恋がはじまるよーー! どんな出会いをしたって、多分、君が好きだよ。
だから、この出会いもどうか運命であったと願わせて。
四月、進級して三日目の朝。クラスは昨年度から持ち上がりで、担任も周囲の顔ぶれも殆ど変わらない。
その春、ただ一つ明確に変わったのは。
「二階堂、お前、前期の美化委員な」
「……ハァ?」
承諾した覚えのない役職に、俺は思わず声が出た。明らかに舐めた態度だが、馴染みの深い担任教師は気にした様子はなく、代わりに、「昨日、午後いなかったろ」と冷たく言い放つ。
やらかした。昨日といえば、二週間程度の春休みを怠惰に過ごした癖が抜けず、昼休みに屋上で寝過ごしたのだ。
「委員決めと来週の校外研修について話すってHRから言っていたにも関わらず、サボった罰だ。お前に拒否権は無い」
「冗談……」
「じゃねぇよ。今日の放課後、活動あるからちゃんと行けよ」
じゃーな、と教室を去っていく担任を追いかけるわけにもいかず、入れ替わりに一限目の担当教師が入ってくる。
途方に暮れる俺に、様子をうかがっていたのであろう、女子の美化委員である佐藤さんが声をかけてきた。
「二階堂くん。今日の活動なんだけど、校舎周りの清掃らしくて……予定とか大丈夫?」
そういえば、どこかの委員会が月イチで放課後に清掃をしていた気がする。あれ美化委員だったのか。よりによって過ぎるだろ。
かと言って、恐らくは立候補したのであろうクラスメートの前で愚痴を垂れるわけにもいかない。
「全然大丈夫よ? 俺、部活も入ってないし。まーなったものは仕方ないから頑張ろっか」
適当に笑えば、佐藤さんも安心したように頷いた。
あーめんどくせ。
放課後、指定の場所に集合すると想定よりも人がいた。
「今年度より、風紀委員、美化委員、生徒会で連携し、より美しい学園を目指し——」
廊下ですれ違ったことしかない生徒会長の声が、小さな拡声器越しに響く。
なるほどね。風紀委員と生徒会も参加してるから人が多いのか。これなら多少サボってもバレなくない?
配られた軍手は面倒なので右手だけ装着する。分担も学年ごとにざっくりこの辺りを、と言われたので一人の負担も大したことがなさそうだ。
見れば、佐藤さんはすでに別のクラスの委員と喋りながらゴミを拾い始めていた。
あーはいはい、友達と合わせてたのね。思ってたよりまじで気楽じゃん。下手に教科係とかになるよりよっぽど楽かも。
なんて思ったのも一瞬のこと。
十分もすれば、俺は飽きていた。中腰で雑草抜きなんて、昼休みを寝過ごすような人間が集中できるわけない。足も腰もだるい。あと暑い。最初からブレザーを脱いで来てたやつ賢いな。
気晴らしに誰かと駄弁りながらやるかと、顔見知りを探してみる。昨日のHRをサボったせいで、自分のクラスの風紀委員さえ誰か知らない。それらしい奴がいないかとよそ見をしているときだった。
「っ痛ッ……あ?」
ぼんやりと周囲を見ながら草抜きをしているうちに、無意識的に軍手を着けていない左手で草に触れてしまっていた。その上、なかなかの硬さの葉のせいで指先に切り傷が出来ている。
じわりと滲んできた赤色に、俺は瞬時に立ち上がった。痛いやつ。これ痛いやつだよ。
「どうかしました?」
清掃に勤しむ集団からすぅー……と離れて立ち去ろうとすると、「生徒会執行部」の腕章を着けた生徒に声をかけられた。
優しい雰囲気の色白美人な男子生徒。コイツあれだ、生徒会の双葉王子。去年の卒業式にピアノ演奏してて、クラスの女子が騒いでいたような。
名前は思い出せないが、一学年下だったはず。
「あー……ちょっと怪我しちゃって」
「えっ大丈夫ですか?」
「へーきへーき。指切っただけだからさ。でもちょっと痛いから、保健室で絆創膏貰ってきたいんだけど」
「そうでしたか! あ、じゃあ学年とクラスを聞いてもいいですか? あとで点呼があるので念の為」
げ、点呼あんの? 危ねーサボったらまたバレんじゃん。
意外と厳しいんだなと思いつつ、「三年B組美化委員の二階堂です」と答えれば、双葉王子はポケットに入れていた名簿に印を入れて頷いた。ポールペン常に持ち歩いてんのかな。
「二階堂先輩ですね。了解です、もし点呼に間に合わなかったら僕が伝えておくので」
お大事に、と微笑んだ姿は確かに王子様のように品がある。でもなんで双葉なんだ?
名前は関係なかったような、と首を捻る俺に背を向けて、双葉王子が持ち場へ戻っていく。その後ろ姿、頭のてっぺんで双葉のように開いたくせ毛が揺れていた。
何はともあれ、面倒な清掃活動からエスケープできた。保健室で絆創膏を貰って、丁度いい頃合いまで時間を潰してやろう。そんな軽い気持ちで保健室の扉を開ける。
そこで運命が決まるとも知らずに。
「失礼しまーす。ちょっと怪我したんで、絆創膏もらいに来ましたー」
間延びした声で扉を開けば、奥からおばちゃん保険医の「はぁい」と、こちらも呑気な返事が聞こえる。
が、すっかり気を抜いて足を進める俺を迎えたのは、見知らぬ生徒だった。ピンクがかった、ほとんどオレンジに近い明るい茶髪。その下の、丸くて大きな瞳と視線が合う。眩しい陽の光を思わせる果実の色。
自分より十センチは低そうな身長と小柄な体格に、一瞬、女子生徒かと思ったが、スラックスの制服を身に着けていることに気がつく。
いや、でもウチの学校て制服の自由利いたような。えっ、どっち?
戸惑っているうちに相手が口を開く。
「どうしました?」
ハスキーな声色は、女子と言うにはやや低い。男子とするなら変声期前か。
まじまじと見れば見るほどわからず、脳がバグを起こす感覚に陥る。
——別に、目の前の生徒が男か女かなど、今すぐに判断をつける必要はない。ないけど、でも、今の俺はすぐに判断をしなくちゃいけない、そんな気がした。
「指、ちょっと…怪我、して」
「指?」
先程までの余裕はどこへやら、ドキマギと答える俺に、目の前の彼だか彼女だかが近づいてくる。そうして、何の抵抗もなくこちらの手を握った。
「ほんとだ、血出てる」
「痛くないですか?」と心配そうに見上げてくる顔を直視できない。二秒でも見つめてしまえば何か始まる。心臓がどくどくと脈を打つのを感じて、怪我をした指先からは致死量の出血をしているのではと錯覚する。実際は大した出血ではないのだけど。
「い、痛い」
心臓が。
「えっまじで? しゃーないな……」
俺の言葉を真に受けた相手は「ちょっと待ってな!」と言って奥へ引っ込んだかと思えば、すぐに戻ってきた。よく見れば、カーテンで軽く仕切られた向こうには数人の人影があった。隙間から、ちらちらと数人の女子が覗いてきている。
ああ、保健室ってちょっとした溜まり場になってるよね。この子もそのうちの一人ってことか。はいはい、なるほどね。
「動くなよー」
「あ、はい。えっ」
少しずつ冷静さを取り戻していた思考も、再び手を握られると一瞬で弾け飛んだ。えっなんでこんな触ってくるの? 俺のこと好きなの?
純情な男子高校生は手を握られるだけで簡単に勘違いできるのだ。そうこうしてる間に、「ほい、できた!」と手を離される。微かに残るぬくもりが暖かい。
「ちょっとファンシーで悪いけど、これオレの私物だから! 痛がりな先輩には、特別に」
解放された指先には、うさぎ柄の絆創膏が丁寧に巻かれていた。
保健室から出た俺は、ぼんやりと廊下を歩いていた。思考は靄がかかったみたいにはっきりせず、ただただ、最後に受けたアイドルさながらのウインクだけが脳裏に焼き付いている。
何処に向かうでもなく進んでいると、ふとその先に人がいた。掲示版に向かって背伸びをしている男子生徒。
素通りしようとして、彼がいちばん上に貼られた掲示物を剥がすのに必死なことに気がついた。特別身長が低いようにも見えないし、頑張れば届きそう。でもなんか、苦労しているような。
「ん」
「……ありがとうございます」
剥がしてやったポスターを差し出すと、驚いた顔でお礼を言われた。センター分けの黒髪の下、こりゃまたイケメンだなと感心するくらいには端正な顔立ちだった。
「先輩ですか。すみません、お手を煩わせてしまいました」
「いいよ、そんな堅くならなくて。君は一年?」
学年を示す上靴は、昨日入学したばかりの一年生の青色をしていた。そうでなくても、真新しい制服に初々しい態度はわかりやすい。
新入生の彼も、「はい」と恭しく頷く。
「大変だな、入学したばっかなのに雑用やらされてんの」
「……先生に信頼されているみたいで」
「ふぅん。確かに、賢そうだもんね」
それなりに褒めたつもりだったが、彼はぴくりとも表情を変えない。言われ慣れてんのかな。
そういえば、保健室のあの子も最後に俺を「先輩」と呼んだ。上靴の色は確認できなかったけど、馴染み具合からして二年生だろう。
……二年にあんなかわいい子いたんだ。
完全に何かの入り口に立っている俺は、またぼんやりとあの眩しい笑顔を思い浮かべる。痛がりな先輩には特別、なんて。他の奴にも言うのかな。同じように私物の絆創膏を巻いてやって。
「てかあの子、オレって言ってたな……」
ぽつりと零した言葉に、目の前の一年生くんが「何か?」と訊ねてきたが、俺は慌てて「なんでもない!」と誤魔化す。
ほとんどわかっていた事実ではあったが、改めて「男子」と考えても、高鳴る鼓動は変わらなかった。どうやら、性別を認識するよりも先にハートが反応してしまったらしい。
それに、怪我をしたところを優しく手当されたというバイアスもある。落ち着いて、翌朝にでも考えてみたら気の迷いだったと理解するかもしれない。
だからそんなに気にすることじゃない。
誰に言うでもなく心の内で並び立てる言葉が、本当はとてつもなくダサいことからも目をそらしていた。気にしたら負け。夢くらい見させてくれ。
誤魔化し続けるようにメガネのフレームをカチャカチャと触っていると、視線を感じた。目の前の一年生くんが、じっと俺の顔を見ている。
「えーっと……あ、そっち貼るのも手伝おうか」
うさぎ柄の絆創膏が巻かれた指で彼が抱える新しい掲示物を指差す。一年生くんはハッと夢から覚めたみたいな顔をして、それから「結構です」と俺の申し出をばっさり切り捨てると、こちらが立ち去るのも待たずに黙々と作業を始めてしまった。
なんなのこの子。絡みにくいなぁと思いつつ、断られたものを無理に世話する必要もないので「じゃ、頑張って」とだけ声をかけてその場を去った。
「おはよー、二階堂くん」
「おはよ」
昇降口で声をかけてきた佐藤さんは、「昨日、大丈夫だった? 怪我したって聞いたけど」と心配そうに眉を下げた。
朝の挨拶にこちらを気遣う言葉。こんなやりとりだって、勘違いするやつはきっとする。
俺は彼女に「全然平気なやつだよ」と返して、絆創膏の取れた指先を見せた。昨夜、風呂に入る前に剥がした絆創膏は、そのままにするわけにもいかずゴミ箱へ入れた。
血はとっくに止まっていたが、なんでもない絆創膏を名残惜しく思う気持ちは残念ながら今朝になっても消えていない。
剥がす前に撮った写真がひっそりと画像フォルダにいることは、淡い青春の1ページになってくれるだろうか。
「あ、ほんとに大したことないやつだね。これで保健室いったのはサボりだよ」
「佐藤さんて意外と辛辣?……でもほら、ちゃんと最後には戻ったし」
ね、と言えば佐藤さんも「まぁいいよ。おかげで双葉王子とも喋っちゃったし!」とはにかんで、前方に友達を見つけるとすぐにそちらへと去っていった。
意外と辛辣でミーハーな佐藤さんに、やっぱり人気の双葉王子、と。
どうでもいい校内情報を脳内でアップデートさせながら、自分も教室を目指して廊下を進む。
朝のやや混雑した階段は、人の目線に合わせてチラシが貼り巡らされていた。新入生向けの各部活・同好会の勧誘チラシだ。一階から貼ってあるとなると、まさか一年の教室が並ぶ三階までずっとこの様子なのだろうか。
何の部にも所属していない俺には無関係な話だと思いながら、段々に並ぶそれらをぼんやりと追いかけていると、その視線は壁の一番端、廊下へと続く曲がり角で止まった。
三年の教室が並ぶ廊下。その手前で、A4のチラシを丁寧に壁へと貼り付ける生徒がひとり。
ピンクがかった、ほとんどオレンジに近い明るい茶髪に、ややオーバーサイズなベージュのカーディガン。スラックスの裾から覗くのは二年生を示す赤色の上履き。
階段の途中で止まった俺に、後ろから誰かがぶつかって「わ、ごめん」と声を掛ける。その声に気づいて、ポスターを見つめていた顔がこちらを向いた。
「あ、昨日の」
小さく溢された声は、改めて聞けばきちんと男子の声をしていた。緊張を抱えた俺の瞳は、彼の喉元に小さな出っ張りがあることを捉えて、なんだ、ちゃんと声変わりしてんじゃんと勝手に言う。
それでも変わらない。この気持ちは何ていうんだっけ。
「……おはよう」
「おはよ! あ、ございます!」
元気に付け加えられた「ございます」に、なんだそれ、と小さく笑い声が溢れた。
「いや、先輩だったんですよね? 昨日めっちゃ馴れ馴れしくしちゃった後で、他の先輩に三年だよって教えてもらって……あ、わかります? 立山先輩。保健委員の」
「え? えーっと……ごめん、わかんないや。自分のクラスの保健委員も知らないかも」
「まだクラス変わったばっかですもんね」
三年は持ち上がりなのでメンツこそ変わらないが、だからといって去年の保健委員が誰か問われても俺は答えられなかっただろう。
クラスが変わったばかりだからと言う彼は、きっと入学したての一年時の委員会だって、どれが誰だったか把握しているタイプだ。直感的に、そう思った。
「怪我は?」
俺は黙って手を出した。ついさっき、佐藤さんに見せたときは何事もなかった指先が僅かに震えている。
「おかげさまで、ちょっと皮が剥けてるけどもう治りかけてるよ」
「よかった! まあ、あれくらいなら大したことないよな」
「……悪かったな、痛がりで」
「いやいや。痛みの感じ方なんて人それぞれじゃん」
ね、と笑う瞳に釘付けになる。すっかりタメ口で話されていることなどどうでもよくて、始業まであと何分だとかを考えることも一切ない。
昨日、保健室で見たときにはオレンジに見えた瞳は、暗がりな廊下のせいかキャラメルのような色をしていた。
甘くて、ほんのりと苦い。
これから俺が始めようとしていることも、きっと同じ味をしている。
「名前、教えてくんない?」
彼、でも、あの子、でもなく。きちんと名前を唱えて思い浮かべたいから。
キャラメルの瞳がよりいっそう蕩けて、俺の自惚れでなければ、嬉しそうに笑う。
「二年B組、和泉三月」
いずみ、みつき。
名前まで愛らしい音をしている。「和泉くん」と唱えると、「三月でいいよ」と気さくな返事が返ってきた。ああこれは、誰にでも言ってるやつ。
「……じゃあ、ミツ」
「わ、そのあだ名は初めて」
「嫌だ?」
「別に? ただ初めてだから驚いただけ!」
ぱっと思いついた呼び名だったが、他の誰も呼んだことがない愛称だと知って何故だか誰かに勝った気になった。
ミツ、三月。悪くない。
「で、先輩は? なんて呼べばいい?」
「二階堂大和。ミツの好きに呼んでくれていいよ」
「にかいどう……じゃあ、大和先輩だな!」
俺にはあだ名つけてくれないのね、と思いつつ、後輩らしい後輩がいたこともないので「大和先輩」でも殆ど初めての呼び名だった。「ん、よろしく」と頷けば「ひひひっ」と謎の笑い声が返ってくる。それだけで胸が苦しくなる。
名前とクラス、明るい性格であることと、おそらくは保健委員。
それから、笑顔。
たったこれだけのことしか知らない相手でも、人は恋に落ちることができる。
ミツとの出会いが教えてくれた、一つ目のことだった。