*
回り続ける運命の輪。
尻尾を飲み込んだ蛇。
あがこうが笑おうが、オレたちはサムシング・グレートの掌で踊る猿だ。できるのは受け入れることのみ。肯定肯定全て肯定。最期の時、そのグレートなサムシングはオレにウインクしてこう言うぜ「これでいいのだ」。
Chapter : 01おそ松に異変あり
違和感、と呼ぶには取るに足らない。
感じ取った次の瞬間にはもう忘れてしまうような、日常に紛れ込むほんのわずかのNOISE。
それを敢えてそう呼ぶなら、今日は違和感の連続だった。
オレはついさっきトラックに轢かれたばかりだが、それから屁の音がどうもいつもと違う気がしてならない。普段の屁の音を正しく記憶しているわけじゃないからあくまで「気がする」なんだが。
それより奇妙なのは、屁の音どころか他のすべての記憶が曖昧で、愛するブラザーの名前は覚えていても自分の名前が思い出せないんだ。とはいえ候補はぼんやりと浮かんでくるから────
「ちょちょちょちょい! 待って待ってカラ松兄さん。ええとどこから突っ込んだらいいかな~……まず、トラックに轢かれたの? どこで?」
オレを心底心配するのは愛するブラザーズのひとり、トド松。めかしこんで何処かへ出かけようとするところをオレと邂逅した。イン・松野家の玄関。
「家の前で、だ。ふっさすがオレ、幸いかすり傷ひとつついちゃいないけどな」
「いや記憶! なくしちゃってるから! つかためんな腹立つから! 名前も思い出せないってマジで?」
「名前? カラ松さ。だろ?」
トド松は舌を打ち鳴らした。
「今ボクが呼んだからね」
「安心してくれ、いま完全に思い出した。オレはカラ松。まごうことなき松野家の次男、かつ、愛する家族に囲まれ非生産的な日常を謳歌するニートだ」
「う~ん、言動のおかしさはいつも通りのカラ松兄さんなんだけど……ちゃんと医者に診てもらった方がいいんじゃない? っといっけない、約束に遅れる」
トド松はスマホを見て言葉の端に焦りを滲ませた。
「おっと時間を守るのは大切だぜ〜。オレの事なら心配いらない。お前はお前の行くべきところへ行───」
「言い方がいちいちイラッとすんだよなぁ。とにかく病院! 行きなよ?」
オレの身体を案じながら妙にそそくさと行ってしまった。
「あの挙動……怪しい」
「うおっ一松。いつからそこに?!」
一切気配がしなかった! オレの背後に立てるなんて大した奴だ。
「屁の音がおかしいってとこからだよ。アナニーもほどほどにしろよ?」
「いきなりエグイこと言ってくるな」
「んな事よりもクソ松、どうする? アイツ女の子と会う予定っぽいけど追跡すんだろ?」
そう言って取り出した荒縄を両手の間にピンと張り、不穏な笑い方をした。
「OH……物騒だな。だけどいささか野暮じゃないか?」
「ハ?」
「エ? だって女と会うんだろアイツ」
一松は怪訝な表情をしてオレを見る。
「いや、だから邪魔するんだけど……チッ。なんか調子狂うな」
また舌打ちされた。オレのブラザーたちの舌はよく鳴るな。
台所におそ松がいた。アホみたいに突っ立って床や壁をしげしげと眺め回しているところだ。忙しそうだな。
「おうおそ松。帰ったぜ」
廊下から通りすがりに声をかけるとギョッとした様子でこちらを見た。
「ラ……カラ、松?」
「? おう」
そのまま通り過ぎると、おそ松が台所から飛び出してきた。
「なあ! ここ俺らの家だよな」
「うん?」
「だ……抱きついても平気だったりする?」
「へっ?」
「カラまちゅ~~~ッ!」
「どわああっ」
なんだなんだ
*
「なんなの? 記憶喪失ごっこ?」
チョロ松は正面に座るおそ松を腕組みして見据える。
「いやぁそういうわけじゃなくて……」
おそ松はちゃぶ台に並んだマミー手製の料理を物珍しそうに眺めている。さっきからずっとこの調子で、見るもの聞くものにいちいち感動したり感心したり、初めてこの世界を見る異世界人の有様。新しい遊びなのか? それともいよいよ本格的にバカになったのか……オレは多分そっちじゃないかと思っている。
「おっ旨そ……」
「これっ。手でなんですか」
料理に伸ばした手を皿を運んできたマミーにパチンとはたかれて「へへへっ」と笑う。その顔があまりに幸せそうで、マミーもつられて笑った。
「もうっ。いくつになっても子供なんだから」
同感だぜ。
だが何か引っかかる。
「おそ松、醤油」
反応がないのを訝しんで顔を上げて見ると、呆けた顔のおそ松とバチっと目が合った。なんだ。やけにオレを見ている。
「オレの顔に何かついてる?」
「いや。なんも」
「醤油くれ」
「ああハイ醤油ね」
おそ松は手元にあった醤油差しを取って俺に差し出す。受け取る時に指が触れた。おそ松の動きが止まって、触れている箇所をじっと見つめる。
「……おい」
横から見かねたようにチョロ松が声をかけた。
「さっさと回せよ。次、僕も使うから」
「あ悪ぃ悪ぃ。なはは」
オレとチョロ松は顔を見合わせた。
挙動もおかしいが、そうじゃなくてもいつものおそ松と何か違う。どこがとはハッキリと言えないが───そう、違和感ってやつだ。
(もしかして……いやまさかな)
「ねえ。もう電気消したいんだけど」
皆が布団に入ってからも一人部屋に突っ立ったままのおそ松は、文句を言う一松にこう訊いた。
「寝る場所って決まってんの?」
「は?」
「カラ松の両隣は一松とトド松か。ふぅん成る程なぁ……」
「……だぁからその記憶喪失っぽい遊びはなんなんだよ」
チョロ松の苛立った声など意に介さず、
「なートド松。俺と場所代わってくんない?」
妙な提案をする。オレの胸がザワついた。
「えぇなんで? 別にいいけど……」
おそ松は電気を消してオレの左隣に潜り込んだ。そして、オレにしか聞こえない声で囁いた。
「你忘记我了吗、蓝松?」
*
「な~んかおかしくないか?」
「それなんだけどな、チョロ松」
二階の部屋にはオレとチョロ松の二人きりだったが、オレはチョロ松に身体を寄せて肩を組む。万が一にでも他のブラザーたちに聞かれてはマズイ。
「お前にだけは話しておこうと思って」
オレは昨夜気づいてしまった。おそ松に感じた違和感の正体にだ。
「な、なんだよ?」
オレにつられて声を落としたチョロ松がゴクリと唾を呑む。
「アイツ、オレの事が好きなんじゃあないか?」
「……あ?」
オレだってまさかとは思ったがそうとしか考えられない。
アイツやたらオレに触ってくるし見つめてくるし隣で寝るし。昨夜、寝しなに囁いてきたのは中国語? ───おそらく愛しているとかその類の言葉だろう。決して打ち明けられない想いを外国の言葉に込めてひそやかに伝える……おそ松のくせになんてロマンチックじゃないか! いじらしくて胸が熱くなるぜ。
「……。トド松から聞いたんだけど、お前昨日、頭打ったんだって?」
「頭は打ってない。トラックに轢かれただけだ」
「医者行った方がいいかもな」
んなっ!
チョロ松お前まさかオレの頭がおかしいと言いたいのか?
「オレの頭はおかしくないぞっ? だって昨日のおそ松を思い返してみろよ。態度だけじゃなくめちゃくちゃ熱視線を感じたし、しかもその目がなんというかこう、オレに対する特別な想いをだな」
「あのなあカラ松」
チョロ松の目つきが鋭くなってオレを見据えた。
「僕がおかしくないか? って訊いたのは、おそ松兄さんだけの事じゃなくお前もだよ。お前ら、な~んか様子がヘンなんだよな。何か隠してない? 今も誤魔化そうとしてただろ?」
「お、オレぇ? どこがヘンなんだ?」
このパーフェクトガイを掴まえて何を言うんだ。ヘンなのはお前の顔だろ。
「まずその髪型」
オレの頭を指差す。
クールでいかしたツーブロックだぜ。これのどこがヘンなんだ。
「おそ松もだよな」
成る程ピンときた。
「ははぁん。さてはお前もやって欲しいんだなチョロ松BOY? オ~ケイ、オレに任せな! 最高にクールに仕立ててやるぜ」
「ってお前が切ってんのかよ!」
「金がないからな。いきなり自分は勇気がいるから、まずおそ松で練習したってわけだ」
そうだよな……?
「そうだったんだ」
「納得?」
「だけじゃなく、なんていうかなぁ、こう」
チョロ松はまだ腑に落ちていないような顔。何なんだ。
「おそ松兄さんもだけど、むしろお前に強く違和感があるんだよ。いつも通り言動はイタいんだけど……イタくないっていうか」
んん? 謎かけみたいな事言うな。っていうかいつものオレはイタいのか?
「そう、イタくないんだよ」
チョロ松は自分の考えを確認するかのように反芻する。
「雰囲気が違う。いつもはもっとユルくてバカっぽくて、かっこつけても締まらなのがお前だよね」
だいぶ失礼な事を言われてないか?
「え、髪型のせい、とか?」
「ん~いや。言ってみるなら緊張感、というか」
「緊張? んん~……だとして、それの何がそんなに気になる? つまりお前の考えは?」
チョロ松の顔が息がかかるほど近くに寄った。そして低い声でこう言った。
「とぼけんな。お前らパチンコで勝ったんだよなぁ?」
……。
「勝ってない」
「突然身なりがよくなり、妙な緊張感を漂わせ」
「って髪型だけだろ」
「だいたいお前ら、一昨日は二人揃って銭湯の時間にいなかったよな」
え、そうだっけ?
「正直に言え。俺らがいない間にどっかに隠したんだろ? どこに隠した? この部屋か? 屋根裏か? それとも」
チョロ松の指がオレの腹、胃のあたりをズルリと這った。
「この中か?」
「チョロ、松?」
チョロ松はハッと我に返った顔になり、オレの腹に押しつけた指を見た。
*
一松の声だ。オレを呼んでる。
今行くから待っててくれ……
「クソ松!」
「はッ」
ガッツン!
「ッでぇッ」
目を覚ますなり殴られた。
「痛~~」
「わ、悪い。うなされてて呼んでも起きないから……」
暗い部屋。ブラザー達の規則正しい寝息が夜のしじまを際立たせている。
「いや、助かった。なんかすごく厭な夢を見てた」
「へえ……。じゃあおやすみ」
「え、興味ない?」
「他人の夢の話ほどどうでもいいもんってないから」
そういうもんか。
「……」
ふーっと息を吐いたら夢の記憶が手から溢れる砂のようにサラサラと抜けて、もう摑まえることができない。余韻だけが頭に残る。本当に厭な夢だった。
「なあ一松。…………一松」
「ああ? なんだよ」
眠そうな声が返ってくる。
「またオレがうなされてたら起こしてくれるか? 何度でも」
Chapter : 02Blow Job
「おい起きろッ。いつまでも夢見てんじゃねーぞ。仕事!」
「……勘弁してくれ」
がなり声に安眠の箱を抉じ開けられた。今日も最悪の目覚めだ。ただでさえ安物のマットレスに身体が慣れない。
勝手に部屋に入ってきた紅松がポットに淹れたコーヒーと二人分の朝食を運んでくる。窓際のテーブルに適当に並べて、ベッドの上でうなだれている俺に声をかける。
「一緒に食おーぜ、藍松! 他の奴らはもう仕事に行ってる」
「コーヒーだけでいい」
重い身体を引き摺ってテーブルに着く。不味そうなパンを向かいに押しやり、カップに注いだコーヒーを喉に流し込んだ。クソみたいな味だ。
「ひっで〜ツラ」
向かいに座った紅松が苦笑する。
わずかな物音ですぐ覚醒するような奴にオレの寝起きの悪さは理解できないさ。
「藍松、明日の夜は身体空けておけよ。庄父さんの追悼会だ」
「ああ……もうそんなに経つのか」
百日前、街を二分する闇組織のひとつ『17H』のボスだった義父が何者かに殺された。敵対勢力の大犯大の仕業である可能性が高い。
組織の中で後ろ盾を失ったオレたちは快適だった暮らしのすべてを失い、あれからずっと不味い飯に不味いコーヒー。親父を殺した奴には必ず復讐すると誓ったのに、百日経ってもまだ尻尾の先すら掴めていない。
「ま、焦らないことだよ」
紅松は顔色ひとつ変えずにドブの味がするコーヒーを飲み干した。オレの顔をまじまじと見る。
「……何だ?」
「最近眠れてる?」
紅松の手が伸びてきて親指が眼窩をなぞる。
チッ。どの口が言うんだか。このクマの原因は、昨晩に限って言えば間違いなくコイツだ。ただそれを蒸し返すのも面倒だ。
「まあまあな。質のいい眠りとは言い難いが、あのマットレスじゃ仕方ない」
「仕事減らすか?」
「ああ?」
コイツがこんな事を言うなんて珍しい。金にガメつくて仕事じゃとことんドライになる奴が。
「冗談だろ? 上手くやれば金も情報も入る」
「それにしたってこの頃は毎日毎晩じゃん。ケツがガバガバになっちゃっても知らないからねぇ?」
「ケツの心配か?」
「いや、つぅか……楽な仕事じゃないのは分かってるし。心が壊れたら元も子もないだろ」
オレのメンタルを案じていたというのがまた意外だった。オレの「仕事」についてコイツが何か言うのを聞いたのは初めてだ。確かに楽じゃないが、殺しの仕事に比べたらまだマシな方だと思ってる。
「……人脈は多いほどいいんだよ。それでようやく大犯大の身内に繋がった。おまけにソイツはオレにぞっこんときてるからな」
今や立場の弱いオレたちに、上からきた仕事を断れる選択肢なんかない。それならとことん仇探しに利用するまでだ。
都合のいいことにオレに充てがわれるのは金と情報を持ったVIPばかり。近いうちに必ずなんらかの情報は引っ張れると踏んでいる。
紅松は椅子の背に身体をのけぞらせて不服そうに頰をふくらませた。
「あ〜あ〜。お前が忙しいと俺はお預けじゃん」
「その通りだな、お前とする余力はないからしばらくは外で済ませろ。昨晩みたいなことは勘弁してくれ」
「な〜にその言い方はぁ。俺はお前を娼婦がわりに抱いてるわけじゃねーよ」
分かってるぜブラザー、ただ排泄するためにソレをするんじゃないってな。
コイツにとってその行為は儀式に近い。十二歳で初めて人を手にかけて以来、『仕事』の後には必ず人の肌に触れるようになった。その相手がオレになったのは幾つの時からだったか───
「昨日も『仕事』だったのか?」
「一人殺った。直接じゃないけどな」
紅松は憂鬱そうに答えた。
古いトヨタに乗り込んで中央大通りを走る。
「あ〜あ渋滞だ。めんどくせえ時間帯にぶつかっちゃったなぁ」
助手席で足を伸ばすオレの隣で、紅松がうんざりした声をあげた。
「藍松ちょっとチンコ咥えてくんな〜い? ヒマだし楽しもうぜ」
「はあ? 断る。オレが楽しめる要素あるか?」
だったら着くまで寝ていた方がマシだ。昨夜はこのバカの下半身が一向に収まらなかったせいでろくに眠れていないし、これから向かう「仕事」のためにも体力は温存しておきたい。
シートを倒して目を瞑ったオレに紅松はお構い無しに話しかけてくる。
「いやこないだカチコんだ先でさあ、実際やってる奴がいたんだわ。車止めて運転席に弾撃ち込んでよくよく見たらさ、股んとこにもう一人居て笑ったよね。フェラされながら死ねるなんて幸せな奴だよな〜?」
オレを眠らせる気はないらしい。渋滞を抜けるまでコイツの悪趣味な話を延々と聞かされるはめになりそうだ。
「あとさあ、ホーって奴いたじゃん? 先々週、一緒にメシ食った」
「ああ、旨い小籠包が食いたいって言ってたな。今夜あたり松林閣に誘ってみるか?」
「や、アイツ死んだよ。マーっていうチンピラに刺されて死んだ。昨日」
「……そうか。お前とは気が合っていたから残念だな」
「なぁ? 残念だよ。マーにやれっつったのは俺だけどね」
紅松は割り込んできた車に舌打ちしてクラクションを鳴らす。
「アイツ17Hのシマでヤク捌いてたんだと。んで仕入先がよりによって『大犯大』と繋がってたらしくてね〜。上の連中から始末しろって言われたんだけどさあ、流石に俺が直接やるってのはなぁ」
「いい奴だったからな」
「アイツもバカだよな。もっと目立たずやってりゃよかったのに」
「ああ」
「バカだったけど俺とは気が合ったんだよね」
紅松の横顔は動かない渋滞の列を見つめる。
「……咥えようか?」
「あ?」
こっちを見た紅松に、輪を作った指と伸ばした舌でブロウジョブのジェスチャーをしてみせる。
「ふ、ばぁか。着くまで寝てろっての」
「あとで花でも買っていくか?」
「……うん。そだな」
紅松はくしゃっと泣き顔のような笑顔になって頷いた。
「そういや花っていえばさ、こないだカチコんだ先にケツで人間花瓶にされてる奴がいてさあ……」
車はまだ当分動きそうもない。
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