よくやったじゃねえか、と声が聞こえて、ふとそちらに目をやった。特に意識をしたわけでもなかったが、条件反射というやつだろうか。ボスの声には耳を傾けなければならない、という。もし本当にそうならちょっと困りそうだなとカインは内心苦笑した。
視線の先では、同僚がブラッドリーに何かを報告しに行っているところだった。面倒な仕事を抱えていた彼の晴れやかな顔を見るとカインの方まで嬉しくなってくる。今度何か奢ろうかとあんまり余裕の無い財布の中身を思い返していると、小さな歓声が上がった。見れば同僚の頭をブラッドリーが豪快に撫でまわしている。やめてくださいよボス! と弾むような同僚の声が響いた。
それから一言二言話して、詳しい報告をするためにか二人が署長室の方に歩いていく。その背中を見送ってカインも自身のデスクに向き直った。書きかけの報告書の続きをやろうとして、すぐ手が止まる。思い出すのはさっきの場面だ。同僚がブラッドリーに頭を撫でられていた。
嫉妬している、という訳じゃない。だけど何だか落ち着かない。どうしてだろうかと考えて、そういえば最近はあんな風に頭を撫でられた記憶がないことに気が付いた。もっと前、それこそ入ったばかりの頃はあんな風にぐちゃぐちゃに髪を乱されたのは一度や二度じゃなかったのに。
褒められてないわけじゃない。叱られることも多いけれど、ブラッドリーはちゃんと見ていてくれる人だ。いい仕事ができたなとカインが思う時には、ちゃんと褒めてくれる。だけどその時、頭を撫でられたことはない。
仕草一つでブラッドリーの感情を疑うつもりはないが、ほんの少しさみしかったのも本当のことだった。
息を吐いて首を振る。今は仕事に集中しようと気持ちを切り替えてモニタに向き直る。報告書を打ち込みながらも、何となく生まれた小さなさみしさは頭の片隅に残ったままだった。
——昼間にそんなことを考えていたせいか、武骨な指が髪を梳く感触にいつも以上に反応してしまった。どうしたと顔を覗き込む恋人に何でもないと首を振る。まさか、頭を撫でられなくてさみしかったなんて言えるはずもない。仕事が終わった後だったとしても、こんな台詞で見逃してくれるような人じゃないのはわかっているけれど。
二人きりで並んで座るソファにはあんまり逃げ場がなかった。身じろいでも、もっと体温が近くなるだけだ。
「何を気にしてんだ?」
「何でもないって、言っただろ」
「本当に何もない奴は、そんなこと言わねえんだよ」
ゆっくりと項のあたりの髪を弄んでいた指が離れていく。消えた温もりを視線で追ってしまって、聞こえた笑い声にはっとする。カインの視線の先で髪留めを外した指が、そのまま肩を掴んで力を込めた。背中がソファの座面に着地する。覆いかぶさってきたワインレッドの瞳が楽しそうに弧を描いた。
「随分、気にしてたみてえだな?」
指先が前髪をぐちゃぐちゃに掻きまわす。そんなに熱心に見ていたつもりはなかったのに気づかれていたらしい。少しだけ頬が熱くなる。性格が悪いぞと睨みつければ、聞き飽きたとばかりに更に髪を乱された。目にかかった毛先を払いのける。無意識に尖った唇を楽しそうな指先が摘まむ。それで? と端的に聞かれて諦めた。そんな甘やかすみたいな響きで囁かれたら抵抗できないのに。
せめてもの抗議として横を向く。
「本当に、大したことじゃないんだ。……頭撫でなくなったなと思っただけで」
「理由を教えてやろうか」
笑い交じりにそう言って、唇から離れた指が髪を梳いた。やさしく、穏やかに、指先から熱を移すみたいに。
まだ乱れたままの前髪を整え、耳にかけ、少しだけ耳たぶをくすぐって結ばれていない後ろ髪を毛先まで梳いて離れていく。腕に落ちた髪を追いかけるように触れて、今度は下から上へと遊ぶような手つきで撫でられる。横顔を全部包み込むみたいに大きな手のひらが覆って、指先だけが耳の上の髪を梳いて項に触れた。軽く力を込められて、そっぽを向いたままだった視線を上向かされる。ワインレッドに見つめられて、条件反射のように瞼を下ろしてしまった。
キスの代わりに楽しそうな笑い声が聞こえてはっと目を開く。おねだりを聞いてやるとでも言い出しそうな顔が見えて、慌てて首を振った。こんなの、二人きりの時以外にできるわけがなかった。