あ、キスしたいなとふと思った。
カインにとっては唐突なことではなかったが、うまそうにグラスを傾けるのを邪魔するのは少し気が引けた。今日はとっておきだと言っていたから。でもちょっとだけ、頬や額にならと考えて、それだと満足できないだろうなという結論に至って小さくため息を吐く。ほんの些細な吐息に気づいて、どうしたと聞いてくる視線に、やっぱり好きだなと思う。
「なあ、ボス。……キスしていいか?」
結局黙ったままではいられなくて、手元のグラスを置いた。ブラッドリーが楽しそうに喉を鳴らす。
「さっきから考えてたのはそれか?」
気づいてたのかとも言えずに頷くしかない。自分でもちょっと挙動不審だったかもと思う。
テーブルの上のボトルはまだ残りがある。ブラッドリーがカインも好きだろうと選んでくれた酒なのは知っている。いつも飲んでる安いエールみたいに一気飲みして楽しむようなものじゃないのも分かってる。グラスに口をつけたままじゃキスはできないけれど、二人きりでゆっくり酒を飲んで話す時間も大切だ。
だけどほんの少しだけ、一度キスするだけの間、中断するくらいなら許してくれないだろうか。
甘えているな、と自覚している。だけど、少しだけと思う気持ちも止められなかった。ブラッドリーの様子をそっと伺う。
手酌で自分のグラスに酒を注いだブラッドリーが自身の隣の椅子を指し示した。何も言われていないがこっちへ来いということだろう。大きく頷いて、急いでダイニングテーブルを回って席を移動した。
大好きな人の顔を見ながら話す時間はとても楽しいが、恋人の体温を間近に感じられるこの距離も好きだ。少し椅子を動かしてブラッドリーに近付くと、大きな手のひらがやさしく頬を包んだ。温もりにうっとりと目を閉じる。
武骨な指先がからかうように目元を撫でて、それから唇の端にそっと触れる。だけど望んだ感触が来る前に、あっさりと体温が離れていった。ぱちりと目を開くと、ブラッドリーが指先についた今日の夕食のソースを舐めとっているところだった。ついてたと言われてありがとうと返すけれど、カインがしてほしいのはそれじゃないのに。どう考えたってわかってやっている。だってカインはちゃんとしたいと言ってるのだ。
「ボス」
「おかわりはいいのかよ」
まだ飲めるだろと酒を注がれてしまうと、いらないと突き返すことは出来なかった。子供をはぐらかそうとしているような態度にむっとしながら礼を言ってグラスを手に取った。グラスに口をつける前に、長い前髪が頬に落ちる。カインが耳にかけようとするより先に横から伸びてきた指が髪に触れた。くすぐるように頬を撫でて、髪をかけた耳をなぞって、最後に軽く耳たぶをつまむ。
思わずブラッドリーを睨みつけてしまった。
「いじわるすぎないか」
キスしてくれないくせに、こんなに甘くてやさしい触れ方をするなんて。
「かわいがってやってんだよ」
「だったら、俺もボスのことかわいがりたい」
だからキスしていいかと少し近づけば、百年早いと額をはじかれる。むっと尖った唇をつまんだ指先が、カインのグラスを奪っていく。一気に飲み干して空になったグラスをまた握らされ、酒を注がれる。さっきよりもずっと少ない量だった。
「坊やには早かったか?」
むっとして、手首を撫でた指を振り払うようにグラスの中身を煽った。舌に感じる味は変わらずおいしくて、それで段々と冷静になってきた。やっぱり、いくらなんでも甘えすぎた。せっかくブラッドリーが選んでくれたものなのに。
顔を上げてごめんと謝ろうとして、顎を掴まれてキスされた。手の中のグラスがまた奪われて、テーブルに置かれた音がする。見えなかったのは、唇に触れる温度を追うのに精一杯だったからだ。触れるだけなのに、何度も繰り返されると息が上がってくる。
「んっ、ボス、っまだ……」
「あれは残しとくのが正しいんだよ」
三分の一程度残しておいて、翌日味の違いを楽しむものなのだと。囁く声に返事をする前にまた塞がれる。求めていたはずなのに思わず逃げてしまった腰を捕らえられて引き寄せられた。からかうように笑っているのに、焦げ付くような視線がカインを射貫く。
「おねだりはもういいのか?」
「っ……一回だけって」
「随分、行儀がいい嬢ちゃんだな」
そんなものでは足りないと言うようにまたキスされる。何度も何度も、カインがブラッドリーのことしか考えられなくなるまで。きっとここがソファだったら、もっとたくさん奪われていたと考えて指先が震えてしまった。こんな一人用の椅子では近付くのも限界がある。耳をくすぐり、髪留めを外した器用な指を掴んで握りしめた。キスの合間に名前を呼ぶ。
「ベッドに……」
最後まで言えなかったけれど、今度ははぐらかされることはなかった。