顔が引きつる。汗が流れる。やけに心臓が激しく動き、カップを持つ指先に妙に力が入る。どう考えても平静ではない自分を隠せている自信は全くなかったが、だからと言って逃げ出すことも出来そうになかった。
アンティークばかりでばかりで埋め尽くされた店内は、見た目以上に恐ろしい金額がかかっているのを知っている。目の前に座る男は気軽な店だと笑っていたが、手元のスプーン一つでさえカインの一月分の給料より高いだろう。そう考えるとますます動きがぎこちなくなる。
本当はカインだって、こんなところに来たくはなかった。さすがに場違いだとわかっている。でも、署長のパトロンだと匂わされれば無碍にもできない。うまい断り文句なんていくら探しても見つからなかった。
辺りに漂うコーヒーの匂いと黒い水面だけが見慣れたもので、それでもいつもと同じとは言えないことが更に冷静さを削っていく。目を伏せたまま上げられない。
カインが処分されるだけならいい。でも、ここで粗相したことによってボスや仲間たちが何か不利益を被ったらと嫌な想像ばかりが働いて身動きが取れなかった。
軽やかな笑い声が響く。そっと視線を持ち上げた。
「ふふ、そんなに緊張しないで?」
「いや、その……」
「君と話したかっただけなんだ。いつものように気楽にしてくれていいよ」
と、言われたところで言う通りに出来るはずもなく、曖昧に笑うしかなかった。折角の休みだからといつもとは違う道を選んだことを心底後悔する。今度からは絶対あの道は通らないことに決めた。
「少しね、気になる噂を聞いたものだから。気になってしまって」
「噂?」
「そう。君の噂だよ」
目の前に座る男がにっこりと微笑む。ハイクラスの子息だけあって上品で、だからこそ恐ろしい。問題は道ではなくてカインの行動にあったらしい。背中に流れる汗の量が増えた気がする。噂って何だと聞きたいが、何と返されるのかが怖くて仕方ない。以前ベコベコにしてしまったエアカーのことだろうか。それとも三日で五つも備品をダメにしたこと?正直言って、心当たりがありすぎる。
どれも犯人確保のために必要なことだったと胸を張って言える。言えるが、それが褒められることかと言われたら違うこともわかっているのだ。何せ、ボスにしこたま怒られたので。
「ベイン署長」
「へっ?!」
今まさに思い描いていた人を告げられて、思わず間抜けな声が出る。慌てて口をくぐんでそっと様子を伺って、視線が合わないことに内心首を傾げて。何でだと疑問を持つより先に答えが顎に触れた。ぐいっと後ろに引っ張られ、抵抗する間もなく体勢が変わった。
目の前に、甘く蕩けたワインレッドが現れる。
「俺の最愛」
何を言ってるんだと叫ぼうとして、一瞬現れた鋭い光に言葉を飲み込む。いいから黙ってろと細められた瞳に、慌てて小さく頷いた。剣呑な視線が外れてほっとする。
「やあ、ベイン署長。久しぶりだね」
「……こいつと何を?」
「別に、大したことじゃないんだ。確かめたいことがあって」
ベイン署長に恋人ができたらしいじゃない、と言う男の声はとても楽し気だ。機嫌を損ねてはいけないと思っていたのだ、歓迎すべき変化のはずなのに物凄く嫌な予感がする。
だって、この話の流れなら。
「そこの彼がそうなんだろう」
そんなわけないだろ、という言葉はやっぱり飲み込むしかなかった。いつの間にか唇に添えられていた指先が開かないように押さえつけてくる。一瞬絡まった視線で二度も言わせんなと念押されれば無理に手を引きはがすことも難しかった。
「ああ、それには答えなくていいよ。聞きたいことは一つだ」
彼のどこを愛しているんだい?と軽やかな声が言う。随分ミーハーな質問のはずなのに、恐ろしいほど切実なものに聞こえてしまった。思わず振り返りそうになった顔がぐっと引き寄せられる。香水の匂いが近くなって、頬に体温が触れた。
「それこそ、答えられねえな」
「……何故?」
「あんたがこいつを好きになっちまう」
俺は独占欲が強いんでな、と指先が髪を撫でる。毛先が持ち上げられて、……小さなリップ音が聞こえたのは気のせいだろうか。気のせいだと思いたい。
静かにカップを置く音が聞こえた。ため息交じりにそうかと男の声が呟く。
「帰るよ。彼は僕のミューズではなかったみたいだ」
椅子を引く音がして歩く音が遠ざかる。小さくドアベルの音が聞こえて、当たり前の喧騒だけが残された。
汗が流れる。やけに心臓が激しく動き、指先に妙に力が入る。これが愛や恋ならどんなによかったか。
頭から手が離れ、抗うことも出来ずに顔を上げた。美しく弧を描く瞳がカインを見下ろしている。
「ちょっと付き合えよ」
頷く以外の選択肢は残されていなかった。