stargazer「遅くなってすみません!」
「いえいえ、大丈夫ですよ? お仕事お疲れ様です」
保育園に駆け込むと園内は静かで、一つだけ明かりの付いた保育室で数名の園児が先生の周りにちょこんと座り絵本を読んでもらっていた。じっと前を向いていた子たちが、ぱっと顔をこちらに向けてくる。今度は自分の番、と思ったのだろう。けれど自分の親ではないとわかると、また先生の方を向き、続きをねだった。
そんな中、じっとこっちを向いているうちのおちびさんと目があった。いつも元気いっぱいに駆け寄ってきて、倒されるんじゃないかと思う勢いで飛びついてきてくれる。そんな楽しみの時間のためにしゃがんで手を広げる。
少し前までぽてぽてと歩いていたのになぁとにこにこして待っている俺の腕の中に、衝撃の代わりにかわいらしい声が届いた。
「ぱぱ、まってて!」
「……え?」
普段なら迎えにきた瞬間、お顔のパーツが零れてしまうんじゃないかっていうほどにっこり笑っているのに、今日はどこかむすっとした顔で前を指差している。
「えほんのじかんだから、ぱぱはそこでまってて」
「あ、はい……」
息子はきらきらした目でまた絵本へと視線を戻す。俺は抱きしめるもののない腕をそっと下ろした。
「ああ、ロナルドさんすみません。これ好きな絵本で楽しみにしていたみたいで」
「いえ、こちらこそタイミング悪くてすみません」
優しい朗読の声の中、補助の先生が説明してくれた。閉園間近だと、その日残る子の年齢にあわせて読む絵本が変わってしまう。ここ数日は小さな子が多くてどうしても我慢の日が増えてしまい、今日ようやく読んでほしかった本の番が回ってきたというのだ。
数年前まで絵本の内容も大してわかってなかったというのに成長したもんだ、とその姿に胸が熱くなった。
「じゃあ、帰り支度だけしちゃいますね」
今日の持ち帰り品を確認して、園用バッグに詰め込んでいく。着替えの残りが少ないから、少し多めに準備しとかないと。寒くなってきたから少し厚めのものも必要かもしれない。帰ってからの予定を頭に入れていく。
ぎゅっと詰め込まれて膨らんだバッグを手に部屋の真ん中を見ると、楽しそうに小さな手が拍手していた。どうやら物語は終わったタイミングのようだった。体も大分大きくなって会話もスムーズにできるようになっても、まだまだ小さな子供。素直に何かに感動できる姿がまぶしくて、思わず頬が緩んでしまう。
「ぱぱ、おかえり!」
「絵本読んでもらえてよかったな」
「うん! たのしかった!」
「じゃあ帰るか」
ひょいと抱きかかえて先生に会釈して部屋を出る。腕の中で元気にさっき読んでもらったばかりの内容を聞かせてくれているのに、うんうんと頷いた。
「せんせい、さようなら!」
「はい、さようなら。また来週、元気にきてね!」
「はーい!」
物語の途中で元気なご挨拶が聞こえた。そしてまたさっきと同じところから、物語の内容を話し始めるのに笑ってしまうと、物語は途切れ抗議の声が上がる。
「遅くなったからお腹空いたろ。ごめんなぁ。夜はなに食べたい?」
「シチュー!」
「シチューかぁ。寒くなってきたからいいな。けど食べるの遅くなっちゃうけど待てるか?」
「うん!」
「明日お休みだし、ちょっと夜更かししても今日くらいはいいか。じゃあシチューにしよう」
「やったあ! ぼくもおてつだいする!」
「お、じゃあ美味いのできるなぁ。楽しみだな」
家に着くなりすぐ二人でシャワーを浴びて、さっぱりした顔でキッチンに並んで立つ。気合十分な小さなコックさんに最近は使ってなかった子供用のエプロンをつけてやると、いつの間にかすっかり小さくなってしまっていた。最後に使ったのはいつだったか。
「早いもんなだぁ」
「ん? ぱぱ、はやくないよ? きょうのごはんはおそいんでしょ?」
「はは、そうだった。じゃあ早く作らないと」
野菜を洗ってテーブルにおいて、二人並んでピーラーで皮を剥いていく。しゅるしゅると人参の皮がリボンのようにテーブルの上に落ちていった。次々にリボンが折り重なり、そこだけ花が咲いたように鮮やかに色づいていく。
「さ、一緒に切ろうか」
まな板と子供用の包丁を持たせて、後ろからさらにその小さな手を包むように握りこむ。
「覚えてるか? 左手はねこさんの手だぞー。じゃあジャガイモからいくか」
トン……トン……とゆっくりとしたリズムで音が鳴る。一つ音が鳴るたびに、ふうと大きく息を吐く音が挟まっている。息を詰めているのか、ジャガイモが数を増やすタイミングではあと小さな体から大きな息が吐き出されていた。
「ぱぱ? なにわらってるの?」
「ごめんごめん。じゃあ次は人参さんかな」
細かくなったジャガイモをザルに移して、次は人参をまな板の上に置くとすぐに小さな手が猫の手の形になって、けれど空中で止まったままになっているのに気付いて声をかけた。
「ん、どうした? ねこさんの手で置いてごらん」
「ねえ、ぱぱ」
「なんだ?」
人参を持ち上げて、そのまま振り返って見上げてくる。
「にんじんさん、おほしさまにしよう?」
「…………え?」
「おほしさま。まえにおほしさまのシチュー、したでしょ?」
「あ、ああ……そう、だったな」
「ぼく、あれがたべたい!」
「じゃあ、おほしさまにしようか」
「わーい!」
トン……トン……とまたスローペースな音楽が鳴る。眠気を誘いそうな優しい音。まな板の上に丸い赤がいくつも散らばっている。包丁を流しに片し、引き出しの奥から何年も使われていなかった型抜きを取り出した。
錆付いたり歪んだりはしていなかった。しっかりと洗って持っていくと、まだ星型に抜けてもいないのにきゃあきゃあと高い声が上がった。
一つ、試しにと人参に当てて力を入れた。すとんと軽い音と共に小さな星が白いまな板の上に生まれていた。明るいこの街ではほとんど見えなくなっている星が、今、指先で触れられる場所にある。
「おほしさま!」
「一緒にやろうか。ほら、ぱぱの手の上に手を乗せてごらん」
「こう?」
小さな手が重ねられ、きゅっと力を込められているのが伝わってきた。そのままぐっと押し込むと、また新しい星が現れる。夢中になって次々とくり貫いていった。
「わぁ、おほしさまいっぱい!」
「そうだな。じゃあここからはパパの番かな」
手早く焦げ付かせないように炒めて、煮込んでいく。赤い星は崩れないようにレンジで柔らかくして最後に中にそっと忍ばせた。暗い夜空でも、赤い星はよく目立っていた。
「いただきまーす」
いつもより遅くなってしまった夕飯の時間。お腹が空いているからか、外で食べるものよりも美味しくてあっという間に平らげて、二人共おかわりをしていた。
「おいしいねぇ」
「美味しいなぁ。一緒に作ったからかな」
「ままもおいしいかな?」
「美味しいって言ってるよ」
「よかったぁ」
写真の前に小さな器に入ったシチューが湯気を立てている。真ん中に赤い星を煌めかせながら部屋の隅に置かれていた。
「ママ、お星様好きだったよ」
「じゃあ、ままもにこにこだねぇ」
「きっとお空でママもにっこりしてるよ」
「おそら?」
「ママは今、お星様だからね。お空から見てるんだよ」
そう言われて何かを考え始めたのか、スプーンで人参をすくってじっと見てる。瞬きをするのも忘れ、この小さな頭の中で今何を考えているのだろうか。
数秒、数十秒経ってようやく顔を上げたときには、蕩けそうなほどふにゃあと笑っていた。
「だからぼく、おほしさますきなんだねぇ」
母親の記憶のおぼろげなこの子は、そう言って笑っていた。
今日もこの街の空は明るくて、星はよく見えなかった。