「ありがとうございました」
最後のお客様をお見送りした時には0時を超えていた。土曜は一週間の中でも一番賑わう日で、クローズまでの時間も一番長い日だ。世の中は一週間頑張ってようやく迎えた週末で、翌日も気にしないでいられるのが土曜日だから当然だ。
羽目を外し酔いつぶれてしまったり、終電を逃してしまったりと気にかけることは多いけれど、ありがたいことにこの店の常連さんは比較的そういったことも少ない。ここがバー以外の側面もあるから、そういった事情を知っているからなのかもしれない。
ドアの鍵を掛けて、ロールスクリーンを下ろしていく。夜の街から切り取られた空間。小さな四角いこの家の中には、自分たち以外に誰もいない。
「ドラルク」
「はいはい、……あぁ皆帰ったの。」
「そういうのはいい。さっさとやるぞ」
「おやおや、さっきまでの顔はどうしちゃったの?」
ドラルクは目を細め、下卑た笑顔を向けてくる。こうして余裕をなくせばなくすほど、こいつはこうして心底愉快だと出してくる。胸の内を全てわかっているとでも言いたげな表情に苛立ちが隠せないが、そんなことすらどうにかする余裕もなかった。
こんなことが日常になってしまったのはいつからかなんて、もうわからなくなるくらい時間は経っている。それも二人の間だけと出来たなら良かったのに、この関係を知るのは二人だけではなかった。
けれど止めることも何もできず、続いてしまっていた。
「じゃあさっさと来なさいよ」
ドラルクが細い指先でカウンターを叩く。か細い神経質な音が店内に響く。営業中であれば聞き逃してしまうほどかすかな音量だったが、今はここには二人しかいない。
ネクタイを緩めドラルクへと近付くと、薄い唇を更に細く引き上げ、じっとりと笑う。愉悦の色を纏わせた言葉に従う気はない。それなのに靴は勝手に声の元へと進んでいく。
「自分で脱ぐの? それとも脱がされたいの?」
楽しげに跳ねた声色で問いかける。その音だけで腸は煮えくり返りそうなのに、腹の奥底からじくじくとした熱が全身に広がっていく。抗えない熱さに、はぁと息を吐いた。
ドラルクの問いには何も答えずに、乱雑にバックルに手をかける。ガチャガチャと静かな店内に響く不協和音が、酷く耳障りだった。 目の前でドラルクは薄い唇を更に細く歪める。口角はどこまでも上がり、顔を真っ二つにでもするつもりなのだろうか。
そんな細い月のような口の隙間から、尖った犬歯がきらりと光る。人ならざるものなのだと嫌でも思い知らされる。
最善でも最良でもないのはわかっていた。ただこいつが戻ってから、この月が沈むことはなかった。
「…………はぁ」
いつもよりも少し温度を下げたシャワーを浴びる。火照った体から一気に熱が奪われ、ようやく頭がはっきりしてきた。すでにドラルクは部屋へと戻っている。こういう時に愛だの恋だのではない関係だから、その後を求められることも一緒にいることもないのは気が楽だった。
ドラルクとの関係には一般的な恋愛のような先はない。だからこそ事後に愛を語るような時間もない。残るのは体内に残された体液だけ。
掻き出された白濁が水に紛れて排水溝に吸い込まれていく。ついさっきまでの熱に浮かれた時間が夢でもなく現実だったと思い知らされる瞬間だった。
掻き出すために体内に突っ込んだ指先に、何かを求め収縮している感触が伝わってくる。感情とは関係なしに勝手に欲している体に、乾いた笑いが零れた。
床を流れる水が透明になっていっても、心の奥底は濁ったままだ。中に押し込んでいた指を抜く瞬間さえも、引き止めるように浅ましく疼く。何かが足りないと訴えている。
そんなことを言ったことなど一度もないのに。
寝室のドアに手をかけて動きが止まる。何の変哲もない薄い扉が、重苦しく感じてしまう。この小さな扉の向こうには本来誰もいないはずなのに、誰かがいるのをすでに知っているからだ。
ドアを開けると寝室は静寂に包まれていた。目を引く棺桶の蓋は閉じられていて、主もなくひっそりとしていた。ドラルクはバーでの仕事の後は日が登るまで散歩やらゲームやらで寝室にくることはない。
だから本当であれば誰もいないこの部屋で眠りにつくだけ。けれどベッドは一人分の重さに軋み、布団を盛り上げている。当たり前のように自分以外の人間を受け入れているベッドも、もう見慣れたものだった。
「………………」
ベッドの端に腰掛け布団を持ち上げ、隙間に体を滑り込ませる。押し込んだ先はまだ主がいないはずなのに、熱が籠もっている。おかしいはずなのに、いつの間にか週末の習慣となってしまったこと。
自分以外の熱に腹の奥がきゅうと疼いた。ベッドを共に出来る存在、その相手が与えてくれる愛に体が勝手に期待する。体の奥底で脈打つのですらわかるほどだ。
そしてそれと同時に激しい嫌悪感に襲われ、胃の中がひっくり返りそうなほどに、腹の奥が激しく暴れまわる。どれだけ綺麗事を並べようと、この唾棄すべき行為を望んでいるのだと思い知らされる。
それでもなけなしの理性を総動員して、何でもない顔で横になる。いつもよりも端に寄せられた枕に頭を沈める。ベッドの真ん中で何年も一人で寝ているのに、ここ最近は枕が二つ並んでいることがある。週末限定のこと。
小さい頃は一緒に寝ていた。けれどここに移ってからは寝る時間の問題もあり、ベッドは別に用意した。けれど店が休みの日や学校が休みの日は一緒に寝ることが恒例になっていた。
それが最近、急に復活した。それだけだったらまだ良かったのかもしれない。高校生の息子と一緒に寝ている。こんな年になっても親子の仲が良いといういい話で終われたはずだった。
俺たちはそうじゃない。親子以外の関係を持ってしまった。こうして抱かれることをどこか期待して、ベッドに潜り込んでいる。何もないと言いながらも、浅ましくも腹の奥を疼かせて。
「……おやすみ」
寝ているはずの息子に声を掛ける。戻ってくるのを寝て待っているという体でこの部屋に入っている息子に。
そうすると「おかえり」と甘えているのか、労わっているのか寝惚けた様子で抱きついてくる。そしてそのまま息子のワガママに押し切られる形で、息子に抱かれている。ろくに拒否することもないままに。
いつも直前まではこのままじゃいけない、きちんと断らなければと思っている。親として、自分が線を引かなければいけない。今日にでも、この後にでも、明日にでも、とずるずるとここまできてしまった。
返ってくるだろう言葉を待つ間、一つ深いため息をする。けれど部屋は静まり返ったままだった。
「……え?」
そっと横に視線を向けると、柔らかい睫毛を伏せたまま、すぅすぅと寝息を立てている息子がいた。幼い寝顔で眠っている。
「……寝ちまったのか」
張り詰めていた緊張が切れて、全身の力が抜けた。良かった。心底そう思う。
なのにこの腹の奥で燻ぶっている熱はいったいなんなのか。わかっている。もの足りなさを訴える正体なんて気付いている。けれどさすがに起こすことは出来なかった。
「自分で……いや……」
この渇きを沈める方法はわかっている。だからこそ自分で処理してどうにかなるものでもないこともわかっている。
布団を被り、きつく目を瞑る。眠ってしまえ。眠ってしまえば何もかもわからなくなる。きっと朝にはわからなくなっているはずだ。そう願いを込めて、夢の中へといこうとした。
眠る前、もう一度目を見開いて目の前をじっと見る。穏やかに眠る子供。寝顔は何も苦労もなく見える。幼い頃と同じ寝顔だった。
「……おやすみ」
寝落ちしていたら、夜中に目を覚ますかもしれない。そのまま寝ていたとしても朝になれば、ここで一緒に寝ていることに気付くだろう。
そうなればきっとこいつは『夜の続き』をねだるだろう。その時、俺はどうするのだろうか。答えなんてわかっているのに、わからない振りをする。
今は眠ってしまおう。疼きも乾きも全て夢に引き連れて。
目の前で眠る子がいい夢を見れますようにと願いながら。
その日、まだ親子三人でいる日の夢を見た。