&two 丸いプラスチックの容器から、指先の関節一つ分だけワックスを取る。手のひらに広げて、それっぽく整えた髪先にちょこちょこと塗りつける。ヘアセットなんていつもメイクスタッフに任せきりで、プライベートではハネまくりの癖毛を気にしたことがないせいで使い方がイマイチわからない。わからないなりに、少しでも癖を抑えようと髪を撫でつける。
ワックスの持ち主……三月に、今度正しい使い方を教えてもらおう。そんなことを考えながら環は洗面台の鏡を見つめた。
変装用にナギから借りたメガネは、フレームにうっすら縞模様が入っていた。かけて外してまたかけて、を繰り返し、蛇の模様みたいじゃね? と首を捻りながらも中指でくいっとフレームを押し上げれば、頼れる最年長のような雰囲気が一瞬だけ醸し出されて途端に自信がついた。
部屋から持ち出してきた香水は、先月の誕生日に八乙女楽からもらったブランド品。こちらも自分で使うのは初めてで、箱を開けるのはもらったその日以来だった。どこにつけようかと悩んで、「香水 メンズ 付け方」で検索をしようと文字を打ち込めば、検索履歴のワードが目に入る。
「デート 初めて どこ行く」
「初デート ごはん」
「デート マナー」
「初めて付き合う なにする」
なんて頭の悪い検索ワードだろう。
おまけにどのページもほとんど参考にはならなくて、結局、同業者で最も「お忍びで行きやすい店」を知っているであろう百に連絡をしたのが一ヶ月前のこと。きっと珍しくない相談だったのだろう。予算すらもよくわからないと曖昧な環に対し、やっと成人したばかりで背伸びし過ぎるのもよくないだろうとアルコール類よりも料理がメインの店を紹介してくれた。
「和食なら、壮五もあんまり辛くさせようとしないんじゃない?」
百のアドバイスに「そうかも!」と瞳を輝かせてから「別にそーちゃんと行くんじゃないし!」と慌てて返したことを思い出し、恥ずかしさと緊張でうっすらと体温が上昇する。
誤魔化したところでみんな知っていることだ。
環が成人するまではと一線を超えてこなかった壮五が、そんな彼の真面目な部分を尊重して向き合った環が、どれほど真剣に、慎重に、誠実に、ゆっくりと距離を詰めてここまで歩いてきたか。
それでも仕事の都合で、二人きりでの初デートを迎えるのに環の二十歳の誕生日からは一ヶ月経ってしまった。
やっとだ。
やっと。
今日、この日を迎えられる。
恋人として、壮五とふたりで、街を歩く。
いつもと全然違って見えるのかな。それとも、全く同じ色をしているのかな。なんだっていい。ふたりで一緒にいられるなら。
表で小さくクラクションが鳴った。万理の車が到着した合図だ。
環は一日オフだが、壮五は朝の生番組への出演がある。それを終えると残りは何もないので、万理と一緒にテレビ局へと迎えに行くことになっていた。本当は、外で待ち合わせたりしたかったけど。移動や万が一を思うとリスクはなるべく下げておいた方がいい、と。効率重視の壮五の言葉に、彼の性格も汲んだ上で環は頷いた。
――「僕らが…その…デートに慣れたら。…そうしたら、待ち合わせもしてみたいね」
はにかむ壮五に、こんなの一生慣れるわけないだろと叫びたくなったのはないしょの話。
「環くん、今日は一段とかっこいいね」
大神万理は非常に仕事のデキる男なので、車に乗り込む環を見るなり百点満点の声掛けを行った。
担当アイドルのメンタル管理にも余念がなく、彼らが常に最高のパフォーマンスが出来るよう、たった一言でやる気を最高潮にさせる。こと、プライベートにおいても。
「バンちゃん、惚れた?」
「惚れた惚れた! デート相手が羨ましいな」
直接名前を出すよりはいいだろうと選んだ言葉に環がカッと頬を染めるのをルームミラー越しに目撃して、遠回しな方が照れる年頃か……と遠く昔に置いてきた青春を懐かしむ。
日頃の送迎時よりもうんと慎重に、万理は車を走らせた。
「あれ、四葉?」
「なにしてるんだ、こんなところで」
某局の関係者入り口から現れたのは、待ち人ではなくライバルグループのメンバーだった。
「まるっち、とらっち」
「仕事か? なんで中入んねぇんだよ」
「警備員に止められてるのか? 俺達が事情を伝えてこよう」
「大丈夫! 仕事じゃないし!」
世話を焼きたがる年長者たちを慌てて止める。成人したとはいえ、彼らとの年の差が縮まるわけではない。まして、環はŹOOĻの最年少と同級生だ。初めて会った頃もまだ学生だったせいで、余計にいつまでも幼く見えるのだろう。
「……相方、待ってんの」
どう伝えるか迷い、無難に答えたつもりだった。トウマと虎於がああ、と納得してから互いに視線を交わしたことに気づかず、環は環で視線を斜め下へとさ迷わせたまま「ふたりは?」と誤魔化すように訊ねた。
「俺らは打ち合わせ終わり。トラの車で次のスタジオ行くとこだよ」
「車……」
ぽんっと脳裏に浮かんだのは、何処か外で待つ壮五の前に外車から降りてくる自分。手には花束を握っている。イメージはそう、ジュエリーのCMに出演中の目の前の男だ。
「左ハンドルでも乗りこなせるって言うなら、貸してやるぞ」
「……なんも言ってないし!」
ちゃらちゃらと車のキーを揺らしながら笑う虎於に、「あんま揶揄うなよ」とトウマが小突く。こういうやりとり、ウチでも見たことあるなと自分のグループの年長者たちを思い浮かべ、同じように揶揄われているであろう悠に同情する。
「じゃ、俺らはもう行くから」
「おー」
虎於の背を押しながら立ち去ろうとしたトウマが、ぴたっとその足を止めて振り返った。
「免許取ってドライブ行くようになったら、オススメのプレイリスト教えてやるよ。壮五も好きそうな、海辺走りたくなるようなやつ!」
「! あ、ありがとう……」
「おう! 楽しんでこいよ!」
うん、と素直に頷く環に虎於が「俺と態度が違う」だのと騒いでいたが、トウマはそれすらも回収して去っていく。
変なの。
俺はただ、そーちゃんとふたりで出掛けるだけなはずなのに。初めてのデートだからってのはそりゃそうだけどさ。それだけじゃない、知らないくすぐったさが胸の中で踊ってる。
———どうして?
うーん、と悩んでいると背後で自動ドアが開いた。
「お待たせ、環くん」
「あ、そーちゃ……なにその格好」
「えっ、変かな?!」
やっと現れた待ち人は、日頃のスタイルとは雰囲気が違った。いつもはさらさらと揺れる直毛が、いつかの撮影のように毛先だけ緩く巻かれてパーマ風になっている。
「えっと、楽屋出る前にユキさんと棗くんに会ったんだ。ドラマ撮影の合間に知り合いの楽屋訪問してたらしくて……それでその、これから環くんと出掛けるんですって言ったら、棗くんがやってくれて……えーっと……変、かな……?」
しどろもどろとした様子で説明しつつ、もう一度繰り返された質問に環はぶんぶんと首を横に振る。
「変じゃない。……かわいい」
「……ありがとう。君も、すごく……かっこいい」
キラキラエフェクトの甘い空気がふたりを包む。そこがテレビ局の関係者入り口だということをすぐに思い出し、「行こ」「行こっか」とぎこちなく歩き出した。
タクシーに乗り込み、壮五が告げた店の名前に「どんなとこ?」と訪ねれば、「デザートビュッフェのついたランチが食べられるお店」と素敵な言葉が返ってきて、環は瞳を輝かせた。
「フランスでずっとお店をやっていた方が引退して日本に戻って来て、ほとんど道楽的に開いたとても小さなお店だから騒がれることもないって……九条さんに教えてもらったんだ」
「てんてん?」
「うん。甘いものが食べられて、お忍びで行けるお店を教えてくださいって連絡して」
張り切っちゃった、と壮五が笑う。何年経とうともTRIGGERや先輩アイドルたちと連絡を取るのにスマホを握り締めて唸り続ける壮五が。自分のために。
抱き締めたくなるのを、これは送迎車じゃないからと己に言い聞かせて堪える。
「俺も、今夜の店ももりんに聞いた」
「モモさんに? じゃあ間違いないね」
「ん……昼ごはんのあとは? どこ行くか考えてるって言ってたよな」
昼間は壮五が、夜は環が、それぞれ店と行きたいところを二ヶ所ずつ決めよう。
初めてのデートは、そういう取り決めでここまで来た。
「ああ、うん。ボードゲームのできるところなんてどうかなって」
「え! それ行きたかったやつ! そーちゃんなんで知っ………」
言いかけて、最近その話題になった相手が浮かぶ。
もしや、さっきテレビ局の前で話をした二人も巡り巡ってこのことを知っていたのではないかと、環はようやくそこで気がついた。無駄な誤魔化しをしたと恥ずかしくなった気持ちを、ほんの少し尖らせた唇に乗せる。
「あんた、いすみんにまで連絡したのかよ」
「偶然だよ! 最初は一織くんに聞いてたんだ。そしたら、亥清さんの方が知ってますよって一織くんが連絡してくれて」
「ふーん……」
「……怒った?」
「……怒っては、ない。でもはずい。友達に探りいれんのはずりぃ」
「はは……ごめんね、君に喜んでほしくて」
ごめんと言いながらちっとも悲痛な顔はしていない。むしろ喜びを隠せないような、隠す気もないような。抑えても抑えても溢れてくる甘い何かを全開に、壮五が環の顏を覗き込む。
そんなの、俺もだよ。
あんたに喜んでほしくて、念入りに支度をしたしロケでしか行ったことのないようなお高そうな店の予約も取った。服装も、髪型も、こういうの好きだろって、そう思いながら。
やっぱり抱き締めてしまいそうな衝動を逃がすようにぷいっと視線を外せば、そうだ、と壮五が同時に何かを思い出したよう呟いた。
「もしかして今日、スニーカー同じだった?」
「……あんた、履いてくるかもって思って。リュウ兄貴に貰ったやつ」
MEZZO"の結成三周年のお祝いにと、龍之介からお揃いで贈られたスニーカー。一年目の頃は、彼に対してしょうもない嫉妬をぶつけたこともあったが、今となっては二人まとめて本当にお世話になっている兄貴分だ。
それでも、恋人としてのメンツとプライドは守りたくて、せめてお揃いになるようにと一か八かに賭けながら履いてきた。
「嬉しいな。勿体なくて普段履けてなかったから、本当にお揃いになってよかったよ」
「オソロイなんて、いっぱいあんじゃん」
お互いの誕生日に贈り合った服。メンバーからの地方ロケのお土産のキーホルダー。冠番組で作った手作りのお皿。二人だけでステージに立つときのユニット衣装。
———今夜、あんたに渡すために用意したシルバーリング。
ボディバッグのベルトをぎゅうっと握る。これだけは忘れてはいけないと、寮を出る前に何度も確認した。意識すれば途端に緊張が走って、まだ昼食の店にすら着いてないのにと恥ずかしくなる。そんな環をさらに驚かせるように、尻ポケットがぶるりと震えた。
「っわ」
「ん?」
「あ、えっと、スマホが。たぶん、ラビチャ」
「気にしないで見ていいよ」
「あんがと」
言いながらジーンズのポケットに押し込んでいたスマホを取り出す。送り主は陸だった。
『がんばってね環!』
そのひとことと一緒に、跪いて指輪を差し出すウサギのスタンプが貼られている。指輪選びとシチュエーションについて陸と一織に相談を重ねていたことを思い出し、握りしめたスマホを前に意味もなくこくこくと頷けば、気持ちが落ち着くと同時に笑いが込み上げて来た。
「なんか、変なの」
「変?」
不思議そうに環の言葉を繰り返した壮五は次の瞬間にはハッと青ざめた顔を浮かべて「やっぱり変かなこの髪……」と世界の終末を思わせる声を溢す。慌てて「違うって! それはめちゃめちゃ似合ってるよ!」とフォローし、きっと自分たちはこの先何年経ってもこんなやりとりをするのだろうなと考えて余計におかしくなる。
「そーちゃんじゃなくて、みんなが」
「みんな……?」
「うん、周りのみんな。俺とそーちゃんのデートなのにさ、ふたりっきりじゃねぇの。みんな、いてくれてる気がする」
壮五のセットされた頭に目を向けて、空色の瞳を細める。うん、やっぱり似合ってる。
「俺さ、ガキの頃も、そーちゃんに初めて会った頃も、ときどき俺って世界にひとりぼっちなのかもーって思うことがあって」
家族もいない。特別な友人も。自分の気持ちをわかってくれる人、同じ境遇の人、そんな都合のいい存在はなくて。メンバーと呼ぶ彼らは優しくて一緒にいると楽しいけど、全然違う人生を歩んできたのだと知るたびに寂しくなった。
「このままずっとひとりで、ひとりぼっちでしんじゃうんだーって、後ろ向きなことばっか考えてた時期もあって」
わかるよ、と言うように壮五が環の手を取る。重ねた手のぬくもりは過去の環の孤独に共感しながら、今は違うとはっきり伝えてくれる。くすぐったい。……そっか。誰かのぬくもりに触れたとき、心はとてもくすぐったくなるんだ。
へへへと笑って壮五の手を握り返した。シートの上でこっそりと繋がる。運転手にはきっと見えていない。
「でも、今は全然ちげぇの。ひとりでも、ふたりでも、みんなちゃんといるんだって。いてくれるんだって感じる」
ばっちりとキメたコーデやスタイリングとそれに用いたアイテムに、それぞれに選んだデートコース。楽しんで来い、頑張れと送り出してくれた人たち。
ふたりっきりなのに、ふたりっきりじゃない。たくさんの周囲がいて、その中に自分たちがいる。そう思わせてくれる。
「俺とそーちゃんも、性格とか好きなものとか昔は全部ちがったじゃん?」
「昔は、か。今はだいぶ近くなった?」
「なったよ! ……なったよな?」
「君がそう思ってくれてるなら」
確かめるように訊ねる環に、壮五が少しだけ年上の余裕を見せてくる。なんだよ、とちょっぴり照れた顔を誤魔化すように窓の外に目を向けると車はひっそりとした住宅街に進んでいた。そろそろ目的地に着くのだろう。
「昔の俺たちの唯一似てたとこは、そういう孤独とか、さびしいところだったなって今ならわかんよ。……わかるから、俺たち、ずっとふたりじゃなくてよかったなってのも、思う」
違うから寂しいときもあるけど、違うから相手の存在が確かに見える。みんながみんな自分と同じように孤独を訴える寂しい存在だったら、どれだけ人数がいても満たされないで空虚なままだろう。
———あ。だからみんな、こんなに力を貸してくれたんだ。俺とそーちゃんの、ふたりのことだけど。長い時間がかかっていろんなことがあったけど、きっと、ここまで来られてよかったねって。そんな風に思って。
「環くんが大人になっていく……」
「え?」
そうかそういうことかとニコニコと喜んでいた環の隣で、壮五がぽつりと声を漏らした。同時にタクシーがゆっくりと停まって、終始無言のままだった運転手(きっと色々気づいているに違いない)が「着きましたよ」と声を掛ける。自分の選んだ店だからと素早く支払いを済ませた壮五に大人しく奢られつつタクシーを降りると、可愛らしいえんじ色の屋根の建物があった。
「おー、この店? れ、れぜ、れぜば……読めないけど予約だけみたいなことだな」
ドアに掛けられたプレートの英字を雰囲気だけで読み取る。オンリーは読めたし、きっとそういうことだ。うん、と頷いてドアノブに伸ばした手を背後から制される。
「? そーちゃん?」
何してんの、と環が不思議そうに見下ろせば、穏やかなくせして意志の強いアメジストが輝く。
「僕も、君とここまで来られたのは周囲の人たちのおかげだって思ってるよ」
でもね、と続くに声は意外と頑固で意地っ張りな色を混ぜて。
「ここからは、いやでも僕らふたりだけのデートだから。……僕のことだけ見て、僕のことだけ考えて」
カランとベルを鳴らしてドアが開く。環は一歩も動けずに、わなわなと震えながら「あんた実はめちゃめちゃ浮かれてんだろ!」と叫べば「君と同じだよ」とデート相手が眩しそうに笑った。