匂いと記憶 壁にかけられたカレンダーを見る。
横に長く伸ばされた矢印。
その上には汚い字で書き込まれたスケジュール。
数日間に及ぶ遠征。
矢印の始まりに指を置き、今日の日付までをなぞる。
矢印の終わりには届かない。
──やれやれ、随分とセンチメンタルだな。
若造が帰ってくるのをこんなにも待ち侘びるなど。
クソ汚い文字ですら、堪らなく愛おしいなんて。
仕方ないだろう、と少し拗ねてみる。
恋人になったのだ。
私のものなのだ。
執着するものが手に届かないところにあるのだ。気もそぞろになったとしても仕方がないだろう?
一日たりとて目を離したくないのだ。
同じようで毎日違うロナルド君の変化を見逃すなどありえない。
全部、全部私のものなのだから!
今日は何を食べただろうか。
何を見て、何を感じた?
帰ってきたらそれはそれは賑やかに、遠征中の事を語るのだろう。
少しは私の事を考えてくれたりはしているだろうか。
私が作った食事が食べたいと思ってくれているだろうか。
そうだ、帰ってきた時のメニューを考えておかなければ。
どうせ腹を空かせて帰ってくるだろう。
唐揚げ、オムライス…うん、いつもと同じだな。
あとは…そうだな。冷蔵庫で寝かせるケーキを焼いておこう。
いつも寝かせる前に食べ尽くされてしまうからな。
時間が経つほど美味しくなるものもあるのだと分からせるいい機会かもしれないな。
ちらり、と時計を見る。
そろそろ寝るとするか。
ジョンは今日はオールで遊びに行っているが、一応寝床を整える。
キンデメさんの水槽に遮光の布をかけ、死のゲームの電源を落とす。
寝巻きに着替え、棺桶に入って蓋を閉めた。
目を閉じると訪れたのは静寂。
静かな夜だ。
誰の寝息も聞こえてこない。
気配も、何も無い。
寂しい、のとは少し違う。
だが何か落ち着かない。
その何かが分からないまま棺桶の蓋を開けて外に出て、暗い部屋の中ソファに腰掛けた。
当然だが隣に座る者はいない。
触れた座面に体温は、ない。
──何をしてるんだ、私は。
やれやれ、とソファにごろりと横になり、ぼんやりと天井を見つめる。
そういえばこんな風に天井を見た事などなかったな。
そんな事を考え、いつもは見下ろす方だから──と思い至ったところで砂になる。
──何を考えてるんだ、まったく。
ナスナスと再生し、邪念を振り払うように頭を振ったが、一度捉えられてしまった思考が離れることはなかった。
私が見上げる時には、視界いっぱいにロナルド君がいるから天井を気にしたことなどなかった。
あの青い瞳がそれはそれは美しく潤んで。
怒涛のようにロナルド君との甘い記憶が押し寄せる。
必死に声を堪えようと眉間にシワが寄った顔。
訳が分からなくなって怯える泣き顔。
私の名を呼ぶ掠れた声。
すがりついてくる体温。
そのどれもが愛おしくて。
「……!」
視線を動かし、部分的にシルエットが変わった寝巻きを見て、はぁぁぁ、と溜息をつく。
──仕方ない。
ソファを倒してベッドにし、掛け布団を準備して潜り込む。
──こんな所を見られたら羞恥で死ぬな。
ベッドに残るロナルド君の匂い。
その匂いを嗅ぎながら、なんて。
音を立てないようにティッシュを三枚ほど抜き取る。
そろりと寝巻きの裾を捲りあげ、下着のウエストに手をかける。
少し位置をずらしただけで飛び出したそれを握り込む。
──さっさと終わらせて寝よう。
布団に潜るように体を丸め、声を押し殺すために布団に鼻を押し当てながら手を動かし、匂いに結びつく記憶を辿りながら、自らを高みへと導く。
「……ふ…っ…。」
匂いというのは厄介だ。
いとも容易く記憶を呼び起こし、こんなにも簡単に高みへと導く。
「ん……っ!」
息が上がるにつれ吸い込まれる匂いの残滓の量が増え、全身に力が入る。
──早く帰ってこい、バカ造!
ピンと伸びた足先。
吐き出された情欲を受け止めたティッシュをぐしゃぐしゃと丸めた。
──はぁ、疲れた。
スッキリはしたような気がしないでもないが、なんというか虚しい。
ある種の罪悪感。
それから少しばかりの嫌悪感。
そんなものに取りつかれていたから気づかなかったのだろうか。
「……ドラ公?何してんだ?」
不意に背後からした声に驚き死する。
「…ロ、ロナルド君?!君まだ帰らないんじゃ…。」
見られたのだろうか。
いや、まだわからない。
「帰ってきたら悪いのかよ。」
「そんなことあるものか。」
ナスナスと再生し、件のティッシュをポケットにねじ込み起き上がる。ぶすっと不貞腐れた頬に触れる。
冷たい。
外は冷え込んでいるのだろう。
鼻先も赤い。
「おかえり。」
そう言って口付ければ、鼻先に届く匂い。
冬の冷たい外気の匂い。
汗の匂い、知らないシャンプーとボディソープの匂い。
それから、知らない街の匂い。
たくさんの知らない匂いに少しイラつく。
「…何だよ?」
「いや?」
血の匂いはしない。
怪我をしなかった事を褒め、もう一度口付けた。
「急いで帰ってきてくれたんだな、と思ってね。」
「……もしかしたら、間に合うかなと思ったから。」
「……?」
「お前がまだ起きてて、少し話せるかなって。」
そっと頬を撫でる。
「…寂しかった?」
「違う、そんなんじゃねぇ。」
ロナルド君は頬を撫でる私の手にその手を重ね、
「そんなんじゃねぇ、けど。」
柔らかくぎゅっと握りしめた。
「……一緒に、その、寝たり、とか、し、てぇな、とか。」
途切れ途切れの言葉が可愛くて思わず吹き出す。
「寂しかったんじゃないか。」
私の言葉に、うるせぇ、と私の手を握りつぶした顔は真っ赤だ。
再生した手を頬に添え、いいとも、ここで一緒に眠ろう、とキスをする。
唇を離せば、閉じた瞼がゆっくりと開き、じっと私を見つめた。
「なぁ。」
「何だね?」
「お前さっきさぁ。」
「プライバシーだ。」
「もしかして。」
「黙秘権を行使する。」
「一人で。」
「それ以上言ったら私は今すぐ棺桶に入って一人で寝るからな。」
「何だよ!教えろよ!」
「何故そんな事知りたがるのかね!」
「俺だけじゃないって思いたいだろうが!」
「何がだね。」
「し…したかったのが、俺だけじゃないって。」
ロナルド君の言葉に一瞬言葉を失ったが、すぐに嬉しさがふつふつと湧いてきた。
「私としたかったから、君は急いで帰ってきたのかね。」
「そーだよ!悪いかよ!」
「いや?…私もそう思っていた。それならば早く風呂に入ってこい。」
「…寝たり、しねぇ?」
「待っているとも。」
「分かっ…」
二人の間に響いた「ぎゅるるるる」という切なそうな音。
大音量のそれに吹き出した。
「まずは朝食かな。」
私の言葉に、ロナルド君がブンブンと首を振る。
「お腹が空いているのだろう?」
「…飯、より」
「ん?」
ロナルド君は真っ赤な顔でぎゅっと模を閉じ、絞り出すように言葉を紡いだ。
「し」
「てぇ」
「って」
「言ったら」
「ダメ」
「……か?」
ロナルド君は恐る恐る目を開けて、私の様子を窺う。
そのあまりに可愛いお強請りに、体が崩れ落ちる。
あのロナルド君が。
食欲よりも私との時間を優先するなんて。
「もちろんいいとも。」
再生し、抱きしめながら言葉を続けた。
君が風呂に入っている間にココアを練ってやろう。
チョコレートとマシュマロも乗せてやる。
それから冷凍のベーグルを焼き戻して、ドリア用の作り置きのハンバーグを温めて、チーズと一緒に挟むとしよう。
…そんな顔をするな。
しないなんて言ってないだろう?
君がそれを食べる間に、私は君の髪を乾かしてやる。
そうしたら、ね?
私の言葉に、ロナルド君の瞳に迷いが浮かぶ。
だが並べられたメニューに、ロナルド君のお腹が更に切なそうに鳴った。
「君が私を求めてくれたように、君のその胃袋も、私の料理を求めているんだろう?」
「……ベーグル、二つがいい。」
「いいとも。もう一つにはバターとジャムをはさんでやる。」
「風呂入ってくる!」
ごくりと喉を鳴らし、ロナルド君の姿は風呂場へと消えた。
その背中を見送った後、ベッドから立ち上がり、ゴミ箱の奥底にティッシュを捨てる。
冷凍庫から取り出したベーグルを焼き戻し、ハンバーグを温めココアを練る。
具材を挟み終わる頃にはロナルド君が髪先からポタポタと雫を垂らしながら戻ってきた。
食卓の椅子に座らせ、ベーグルを頬張る傍らでタオルで髪の水分を吸い取り、ドライヤーの風を当てる。
ふわふわと銀髪が踊ればロナルド君の食事も終わり、ロナルド君は待ちきれないとばかりに私の腕を掴んだ。
ドライヤーを片付けるからね。
君も、さぁ歯を磨いて。
寝支度がすっかり整ったところで電気を落とす。
二人で潜り込んだ狭いベッド。
温かい体を抱きしめながらすん、と首筋の匂いを嗅げは、いつものシャンプー、いつものボディソープ、そしてロナルドくん自身の匂い。
いつもの、この部屋の、私のロナルドくんの匂いに安堵する。
知らない匂いは、もう微塵もない。
指を絡め、耳元に唇を寄せて囁いた。
「おかえり、私のロナルド君」