雨 ホームルームの挨拶が終わると、部活動に向かう者と帰宅する者で蜂の巣を突いたような喧騒が湧き、放課後特有のガヤつくそれに俺も混じる。
ユージオと何でもない話をしながら肩を並べて歩いていると「うわ、雨だ」「傘もってねえよ」なんて声が聞こえてきて、準備万端に入れてきた折り畳み傘をぽんとスクールバッグの上から叩くと俺は余裕の笑みで「梅雨ですなあ」と口にする。
これが予報を見て傘を持ってきた強者の台詞である。と言っても、詳しく言うなら出掛けにスグが教えてくれただけだが。
「しまった。今日雨が降るんだったんだね」
例に漏れず傘を忘れたらしいユージオの肩を俺は軽く叩くと前面に回り込んで後ろ歩きしながらにやにやと笑みを浮かべた。
いつもこういう事には抜かりないユージオにしたら珍しい。
「どうだ?ユージオ君が濡れないように親切な俺の傘に入れてやらない事もないけどどうするかね」
「……なんだか随分と押しつけがましい気がするけど。そうだね、貸し1で君の傘に入れてもらおうかな」
「言ったな?」
「まったくなにを企んでいるのさ。それより前を見て歩かないと危ないよ」
「これくらい大丈夫、だいじょっ……おわ!」
ユージオの忠告には素直に従うべきだったか。
どうやら廊下が滑りやすくなっていたらしい。足を盛大に滑らせた俺は襲い来る尻への衝撃に備えて目を瞑るが、腕を反射的に掴んだユージオに引き上げられたお陰で尻餅を着かず、尻に青痣を作るという何ともマヌケな事態を回避する。
男一人の体重をあっさり引き上げるユージオの助けを借りて体勢を整えると、すっかり呆れた様子で俺を見ていた。
「ほら、言わんこっちゃない」
「ああ、サンキューな」
「うん。でも、これで貸し1はチャラだね」
明日の帰り道、ユージオにアイスを奢ってもらう算段が台無しになって俺はがくりと肩を落とした。
「そういえばALOの次のイベント――」
どうやら種族間対抗じゃないらしいぞと続けようとしたところで下駄箱からローファーを取り出そうとユージオがふとその手を止めたのが気になって言葉を止めた。
「ユージオ?」
ローファーを足元に放る代わりに上履きを拾い上げて小さい四方形の靴入れに並べながら俺は未だにローファーを取り出そうとしないユージオの手元を覗きみてハッと目を見張る。
薄桃色の封筒に〝ユージオくんへ〟と書かれた可愛らしい文字面。一目見ただけでそれと分かる類いのラブレターに、俺はユージオの隣でピシリと固まった。
確かにユージオは男の俺から見てもかっこいい。顔面の良さに加えて柔らかい雰囲気と物腰、誰にでも優しくて、ノリが悪い訳でもない。モテないはずはないとは思っていたけど、まさか実際にその現場を押さえてしまうとは。
それよか、俺だってまだ貰ったことないのに――!
「ほほう、ついにユージオくんにも春がきたって訳ですな」
「春が来たってなんだよ」
本日何度目かの呆れたように俺を見るユージオににやにやと笑って見せる。
こりゃあユージオが女の子と付き合うのも時間の問題だ。
脳内で言葉にして何故だかツキリと胸が痛む。
針の刺さったような、そんな感覚。
ずっとユージオの隣にいるのは俺で、こいつの一番は当たり前に俺だとばかり思っていたけど、考えてみればこの先恋人を作ってその先に歩みを進めようとするならその隣にいるのは俺ではないのだ。
それはなんだか寂しい、かもしれない。
手紙を手にしたユージオが確かめるように裏面にひっくり返して首を傾げた。
「でも誰からだろう。僕宛みたいだけど差出人の名前がなくて」
「そんなの中には書いてあるんじゃないか?」
「それもそうか」
いつもなら手紙を覗き込んでからかってやるのに、今日はそんな気分になれない。そのまま鞄の中に仕舞われる手紙を見つめてから俺は気になる心を押さえ込んでローファーに足を突っ込む。
外はバケツをひっくり返したような土砂降りで、黒く分厚い雲を玄関ホールから見上げた。
こりゃあ、一つの折り畳み傘に男二人入るとなるとどれだけ肩を寄せたとしても二人とも濡れてしまうかもしれない。
「あれ」
「どうしたの?」
ユージオの声を背に俺は本格的に鞄を床に直置いてガサゴソと漁る。筆記用具、クリアファイル、財布、タブレット、ユージオを驚かせる為に持ってきた蛇の玩具に、非常食のおやつ――。目当ての物が見つからない。
「もしかして」
遠慮がちに俺の鞄を覗き込むユージオを俺は見上げた。
「あー……すまんユージオ。俺も傘忘れたみたい」
「ふふ」
「おい、笑うなよ」
「だってあんなに自信満々に言っていたのに面白くて。それじゃあ雨足が弱まるまで一緒に待とうよ。もちろんさっき助けたのは貸しだからね」
「おいおい、そりゃないってユージオ」
明日アイスを奢らされるのか、それとも何か別のものを求められるのか。俺はビクビクしながら少しばかり楽しそうにスクールバックを肩に引っ提げたユージオを慌てて追いかけた。
空気の湿り気や雨の匂いを感じながら玄関ホールを出たところにある屋根下の階段の端に俺たちは足を伸ばして座っている。
手持ち無沙汰に俺はスマホでニュースを眺め、ユージオはさっきの手紙を読んでいる。
(ああ、だめだ集中できん)
スマホの文字が滑って上手く読めない。それもこれも隣で手紙を真剣に読むユージオが気になって仕方ないせいだ。
かさりと音を立てて封筒に便箋を戻したユージオを盗み見るといつもと変わらない表情で、その心中を読み取ることは出来ない。はあとこっそり溜息をついてスマホを鞄に仕舞うと俺はいまだに真っ暗な空を見上げた。
「この手紙が気になる?」
ユージオの言葉に咄嗟に反応できなくて、俺は仰天したような顔でユージオを見つめ返せばクスクスと可笑しそうな顔で笑われる。
「さっきから僕のことずっと見てただろ。あのね、心配しなくてもこの手紙の子と付き合ったりはしないよ」
「いやいやユージオ君、俺は別にそういう」
やっぱりラブレターだったのかという気持ちと、俺の気持ちを見透かしたような台詞に俺はしどろもどろに否定する。
だけどあからさまにホッとしてしまっている自分の気持ちに気付けない程鈍感でもなくて、俺は深く息を吐いた。
「……違うな」
「キリト?」
「ごめん、ユージオ。正直、お前が付き合わないって言ったのを聞いてホッとしたんだ俺」
思っていたより情けない声が出る。
ああ、なんだこれ。
恥ずすぎる。
俺は一体なにを赤裸々にこんな事をユージオに暴露してるのか。それでも俺の意思に反して口を滑るように出た言葉は止まらない。
「ユージオの一番が俺じゃなくなって、どんどんお前と過ごす時間が少なくなるんだろうなって思ったらなんていうか、寂しいなーなんて、思ったりしまして……」
親友に面と向かって言うにしてはこれは、思っていた以上に気恥ずかしい事を言ってしまった気がするけど、一度出した言葉は引っ込んだりもしないもので。
赤い顔と口許を隠すように片手で顔を覆いながらレスポンスの無くなった相棒をチラリと見れば、俺が想像していたどの顔とも違っていて戸惑う。
「あ」
分厚い雲から薄らと光が入って、雨足が徐々に弱くなっていく。
ユージオの手がほっそりとした俺の手に重なると、なにも言わないまま熱を孕んだ瞳を向けられて、いつもと変わらない距離感なのにその行為にずっとドギマギしてしまう。
鼓動が少しずつ早くなって、なんだか苦しい。ユージオ相手に感じた事のない気持ちに戸惑っているのに、重ねられた手を振り払う気にはなれずに俺は視線を逸らした。
「おい、なんか言えよ」
「ごめんよ、まさかキリトからそんな事を言ってくれると思わなかったから嬉しくて」
今のは嬉しいって顔かよ。
ああ、ユージオはこういう奴だよなと何だか安心して。俺はするりと手を抜き取ると伸し掛かる勢いで肩を組んでユージオの頬をぐりぐりと突いてやった。
「こんな事で嬉しがってるなよ。いいか、ユージオ。俺はお前が思ってるよりずっとお前がいなきゃやってけないんだぜ」
「はは、なんだよそれ」
擽ったそうに、でも嬉しそうに笑うユージオを見ていると俺も嬉しい。
やっぱりこいつといる時間は心地よくて、あっさり手放したくなんてない。少なくとも今は、まだ。
「ねえキリト」
「ん?」
改まって俺を呼ぶユージオに正面向いて首を傾げると、一呼吸置いたユージオが息を呑むほどに真剣な眼差しで俺を見つめた。
「僕ね、君のことが好きだよ」
「は――」と微かに喉を震わせる声が漏れて、大きく瞳を開いてユージオを見つめればふわりと花の咲く様な笑みを浮かべたこいつが俺の手を取って立ち上がった。釣られて立ち上がるといつの間にか雨が止んでいる事に気付く。
きらきらと眩しいくらいの光に照らされたユージオは見慣れた顔の筈なのになんだかずっとカッコよく見えて、妙に気恥ずかしくて、嬉しくて、甘酸っぱい気持ちに浮き足立つような感覚が擽ったい。
「僕の一番はいつだって君なんだよ、キリト」
じっくりと染み渡るような声音に、眼差しに、どうしたら良いのか分からなくなる。
なんだ、これ。なんだ、この気持ちは。
「ほら雨も止んだみたいだし、また降り出さないうちに帰ろうか」
「……そうだな」
いつもと違って俺の手を引くユージオの手を握り返した俺は、手から伝わる体温に暫くドキドキといつもと違う鼓動の動きに戸惑うのだった。