アラームを止めて端末を覗き込む。表示されている数字にため息を吐いた。オフの日であっても、いつもなら時間よりずっと早く目が覚めるのだが、昨日はずいぶん遅くまで起きていたから仕方ないのかもしれない。正直に言って、自分がいつ寝たのかは全く覚えていないのだけど。差し込む陽射しに目を細めてカインは小さく苦笑した。
これが色っぽい事情ならばよかったのだが、実際のところは恋人の帰りを待ちきれなかっただけだ。せっかくの休みの前だからといくらでも待つつもりだったのに。ベッドに移動して本を読み始めたところまでは覚えているのだが、それ以降の記憶がなかった。
手を伸ばして、ぽっかり開いたベッドのシーツを撫でる。指先に触れるのは冷たい布地の感触だけだ。少し乱れているのは、カインの寝相のせいかもしれなかった。もしかしたら、昨夜は帰ってこられなかったんだろうか。そんな話はしていなかったはずなのだが。
何か連絡がきているかも、と端末のロックを解除して、そこで見慣れないファイルがあることに気が付いた。ほんの数分の音声ファイル。友人とジョークでおかしな声を録音してみたことはあるが、昨日は一日中仕事だ。操作に役立てるための録音なら、完全プライベート用のこの端末にあるのはおかしい。そもそもカインに何かを録音した覚えがなかった。
何かのウイルスだろうかとスキャンにかけてみるが、昨日この端末で録音されたものだという結論しか出ない。首をひねりながら、妙なものでもないのならとファイルを開いた。
最初の数十秒はごそごそと何かがこすれるようなノイズだけが入っている。たぶん、カインが寝返りする音だ。間違えてレコーダーを起動してしまっただけらしい。消しても問題なさそうだと操作しようとして、ノイズに続けてドアの音が聞こえてきて指が止まる。静かな足音が近づいてきて、ベッドがきしむような音がした。
『カイン』
一旦再生を止めてしまった。今のは間違いなく恋人の、ブラッドリーの声だった。ブラッドリーに名前を呼ばれただけ。だけど何だか、聞いてはいけないものを聞いたような気分だった。
ノイズに紛れてしまいそうなくらい小さく、だけどどんな感情を込めて言われたのかはしっかりと伝わる声。柔らかくて優しくて、いとおしい。初めて聞いたわけではないはずなのに、そわそわとして落ち着かなかった。きっと、カインに聞かせるための声じゃないからだ。
続きを聞かないほうがいいんじゃないかという考えが、好奇心に負けた。ブラッドリーが何を言うのか気になってしまう。続きを再生した。
微かな息遣いが聞こえ、更にベッドが音を立てる。体勢を変えたのか大きなノイズが響いて、もごもごとした不明瞭な声らしきものが流れる。その後に聞こえたのはブラッドリーの声ではなかった。
『ん、ぶらっど……?』
『ああ、ただいま』
『おかえり……』
ほとんど眠っているみたいな声は、カインのものだった。全く記憶にないのだがブラッドリーをちゃんと出迎えていたらしい。舌足らずだが結構ちゃんと喋っている。寝言については何か言われたことがなかったのだが、今までもこんな風に喋ったりしていたんだろうか。
ファイルの中のカインが、仕事のことをブラッドリーに尋ねている。少し確認したいことがあって遅くなったらしい。今日は寝るからスペースをあけろと言う声に、カインは何故か楽しそうな笑い声を上げている。笑い交じりの声がブラッドリーを呼んだ。
『なあ……きす、してくれないのか?』
『しねえよ』
『ぜったい?』
『絶対だ。もう寝るっつってんだろ』
『して、って、いっても?』
『明日な』
子供をあやすみたいなブラッドリーの声にむにゃむにゃとカインが何かを言って、そこで音声が途切れた。再生前と同じ画面を見つめてぽつりと呟く。
「キス、してくれないのか」
「目も開いてねえような坊やにする趣味はねえからな」
頭上から降ってきた声にびくりと体が跳ねた。慌てて顔を上げれば楽しそうに細くなるワインレッドがカインを見下ろしている。いつの間に、と考えて、そういえばドアの音もベッドがきしむ音もどこから聞こえてくるのかちゃんと確認していなかったことに思い至る。音声に夢中だったカインの背後を取るのは随分簡単だったことだろう。
思わず視線を反らしかけたが、顎をとらえた指がそれを許してはくれなかった。
「それで、目が開いてるてめえはどうすんだ?」
笑い交じりにからかうようで、本当は約束を守ろうとしてくれているのはわかっている。だからカインも素直に手を伸ばしてブラッドリーの首にしがみついた。
「キスしてもいいか?」
ほんの少し目を丸くして、すぐに笑い声が落ちる。顎を掴んでいた指が頬を撫でて、後でな、と囁いた唇が優しく触れ合った。