初恋地獄行白壁が延々と続く刑務所外周に一箇所だけ存在する砂色の扉の先、自分を待っているらしき人物を確認して夏油は眉をひそめた。
まったく知らないしかし一度でも見たら忘れないだろう、それ程に存在感のすごい男がこちらへ向かって親しげに手を振っている。
周囲にはただこの男しかおらず夏油の身内は、この場合は身を寄せる組の関係者だが、一切見当たらない。
「おーい傑!こっちこっち!」
気安く名前さえ呼ばれいよいよ人違いでもない。
出所して早々厄介事になりそうだと、こめかみを押さえため息をつく。
人並外れた美貌に特徴的な空色の目と輝く白髪、長身である夏油をさらに越える恵まれた体躯。
長い足を優雅に組んで高級車に寄りかかる姿はさながらモデルのようだが、にじみ出る圧が明らかに堅気のものとは違う。
暴力を生業にしている同業者ならではの空気がひりひりと肌に伝わる。
ひとまずは、嘘くさいと評判の笑顔を浮かべて対応するしかない。
「どこかでお会いしたでしょうか、生憎覚えが悪いもので」
「あっやっぱり忘れてる」
男は何が可笑しいのかけらけら笑いながら近付いてくる、場違いに弾む足取りの不気味さに身構えた。
しかし。
「そんなに警戒しないでよ僕とオマエは今日から一蓮托生の家族なんだから」
「は?」
唖然とした夏油の一瞬の隙をつき男の大きい手が鞭の速さで伸び、片手は後頭部を残りの片手は腰を抱え込む。
しまった、そう思う間もなくぴったり密着すると男は夏油の首に鼻を寄せ犬のように熱心に匂いを嗅いだ。
「おえームショ臭…ああでも精液の匂いはしないね良かった。傑エロいから中で輪姦されてたらどーしよーって心配だったんだ!もしそうなったら僕ここに入ってる奴ら全員埋めないと気が済まな…うわ!」
聞くに堪えない侮辱に、無理やり身をよじらせ拳を繰りだしたが怒りは攻撃を大振らせてあっさりと男の元へと引き戻される。
周りには武闘派として通っていたものの、さすがに一年も大人しくしていたブランクは大きく躱された悔しさで奥歯がみしりと鳴った。
「ごめんね傷付いた?傑をヤリマンだと思ってるわけじゃないよ?」
「下衆な物言いを今すぐ止めろ、でなければ詫て死ね」
「はいはい怒らない、オマエのいた組無くなってるから誰も迎えに来ないよ。これそっちの組長から預かってた書状」
「そんな、まさか…!?寄越せ」
もぎ取った書面には組の解散の経緯に今後はひっそり静かに暮らす旨、それから夏油に対する今までの労いと気遣い。
荒くれで行き場のない者の集まりなので世間からすれば反社会的である事は変わりないが、それでも夏油にとってはあそこは確かに守るべき居場所だった。
昔ながらの仁義を通すオヤジは、同時に幼い身で家族を亡くし自暴自棄になった自分を引き取り育ててくれた恩人でもある。
だから嵌められ窮地に陥り、どうにもならなくなった際に夏油は自らを身代わりとして服役した。
数年は覚悟していた刑期を、まさか一年で放免になるとは予想していなかったが。
直筆の文面からは夏油の身を案じている事が読み取れじわりと親愛の情が広がっていく、せめてこういう形ではなく直接会ってお礼を言いたかった。
何度も読み返していると、面白くなさそうな男に書状を取り上げられる。
「これで分かったと思うけど、オマエの戻ろうとしてた場所はもう無い。戸籍も僕と養子縁組しといたから変わってるよ」
「意味がわからない、何が目的だ」
「とりあえず今は素直に車の助手席に乗ってドライブデートして欲しいかな。自己紹介もまだだったね、僕は五条悟。一年前に五条の家を継いだGLGだけど、そんなの気にせず悟って呼んでね!」
五条、国内三大派閥のうちのひとつだ。
揉め事の多い禪院や保守的な加茂と違い、あまり表に出ることがなく得体が知れないと有名な。
だがそんな大きな所と関わった記憶も揉めた覚えもない、夏油のいた組は本当に小さな下町のヤクザだった。
そう名乗る詐欺師の可能性もあるが、極道者に対して行うにはデメリットのほうが遥かに強い。
「五条の頭が警護も無しで出歩くなんて呆れるね」
「大丈夫、最強だからね。それに僕のモノはちゃんと僕みずから迎えに行かないと」
「誰が誰のモノだ…っ」
所有物扱いを跳ね除けようとしたが、容赦のない力で車のボンネットに顔を叩きつけられる。
打撃の衝撃にぐわんと頭蓋が揺れるが、そんな夏油にはお構いなしに覆いかぶさると五条は耳を食んで囁いた。
「オマエだよ傑。オマエはこれからずっと僕のモノだ、暴れようが泣き喚こうがその肉も骨も魂も僕のみが好きにできる」
口と鼻から溢れた血が白く輝く車体に模様を描く、あまりにも強く抑えつけられているせいか息をすると血のなかにあぶくが立つ。
ふうっと吐息と共に重さがなくなると今度は仰向けに転がされ、上品なスーツの袖が汚れるのも厭わず顔をゴシゴシ拭ってきた。
「それさえ忘れなければこんな酷い事もうしないよ。これでも紳士な極道目指してるんだ」
「私に」
「ん?」
「私に…恨みがあるのか…」
他者を甚振る事が可能な存在による酔狂や道楽ではない、長い時間をかけどろどろと煮込まれた禍々しい何かを五条は己に向けている。
夏油の唸るような言葉に五条は答えず柔らかく眼差しをそそぐのみだが、その表情からは否とも諾とも読み取れた。
空色の目に自分の黒髪が映り込んでまるで宇宙に存在するブラックホールのようだ。
そういえば昔、そういう話を楽しげにしてくれた相手がいたような気がする。
顔は知らないが同じ年頃の。
不意に拾い上げた記憶の残滓は、五条の口付けにより瞬く間に消えて溶ける。
「僕ね傑に出会って人生めちゃくちゃになったんだ、だから責任とってもらわないとね」
血まみれの夏油の唇を舐め嬉しそうに、あどけなさすら残して五条が少年のように笑う。
「もちろん僕もちゃんと"約束"を果たすよ。ふたりで一緒に地獄へ落ちよう」
初恋地獄行