message「あら?」
改札を抜けて自宅へと足を進めていた時だった。背後で大きな声が上がり、思わず足が止まってしまった。振り向くと一人の女性がこちらをじっと見ている。思わず視線を辺りに巡らすが、特に変わった様子もなく、女性に駆け寄るような人もいなかった。
聞き間違いかな、と踵を返そうとすると、もう一度、今度は更にはっきりと声が聞こえた。目の前までぱたぱたと駆け寄ってきた女性は、母親よりも少し上で祖母よりは少し若いといった印象の人。
「やっぱりアヌビスくんだ。おっきくなっちゃってー! 最初誰かわかんなかったわよ」
「え、と……」
けらけらと笑うこの人は僕のことを知ってるらしい。名前まで知ってる間柄だったはずなのに、ぴんと思い出せずにいるとまた声を出して笑っていた。
「ちっちゃい頃だったからもう覚えてないわよね。ほら、公園横の赤い屋根の家の」
「ああ!」
そうだ。まだ小さい頃、公園に行くとよく遊んでくれていた人だ。ここ数年は顔を合わせていないからすぐに思い出せなかったけれど、確かに記憶の中にある顔と同じ笑顔の女性だった。公園に遊びに行くと時々声をかけてくれて、少し会話したりお菓子をくれたり。
近所の方々は皆よくしてくれていた、そんな内の一人だった。友達のような、遠い親戚のような存在がこの街にはたくさんいたのを覚えている。
「お久しぶりです」
「元気してた? 今は大学生だっけ?」
「はい」
「立派になっちゃって。でも忙しそうだから、お父さんもお母さんも寂しがっちゃうわね」
寂しい。僕が忙しいとなぜ二人が寂しくなるのだろう。両親も僕が幼い頃から忙しくしていた。そうだとしたら僕も寂しかったのだろうか。思い返してもそんな思いをしたことはなかった。
「二人の跡を継ぐなんて素敵ねぇ。頑張ってね」
「ありがとうございます」
「あ、そうだ。ちょっと待って?」
急にバッグの中をごそごそと何かを探し始めるのを黙って待つと、はい、と手渡されたのは懐かしいお菓子だった。
「はい、これ。あ、こんなお兄さんになったのにおかしかったかしら」
「いえ、ありがとうございます」
「これだけじゃなんだから」
手提げに入っていたみかんやりんごを差し出され慌てて両手で受け取ると、組んだ手の上に次々と乗せられて、オレンジ色や赤で小さなピラミッドのようになっていた。
最後の一個を頂上にそっと乗せると女性は満足気ににっこりと笑った。
「みんなで食べて?」
「こんなに悪いですよ」
「貰い物なんだけど、一人じゃダメにしちやうから貰ってくれたら嬉しいの」
「そうですか」
両手いっぱいの果物からは甘い香りが立ち上る。瑞々しい色が視界に広がって、薄ぼんやりとした冬の街が鮮やかに色づいた気がした。
ああ、これをキレイに剥いて父に出したら、ほんのりと頬を赤らめて口にするのだろう。甘酸っぱさに顔をくしゃりと歪めて。
「あ、でもお父さんもお母さんもお忙しいから、ジャマになっちゃうかしら?」
「今日はきっと早いはずです。先ほど連絡がきたので」
「そうだったの。じゃあ家族団らんできるわね」
「はい。だから今日は僕も早く家に帰ろうと」
それなら邪魔しちゃ悪いから、と女性はさっと帰っていった。夜が空を覆い尽くした街の中で、僕の腕の中の鮮やかな色だけがぽつんと残されていた。
その色を腕から零さないように家に向けて足を前へと進めた。街灯の明かりの下を通ると、細長い自分の影が僕よりも先に家へと伸びていった。急がなくてはと少しでも早く前にと。落ち着いたように見えて、気ばっかり焦ってよくはなのはよくないのはわかっている。
今日は冷えるから、両親よりも先に帰って部屋をあたためて二人の帰りを待っていよう。あたたかい料理でも作って、果物も切っておいて、三人で食卓を囲もう。いつも通りに。
大学での話をして、二人の仕事の話を聞いて。それから僕たちの話をして。そうして自然と三人でいることを考えて、三人での幸せを考えて暮らせる空間は、幸せ以外の何者でもない。お互いを思い合える関係。それぞれを必要と思えるのは、とても幸せなことだった。
「今晩は何にしようかな。寒いからお鍋……豆乳鍋とか。キノコたっぷり入れて」
帰宅途中入っていた母からの連絡を思い出す。今朝見た冷蔵庫の中身と、買い物の報告内容を照らし合わせて今晩のメニューを考えていく。寒さに合う、父の体にもいい食事。今晩の目的を安心してこなせるための何かを、家にたどり着くまでのこの時間で決めていった。
人の気配のない家の明かりを点け、エアコンのスイッチも入れる。二人が戻るまでには適温になるはずだ。貰った果物をダイニングテーブルの上に載せると、色味の少ない室内が鮮やかに火が灯るようだった。 なんでもない日常も、少しの思いと目的とで、一瞬で特別な時間になっていく。今もそうだ。ただの食事の支度ではない。父の体を考えた食事を自分は作ろうとしている。それを父が望んでいるのを知っているから。そしてその思いに協力したいと思っているから。
ことことと煮込まれる鍋は豆乳の色でまろやかなやさしい色をしていた。艶やかな光を持つその色は、この部屋の中までもやさしくとろかせていくような色だった。
「おかえりなさい」
「おう、ただいま」
「あら、いい匂い」
ちょうど準備が整った頃、両親は揃ってリビングのドアを開けた。部屋中に満たされた香りで二人は手早く支度を済まし、ダイニングテーブルへと腰を下ろした。すっかりと仕事の顔がなくなった二人の前に食事を並べていく。
なんでもない食事の時間。今日の報告をしあって、食事を口に運んで、くだらないような内容で笑いあう昔から変わらない時間が今日もあった。この時間が好きだった。ただ一緒にいることで安心しあえるこの空間を守りたいと思っていた。
家族でいようと、ただ家族であろうとする言葉を守るために自分ができることがあるのならば、ただそうしたいと思えたのは、家族である両親がこの二人だったからだろう。
あたたかい、家族団欒の時間。そして今日、日中に父から送られてきたメッセージの内容を誰も口にすることもないが、ここにいる三人とも何が書かれているのかを知っていた。繰り返す必要はなかったから。
「これ、今日貰った果物なんです」
生命力に溢れた真っ赤な色のりんご。切り分けたもの以外はまだ見える場所に置かれていた。父の頬は食事であたたまったからか、ほんの少しだけ血色がよく見えた。
「ありがとう」
これが日常。こうして家族であろうとそれぞれが動いているだけ。だから月に数度送られてくる父のメッセージも僕には日常なのだ。いつまで経ってもシンプルな内容のそのメッセージを何度貰ったのだろう。父が送るのに慣れる日がくるよりも先に、いくつ貰ったかを覚えられなくなるかもしれない。
家族でいたい、と懇願するメッセージ。それをもう何年も受け取っている。
『今晩、仲良したのむ』
たったそれだけの短い父からのメッセージはまるでお守りのようで、消すこともできずにいくつも溜まっていた。