お願い、君にキスさせて!その日、待ち合わせ場所に現れた相手を見て、アベンチュリンは、おや?と首を傾げた。
「やあ、レイシオ!今日の君はまた、一段と素敵だね!」
待ち合わせ時間より早く来ていたらしい恋人は、ターミナルの広場に設置されたベンチに座り本を読んでいた。
いつもカッチリとしたファッションを選びがちな彼だが、珍しくカジュアル寄りの服装をしており、白のシャツとベージュのスラックスというシンプルな服装に、薄手のネイビーブルーのオーバーサイズのカーディガンがよく映えている。
「いつもよりカジュアルな服装なのは、もしかして僕に合わせてくれた?」
アベンチュリンは隣に座り、にこやかに話しかける。
しかし、当のレイシオ本人は本を閉じることもせず、何故かそっぽを向いて返事をしない。
それどころか、なんと石膏像を被っている。
表情には出さないが、アベンチュリンは現在進行系で割と困惑していた。
おそらく、レイシオはアベンチュリンに対して何か怒っている。
お互い仕事が忙しい身で、どうにかこうにか休みを合わせてねじ込んだスケジュールだった。
最後に顔を合わせたのは10日前。
メッセージのやり取りは昨日の日中。
そこまでは特に変わったところもなかったように思う。
「ねえ、レイシオ。せっかくのデートだし、その石膏頭は外して欲しいな。君の顔が見たいよ」
アベンチュリンが石膏頭に触れようとすると、そっぽを向いたままのレイシオは、そこでようやく口を開いた。
「僕は…君の顔なんて見たくない」
やはり、アベンチュリンは自分でも知らないうちに何か、レイシオの怒りを買っていたようだった。
表情の変わらない石膏頭はレイシオの感情の機微すら一切見せないので、現状の様子から判断するしかない。
レイシオはアベンチュリンの顔など見たくない、と言った。
けれど、律儀に待ち合わせ場所にいた事を考えると、アベンチュリンに会いたいと思ってくれていたことが窺える。
彼の気持ちがまだこちらに向いているなら、交渉の余地は十分ある。
そして、一つだけ…レイシオを怒らせる原因に心当たりがあった。
「もし僕の勘違いだったらごめん。昨日の夜会っていたのは…取引先の担当者なんだ」
昨日の昼までに原因がないなら、おそらくは…というよりむしろ、十中八九はこれだと思った。
前日の夜、アベンチュリンは取引先の女性担当者と食事をしていた。
これを、レイシオに見られていたのだろう。
「だから、君をそっちのけにして浮気をしていたとかじゃなくて…」
「君は……、」
「うん?」
「ただの仕事相手とも、キスをするのか?」
その一言にさすがのアベンチュリンも頭を抱えた。
まさか、想定しうる限りの中で、一番最悪の瞬間を見られていた。
相手の女性は、アベンチュリンのことを大層お気に召したようで、とにかくベタベタと纏わりついて来るのが非常に迷惑だった。
世間一般的には美人の部類に入る女性だと思ったが、すでにレイシオという美人の恋人に骨抜きになっているアベンチュリンには、ただそれだけである。
けれど、アベンチュリンと交渉できる程度には頭も回り仕事もできたので、早々に切り離す事も出来ず、ギリギリまでカンパニーに有利な条件を引き出そうと画策した結果がこれだ。
たとえ、翌日の恋人とのデートに浮かれていたとしても、あまりにも迂闊だったと後悔する。
「ちがうんだよ、レイシオ!あれはその、油断してしまったというか、女性の方から…」
見苦しい言い訳をしている自覚はある。
同時に、欲を出して一瞬でも相手に隙を見せてしまった自分の落ち度でもある、という自覚もある。
しかし、とにかく今は恋人の誤解を解かなければならないという焦りばかりが出てきて、いつもはもう少し理論的に組み立てられる思考が阻害される。
「もういい」
ぱたん。
レイシオの手元で、全くページが進んでいなかった本が音を立てた。
「今日は帰る」
「えっ…」
言うや否や、傍らのクラッチバッグを手に取り、レイシオが立ち上がる。
「お互い、少し頭を冷やしたほうがいい」
「…待って!レイシオ」
しかし、レイシオが立ち去るより、アベンチュリンがしがみつく方が早かった。
「待って、まって!おねがいレイシオ僕のこと捨てないで!」
「はっちょ…おい、離せ!」
早く立ち去りたいレイシオと、行かせたくないアベンチュリンの攻防が、ターミナルの片隅で激化する。
更に言えば、石膏頭とイケメンの痴話喧嘩に興味を持たない人間などなく、徐々に二人を囲む好奇の目が増えていく。
「いい加減にしろっ」
レイシオは、自身の腰をしっかりと抱え込む両腕を振り解こうとするが、レイシオより幾分細いはずの腕はびくともしなかった。
アベンチュリンも、ここで離したら最後とばかりに、必死にしがみつく。
形振りなど、かまってはいられなかった。
「ねえレイシオ行かないで!僕と話をしよう」
「僕には話したいことなどない!」
「僕にはあるよ!たくさん!」
「僕はそんなもの聞きたくもない」
「それでも良いから聞いて!僕のことも、見たくないなら見なくていいから、僕にその顔見せて話をさせて!」
「君、言ってることが支離滅裂だぞ」
***
この長時間の不毛なやり取りと全く進展のない痴話喧嘩に、オーディエンスも立ち去り始めた頃。
ようやく二人はハァハァという息切れと共に、ベンチに座り直すことになった。
しかし、アベンチュリンの腕はレイシオにしがみついたままである。
「…腕を離せ」
「離したら、君、帰っちゃうだろ」
「帰らない」
「本当に?」
「本当だ」
そこで渋々といった様子で拘束を解いたアベンチュリンは、代わりにレイシオの手を取って、そこに自分の指を絡ませた。
「僕には、レイシオだけなんだよ。休日に一緒に過ごしたいのも。こうやって指を絡ませて触れ合いたいのも。くちびるを合わせて、キスをしたいのも。全部…君だけなんだよ」
ごめん、レイシオと繰り返すその表情には、いつものような余裕のある笑みはない。
「そんなこと、知っている」
この、いつものポーカーフェイスも保てないで必死にレイシオを繋ぎ止めようとする、どうしようもない恋人は、浮気なんて考えられないくらいに自分を一途に愛してくれていることを、レイシオはきちんと知っている。
それが、そこまで短くはない付き合いの中で、自惚れではないと思えるくらい自覚させられているのだ。
「それじゃあ、僕のこと許してくれるかい?」
「許すも何も…僕は……」
そこに続く言葉を吐き出す前に、レイシオは自分が墓穴を掘ったことに気付いた。
そして、同時に目の前の恋人にも気づかれてしまった。
「…もしかして…君……」
一瞬だけぽかんと、幼いマヌケ顔を覗かせたアベンチュリンの表情が、一瞬で緩みきった笑顔に変わった。
「やきm…」
「帰る」
「わーまってまって早まらないでレイシオ」
再び帰ろうと立ち上がったレイシオを、アベンチュリンはまたしてもベンチに引きずり戻した。
「えっあのさ、ちょっと…いや、今すごく…君の顔が見たいんだけど…」
レイシオをガッチリと捕まえたままのアベンチュリンは、図々しくも石膏頭を外して欲しいとおねだりをする。
「嫌だ」
しかし、レイシオもそう簡単に譲りはしない。
頑なに被ったままの石膏像の下の顔は今、ひどく熱を持っていた。
今外してしまえば、きっとアベンチュリンに付け込まれることは安易に予想できた。
「だって、君にキスしたくなったんだ」
自分の顔の顔の利を活かすことが得意な恋人は、すでに甘えた表情を作って迫っている。
あまりの変わり身の早さにさすがのレイシオも呆れたが、そこで少しだけ意趣返しする事を思いついた。
今まで頑なに外さなかった石膏頭を外して、嬉しそうな顔をしたアベンチュリンを制止するように、人差し指でそのくちびるをなぞる。
「君は、知らない女と触れ合ったそれで、僕にもキスを迫るのか。ひどい男だな?」
そうして、自分が想像しうる限りの悪い顔を作ると、アベンチュリンはすっかり固まってしまった。
その様子に少し溜飲を下げたレイシオは、石膏頭を、被り直すと今度こそベンチから立ち上がった。
数秒遅れて、我に返ったアベンチュリンが後を追う。
「レイシオ!やっぱり君、めちゃくちゃ怒ってるだろ」
「どうだかな。少なくとも、僕は今、君とキスしたいだなんて、微塵も思わないが」
「僕、ちゃんと歯磨きもしてきたし!」
「そういう問題じゃない。それに、歯磨きするのは当たり前のエチケットだ」
「それじゃあ、どうしたら君は機嫌をなおしてくれるの?」
「知らん。自分で考えろ」
「そんなぁそれはあんまりじゃないかい、レイシオ!」
すっかりレイシオに置いていかれてしまっている切実な声が、ステーションの出口に向かって響いている。
おねがい、君にキスさせて!