『こちら月より、愛を込めて』No.14泥のように眠る、という言葉は誰が考えたのか。
手足は重く感覚が無い。だが石化中とは違う心地良さだった。全てを手放せる心地良さ。海の底の、更に泥の底に沈んで眠った。何十分、何時間眠ったのだろう、夢すら見ることはなくカウントもしていない。それでも体内時計は正確で、意識が浮上していくのを感じる。
ああ、起きたくねぇな。
ガキみたいだ。月行きの遠足のお時間だろうが。
重い瞼を開ければ、いつも俺より早く起きているメンタリストがやっぱり今日も早く起きていて此方を見ていた。窓の向こうは既に白み始めている。
空気自体が発光しているような柔らかい薄闇の中のゲンを見て、これは幸せな夢なのかと一瞬自分の脳を疑った。コイツは時々こんな目で俺を見る。いわゆる『慈愛に満ちた』とでも形容されるような、ただひたすらに優しい目で。
陳腐だ、月並みだ、それでも時が止まればいいのに。
「おはよう、千空ちゃん」
「おー……寝れたか?」
「おかげさまでぐっすり〜」
嘘つけ、目尻が赤くなってんぞ。
「昨日は無理させちまったからなあ?」
「自覚あるんだ?」
ありまくりだわ。首元にも胸元にも、鬱血痕が見てとれた。俺が月から戻った時には、消えてしまっているだろうか。
「そりゃあな………ヤり過ぎたわ」
やり過ぎた。その上最後はゲンをオカズに1人で出した事を思い出し、少しだけ決まりが悪くなる。目を逸らせばゲンはクスクス笑った。
「さて、本日の石神飛行士のご予定は〜、とりま身体拭こっか?それから朝食、伝統に則ってステーキと卵だって。その後体調チェックして着替え、ロケット搭乗となっております」
「〜……あさぎりゲンとイチャつく時間は取れっか?」
ふざけて聞いてみるとゲンは口角を上げ、いまだけだよ、と囁いた。
部屋の隅の水瓶に布を浸し固く絞るゲンを見ながら、月から戻ったら上下水道の整備もしないとな、と考える。
冷たい布が頬を撫で、瞼に当てられた。心地良くて目を閉じゲンのするがままに任せる。顔を拭いた後は腕をとられ、上腕二頭筋、肘、指先まで。「筋肉ついたね」と呟きが落ちる。「悪ぃがヒョロガリ同盟は解散だな」と目を閉じたまま声の端で笑うと、裏切り者と首筋にヒタリと布を当てられた。思わず叫んだ。
上半身から局部まで綺麗さっぱり拭きあげられてから、いつもの服に袖を通した。
「次はテメーの番だ」
新しい布を取り水瓶に浸す。
「俺は自分でやるからいいって〜」
「イチャつけんのは今だけなんだろ。やらせろ」
絞った布をゲンの顔に当てる。小作りな顔を拭き、首筋を。辿るそこかしこに小さな赤色。骨の浮いた背中、長い手足。脳に刻み付けるように。部屋の明度が刻々と上がる。分かっている、カウントダウンは始まっている。石化した闇の中のゴールの無いカウントと真逆の、ロケットが発射する瞬間の0へと向かうカウントダウン。
「ありがとね」
とゲンは俺が布を濯いでいる間に手早く服を着た。愛し合った証は楚々と仕舞い込まれ、いつものメンタリストがベッドに座っている。
「!!」
薄い肩を、思い切り突き飛ばしてゲンをベッドに押し倒した。
迫ってくる0に追い立てられる。あと何分、何秒テメーと二人で居られる。
驚きに小さく開かれた唇を塞いだ。最初抵抗していた舌はすぐに俺を受け入れて柔らかく応える。今だけだ。これで最後にする。いい加減遅刻しちまう、分かっているのに離れ難い。
今この瞬間に石化したら?
したとして、永遠にはならない。永遠など要らない。
俺たちは前に進み続けなければいけない。
刻々と変わっていくからお前が好きだ。
口を離せば、泣きそうな顔の上に白い髪が散らばっていた。その一房を、くれと言ったら惜しみなくくれるのだろうか、それとも帰って来たらねと躱されるだろうか。