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    minamidori71

    @minamidori71

    昭和生まれの古のshipper。今はヴィンランド・サガのビョルン×アシェラッドに夢中。

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    minamidori71

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    現パロビョルアシェ、第四話。クリスマス休暇を目前にした木曜日の夜、ビョルンはつらい過去の夢にうなされる。泣き叫んでいた彼は、仕事から帰宅したばかりのルカに起こされるが……。
    ふたりの距離が、一気に縮まります。このシリーズは、次回で一旦ひと区切りの予定。

    #ヴィンランド・サガ
    vinlandSaga
    #ビョルアシェ
    byelorussia
    #腐向け
    Rot
    #ビョルン
    bjorn
    #アシェラッド
    asheraad

    Unknown Legend(4) その兆しは夜の眠りのさなか、ひたひたと忍び寄る。
     浅い眠りの瀬をたゆたいながら、その気配を察知し、ビョルンは焦る。早く夢など必要としないほどに熟睡しなければ、と。しかし次の瞬間、真っ黒な泥に巻かれて、深みへとひきずり込まれる。そうなってしまったが最後、自分の意思ではどうにもならない。悪夢のるつぼで泣き叫び、目覚めるまでもがき続けるしかないのだ。
     ――なんで……この夢なんだ。
     おかしなことに、自分で判っている。これは夢なのだと。しかしそこから抜け出せない以上、判っていてもなんの得にもならない。しかもよりによって、ビョルンがもっとも見たくない夢だった。あの日と同じように泣きながら、日の落ちたテムズ川の南岸をめちゃくちゃに走り回り、道ゆく大人たちの姿を必死に目で追う。けれどもビョルンが求めてやまぬ背中は、どこにも見当たらない。
     街はクリスマスのイルミネーションに覆われ、どこもかしこもまばゆく輝いていた。あたりが光に満ちていればいるほど、寒さに手はかじかみ、足は重くなる。みじめさの泥にまみれ、もがけばもがくほどからだは沈む。
     ――なぜ……なぜだ? なぜ俺を置いてゆく?!
     胸苦しい。もう走れない。それでも必死に息を継ぎ、闇の奥へと目を凝らす。探そうにも後ろ姿はおろか、もう顔も思い出せないというのに。
     ――そんなに邪魔なのか。そんなに憎いのか。
     ならばなぜ、もっと幼いときに棄ててくれなかったのか。いやいっそ殺してくれ。たわむれに猫可愛がりしたり、チャリティ・ショップで適当に選んだものを投げるように与えたりするくらいならば、ひと思いに殺してくれればよかったじゃないか。
     ――なぜ……!!
     声を嗄らして叫んだ、そのときだった。腕をぐいと掴まれ、名を呼ばれたのは。
     求める人の声ではなかった。けれども深く響く、三半規管の奥に沁みるような、懐かしい声。遠い昔、その声に幾度も名を呼ばれたような気がする。記憶もおぼろな幼いころではなく、もっと昔、それこそ生まれる前よりもっと前の、気も遠くなるような霧の彼方で。
    「……ルン、おい、ビョルン! 大丈夫か?」
     もう一度、腕を強く引かれ、ビョルンはするどく息を呑んだ。見開いた目に映ったのは、見慣れた屋根裏部屋の天井。そして濡れた髪を額に張りつかせたルカが、張りつめた表情でこちらを見つめていた。
     
     

     階段を軋ませて、一階のキッチンから戻ってきたルカは、両手にいつものホーンジーのマグカップを持っていた。
    「どうだビョルン。すこし落ち着いたか」
    「……」
    「喉がガッスガスだろ。ずいぶん叫んでたもんな。これでも飲んで、うるおしな」
    「……すまねェ」
     差し出されたマグから、マーマレードとウィスキーの香りがふわりと立ちのぼる。ホット・トディだ。ルカが夜更けまで仕事をしているとき、何度か作って書斎に持っていったことがある。きっとそれを憶えていて、見よう見まねで作ってくれたのだろう。ありがたさを噛みしめながら口に含むと、ほろ苦さを含んだ甘みと芳醇な香りに、ひりひりしていたこころがすこし和らぐのがわかった。
    「……ルカ、あんた、髪乾かさなくていいのか。風邪ひいちまう」
     椅子を引き寄せて腰掛けたルカに訊くと、彼は肩を竦めてくちびるの片端を吊り上げる。先ほどは素肌にバスローブを羽織っただけだったが、今はパジャマの上にガウンを着ていた。
    「さいわい、お前みてェにボリュームのある髪じゃねェからな。すぐ乾くだろ」
    「……すまねェ……」
    「ま、おかげでお前がうなされてる声が聞こえた。シャワー浴びずにそのまま寝てたら、気がつけなかっただろうよ」
     今日が木曜日でよかったと、彼は言う。帰りが大抵最終列車になるこの日、帰宅すると彼はすぐシャワーを浴びるのを習慣にしていた。カーディフ中央駅からパディントン行きの列車に乗る直前、ルカは必ず電話をよこす。それを合図に、ビョルンは先に休む。それが二人の間の取り決めになっていた。
     ホット・トディは、ビョルンが作るときよりもだいぶウィスキーが強かった。呑めば底なしのルカらしいと、つい笑みをさそわれる。いっぽう、ビョルンは彼ほど酒に強い訳ではない。酔いでまた自然に眠ることができればと期待し、ホット・トディを飲みきったが、いったん覚めた目は冴えるばかりだ。
    「眠れそうか」
     からになったマグをサイドテーブルに置き、ビョルンは首を振る。答えをごまかしたところで、すぐばれるだろう。
     ルカは立ち上がり、椅子を元の場所に戻した。そのまま部屋に戻るのかと思いきや、彼は自分のマグもサイドテーブルに並べて置き、ベッドに座るビョルンのすぐ横に腰を下ろしてきた。腿が触れあう。ガウンとパジャマの生地越しにも、彼の体温が伝わってきた。
    「話をしてェなら、聞くぜ。また悪夢を見たんだろう?」
    「……」
    「必要なら、精神科医を紹介してもいいが。導眠剤も処方してもらえる」
    「いや、……いい。それは」
     深く息をついて、ビョルンはまた、かぶりを振った。精神科医には、ビストロを辞めたときに三回だけ通ったことがある。しかし四回目の予約はキャンセルして、それきりだ。老年の男性医師には、移民の子であるビョルンを侮るそぶりが時折感じられて、心を開く気になれなかったのである。
     しかし、そんな精神科医に話せなかったことを、ルカにはすでに話していた。
     夕食後のお茶を飲みながらの、なにげない会話の中でのことだった。以前の仕事にすこし触れたとき、静かにこちらを見つめるルカのまなざしに、ふと心を委ねたくなったのである。気がつけば誤認逮捕で警察に偏見まみれの尋問を受けたことも、ビストロの女主人にセックスで支配されたことも、自分でも驚くほど冷静に客観的に、洗いざらい打ち明けていた。そして不思議なことにその日以来、あのころのことを夢に見ても、取り乱すことはなくなった。
     ――オレはお前の話を聴くことしできねェが、これだけは、憶えておいてくれ。
     話し終えたとき、濃くなったラプサン・スーチョンにお湯を足しながら、彼が言ったひとことが、忘れられない。
     ――お前のせいじゃない。お前の尊厳は、誰にも傷つけられやしない。ビョルン、お前はこの世にたったひとりの……かけがえのない存在なんだ。
     とっさにどう返してよいかわからず、間抜け面をさらしていたように思う。するとルカは小さな笑みをひとつこぼして、ビョルンの腕をぽんと叩いた。お前に茶ァ淹れてもらわねェと、仕事ひとつできねェ男が、ここにいるんだぜ、と。例によって少々はぐらかされた気もするが、その夜以来、ビョルンの胸に小さな灯がともったのは、確かだ。きっと終生消えることのない、生きてゆくよすがとなるあたたかな灯。
     だから。
    「……お袋は……」
     ひとたび話しはじめたのに、口をつぐんでしまったビョルンを、彼は黙って見つめている。しかし、その沈黙は威圧的ではなかった。いつもは饒舌だが、彼は極上の聴き手でもあった。口承文芸研究を専門とし、聞き取り調査をすることもあるだけに、無言のうちに話し手の緊張をほぐし、和らげるすべを心得ているのかもしれない。
     腿に触れる、彼の体温が背中を押す。意を決して、ビョルンはふたたび口を開いた。今度はなめらかに、言葉が滑り出た。
    「俺のお袋はスウェーデン人で……バンドのグルーピーをしているうちに、ロンドンに居着いたらしい。バンドマンや裏方の男とゆきずりの関係を持って、あるときうっかり中絶の機会を逃して、俺が生まれた。最初から父親なんてものはいなかったから、俺にとって、肉親はお袋ただ一人だけ。でも、……ほとんど構われた記憶はねェんだ。部屋からはいつも、追い出されてたから……」
    「じゃあ、お前のお袋さんは」
    「そう。娼婦だった。俺のものごころがつくころには、すでに」
     言ってしまって、すこし胸のつかえが下りたような気がした。誰かに話したのは、はじめてのことだった。
    「俺はずっと、今で言うネグレクトを受けてた。お袋は腹が空けば自分のぶんだけ外で買ってきて食ってたから、俺は家中の小銭をかき集めて近くのスーパーで食材を買ってきて、料理することをおぼえた。毎回ガキひとりで買い物に来るもんだから、スーパーの店員が事情を察して、売れ残りの野菜や肉をタダで分けてくれることもあってね。掃除も、大工仕事も、服を繕うことも、生活に必要なことはほとんどそうやって、必要に迫られて自分で習得した。適当に切って煮たり焼いたりするだけだから、本格的に調理を基礎から学んだのは、飲食店で働くようになってからなんだけど。
     でもごくたまに、お袋の機嫌が妙に良くなることがあってね。突然食い切れねェような量のばかでかいケーキを買ってきたり、チャリティ・ショップで適当に選んだものを、投げ与えられることもあった。あんたの『アシェラッドのバラッド』はさ、俺が九歳のときに、そうやってお袋が買ってきたものだった。本を買ってもらったのは、そのときが最初で最後だ」
    「九歳の子どもには、ちと難しくなかったか。あれは十二歳くらいを対象に想定して書いたんだが」
    「お袋はただ、……自己満足に浸りたかっただけだよ」
     それでも、あんな母親でも、恋しく思っていた。『アシェラッドのバラッド』を夢中で読んだのも、最初はそのせいだ。
     そして、十一歳の冬。あの日が訪れた。ちょうど今くらい、クリスマス休暇が目前に迫った、金曜日のことだった。
     学校から帰ると、翳の中に沈み込んだ部屋は、いつも以上にがらんとしていた。母の荷物が消えているのだと悟るまで、それほどかからなかった。彼女と一緒に、最近出入りしていた粗暴な男も消えていることに気づいたときは、安堵に気が抜けさえしたものだ。ビョルンはあの男に何度か殴られていて、それで顔に痣ができても、母親はまったく無関心だった。
     しかし、初冬の陽がすっかり落ちてしまったとき、突如として孤独が、重くのしかかってきた。この世にたった独り、放り出されてしまったことを思い知り、愕然とした。部屋を飛び出し、街中をめちゃくちゃに走り回って、泣き叫びながら母を呼び、探した。ブリクストン、ヴォクソール、ランベス、ウォータールー。どこを探しても、母の姿は見当たらない。気がつけば靴を片方なくしていて、真っ黒なテムズ川をウォータール橋のたもとからぼんやり眺めていたところを、ちょうど通りがかった市役所の民生委員に声をかけられ、保護されたのだった。
    「さっき夢に見てうなされてたのは、そのときのことだ。いつもは忘れてるんだが、半年に一度くらい、今でも夢に見る」
    「……」
    「あんな母親、こちらから願い下げだと思ったこともある。でもやっぱり、考えずにはいられねェんだ。なぜよりによってクリスマス間近に、俺を棄てたんだろうって。俺のどこが気にくわなかったんだろう。娘に生まれていれば、もしかしたらあんなに疎まれなかったかもしれない。ああなる前に、俺になにかできることはなかったのか。とか、いろいろ」
    「よせ」
     低く静かな、しかし決然とした声に、ビョルンは小さく息を呑んだ。
     すぐ隣、ベッドに腰掛けているルカの膝の上で、彼の手が握りしめられている。親指の爪が白くなるほどの力で固められた拳を、ビョルンはぼんやりと見つめていた。その拳がゆるみ、指先がそっと、ビョルンの左手に触れた。さらりと乾いた、あたたかな手だった。
    「言ったろう、ビョルン。お前のせいじゃない。お前は何ひとつ、悪くない。すべての子どもには成人するまで、守られる権利がある。それはこの国じゃ、二十世紀のはじめから法律で決められていることだ」
    「でも、……」
    「もちろん、守らねェ親はいくらもいるさ。オレのお袋みたいに、環境は確保してくれても、ほとんど会いに来れねェ親もいる。しかしどんな事情があるにせよ、子どもに責任はない。だからもう、自分を責めるな。誰かにそれを保証してほしいなら、オレがそうする。何度だって言ってやるよ。お前は何ひとつ、悪くないと」
    「……ルカ……」
    「もし、子ども時代に感じた孤独を、どうしても手放せないのなら……そうだな」
     薄暗い部屋の中で、今は藍色に見えるルカの瞳が、一度ゆっくりと瞬いた。白金の髪がベッドサイドの灯に照らされてきらめき、そして次の瞬間、やわらかな光が、すぐ目の前にあった。
     月桂樹と薔薇の香りが、濃密に肺腑に満ちる。抱きしめられたのだと気づいた途端、胸の奥で心臓が早鐘を打ちはじめ、その音ごと口から飛び出してしまいそうだった。悟られたくはないが、こんなに密着してしまっていては、なすすべがない。それにどうしたわけか、指いっぽん動かせない、いや動かしたくないのだ。あまやかな香りとぬくもりに陶然とするうちに、それらを手放したくないと強く願っている自分に、ビョルンはようやく気づいた。
     小柄で細身のルカが腕を大きく広げても、ビョルンはとてもその中にはおさまりきらない。それでも、大きな毛布ですっぽりとくるまれるような安らぎを感じる。高鳴るばかりだった心臓がすこしずつ、平静を取り戻してゆく。抱えていたものを解き放つように、口から深い吐息がこぼれた。
    「ビョルン。これは、十一歳のときのお前に」
    「……」
    「十一のときだけじゃない。昔、さみしさを抱えていたすべての瞬間のお前を、抱きしめるよ」
     あたたかな掌が、そっとビョルンの背を撫でてくれる。自分の心臓のすぐ近くで、彼の鼓動を感じた。ゆっくりと呼吸を繰り返すうちに、別々に鳴っていた鼓動が重なり、融けあってゆく。
    「足りないならば、いくらでも抱きしめる。そうしてほしいときは、言ってくれ。ためらわなくていい。いつだって、構わない」
    「……ルカ」
    「ビョルン。オレはここにいる。それを忘れないでくれ」
     堪えきれずに、涙が溢れた。
     彼に縋りつき、声を上げて泣いた。それでも彼はただ黙ってビョルンを抱きしめ、背を撫でていてくれた。ひとしきり泣き、涙も涸れて、いつのまにか彼に寄り添われたまま、ベッドに横になっていた。
     額を寄せあい、首まで毛布に埋もれて、ぬくもりを分かちあう。霧たちこめる夜の深い闇の中、まるで彼とふたり、小舟に乗って漂っているような心持ちだった。けれども心細さは、微塵もない。どこへ流れてゆこうと、大丈夫だ。
     やさしい藍色のまなざしが、静かにこちらを見つめている。すべてを委ね、ビョルンは深い眠りへと、誘われていった。



     翌朝、目覚めてみると、すでに寝床の中にルカの姿はなかった。
     枕元の時計は、六時半をさしている。夜明け前の暗闇の中、ビョルンは頭の先まで毛布の中にすっぽり埋まった。毛布の中に潜り込むと、月桂樹の残り香がほのかに香り、なおさら昨晩の出来事で頭の中がいっぱいになってしまう。顔から火が出そうだ。
     ――どんな面して……あのひとと顔合わせりゃいいってんだ。
     大の男ふたり、まさか同衾してしまうとは。しかも抱きしめられた瞬間の、胸の高鳴りはごまかしようがなかったはずだ。いたたまれなくなって、毛布の中で転々とするうちに、七時になってしまった。おそらくルカは、もう起きているだろう。朝食の用意をしなければ。
     バスルームは、ルカの書斎と寝室と同じ二階にある。洗面台で顔を洗い、タオルで拭いていると、後ろからちょんちょんと指で小突かれ、思わず飛び上がってしまった。
     慌てて振り向くと、ルカがいつものいたずらっぽい笑みを浮かべて立っている。しかし煉瓦色のカーディガンを羽織った家にいるときの格好ではなく、コートとマフラーを片手に掛け、いつでも外出できる服装をしている。
    「よう、おはようさん。眠れたか?」
    「ああ、まあ……」
    「身支度整えて、降りてきな。出かけるぜ」
    「……朝メシは?」
     訳もわからないまま訊くと、ルカは大袈裟に両腕を広げ、肩を竦めてみせた。
    「お前ね、昨晩みたいな様子を見せられてンのに、仕事急かすほどオレは鬼じゃねェよ。たまには外で食べるのも、悪かねェだろ。後学のためにも」
    「……後学?」
    「おいおい、しっかりしてくれよビョルン先生。泣きすぎて脳みそまで干からびちまったか?」
     拳を固め、ルカはビョルンの背中を二度、叩いてみせる。案外力が入っていて、ビョルンはちょっとむせてしまった。
    「将来、自分の店を持ちてェんだろ? なら流行りの店は、まめにチェックしとけ。何が参考になるか、わからんぜ?」
    「……」
    「とりあえず今日は、最近できたイタリアン・バールをのぞきに行こうと思って。シェパーズ・ブッシュまで歩くぞ。今日は午前中、天気がいいそうだ。朝の散歩にゃうってつけだ」
    「ルカ……あんた」
    「なんだ」
    「憶えてて、くれたのか」
     ルカはあさっての方角を向いて、ちょっと拗ねたように、口を尖らせる。二ヶ月一緒に過ごして、ビョルンはもう知っている。これは案外、嬉しいときの表情だ。
    「あんなに懇切丁寧にホーンジーの解説してやったんだぜ? 忘れるほうがどうかしてる」
     さっさときびすを返し、階段を降りはじめたルカの背中に、急いで行く、とだけ返した。
     ケンジントンのルカの家からシェパーズ・ブッシュは、歩いて十五分ほどの距離である。すでに休暇に入りかけた金曜日の朝とあって、人もまばらな通りを歩くうちに、夜がしらじらと明けてきた。ルカの言うイタリアン・バールは開店してまだ一ヶ月ほど、目新しさもあってか早朝にもかかわらず、結構客が入っている。学生らしき若者たちが、テイクアウェイの紙カップを大事そうに抱えて出てくるのと、入り口でちょうどすれ違った。
     しかし結論から言うと、その店はふたりの好みには、あまり合わなかった。シナモンを惜しみなく振ったカフェ・ラッテは悪くなかったが、それに添えるのがブリオッシュだけというのが心許ない。
    「朝食には、やっぱりトーストがほしい。あと目玉焼きと、フライド・トマト」
    「同感だね。お前の目玉焼きは、半熟具合がちょうどいい。下はすこし固まっていて、上はパンの耳ですくえる。それくらいが、食べ応えがあっていいんだ」
     眼を上げて、ふたり同時にほほえむ。以前からそういうことはあったが、今朝はとりわけ、気持ちが重なる気がする。
     バールを出て、来た道を戻ったが、ノッティング・ヒルの駅を通り過ぎてそのままベイズウォーター通りをまっすぐ進み、ケンジントン公園まで来た。そこまで歩いてくるとさすがに疲れて、ふたりはベンチに並んで腰掛ける。そこはイタリア庭園と呼ばれる瀟洒な一角で、夏は四角い池に睡蓮など水草が生い茂っているのだが、今は生命を感じさせるものはない。季節を間違えたな、と言うルカのことばに、ビョルンは笑みをさそわれた。
    「ルカ。昨日の晩は……ありがとう。おかげでよく眠れたよ」
    「そりゃ、どういたしまして」
    「でも、あんたには世話になりっぱなしだ。仕事も、住むところも与えてもらって、話もきいてもらって……」
    「何言ってんだ、今さら」
     肩を竦め、ルカはマフラーの中に首を埋める。口元が隠れたが、ほほえんでいた。
    「オレは、お前からもらったものを、お前に返してるだけだ。お前がオレにくれたものが十だとしたら、オレが返せてるのはせいぜい一か二に過ぎねェよ」
    「でも、給料はちゃんと貰ってるぜ」
    「それとこれとは、また別さ」
     納得のゆかない様子のビョルンに、ルカはすこし困ったように、眉尻を下げる。なぜか感傷を感じさせる表情に、ビョルンの胸の奥で、何かがさざ波を立てる。
    「友達なら、当然だろ。苦しんでいるときに、手を差し伸べるのは」
    「……ともだち……」
    「そ、友達。お前はオレのこと、雇用主だと思ってるかもしれねェが……オレはそれ以上に、友達でありたいと思ってるよ」
     大きくのびをして、ルカは空を仰いだ。
    「ああ、ほんとうによく晴れてンな、今日は。冷える訳だ」
     吐く息が白く流れる。その横顔を、ビョルンは黙って見つめていた。
     ――友達。
     ルカのことばが、嬉しくなかった訳ではない。人に心を開けず、友人らしい友人などひとりもいなかったビョルンにとって、それは泣きたいほどにありがたいひと言だった。
     しかし、気づいてしまった。自分がルカに抱いている感情は、それ以上のものだと。彼の声、彼のまなざし、彼のほほえみ、なにもかもが慕わしい。皮肉たっぷりに世の中を眺めるへそ曲がりなところも、気高い叡智も、あたたかなこころも、すべてがいとおしい。まばゆい真珠のような、美しいひと。この生涯で愛する人は、きっとこのひと、ただひとりだ。
     ――愛している……ルカ。
     今はただ、傍にいられるだけでいい。それだけで満ち足りることができなくなる日が来るのを、ビョルンはひそかに恐れている。



       (5)に続く
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