やけに重い瞼を何とか持ち上げた。途端に目を刺す陽射しに思わず顔を顰める。いつもならもっと早くに目が覚めるはずなのだが、昨日の飲み会が響いているらしい。鈍く痛む頭を押さえてカインは体を起こした。今日は土曜日だがバイトがある。ゆっくりしてばかりもいられない。
とりあえずシャワーを浴びようと息を吐く。昨日は何もせずに寝てしまったから、と考えて、ふと違和感を覚えた。
いやに盛り上がっていつもみたいに服を脱いで、さすがにそのままだと外に出られないだろうと友人に服を渡されて。最低限を身に着けて店を出た。そうだ、一応服を着て外に出たはずだ。ここで脱ぐわけにはいかないなとぼんやり思ったのを覚えている。なのに、どうして今は服を着てないんだろう。友人と別れてからの記憶はひどく曖昧で、理由を探すのは難しそうだった。
ベッドの下を見れば、脱ぎ捨てられた服が散らばっている。帰ってきてから暑くなって脱いだとしたら玄関先まで服が落ちていそうなものだったが、そういうわけでもなさそうだった。この狭いワンルームの中で視線が届かない場所なんて、
「その様子だと覚えてないみてえだな?」
そうだな、と頷きかけて動きが止まる。
カインの部屋のベッドはセミダブルサイズだった。別に誰かと寝る予定があったわけではなく、単純に寝相が悪いからと母親に追われるままに決めただけなのだが。だから、そう。つまり、ベッドには誰かと眠れる余裕があって。
ぎこちなく、声の聞こえた方に振り向いた。顔に傷のある、知らない男と目が合う。楽しそうな顔の下には、服を身に着けていない。血の気が引いた。これは、つまり、酔った勢いでというやつだろう。別にセックスが初めてというわけではないが、問題なのはカインに全く覚えがないことだった。
男が低く喉を鳴らす。
「覚えてねえんだろ」
先程とは違って断定するような口調に、諦めて首を縦に振る。嘘も誤魔化しも得意ではない。
肩を落とすカインとは裏腹に、男は楽しそうに笑い声を上げている。あんな状態だったしな、と言うのにますます眉が下がった。
「その、迷惑をかけて」
謝ろうとした口を制するように、手を引かれた。そのまま男の背中に導かれ、そこに残る爪痕の意味を理解して顔が熱くなる。記憶の片隅に何かが掠めたような気がして慌てて手をひっこめた。傷をつけたのはカインだろう。謝るべきなのはわかっているのに、どういえばいいのか決めかねて口を開けなかった。身じろいだ拍子に腰が痛む気がしていたたまれない。
「んな深刻な顔すんなよ。男の勲章だろ」
「でも、痛くないのか?」
「こんなの怪我の内にも入んねえよ」
得意げに口端を持ち上げる男の体には、言うだけあって随分派手な傷跡が残っている。確かにその傷と比べれば、背中の引っかき傷など大したことはないのかもしれないが。それでも傷は傷だ。
「ちゃんとした事はできないが、手当てをさせてくれ」
「必要ねえ」
「だがそれは」
俺がつけたんだろう、と言えば、男の瞳がおかしそうに細くなる。言葉の内容というより、戸惑うカインの顔を楽しんでいるみたいな表情だった。何だか少し趣味が悪いのかもしれないなと思う。
男は何も答えないまま、微かに眉を寄せたカインの体を跨いでフローリングに足を付けた。落ちた服を拾い上げて止める間もなく身に着けていく。背中の傷をシャツが覆い隠してしまって声を上げた。
「それだと手当が出来ないだろ」
「だから必要ねえよ」
せめて薬ぐらいはと言い募るカインにうるさそうに顔を顰めて、男が学ランに腕を通した。……学ランに、腕を通した?
「学ラン?!」
急に大声を上げたカインに、男が驚いたように目を丸くする。その顔は確かに幼く、学ランは誂えたように体にぴったりだ。皺のついた少しだけくたびれた生地は、単なる衣装には見えなかった。
「……高校生、なのか?」
「あ?何だよ、覚えて……ねえんだったな」
片眉を跳ね上げた男が、すぐに楽しそうな顔になってカインの顔を覗き込む。指先がカインのむき出しの肌を滑った。
「脱いじまえば一緒だろ?」
甘えるように囁かれて一瞬固まって、慌てて指を引きはがした。脱ぐとか脱がないとか、それよりも大事なことがあるだろう。
「飲み屋にいたわけじゃないよな?」
カインの記憶では店内にいたようには思えなかったが、自信がなかった。高校生を飲み屋に連れ込むなんて冗談にもならない。
男は不意をつかれたようにきょとんとしてから、呆れたようにため息を吐いた。そこかよ、と拗ねたように吐き捨ててカインの手を振り払う。
「こんな格好で行くわけねえだろ」
「……確かに、そうだな」
制服で居酒屋に行ったところで、入店を断られておしまいだろう。最悪の事態にならなくてよかった、とほっと胸を撫で下ろした。ところで鳴り響いたアラームに体が跳ねる。急いでスマホを探し当てて画面をタップした。表示された時刻は、そろそろバイトに行く準備をしなければいけないと教えている。でもその前に手当はしてしまわないと、と顔を上げ、そこに誰もいないのに目を丸くする。
慌てて視線を巡らせれば、玄関の扉が閉まるところだった。
「じゃあな、オニーサン」
ぱたりと扉が閉まり、咄嗟に上げた腕を下ろす。結局手当は出来なかったし、感謝も謝罪も言いそびれてしまった。それに。
「名前、聞いてなかったな」
何の変哲もない扉を、じっと見つめてしまった。