ベイビーロマンチカ 家族友人クラスメート知人公式アカウント。複数の名前が並ぶトーク一覧の画面を上から下へスライドさせては、何の変化も起こらないことにため息を吐く。一番上に固定させたトーク相手とのやりとりは、こちらから送った「よろしく」の一言とそれに応じるように返って来た漫画キャラのスタンプのみ。
気になる相手のラビチャという最強の武器になり得るアイテムを手に入れたにも関わらず、大和はそれを使いこなせないまま、丸三日が経とうとしていた。
三日前のあの朝、偶然にも三月との再会を果たした大和は「せっかくだからラビチャ教えてよ」とナンパの常套句のような言葉を投げ、いかにも「友だち」の多そうな三月は「おっ、いいぜ!」と何の躊躇いもなく了承した。ラビチャを交換して互いに一通ずつ送信したところで予鈴が鳴り、三月とはそれっきり。三日目の今日になっても、校内での再々会は果たせていない。
だからって、こっちからラビチャ送るにもどうすりゃいいのよ。
自慢ではないが、お近づきになりたいのだなと見て取れるメッセージが送られてくることはあっても、自ら送ったことはなかった。ましてや相手は二回喋っただけの同性の後輩。クラスメートや同級生ならいくらでも用件をでっち上げられたし、女子の後輩ならいっそ下心を透かせることもできたかもしれない。特別関りのある後輩なんてほとんど初めての大和にとっては、友人として始めようにもその一通目がわからない。わからないまま、トーク一覧をひたすらスクロールさせることで昼休みを終えようとしている。
自販機の紙パックのオレンジジュースがズコココと行儀の悪い音を立てる。じきに昼休み終了のチャイムが鳴るだろう。今日もこのまま、もやもやとした思いとあくびを噛み殺しながら午後の授業を受けることになるんだ。指先はほとんど事務的に上下している。そのときだった。
マナーモードに設定されたスマホは無音のまま一つの通知をつける。トーク一覧の一番上に固定されていた、そこに。
『大和先輩、今日の放課後ヒマ?』
「えっ」
小さく零れた声は、賑やかな教室では気にされることはない。どきん、と胸がときめくのを大和は必死に抑えた。まさか、こんな奇跡が起きるのか。
ヒマ! 超ヒマ! と心の声をそのまま打ちかけて、あくまで冷静に、ミツからのメッセージなんて待ってませんでしたよとでも言うように。「ヒマだけど、どうした?」となんでもなさそうな返事を送る。これはあれか、放課後なんとかのお誘いか。カラオケか、ボーリングか。数合わせでもなんでもいい。理想は二人きりでの放課後デートだけど、それはまあ段階を踏んでからだ。あいつとゆっくり話すチャンスが得られるなら、授業だってサボっても構わない。
メッセージにはすぐに既読がつく。続いて送られてくるであろう三月からのメッセージを、大和は期待と興奮を抱えて待っていた。
『まじ?』
『じゃあさ、』
『和食、好き?』
「……和食?」
全く想定外のメッセージに首を捻る中、休憩終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
中庭を通り抜けて第二校舎に入れば、放課後ということもあってやけに静かだった。遠く聞こえてくる運動部の掛け声に、吹奏楽部の楽器の音。上履きのソコがぺたぺたと廊下を鳴らす音がやけに大きく聞こえて、自身の胸の鼓動さえ響いている気がした。
ふわ、と空腹を誘う香りがする。釣られるように足を進めれば、授業以外では全く用事のない家庭科室へと到着した。
「……よし。」
一瞬だけ息を整えた大和は「お邪魔しまーす……」と控えめに後ろドアから中へ入る。想定よりも人が多い。女子生徒が多いのはわかっていたが、三月以外にも男子の姿がちらほら見えた。
前方の調理台を三つほど使い、数人ずつで何やら調理をしているのがわかる。さてこれは誰に声を掛ければいいんだ?
ひとまず教室のいちばん後ろに立っていれば、大和の存在に気がついた二年生の女子生徒が駆け寄ってきた。
「えっと、見学ですか?」
「え? ああいや、俺は……」
「大和先輩!」
前方から、よく通る声が投げられる。あ、と目を向ければ濃紺の三角巾で頭を包み、薄いブルーのエプロンを身に纏った三月が笑顔で手を上げていた。
「か」
わいい。んだあれ、まじで男子高校生か? なんで三角巾? なんでエプロン? なんでそんなに似合ってんの?
先に声をかけてきた女子も同じように三角巾とエプロン姿なのだが、盲目になり始めている大和のときめきゲージは和泉三月へと振り切れていた。「来てたなら言えよぉ」と言いながら近づいてくる三月の手にしゃもじが握られていることに気づき、さらにヒットを喰らう。
「ンッ……今来たとこなんだよ。おまえさん何処にいるか見えなかったし」
「あーはいはい、ちっちゃくて悪かったな」
「なんだ、みっきーの知り合い?」
「おう! 今日の食事係」
「食う担当、ね」
三月からの謎の質問は、彼が所属する家庭科部の勧誘イベントで調理を行うから、出来た料理を食べに来ないかという誘いだった。校内で再会したとき、そういやポスターを貼ってたなと思い出しながら大和は即OKを返した。
家庭科部とは意外だったが、このエプロンの似合い具合では納得せざるを得ないとも言える。心の中でウンウンと頷く大和に、三月は「まだもう少しかかるから、適当に座って待ってて」と声をかけるとさっさと調理台の方へ戻ってしまった。
言われるまま、テーブルに上げられていた丸イスを下ろして腰掛ける。黒板にはカラフルなチョークで「ようこそ家庭科部へ」の文字と肉や魚、ケーキ、クッキーといった食べ物のイラストが書かれている。その横にはレシピも書かれていたが、丸っこい文字は他の女子のものだろう。
さん、し、ご、ろく……目だけを動かして人数を数える。見たところ、三角巾をつけているのが家庭科部の部員で、貸出用のクリーム色のエプロンのみ着ているのが入部希望者といった様子だった。
とすれば、女子部員が六人に、三月を含む男子部員が三人。もしかすると欠席者もいるかもしれないが、そこに加えてこれから入部するであろう新入生たち……当たり前だが、部活に入っているというだけで関わる人間は多いのだろう。
「……みっきー、ね」
「自分だけが呼ぶ愛称」を持っているはずなのに、他の人間が呼ぶ三月の名を羨ましく思うのは何故だろう。
三月との出会いを通し、また一つ新たに知った感情は、先々月にようやく一七を迎えた大和にはまだ扱いきれそうになかった。
「かんせーい!」
わー! と盛り上がる高校生たちは、顧問の前でも堂々とスマホを取り出して好き好きにシャッターを切る。授業中の使用が禁止されているだけで、休憩時間や放課後にはどれだけ触ろうと咎められることはないのだが、教師の前となるとなんとなく抵抗のある大和からするとすげぇなこいつらという感覚だった。
出来上がった料理と共に自撮りやお互いの撮影をする姿に、あのスマホにはきっとあいつの写真も何枚もあるんだろうな……と眺めていれば、その群れの中から当の本人がやって来る。三月はにこにこと嬉しそうな顔で、いくつか器の乗ったトレーを大和の前に置いた。
「ほい、おまたせ!」
「おお…美味そう……」
「美味いよ。オレが作ったんだから」
出会って三日で手料理を食べさせてもらえるとは。メッセージひとつ送れずにもたついていた昼間の自分に早く教えてやりたい。
歓喜していることを悟られないように「おいおい一人の手柄にすんなよ。みんなで作ったんだろー」とツッコめば、三月はわかってないなぁというようにため息をつく。
「ほとんどオレ一人で作ったっての! その味噌汁の味付けも、魚焼いたのも、炊き込みご飯の仕込みもオレ! あんた、オレの活躍見てなかったのかよ」
「あー……だからあんなに行ったり来たりしてたのね」
温かで美味しそうな料理を前にそわそわとする大和は、食べていいのかな…みんなでいただきますとかすんのかな…と箸を持ったり置いたりを繰り返す。
「ミツ、これ食べても……へ」
いよいよ我慢ができずに料理から顔を上げて三月を見れば、その顔がほのかに赤く染まっていることに気がついた。
「……ちゃんと見てんじゃん」
悔しそうに、恥ずかしそうに、でもどこか嬉しそうに。
とす、とハートに刺さったのは何本目の矢か。
そこで照れるのはずるいだろ! と叫び声が出そうになった代わりに、大和は「いただきます!」と勝手に手を合わせて箸を掴み直した。さっそくとばかりに味噌汁に口を付ける。
「あちっ」
「ははっ、猫舌?」
「……得意ではない」
「ふぅん」
ふーふーとしっかり冷まして、今度こそ味噌汁を味わう。出汁の香りが鼻に抜けて、心地よいぬくもりが全身に染み渡る。
「……うまい」
「よっしゃ!」
心の底から出た言葉に、三月が小さくガッツポーズをする。
「まじでうまい。何、ほんとにおまえさん作ったの」
「ほんとにオレが作った! 見てたんじゃねーのかよ」
「だってまじでうまいもん。この風味かなり好き」
まだ一品目だというのに、先に飲み干してしまいそうな勢いだ。三月が慌てて「ほか! ほかのも食べて!」と催促するのに、はいはい……と焼き魚へ箸を入れる。
「ん……これサバ?」
「そう! 流石に焼いただけだけど、焼き加減には自信あるぜ」
「……すげーふっくら。家で食うよりうまいかも」
「え〜? 嬉しいけど、そこは母親立てろよ!」
「良い子か」
三月が仕込んだという炊き込みご飯も、鶏肉やごぼう、人参にしっかりと味が染みており箸が止まらなくなりそうだ。うまいうまいと溢しながら次々に口へ運んでいく大和を、いつの間にか向かいの席に落ち着いた三月は静かに見守っていた。
「んぐ……っ、てか、いいの。あっち戻らなくて」
他の生徒はというと、やはり前方のテーブルに集まって食事をしていた。教卓に立って仕切りをしているのは部長だろうか。隣のクラスの同級生な気がする……と眼鏡をかけた目をさらに細めて見たがいまいち自信がなかった。同じように目を向けた三月が「盛り上がってるみたいだしいいよ」と笑う。
「それに、大和先輩とゆっくり話してみたかったから」
箸先でつまんでいた付け合わせのトマトが皿の上にぽろりと落ちる。大和に一瞬だけ向けられた笑みは、初めて会ったときに受けたウインクを思い出させた。
己の笑顔が一つ年上の男を撃ったとも知らず、三月は「オレも食べよー」と呑気そうに自分の取り分を運んでくる。
「みんな基本甘いもん作る方が好きだからさ、今日みたいなのはめったに作んないんだよ。しかもこの時間に食べたら太るからって食べたがらない人もいて」
「それでやる気ないやつもいるみたいな?」
「まあ、そう。部長とか野菜切るの苦手らしいし」
「ミツは料理が得意なんだ」
へえ、と何気なく返した言葉に、三月がにやりと笑う。うわーーーその顔だめだわ、いたずらっ子の顔じゃん。
和泉三月ときめきゲージはとっくに限界を突破していたが、そこに重ねるように三月はさらに愉快そうにしていた。
「オレがなんで家庭科部に入ったと思う?」
「……料理が好きだから、とか」
「残念! 料理は好きだけどそれだけじゃないんだなぁ」
「タダでメシが食えるから!」
「部費払ってまーす」
「……家庭科部の、誰か目当て、とか……」
密かに気になっていた問いをぶつければ、三月は「そういう発想もあるかー」と感心したように言う。なら違うってことかと安心しながらも、逆にこいつ目当てにって部員もいるのでは? とすぐに次の疑心が浮かぶ。妄想は尽きない。
「わかんない。降参」と手を上げて残りの味噌汁を飲み干す。叶うことなら毎朝飲みたい。
同じように汁椀を両手で包んで、三月はへへっと笑った。
「オレんち、ケーキ屋」
「! まじで?」
「まじ! だからお菓子作りも得意だよ」
「どっちも得意とかポイント高いじゃん」
すげぇ〜と素直に感心する大和に三月も気を良くし、「まぁな」と満更でもなさそうにする。
そこからは、お互いがお互いに、相手を知ろうと問いかけては、自分を知ってもらおうと言葉を返した。
「大和先輩は料理できるひと?」「袋ラーメンが最高レベル」「ラーメン作れたら上出来じゃん!」「ミツがいちばん得意なのは? お菓子でも、料理でも」「パンケーキかな……弟が昔から好きでさ」「弟いるんだ」「おう! 今年うちに入学したんだぜ」「へー。兄弟と同じ学校ってどうなの? 俺ひとりだからわかんないんだけど」「先輩ひとりっ子かぁ。ぽいな」「えっそう?」「そうだよ! 指ちょっと切ったくらいで半ベソかいてるの、甘やかされた坊っちゃんの顔だったもん」「あれは違うから! 別に半ベソなんてかいてねぇし!」「いたい〜って、かわいかったよ?」「かっ、」
かわいいのはおまえだ! とは、流石に言えず。大和が言葉を飲み込んだところで、タイミング良くお開きの合図がかかった。
「後ろのふたりもー。片付けるよー」
「あ、はーい。先輩、全部食べた?」
「食べた。うまかったよ、ごちそーさん」
「お粗末さまでした」
空になった器を重ね、三月の後について調理台へと運べば、そこでようやく三年女子たちは大和の存在に気づいたようだった。隣のクラスどころか同じクラスの女子までいることを大和もここで知る。
「あれ、二階堂くんじゃん。なにしてんの」
「みっきーと友達だったの?」
「まあ……最近知り合って」
「ラビチャやってる? てナンパされたんすよ」
「ちょ、ミツ?!」
「はぁ? うちらのみっきーなんだけど」
「人の後輩勝手にナンパしないでよ」
「なっ、ちょ、ちが、ミツ! ミツ!」
「あ、その皿こっちちょーだい」
「ミツってば!」
「腹いっぱいでねむい……」
大欠伸を溢しながら教室に戻ると誰もいなかった。ちらほらと鞄が置かれている机もあるので全員が全員帰ったわけではないのだろうと気にしつつ、大和も残しておいた鞄を手に取る。
どうにか冗談だと言って誤解を解いてもらったものの、彼女らの反応を見るに、三月が後輩としてかわいがられているのは間違いがなかった。そりゃそうだ、かわいいもん。かわいくてノリが良くて料理上手。かと思えばちゃんと男らしくもある。
片付けの最中、女性顧問に頼まれて米袋を運ぶ姿は勇ましかった(他の二年生男子部員と大和も手伝わされたが、間違いなく三月の動きが最も俊敏だった)。小柄なのに意外と筋肉があることと、それでいて運動部ではないことに驚いたが、それを伝えると三月は「パティシエって筋肉と体力いるんだぜ」と言って軽くガッツポーズをして見せた。
将来はパティシエになり、店を継ぐのだという。ちなみに中学時代は陸上部だったとも教えてくれた。
すっかり長居をしてしまい、気づけばメインターゲットであった一年生よりも後に家庭科室を出てきた。午後五時を回った教室に差し込む光は、わずかにオレンジ色を滲ませている。今日だけで何度も見つめた、三月の瞳の色に似ている。
三月の瞳は不思議だ。果実のように明るく輝いて見えることもあれば、キャラメルのようにとろりとして見えることもある。かと思えば、夕方に差し込む陽の光と全く同じ色を放つときもあって。
「明日はお菓子作るんだ。また部員勧誘のイベントだから人は多いけど、もしよかったら来てよ」
別れ際、三年の先輩らには聞こえぬように三月がこっそりと言った。軽く見上げてくる角度は、そのまま大和の心まで覗いてしまいそうで。
そうして訊ねる。
「甘いもの、好き?」
好きだよ。
好きになっちゃったよ。
どうしてくれるんだよ。
高校生活最後の一年は、きっとこいつに捧げることになる。
恋の始まりと青春への敗北を認めた日だった。