【伏棘】バレンタイン釘崎と真希さんか?
アレを家庭科室に忘れたことを思い出し放課後校舎に戻って廊下を歩いていると、目的の教室から明るい話し声と甘い匂いが漂ってきた。お菓子でも作ってるのか?
「きのう生地仕込んでおいて正解でしたねー」
「あとはもう少し冷ますだけだしな。それにしても結構作れたな」
高専に2人しかいない女子生徒。普段から仲が良いのは知ってたけれど、放課後家庭科室を借りてまでお菓子作ったりもしているのか、と思いながらドアの手前まで来た時、中から聞こえた思いがけない人の声に思わず体が固まった。
「しゃけしゃけ、こんぶー」
狗巻先輩!? 寮の玄関に靴がないと思ったらここだったのか。でもなんでまた。
「ほんといい匂い。ねえねえ、そろそろ味見してみましょ」
忘れ物を取りに来たと言って堂々と入っても問題ないのに、なんとなく入りにくくて、気配を消してそっとドアに近づいた。隙間から中をうかがうと、女子2人に違和感なく混じって満足そうにクッキーを頬張っている片想い中の人がいた。
「お、かなり旨いな」
「つなまよー」
上着を脱ぎ、シャツの上から着けているクリーム色のシンプルなエプロンは、淡い髪色と透き通るような白い肌、中性的で可愛らしい容貌(本人には言えない)にとても似合っている。ごくありふれた汚れ防止の薄い布を一枚着けているだけなのに、なぜかドクドクと鼓動が速くなり目を逸らせずにいた。
「おいし~。これならホワイトデー期待できるわね」
ホワイトデー? そうか、明日バレンタインか。だからクッキーを。でも待てよ。真希さんと釘崎は自分たちで食べたりばら撒くのかもしれないけれど、先輩は? 途端にゾワリと胸騒ぎがした。ただ一緒にお菓子を作って食べたいだけなのか、知り合いに配るのか、それとも……。
「クッキー詰める袋たくさんあるから好きなの使って」と様々なサイズと柄のラッピング袋を釘崎が机の上に広げた。
「狗巻先輩も男子たちに配るんでしょ?」
「しゃけしゃけ」
そうか。特定の誰かじゃなくみんなに配る……。残念なのか安心したからなのかよくわからないけれど、ふーっとため息とともに肩の力が抜けた。
「あー、お菓子作りって体術と違う筋肉使うのよね」
首をボキッと鳴らしながら椅子にドサリと座って脚を組む。
「ん? 本? このカバー、伏黒のじゃない」
しまった。本のことをすっかり忘れていた。
釘崎が興味なさそうにパラパラとページをめくる。
「わざわざ市販のカバー付けるなんて、エロ本?」
んなわけあるか。
いつも移動教室の時まで本を持ち歩かないが、今日は続きが気になって持ってきたものの、調理実習中の五条先生の奇行や無茶ぶりにより本を調理台兼机の中に入れたまま忘れてしまっていた。
「ブフッ、ちょっ、見てよこれ、伏黒らしいっていうか」あー涙出てきた、と本のタイトルを見せながら釘崎が大笑いしている。
チッ、失礼な。ムツ〇ロウ王国なんて映画にもなってるベルトセラーだぞ。待ち望んでいた続編が出版され、きのうやっと届いたばかりだった。早く続きを読みたいが、この様子だと家庭科室が空くまで時間がかかりそうだ。出直すか、とドアから離れ去ろうとした時。
「すじこ?」
釘崎がひとしきり笑ったあと、「これもらっていい?」と狗巻先輩がたずねた。
「ああ、それ? もちろん。先輩やっと決心したのね」
決心? 釘崎の言葉が気になり足を止める。
「最初聞いた時はびっくりしたよな」そしてそれに続く真希さんの言葉に、雷に打たれたような衝撃が走った。
「棘に好きな人できたって」
「明日頑張ってよね」
「めんたいこ……」
照れや恥ずかしさのにじんだ幸せそうな声。
好きな人。
狗巻先輩の好きな人。
片想いなのか、それともすでに……。
続きを聞きたい気持ちと、これ以上知りたくないという葛藤が渦巻く。先輩の好きな人が男である可能性も、自分がその対象である可能性もほとんどないのはわかっている。それでもその場から離れることも耳を塞ぐこともできず、痛いほど脈打つ心臓を押さえつけるように手をあて、再びドアに顔を寄せた。
「告白すんのか?」
「うーー……、おかか……」
まだ片想い、なのか。
「意外と鈍感そうだし、それ渡しても気づかねぇかもな」
「明日告っちゃえば?」
「お、おかかおかか!」
真っ赤になって必死に否定する、その姿だけで、先輩がどれほどその人を好きなのかつらいほど伝わってくる。
「男なのにも驚いたけど、先輩アイツのどこがいいの?」
男!? 予想外の言葉に、目が覚めるほど全身に血が駆け巡った。が直後、サァッと血の気が引き、頭を殴られたように世界が歪んだ。
頬を淡い桜色に染め、恥ずかしそうに目を細めた先輩の口から、好きという感情をまとって紡がれたおにぎり語の意味は。
―――かっこよくて、可愛くて、優しくて、面白くて……
■□
はぁ……。
何度目かのため息を吐く。就寝時刻はとうに過ぎているのに、ベッドに横になっても全く眠気がこない。目を閉じても思い浮かぶのは今日のことばかり。
狗巻先輩の好きな相手が男だとわかり、舞い上がった直後に語られたその人物の特徴に俺は全くあてはまらなかった。真希さんも釘崎も知っている人、ということは俺も知っている可能性が高い。4人共通の知人。そう思うと、10人ほどしかいない身近な同性の顔が浮かんでは消え、誰なんだ……と終わらない犯人探しを無意識のうちに何度も繰り返していた。
頭が痛い。考えたくないことを考えてしまうなら、と重い体をなんとか起こして電気を点け、短編集に手を伸ばしたとき、コンコンと控えめなノック音が聞こえた。壁の時計は12時少し過ぎ。隣の部屋からは虎杖がまだゲームをしている音が聞こえてくるから、先輩たちか先生か……。はい、と返事をしてドアを開けると、部屋着姿で立つその人物に、ぐっと喉の奥が詰まった。
――狗巻、先輩……
風呂あがりなのか筋トレでもしていたのか、頬が体術訓練の後みたいに火照っている。
「つな、すじこ……」
夜遅くにごめんね、これ……と手渡されたのは、結局取りに戻れなかった新刊だった。わざわざありがとうございます、と受け取ったが、視線を逸らせたままの先輩は帰ろうしない。
居心地の悪い沈黙に、まだ何か、と口を開こうとした時、「それと、これ、バレンタインの……」と俯いたまま紙袋を差し出された。受け取った袋の口から見えたのはクッキーの入ったラッピング袋。家庭科室での会話を聞いていなかったら、素直に喜んでいただろう。
「ありがとうございます」と口から出たお礼は、本を受け取った時と同じトーンだった。そういえば他にも配るって言ってたな。
「あ、虎杖もまだ起きてますよ。渡すなら――」
「おかかっ…………いくら」
「そう、ですか」
悠仁には明日渡すから、と。まあ俺のは本のついでだしな。
「クッキーありがとうございました。明日いただきます」
「しゃけ……」
先輩に失恋したばかりの身としては、これ以上対面しているのは正直つらい。会話を切り上げるつもりで再びお礼を言ったのだが、戻る気配はない。
「まだ、何か」
「……」
口をきゅっと結び、小さく唾を飲み込んだ先輩がこちらを向いた。
「……つな、めんたい、こ……」
「えっ」
すぐにクッキーの袋を取り出す。透明なラッピング袋に割れないよう丁寧に、でも袋いっぱいに、ぎゅうぎゅうに詰められたクッキーは……。
―――その形は、恵にだけ……
「ハート……」
思わず口に出してしまったその言葉に、あわてて下げた先輩の顔がボッと耳まで染まった。もしかして部屋に来たとき頬が赤かったのは風呂上りとかじゃなくて……。
それじゃあお休み……、と去ろうとした先輩の手首をとっさに掴む。
「っ!?」
掴んだ手のひらから伝わってしまいそうなほど、心臓がバクバクと早鐘を打っている。このまま先輩を帰したくない。失恋したとばかり思っていた人からの予想外な贈り物。家庭科室での言葉が引っかかるけれど、勘違いなんかじゃないよな。
「……つな?」
突然手首を掴んだ俺を、驚きと不安と恥ずかしさの滲んだ瞳がみつめる。
勘違いじゃないと確信したい。それから、俺の気持ちもきちんと先輩に伝えたい。バレンタインの返事はホワイトデーなんだろうけど、一か月後なんかじゃ遅すぎる。
「先輩……、」と紫の瞳を捕らえて口を開く。
「時間大丈夫だったら、少しいいですか」
丸く目を見開き、それから小さく頷いた先輩の手首を引く。
パタンと閉じたドアの音が、二月の冷たく澄んだ暗闇に、静かに温かく溶けた。
■□
~後日~
「あの、ちょっと聞きたいことあるんですけど……」
――こんぶ?
「実は先輩たちがバレンタインの前日にクッキー作ってるの見てしまって。で、」
――すじこ!
「ちょ、むっつりって、たまたまだったんです! 家庭科室に本忘れて」
――いくら?
「はい。先輩が夜届けてくれた。で、そのとき、その……先輩の好きな人の話してるの聞こえて……」
――!! こんぶー高菜ぁーー!
「痛っ、あっぶな、叩かないでくださいよ」
――めんたいこっ
「すいません、でもそこは気になったんで。で、先輩の好きな人の特徴、俺全然当てはまってなくて失恋したと思ったんです」
――?? つな? いくら?
「え、可愛いとか面白いとか全く当てはまらないし言われたこともないですよ。だから先輩が、その、俺に好意もってくれてるっていうのが不思議というか、」
――……つな
「えっ ――ッ!」
――つな、こんぶ
「いや、そういうとこってどこが可愛い……というか、キス……」
――ふふっ、つなまよ
「俺も……好きです」
――これから恵の好きなところ、いっぱい教えてあげる