さすがにそろそろ、とカインが思ったとしても、たぶんバチは当たらないだろう。もうすぐ二か月が過ぎようとしていた。いつから数えて、というと——ブラッドリーとの関係に、恋人という文字が足されてから。
気持ちを伝えあって、間違いなく恋人同士になった。ブラッドリーの気持ちを疑ったことも、カインが心変わりをしたこともない。ないのだが、今になってもカインはブラッドリーの自宅にさえ足を踏み入れたことがなかった。恋人になる前と同じ上司と部下だと言われてもおかしくないような距離感で、同じような話をする。指先に触れることさえもしていない。
一向に関係性が変わらない原因は、ここ二か月の間、お互いのオフが被った日が片手で足りる程しかなかったことだと分かっている。上司と部下としてならそれなりに時を過ごしてはいるが、恋人としてはまだまだ新人だ。急ぐ必要なんてなくて、ゆっくり、時間をかけて変わっていけばいい。きっとブラッドリーはそう考えていて、それがたまらなくうれしかった。長く続く時間を少し使うだけだと、そんな事を言われているようで。
だけど、少しだけ欲張った心が、もっと早く大好きな人の時別を欲しがった。不満があるというのとは少し違う。今のこの時間も大切にしたいと思う。それでも、もう少しだけ、近づきたい。
「カイン」
名前を呼ばれて、はっと顔を上げた。呆れたようなワインレッドの瞳がカインを見つめている。まだかと端的に聞かれて、慌てて、あとちょっとだけと答えた。注文するものを選ぶために、手元のパネルに再び視線を落とす。うっかり考え込んでしまっていた。
——ブラッドリーと二人で、仕事帰りに飲みに来ている。
いつもは大体ブラッドリーが店を選んでくれるが、今日はカインに選ばせて欲しいと言って連れてきたところだった。リーズナブルで、肉料理が豊富で、大盛りメニューもある。納得したようにブラッドリーは笑っていたが、今日のカインが一番重要視している部分は別にあった。——ノンアルコールの種類が豊富。
ブラッドリーともう少しだけ近づきたくて。具体的な目標を、ブラッドリーの部屋に入れてもらうことだと設定した。そこまでは良かったが、目標達成するための手段が思いつかない。正攻法でいっても、うまくかわされて終わりなのは目に見えている。かといって、ブラッドリー相手に搦め手を使っても。
悩みすぎて同僚に心配されて、細かい事情は伏せて相談した。そこで出てきた案というのが、酔っぱらいになってみたらどうかという古典的な手法だった。アルコールを摂取したらカインの愛車には乗れないし、酔いが醒めるまで部屋で休ませてほしいというのは理由としても十分だろう。カインの自宅は署からかなり離れたところにあるので。
だけど本当に酔ってしまってはうまく話を運べる気がしない。ということで、ノンアルコールの種類が豊富で、他のアルコールメニューとほぼ同じものを揃えている店を選んだのだった。普通に酒を飲んでいるように見せかけてノンアルコールを飲めば、条件はクリアしつつもちゃんと話ができる。注文パネルを操作するのはいつも大体カインだったので、ブラッドリーにノンアルコールを頼んでいるのがばれる心配もない。完璧な計画だった。
——はずなのだが、ここに来て問題が発生していた。
飲み始めた最初は良かったのだ。おいしい料理に舌鼓を打つ余裕さえあった。リラックスしてブラッドリーと話していられた。だけど段々時間が経ってくると、身動きが取れなくなってくる。だって、酔っぱらった時の自分が何をしていたのかなんて、細かく覚えていなかった。
今も、普段ならどんな顔でどんなものを頼んでいたのか分からなくなって、注文パネルの上を指が彷徨うだけだ。それが酔っぱらっているからだと思ってくれればいいが、自信はない。ブラッドリーの顔がうまく見れなかった。
ふらふらとパネルの上を移動する。いっそ、少しだけアルコールを入れてしまった方がいいのかもしれない。一杯くらいなら大丈夫だろう。たぶん。あんまりきつくないような、と指を動かして、パネルに触れる前に奪われた。思わず視線で追えば、ブラッドリーが軽くパネルを操作してテーブルに置いたところだった。
「今日はもうやめとけ」
「えっ、まだ……」
咄嗟に反論しようとして、別にいいのかと思い直して大人しく頷く。いつもより時間は早いが、酔いが回っているかどうかとは別問題だ。むしろ、ブラッドリーが止めるほど、今のカインは酔っているように見えているのかもしれない。好都合だった。あとは、何と言うかだ。また考え込みそうになって、店の外から名前を呼ばれて慌てて駆け寄った。
店の出入り口から少し離れた暗がりに、ブラッドリーが立っている。近づくと、静かにカインを見つめる瞳にネオンが反射しているのが見えた。少しだけためらって、それからそっとブラッドリーの服を掴む。
「なあ、ボス……」
と、そこまで言ったところで言葉が途切れてしまった。正攻法じゃきっと駄目で、搦め手はそれよりもっと難しい。だけど悩んでいる時間はなかった。ブラッドリーは黙ったまま、カインの言葉の続きを待っている。
「今日は、酔ってる、から」
これでいいのかと探りながら口にする。このまま、部屋に行きたいと続けてしまっていいんだろうか。唾を飲み込むその小さな隙間に滑り込むように、目の前にタクシーが停まった。
「へ?」
開かれた車のドアの中に、当たり前のように押し込まれる。カインが驚いている間に外から腕が伸びてきて、運転席と後部座席を区切るパーテーション型のパネルに何かを入力した。何か、というか、カインの自宅の住所だ。自動運転のタクシーは、これで間違いなくカインを家へと送り届けてくれるだろう。カインだけを。タクシーの車内には、カイン一人しかいなかった。
すっかり忘れていたが、そういえば、こういう選択肢もあったのだ。
「……ブラッド!」
慌てて、今にも車のドアを閉めようとしているブラッドリーの名前を呼ぶ。策もないのに待ってくれと言おうとして、咎めるように顎を掬い上げられて口が止まる。ブラッドリーが喉の奥で小さく笑った。
「まともに酔えるようになってから出直してくるんだな、お嬢ちゃん」
わかってたのか、とか、いつから、とか。言いたいことは色々あったが言葉にならない。一つだけ確かなのは、計画が完全におじゃんになったということだけだった。こんなことなら、正直に部屋に行きたいと言った方がましだったかもしれない。いや、たぶん、そうすべきだった。
今からでも、と手を伸ばす前に、顎の下をくすぐられる。肌を撫でる指先の感触に気を取られているうちに、目元に吐息が触れた。小さなリップ音と微かな熱だけを残してすぐに離れていく。少し影になったワインレッドの瞳が、とろりと細くなるのを呆然と見つめることしかできなかった。
何も言えないか音を残してタクシーのドアが閉められる。窓の外で夜の街が静かに動いて、あっという間にネオンが遠ざかっていく。気付いた時にはブラッドリーの姿は見えなくなっていた。大きく息を吐き出して座席に身を預ける。目元に触れると、そこだけが妙に熱いような気がした。