幽霊下山「お邪魔しまーす」
事務室の扉が開いて、黒に稲妻が走ったような柄のキャップを被った少年が部屋に入ってきた。足音は段々と近づいてくる。
「今忙しいんだよ、帰んな」
書類に目を落としたまま、少年に向かって手をシッシッとジェスチャーで返す。カントー地方にある8つのジムの中で一番難易度の高いトキワジムは、たどり着く人間が限られるため普段挑戦者は滅多に来ない。だが、今日は久しぶりに来客が多かった。お陰でこなさなければならない書類が山ほどある。
「えー!酷いですよグリーン先輩」
リーグチャンピオンであり、少し前にトキワジムを訪れオレを破ってジムバッチを手に入れた凄腕のポケモントレーナーであるこの少年、ヒビキはオレの後輩のような存在だった。コイツはチャンピオンになってからも度々トキワジムに顔を出す。お守り小判持ってジムから金をかっさらってったり、オレを煽るだけ煽って帰って行ったり……大変騒がしい少年である。普段の優しい優しいオレ様ならこんなガキにだって付き合ってやるが、今日はそんな暇もない。シルバーに引き取ってもらってお帰り頂こう。救援の電話をしようか、と受話器に手を伸ばそうとした。
「頼みたいことがあるんです。……バトルの練習をして欲しいんですよ」
珍しくヒビキが真剣な顔をしている。改めて見ると今日のこいつの格好は、なんだか汚れているし服から出た肌は霜焼けになっている。頬は荒れて血が滲み痛々しかった。
「なんだよ急に。いつもはお前……「グリーン先輩からお小遣い貰う為に来ました!バトルしてください!」とか言う癖によ」
酷い霜焼けになるような場所は、カントー地方とジョウト地方の間にひとつしかない。まさかこいつは、
「シロガネ山に行ったんです」
シロガネ山。年間を通して雪が降り積る高山で、登山者の多くが高山病を発症する。遭難者も出ているような危険な山だ。入山にはリーグチャンピオンであり、ジムバッチが8つ必要という限られた人間しか入ることが出来ない。ヒビキは珍しく表情を曇らせている。
「新しいポケモンにでも会えるかなと思って行ったんです。あんな寒い中人に会えるなんて普通思いませんから」
いつの間にか書類に向いていた体はヒビキの方に向いていた。
「でも人間が居たんですよ、山頂に」
シロガネ山の幽霊、という噂がある。
人が住めないどころか長時間居れば体のどこかが凍傷になる。視界は吹き荒れる雪でホワイトアウトし殆ど何も見えない。そんな過酷な場所に、山頂にポケモントレーナーの幽霊がいるのだ。その幽霊は山頂に訪れた人間と目が合うと突然勝負を仕掛け、雪山に居たとは思えないような威力の攻撃で挑戦者を襲うという。死人のような白い肌、口からは何も発さず、鋭い眼光で挑戦者を迎える幽霊は、まだ幼さが残る少年の姿をしていた。赤い半袖のジャケットに黄色のリュック、燃えるような赤い帽子を被った彼の名は___
「……よお、久しぶりだな」
ここはシロガネ山山頂。ピジョットから飛び降りると積もった雪に足が沈んだ。目の前には赤い少年の背がある。オレはゆっくり前に足を進めていく。
3年前、オレにはライバルが居た。
隣の家に住んでいる寡黙な少年はオレの幼馴染で、ライバルで、親友だった。日が昇ってから日が沈むまで二人で遊ぶのを繰り返して、毎日が楽しかった。
いつしかオレ達はポケモンに興味を持ち、お互いにリーグチャンピオンを目指すようになった。昔からオレは■■■が口下手なのを助けたり、不器用なのを手伝ったりしていたのもあり、隣に並んでいるように見えてオレが■■■の手を引いているような関係になっていた。だから、ポケモントレーナーの旅でもオレが先を走っていたし、■■■はオレの跡を追っていた。幼い頃、並んで遊んでいた関係から次第に歪んでいったのはこの頃からだろうか。
リーグチャンピオンの席は一人だ。当然、二人で一番にはなれない。旅をするにつれて■■■は着実にオレの跡を追って近づいて来ていた。親友に抱く初めての「焦燥」に動揺しながらも、オレはなんとか先にチャンピオンの席を獲得した。
しかし、■■■はオレを破ってチャンピオンに成り上がった。自分と比べ物にならない程強くなったライバルはオレをとっくのとうに追い越していた。会場を埋め尽くす拍手や賞賛の声が聞こえなくなるほど頭が真っ白になる。それぐらい目の前で起こっている事が信じられなかった。
「■■■の癖に……■■■の癖に……!!!」
涙か溢れた。今までのオレ達の関係が崩れるような気がした。オレの跡を懸命に追っていた■■■、オレを憧れのような目で見つめる■■■。いつからかお前の憧れの存在になれる様にオレは今までずっともがいてきた。お前の行く先に立てなくなったオレは、これからどこに行けばいいんだ。
「……グリーン」
泣き叫ぶオレを戸惑いの目で見つめる■■■は、オレに手を伸ばして何か言いかけようとした。そんな惨めな自分が嫌だった。お前の前では、お前の先に立つオレで居たかったんだ。
「近寄るな」
■■■の伸ばす手が止まった。
「もう、オレはお前の行く先にはいられない」
オレは背を向け出口へ走った。それから■■■には会っていない。
3年前のオレは、親友の成長を素直に受け入れられない程に幼かった。初めは、■■■の隣に居られるだけでオレは嬉しかったのに。
「幽霊が戦いを挑むのには理由があると思うんです。彼はきっと戦うのが好きなんでしょう?でも、強すぎる」
ヒビキは顎に手を添えて首を捻った。
「自分と対等に戦えるトレーナーを探してるんじゃないでしょうか」
雪山の山頂に一人佇む孤独な最強トレーナー、彼は自分の行先を見失っていた。
一人取り残された彼には、先を示す人間も、対等に戦う相手もいないのだ。
雪の中を進む足は赤い背中に追いついた。吹雪が頬を刺して、足は既に感覚がない。でも寒さなんて気にならなかった。
行先が分からないのなら、示す存在が必要だ。対等に戦える相手がいないのなら、互いに高め合える人間が必要だ。その役目は絶対誰にも渡さない。オレだけがお前の幼馴染で、ライバルで、親友。
3年間オレは毎日お前を思い出して特訓してたんだ。成果を見せてやるよ。たとえ勝てなくても、オレはお前と対等に戦えるライバルになりたい。
今度はちゃんと、お前の隣に立ちたいんだ。
「バトルしようぜ、レッド!」