「…………ふ、ぅ……」
雨音は、壊れたテレビが立てるノイズに似ている。
埃っぽい路地裏の、四つ並んだ自販機の隣にぐったりと座り込んで、俺は深く、ゆっくりと肺の底から息を吐き出した。切れた唇の端を、舌先でそうっとなぞる。口内に広がる鉄の臭い、ヘモグロビンの味。顔はやめて欲しかったな、と、今更なことを心の中で独りごちて、もう一つ、重い息をついた。
春先の雨が、熱をもった頬に気持ちいい。
(またやっちゃった……)
これで何度目? もう数えるのもバカらしいくらい繰り返したことだ。でも、ちゃんと覚えてる。正式にお付き合いしていた相手としては十三人目。何となくいい雰囲気だった人も含めれば二十二人目。まともに人間関係を構築する以前の人も加えたら、記念すべき三十人目の大台突破だ。あはは、パンパカパーン。
軽快に心の中で音を鳴らしても、ちっとも気分は上向かない。じわ、と視界が滲んで、泣きたくもないのに喉が引き攣り、息が浅く乱れる。
分かってる、これはSub dropのせい。体の仕組みのせいで脳にナントカ物質がたくさん出ているだけで、俺の心が傷ついてるわけじゃない。だから大丈夫、Sub dropから抜ければ、いつもの俺に戻る。手の震えも収まるし、世界にひとりぼっちにされたみたいな心細さだってすぐに消える。大丈夫、だいじょうぶ。俺は、こんなの、もう慣れているから。
(──ンなことに慣れてんじゃねぇ!)
そう叱ってくれた声を思い出して、ぼろぼろと涙が落ちる。 あの綺麗な紅い目に、俺の情けない、傷だらけの顔が映っていた。もう三年も前のことだというのに、いやに鮮明な記憶に、息が詰まる。
「…………っ、せんく、ちゃ……」
名前を呼んだら、もうダメだった。堰を切ったように涙が止まらなくなって、ひく、としゃくり上げる。
「っ、ぅえ……ッく、う、うぇぇ……」
アスファルトを打つ雨音に、俺の声が紛れてさざめく。
あつい。冷たい。痛い。くるしい。こわい。悲しい。さびしい。つらい。──会いたい。
ぐちゃぐちゃに乱れた思考が、意識が、少しずつ、端から黒く塗りつぶされていく。喘ぐ呼吸が浅くなり、無意識に何かを求めて手が宙を掻いた。
(──ンでテメーはいつもそうなんだ、バカ)
張り詰めていた糸の切れる直前、呆れたように俺を叱る、優しい声を聞いたような気がした。
「…………え、」
口からこぼれた声は、ひどく掠れて、ほとんど音になっていなかった。呆然と、見覚えのない天井を見つめる。自分の住んでいるマンションじゃない。病院にも見えない。クリーム色の壁紙、丸いシーリングライトの柔らかな暖色の明かり。
ぐ、と息を飲むと、喉が燃えるように痛んだ。そっと手を当てれば、指先は氷のように冷たく、反面、触れた首元は火でも着いたかのように熱い。
「おー、起きたか」
「 せ……っ」
せんくうちゃん。
声は言葉の形にならないまま、代わりに、血が滲むのではないかと錯覚するほどの咳が喉から飛び出した。
「ッ、ふ……! ぅ、ェホッ……ゴホッ!」
余りの苦しさに、体を横たえたままくの字に折る。気管支が、肺が、喉が、焼けつくように痛んで、呼吸がひゅうひゅうと細い音を立てる。
「おい、落ち着け。焦らず、ゆっくり息しろ。ホラ」
背中を摩る手は、三年前から何も変わらず優しくて、じわじわと涙がシーツに吸い込まれていく。
浅く、すぐに乱れそうになる息を、必死に抑えて、ゆっくりと吐き出した。吐き切ると、意識するよりも先に肺が膨らんで、空気を吸い込んでいく。
『呼吸が上手くいかねぇときは、とりあえず吐くことだけ考えろ。肺の中の空気全部吐き出すつもりで、息を吐け。したら、体の方が勝手に吸ってくれる。……そうだ。上手くできてンじゃねーか』
三年前、そう教えてくれたのも千空ちゃんだった。背中に感じる手のひらの温度に、体が呼吸の仕方を思い出し始める。自分の中のどうしようもない波が、凪いでいくのを感じる。
「まだバカみてーに熱があんだ。喉も、扁桃腺も腫れてる。点滴すっから、声出さず大人しく寝とけ」
言われたとおりに声を出さず頷いて見せると、千空ちゃんは少しだけ目元を緩めて、それから俺の髪をするりと指で梳くように撫でた。
ここは──たぶん、千空ちゃんの家だ。百パーセントの確信はないけれど、十中八九。病人を他人の家に運ぶ理由がないし、たぶん、俺の〝状態〟を千空ちゃんは理解っている。だから病院ではなく、家なんだろう。千空ちゃんは優しいから。甘んじて受け取るには、優しすぎるくらいに。
部屋を出ていった千空ちゃんは、見慣れた薬液の袋を持って戻ってきた。点滴をすると聞いて勝手にあのコロコロのついた台のようなものを思い浮かべていたけれど、考えてみたら一般家庭にあるものじゃない。──や、点滴用の薬液や針がある家を、一般家庭とは呼ばないと思うけど、それは千空ちゃんの家なので、あって不思議がないというか。
千空ちゃんは薬液の袋をカーテンレールに引っ掛けると、テキパキと俺の腕に針を刺して、それを管に繋げた。復興前の司ちゃんが受けていた石世界式点滴を思うと、なんて文明的なんだろう。万が一、手術することになっても麻酔がある。文明と科学に万歳だ。
「……だいぶ落ち着いてきたな」
「ん……」
思わず返事をしそうになって、ピリ、と喉に痛みが走る。本当にひどく腫れているらしい。仕方なく、言葉を飲み込んで、頷くことで答えを返した。
「何があったのか……は、聞かねえ。大体予想はついてるし、聞いたところで何ができるわけでもねえからな」
そう呟いた千空ちゃんは、すごく痛いのを我慢しているような、ものすごく怒っているのを堪えているような、難しい表情をしていた。そこに宿る感情は読めなくても、俺を気遣ってくれているのは分かる。俺はまた小さく頷いて、その言葉に答える。
予想はついてる、か。それはそうだろうな、と眉を寄せて自嘲する。どういう状況で今の俺が千空ちゃんに拾われたのかは分からないけど、意識がなかったことと、場所が千空ちゃんの家らしき場所になったこと以外、三年前とほとんど変わらない状況だもの。千空ちゃんは、どう思っただろう。呆れてるかな。それとも、哀れんでる? 何度繰り返しても失敗する、出来損ないのSubのことを。
「だから、代わりにテメーを俺のモンにする」
──は?
耳を疑うような言葉に、思わず体を起こそうとして、止められた。千空ちゃんはまるでそうなることを見越していたように、俺の肩をしっかりと腕で抑えていた。
「異論も反論も聞かねえ。決定事項だ。何なら鎖に繋いで、窓に鉄格子でも入れてやる。──そこまでされたくなきゃ、大人しく俺のモンになりやがれ」
チャリ、と鳴った金属音。千空ちゃんのもう片方の手には、紅色の革と銀色の金具でできたアクセサリーが握られていた。 雷を横倒しにしたような、心電図の波のような、不思議なラインを描く金具。その両端は革に繋がり。革はぐるっと輪を作って小指の先ほどの金具に留められている。
たぶん、ほとんどの人はこれが何の形なのか知らないし、分からないだろう。でも俺には一目で分かった。
「留め金はジョエル先生のお手製だ。このサイズで鍵はディンプルキー、しかも斜めピンまで入ってやがる。素人が外すのはまず無理だ」
あれは、千空ちゃんの顔に残っていたヒビの形。石化の元凶に勝つまでのシンボルマークだと、そう言ったのは他でもない俺だもの。それを象ったアクセサリーを──Collarを身に着けるのは、本当に自分を千空ちゃんのものだって、そう認めることだ。
「自力で外したきゃ、革の部分を切るしかねえ」
俺がそんなことできないの、知ってて言うんだから、千空ちゃんはひどい。千空ちゃんが俺のために、わざわざジョエルちゃんの手まで借りて作ってくれたCollarに、どうしたら刃なんて入れられるの。できるわけないでしょ、そんなこと。
こんなに優しい目で、苦しそうに関係を強要するDomを、俺は千空ちゃん以外に知らない。