の奥でぎらつく欲望に捉えられて。俺が落としかけたチョコレートに見せつけるよう口付けると、そっと俺の唇に押し当てた。
「朝の続き、させてくれるんだろ?」
軽く胸を押されるだけで、俺の身体はシーツに沈む。
朝の続きって、そういう事か〜〜!
意味を理解して耳まで真っ赤になった顔でユージオを見詰める。ようやく分かったの?なんて言いたげなこいつに、戦慄く唇に溶かされつつあるチョコレートで唇をデコレートされて。
俺はチョコレートよりも甘くなる、そんな予感にそっと瞼を閉じた。