推し(🎴)ぬいかつだんし🔥さん×てん…しゃい的なアイ💲様な🎴くんの話酷暑なるものが過ぎた九月のとある平日。
今が四時過ぎとおやつの時間ももう終わりに差し掛かった時間であろうとも降り注ぐ太陽の光はいまだじりじりとした熱を持ち、その明るさは真昼と同等に健在であった。冷房のきいた店内の床は木材特有の味のある鈍いこげ茶色をしており、よく手入れがされているようで表面にワックスのつやがあった。壁紙は古本のような鈍いクリーム色、天井もまた床材と同じ木材のこげ茶。天井から吊るされた小ぶりのシャンデリアのような照明は年季を感じさせる、いわゆるアンティークと呼ばれる部類のものであった。奥に設置された厨房からはスタッフ同士の会話が聞こえ、何かを炒めている調理中の音も聞こえてくる。会話を邪魔しない音量でピアノの演奏が聞こえる。恐らくクラシックであろう。四時というおやつ時間のピークを過ぎた今、客の入りはまばらで店内に流れる空気もどこかまどろんだものであった。
純喫茶
ここはそう称されるにぴったりの雰囲気の店であった。店の入口はレンガ調であり、レンガの所々に蔦が絡まり、地面に置かれた看板には昔の活版印刷技術で印字されたような文字で店名が書かれていた。これらからもこの店が雰囲気のある店であることは分かっていたのだが、既に上記しているが店内も外装には負けないほどの雰囲気を持ち合わせていた。店内の丸い机は床材と同じくこげ茶と年季の入った木材であり、ガラスのコップ内の水がアンティークの照明の明かりでその表面を煌めかせていた。
スタッフたちは白いシャツに黒エプロン、まさに『喫茶店の店員さんといえばこのスタイルだよね』な服装に身を包み、その内の一名が「お待たせしました」と声をかけてきた。その手にはこれまた古き良き喫茶店といえば…な銀色の丸いお盆があり、その上には更に『THE喫茶店』とも呼べるものがあった。
「こちら、どうぞ」
スタッフのにこやかな笑顔とともに机の上に置かれたのは魅惑のカーブを描くガラス製のグラス。涼やかな印象をもたらすグラスの中には細かい気泡がぱちぱちとはじけるグリーンの海。その中を透き通った大きめの氷たちが泳いでいた。グリーンの海の上に浮かぶは表面のざらつきと丸い形がなんとも愛おしいバニラアイス。その天辺に『ここまで来たらご褒美だよ』と言わんばかりに真っ赤なサクランボが乗っている。
メロンクリームソーダ
それがこの店の名物であった。
「ではごゆっくり」
注文いただいた飲食物を提供する、という己の職務を終えたスタッフは軽く頭を下げて席を離れていく。スタッフが完全にこちらに背を向けたのを確認し、あわせてこの店内にいる他の客人たちの様子も確認する。客人たちは自分を除いて計四人。左奥には二人組の女性、見たところ大学生であろう。彼女たちは堪能したことを証明するスイーツの空き皿を前に楽し気にお喋りをしていた。彼女たちの席の並びに男性が一人。こちらは片手にコーヒー、片手に文庫本とコーヒーと古書の街として名を馳せるこの地に適した楽しみ方をしていた。男性の右隣、その列の一番右にもまた一人。黒いキャップを被り、黒縁の眼鏡をかけた青年が片手にスマートフォン、とこちらは現代人ならではの楽しみ方をしており、その前にはアイスティーが置かれていた。皆、思い思いに自分の時間を楽しんでおり、他の客人のことには興味がなさそうだ。スタッフたちも業務とは関係ない雑談をしている。
煉獄杏寿郎は各々の様子を確認すると自身のバックの中をまさぐり、手にしたものを取り出した。
グラスの表面に汗をかき『早く飲まないと溶けちゃうよ』と急かすメロンクリームソーダの前にそれを置くとスマートフォンを構えた。
パシャ
店内がゆったりとしているからかカメラのシャッター音が思いの外大きく聞こえ、煉獄は内心ひやっとして辺りを見回したが誰もこちらを見ていないのにそっと胸をなで下ろした。そして自身のスマートフォンの画面内に収まる今しがた撮影したばかりの写真につい口元が緩まる。
てんてんに丸いフォルム、丸の中心部には笑っているのがよく分かる、まさに『にこっ!』な形をした目…まぁ、この界隈にいらっしゃる方であればお分かりであろうが『ふ』で始まり『ん』で終わる、あれ…そう。ふわ…っとしたシリーズのあれである。誰が称したか、その笑顔は『にこし!』であり、煉獄もその笑顔につられて『にこし!』と目を細めた。
煉獄杏寿郎 二十八歳 某首都圏勤務の会社員
本日は有給休暇。その楽しみ方は推しであるぬいとお出かけする…いわゆるぬい活であった。
煉獄はひとしきりふわを前に『にこし!』すると俊敏かつ丁寧な動作でふわを専用のバックに入れるとメロンクリームソーダを楽しむことにした。そしてスタッフにもう一度メニューを見せてもらえないかと頼んだ。
ここでひとつ。煉獄と推しの出会いについて。
あれは約五か月前…四月の後半のことであった。
大学生であればまだ学校のどこに何があるかを覚えたり授業の長さをどう耐えるかの塩梅を見つけようとしたり、出会ったクラスメイトとどんな風に関係性を築いていけばよいのか模索し、新入社員であれば社会人のルールなるものを研修として学んでいるであろう頃。
とある金曜の夜。終電とまではいかないがそこそこに遅い時間の地下鉄は満員御礼であった。朝の通勤ラッシュほどではないが、それでもスマートフォンをいじるなんてことができないくらいにぎゅうぎゅうであった。乗客は会社員であろう者の姿が圧倒的に多く、年配の方は顔を真っ赤にしてうつらうつらとしていた。中には足元がふらついている者もおり、身体ががくっ!とするたびに周囲の人間たちがわずかにざわついた。なんせ足元がふらつくその者から酒の匂いがするからだ。
―…このご時世、まだ新入社員歓迎会だとかそういったものがあるのだな
煉獄はこのぎゅうぎゅう具合に若干うんざりしながらそんなことを思っていた。まぁ、そんな自分も本日は新入社員の歓迎会であったのだが。今はその帰りだ。明日が土曜と休みなだけあって帰りがこんな時間になってしまった。酒の匂いとくたびれた社会人の匂いとその社会人にもたれかかられてはうんざりする乗客たちのため息で車内はなんとも微妙な雰囲気であった。煉獄はこの混雑によりスマートフォンをいじることができず、なんとなしに視線を上向けてみると次の到着駅を告げる電子画面が目に入った。画面は直ぐにパッ!と変わり、ソシャゲやコスメ、分譲マンションと音声はないにしろやたらと画面展開が早くてやかましいCMたちが次々と流れていく。煉獄はそれらに興味はないものの惰性でぼんやりと眺めていた。するとCMが動画のサブスクへと切り替わった。
電子画面の中では恐らく今、流行っているのであろうアーティストのライブらしき映像が流れていた。おとぎ話の王子様が着そうな煌びやかな衣装に身を包んだ男性…男性と呼ぶにはやや歳が足りない。『青年』がふさわしい三人組が手を振って観客席に向かって何かを言っている。これはそのサブスクに加入しなければ見られない、ライブのドキュメンタリー番組なのだろう。
カメラは一人の青年の横顔に焦点を当て、その顔をアップにした。するとこれまで観客席の方へ笑顔を向けていた青年は自分を撮られているのに気がついたのか、ふ、と視線を観客席からカメラの方へと向けた。瞳そのものが大きいからか赫い瞳が動くのが良く分かる。そしてカメラを見つめると目をぎゅっと細めて並びの良い歯を覗かせ、満面の笑みを浮かべたのである。20センチ×30センチほどの電子画面には何の音も聞こえない。だけども青年の笑顔は何か『きらきら』であったり歓声のような効果音的なものすらも聞こえてきそうなほどに素晴らしい笑顔であった。
その笑顔の持ち主が竈門炭治郎であった。
煉獄の受けた衝撃は某地球外生命体がとある心優しい少年と出会い、お互いの指先同士を触れさせるとなんかとんでもなく輝くあの場面並みのものであった。
次の到着駅に着き、電車のドアが開くなり乗客たちがぞろぞろと降りていく中、煉獄はただただその場に突っ立って電子画面を眺めいていた。(時折降車する人に『邪魔』と怪訝な顔をされた)それから煉獄は自身が降りるべき駅で降りることも忘れ、なんと15駅も乗り過ごし、駅員より「お兄さん、ここ折り返し駅なので降りてください」と声をかけられるまでずっと立ったまままたあの笑顔が見れないかと長方形の電子画面を見つめ続けたのである。それから折り返し電車に乗って再度最寄り駅に向かったにも関わらず最寄駅から5駅ほど乗り越し、もう一度電車に乗り直して漸く自宅に着いた煉獄は即座にあのサブスクに加入し、あのライブ映像を探した。
そうしてその青年が『竈門炭治郎』なるアイドルであることを知ったのだ。
竈門炭治郎 二十二歳。
我妻善逸と嘴平伊之助の三人のメンバーからなるアイドルユニット『KAMABOKO』のリーダー。明るく元気。そして喚きがちな善逸と暴走しがちな伊之助がぎゃあぎゃあするのを『こらっ!』したり『ちゃんとやろうな』とする存在であり、その姿から今年度の『お兄ちゃんにしたい芸能人~青年部~』において圧倒的一位を獲得した。性格はとにかく真面目。『今日何食べた?』『好きな本は?』『遊びに行くならどこに行くの?』と聞かれても『何も食べてない』『それは内緒』なんてのらりくらり言うこともなく『自分で握ったおにぎりです!俺、米炊くの上手いんで!(ドヤァ!)』や『弟や妹が小さい頃、寝かしつける時に読んだ絵本です!』『弟と妹と公園ですね!あとは善逸と伊之助と焼肉です!!!』と気持ちがよくなるくらいにはきはきと答えている。時に正論すぎるあまり少々痛いところをついてしまうのでその場を凍らせることもあるがそれは若さゆえのご愛敬ということで。性格面の良さだけでなく身体的なポテンシャルも高く、ダンスにおいてはキレがありプロからの評価も高い。ダンスが上手い、それはアイドルたらしめる素質の一つにはなるであろうが、何よりその笑顔。くったくなく明るく、画面というフィルターを通してですら『うわっ!まぶし!』とつい目を手で覆ってしまいそうな笑顔。これぞまさにアイドル。これが女性陣の心はもちろん、幅広い年齢層の人々の心をも見事に打ちぬいた。故に今年度ならず三年前から『孫にしたい芸能人~青年部~』の首位を守りぬき、今年からは『新入社員にしたい芸能人』の一位をも手にしている。そしてその活躍の場はアイドル活動のみならず多岐に渡る。メンバーであり、何かとリアクションが大きい善逸と人並み以上の破天荒ぶりを見せる伊之助がバラエティー向きであるからかバラエティー番組にもよく出演している。(善逸はよくどっきりの番組に出演している。もちろんどっきりさせられる側)ちなみに所属事務所としてNGはないらしい。なので今はコンプラ的なものでちょっとあれであるがローションを体に塗りたくって相撲をするという『アイド…ル?』的なことも「やります!!」とやっていた。(ちなみに優勝した)そのなんでも前向きに挑戦する精神から(ちなみに善逸が始める前に嫌そうにし、それを炭治郎になだめられるまでがKAMABOKOお馴染みのワンセットなやりとり)ネット上では『あの三人無人島でも生きていけそう』などと評されている。テレビ番組に出演する以外にもSNSでダンスの練習風景も流しており、その懸命に頑張る姿にはつい応援したくなってしまうと評判だ。ちなみに竈門炭治郎は歌が下手、というアイドルとして致命傷を持ってはいるがそれが霞むくらいに輝かしい(なんならその欠点も可愛く思える)、まさに生まれながらにアイドルになるべく存在…天才的なアイドル様であったのだ。
煉獄は竈門炭治郎のことを調べていくうちに電車の中の広告だなんて意識的に見ようと思って見た訳でもないものに自分がたった一瞬にして心を惹かれたのには竈門炭治郎のこうした努力面があるからだと知ったのだ。そしてその努力に今度は自分が鼓舞された。
人々の心に残る数々の物語を生んだシェイクスピアもこう書いている。『恋の始まりは、変わりやすい4月の天気のようだ。』と。煉獄のこれは恋ではないだろうが、変わりやすい天気で心が揺れるこの4月。そんな4月に煉獄が心を寄せる存在…推しができたとしても何ら変なことはない。
それから煉獄の日常に『竈門炭治郎』が入るようになった。朝起きた瞬間、昼休みに昼食を食べる瞬間、夜寝る前と一日の隙間に竈門炭治郎のことをチェックするようになった。これまで自分には縁がないと思っていたSNSにアカウントを作り、竈門炭治郎に関するものは全てフォローした。(もちろんファンクラブにも加入済み)竈門炭治郎、もといKAMABOKOがコラボするコンビニの食べ物やスイーツも積極的に取り入れた。そうすると普段の自分であったら手にはしないものを手にすることで『これはこういうものだったのか!』と新しいことを知っていく楽しみを知った。
SNSでは同じく竈門炭治郎を推す人々の呟き(もとい発狂)も日々次々と現れ、煉獄はその呟きの中でメンカラコーデなる推しの色を意識した衣類やアクセサリーを身に着けて楽しむという楽しみ方があるのも知った。煉獄もそれを参考にし、何かを選ぶ時にふと『竈門炭治郎のメンカラにしよう』となり、これまた自分がこれまでの人生で選ばなかったものを選ぶという面白味と竈門炭治郎の元気さをもらえたような気持ちを楽しんだ。竈門炭治郎を推せば推すほど自分の視野が広がっていく。この喜びをもたらせてくれた竈門炭治郎には感謝…もはや崇拝の念すらあった。
そこまで推しているのであれば竈門炭治郎本人に会いたくなるのでは?と思われるが、煉獄はそれだけはしなかった。推しの目に自分が映るのが嫌とか、認識されたくない系?と推測されるが煉獄にはそんな複雑なオタク心理はない。むしろ好きなものを好きと堂々と言い、自分が好意を持っていることを相手にそのまま直接伝えたいタイプである。(そうしてもらえると自分も嬉しいので)
だが、煉獄はそれをしなかった。
本当のところ、煉獄にもライブに行って生竈門炭治郎を見てその輝きと明るさを生で浴びたいという気持ちはあった。それを実行に移さないのはKAMABOKOのライブチケット当選確率が某鬼狩り漫画のカフェ付き某展覧会のチケットの倍率より高いからとかではない。
SNSというものは推しそのものについてだけではなく、推しを取り巻くものについての情報も入ってくる。それらの中には推しに悶えまくる『分かる!』という共感を得、仲間がいることに嬉しくなるという明るいもの以外…つまり負のものも含まれるのだ。
煉獄はSNSでKAMABOKOのライブに参加した人々の感想を眺めて『羨ましい』という気持ちを持ちながらも『KAMABOKOに元気をもらって良かったな!』とにこにこしていたが、そこにとある情報が入り込んできた。それはある一部のファンの言動について言及するものであった。否定的な言葉の呟きとともに載せられていた短い動画を見てみるとそこには竈門炭治郎のファンであろう男性が警備員に取り押さえられている姿が映し出されていた。ライブ参加者であろう周囲の人々の反応からするにどうやらその男性は竈門炭治郎の熱烈なファンであり、竈門炭治郎が会場から車などへ移動しようとしたところに突進し、その現場を警備員に取り押さえられたのであろう。その男性は竈門炭治郎の名を叫び、時に聞くのも恥ずかしくなるような卑猥な言葉を投げたり、まるで自分が竈門炭治郎と付き合っているかのような言葉を吐いていた。煉獄が推し活をする上で初めて目の当たりにした負のものに驚いているとSNS上には様々な呟きが飛び交っていた。その中に例の男性を知る人の呟きもあったのだが、『でも、たんたんだって男誘ってる顔してるし』とライブ中であろう竈門炭治郎の写真が添付されていた。一見すれば普通にライブをしている姿であったが、そんな言葉付きで呟かれてしまえばそういった風にも見えてしまう、悪意もしくは性欲をもって選ばれた写真であった。煉獄は『最低だ』と思ったが、もし自分が竈門炭治郎を推していると人に知られた際、周囲からこの男性たちと自分は同じ分類に属していると思われるのではないだろうか、とも気がついた。竈門炭治郎は男性アイドルなだけあり、ファンは圧倒的に女性が多い。もし、自分がライブに参加したとしてその女性たちの目に自分はどのように映るだろうか。例の男性と同じく、汚い欲望を持ち合わせたにちゃにちゃとした存在として映り、純粋にライブを楽しみに来たその楽しい心に不安をもたらせてしまうのではないだろうか。それに自分は体格に恵まれているのでその威圧感に更に不安にさせてしまうのでは…煉獄はそう思うととてもではないがライブに参加しようという気にはなれず、竈門炭治郎を推していると公言する気にもならなかったのだ。
自分は電子媒体越しで彼を応援するくらいがいい。
煉獄はSNSを通して自分の推し方というものを学び、スマートフォンの小さな画面を推しに繋がる全てとしたのだ。
そんな煉獄に転機が訪れた。
それは七月のことであった。煉獄がこの三か月ですっかり使い慣れたSNSにて推しである竈門炭治郎を存分に摂取しているととある情報が流れてきた。その情報にファンたちは阿鼻叫喚し、TLは良い方面に荒れに荒れていた。
その情報とはなんとついこの間行われたKAMABOKOのライブ映像が映画館で放映…いわゆる応援上映というものが行われるのが決まったというものであった。
これまで映画館は映画を静かに楽しむものだと思っていた煉獄はこの情報に『こういったものがあるのか』と推し活というものの幅の広さに感心したが、次には『ん?』と思い立った。
これは自分が参加しても良いのでは?と
八月某日それなりの規模を誇る某映画館内
竈門炭治郎推し女子(今日はおでこに竈門炭治郎と同じ痣のメイクをしてきて気合は十分)と我妻善逸推しの女子(今日は『汚く泣いて』の団扇を持って気合は十分)の二人組は各々推しカラーのペンラを握りしめ、いざ出陣…
「…なんか隣にすごい顔整いがいる」
「え?どこ…うわ、本当だマジで顔整い」
チケットに記載された座席に座る彼女たちの視線の先…この劇場内で最後列の一番端。自分たちの席から通路を挟んだ向こう側、二列だけ並んだ席の一つに座るは煉獄杏寿郎であった。長い足を組み、背筋を伸ばして悠々と座るその姿に女子(竈門炭治郎推し)は「え?もしかして間違って入ってきちゃったんじゃない?」ともう一人の女子(我妻善逸推し)に小声で囁いていた。その囁きは然程大きいものではなかったが、まだ開演15分前と完全に観客が埋まりきっていない劇場内とあまり騒がしくはない状態であったので、煉獄の耳にも届いてしまっていた。
煉獄がこうして応援上映への参加を決めたのはライブとは違い、座席に座ったままと他の人との距離が保つことができ、女性客にぶつかってしまうこともなく、上演中は暗いので男である自分が参加したとしても周囲に分からず、かつ周囲を不安にさせにくいであろうと考えたからであった。それでも最後列と他の人の目に自分の姿が入りにくいよう、できる限りの配慮もした。本当は開演直前にこそっと入ってきてなるべく存在を消そうと思ったが、元々ややせっかち気味なところがあり、更には大画面で推しが見れるという初めての経験に居ても立っても居られず開演と同時に入場と一番乗りでやってきてしまったのだが。
―…やはりもっと遅くに来るべきであった…
煉獄は自分のせっかちさにやや後悔していたのだが、女子(我妻善逸推し)の子が「あ、でも。ほら。彼女がKAMABOKOファンなんじゃない?」ともう一人の女子(竈門炭治郎推し)にとあるものを見るように促した。煉獄が座る座席とその隣の座席のカップホルダー部にはそれぞれドリンクが。それを見た竈門炭治郎推しの女子も「あぁ~」と納得した様子であった。
煉獄は応援上映にうきうきした女子が隣に座る自分を見て嫌な気持ちにならないよう、隣の席の分のチケットまで買っていたのだ。ついでに『彼女の付き添いで来ました』という自分はKAMABOKOファン…竈門炭治郎推しではない感もアピールするために飲み物を二つ購入するという非常に涙ぐましい努力もしていた。そのおかげで女子二人に煉獄が『KAMABOKOの応援上映を観たい彼女に付き合ってあげている彼氏』であると思わせることに成功していた。ついでに…
「…ポップコーンでかくない?あれ、一人一個あるよ」
「彼女、大食いなのかな」
それ、二人…いや、三人くらいで食べるよね?なばかでかいポップコーンも二つ買っていた。
そうこうしている内に席には続々と人がやってくる。参加者の99%が女子…もはや自分以外全員が女子である。皆、推し色をしたペンラや飾り付けた団扇を持ったり、KAMABOKOのメンバーと同じ髪形にしたりと自分なりの楽しみ方をしていた。中には以前のライブでメンバーが着ていたのと同じ衣装を着るというコスプレをした女子もいた。その誰もが待ちきれないといわんばかりにうきうきとし、弾んだ声で楽し気に会話をしている。煉獄は『ライブもこういった感じなのだろうか』と決して自分が行くことのないライブへ思いをはせるとともに初めて味わうこのそわそわな空気感を好きになった。
開演を告げるブザーが鳴り、劇場の照明が落ちる。いくつかのCMが流れた後…
全女子の渾身の雄叫び
まずはこのライブ映像の編集、配信するまでを手掛けた配給会社への感謝の念がほとばしった。
煉獄は全女子の…『女子とはこんな声が出るのか?』の声とその熱量に驚き、『これなら自分も声を出してもいいのでは?』と思ったのだが…
スクリーンが明るくなった。
どうやら配給会社からの宣伝が終わり、いよいよ本編がスタートするのであろう。そのスタートにあたってまずはこのライブの主役でもあるKAMABOKOのメンバー紹介が始まった。
そうして画面いっぱいに映るは最推しの竈門炭治郎の横顔。
途端、場内がシン…とした。
竈門炭治郎は恐らく舞台袖にいるのであろう。舞台の方を眺めるその真剣な顔は舞台の照明の明かりを受けてほんのりと明るくなっていた。竈門炭治郎は一度大きく息を吸うと目を瞑り、今度はふぅ、と吐き出した。そして目を開くとカメラに向かって『行ってきます!』とでもいうように全力の笑顔を投げた。その横にはTANJIRO KAMADOの文字。
これが少女漫画や恋愛ドラマであれば目があった瞬間に『ドクン』とときめくように一度大きく目の前が揺れたであろう。そして全女子の雄叫び…いや、絶叫。それはメジャーリーガーがホームランを決めた時以上であり、場内が揺れたようにも思えたほどであった。
煉獄にはスクリーンが数倍明るくなったように思え…
「え、ちょ、ちょっと…ちょっと、あれ、大丈夫かな?」
この劇場で煉獄のことを見かけたあの竈門炭治郎推しの女子が思わず隣に座る我妻善逸推しの女子に声をかけていた。だが、彼女は画面に映る推しに夢中であり竈門炭治郎推しの子の声に気がつかなかった。
竈門炭治郎推しの彼女の視線の先には背もたれに身を預けてぐったりとする煉獄の姿があった。
彼女はすぐに煉獄のそばへ寄り、「大丈夫ですか?スタッフの人、呼びましょうか?」と声をかけるも煉獄は目をちょっと危ない方向に向けてひゅー…ひゅー…とか細い息をしながら「か…かま…ど」と呟いた。
その瞬間、彼女は『あ、この人、同担だ。あとガチ勢』と察した。
これまでスマートフォンという小さな画面でしか推しを摂取してこなかった煉獄にとってスクリーンという大画面で見る推しはもうとんでもない迫力と感動であり(あと竈門炭治郎の肌が綺麗すぎて驚いた)完全にキャパオーバーを起こしていた。それにこの輝き…画面には収まりきらないこの輝き…何より推し……推しがこんな大画面で微笑んでくれているだなんて…
「こんなことしている場合ですか!?」
竈門炭治郎推しの女子が感動に打ち震える煉獄を叱咤する。
「推しを…こんな大きなスクリーンで推しを見るだなんて!今日は公開初日の一番最初の回…!初めての推しスクリーンですよね!?それを…それを見逃すなんて…できますか!!!!???この一瞬!ファースト推しスクリーン!それをその瞳に焼き付けなくてどうするんですか!!!???」
竈門炭治郎推しの女子のその熱意が煉獄の目を覚まさせた。煉獄は己の両ほほを自分の手で叩き、きり…!と『今から受験でも受けに行くの?』な面構えになると強く頷いた。そして竈門炭治郎推しの女子もまた強く頷いた。これが少年漫画であれば夕日を背景にし、お互い手をがっ!と握っていたところであろう。(古典的表現)
それからは楽しかった。劇場内はKAMABOKOに対する愛に溢れていた。誰もが推しへの愛を叫び、竈門炭治郎が歌えば「善逸の耳が死ぬ!」「歌わないで!」の愛のあるやじが飛び、善逸が泣けば「泣かないで!」の声が飛び、伊之助が暴れれば「長男!長男呼んできて!!」の声が飛ぶ。
煉獄は声を出すことはなかったが(スクリーンに映る推しのファーストインプレッションにやられていた)SNSではなく、大勢の人々がこうして推したちを同じ時間に同じ場所で応援するリアルな一体感を楽しんだ。これまでもSNS上では推しへの愛が叫ばれてきたが、リアルな声を聞くことで『あのアカウントの人たちは本当にいたのだ』という実感が湧き、同じ『好き』の気持ちを共有できる楽しみを知った。そして大勢の人に『好き』と思わせ、『好き』という気持ちを多くの人と同時に共有し、その共有感を楽しませてくれる竈門炭治郎にますます想いが募る。
そんな楽しい時間はあっという間に過ぎ、エンドロールが流れ、各々このライブに携わった配給会社への感謝の気持ちを叫んで幕は閉じた。
皆、多量の推しを摂取してお肌つやつやにしながら会場を出ていく中、煉獄は自分に声をかけてくれた女子にお礼を言うことにした。男である自分が声をかけるのに不安はあったが、推しと向き合う覚悟をくれた彼女には是非ともお礼をしたい。
彼女に声をかけたところ、別に怖がられることもなく、むしろ「良かったですね…!推し…!」といくつもの試合をこなしてきた歴戦のアスリートのような顔で煉獄からの礼に答えてくれた。そして『では。これからもお互い良い推し活を』とお互い帰り支度を始めていた。
その時、煉獄はあるものに気がついた。
「すまないが」
もうすっかり話は終わったと思っていた竈門炭治郎推しの女子は煉獄に声をかけられて「はい?」と不思議そうにしていた。
「それは、なんだろうか」
「それ、…?」
彼女は煉獄が指さす方へと視線を向ける。それはカバンにつけられた…
「あぁ!これですか。ぬいですよ。去年のツアーで販売されたやつです!」
それが煉獄とぬい(竈門炭治郎モデル)との出会いであった。その出会いがもたらす衝撃は某地球外生命体を自転車のかごに乗せ、月をバックにして飛んだ少年の心と同じくらいのものであった。(実際に飛んだことはないが)
煉獄はライブに参加してこなかったのもあり、ライブグッズに関してはあまりチェックしてこず(行きたくなるので敢えて見ないようにしてきていた)これまでSNS上でも誰ともやりとりをせずただひたすらに一人で推し活をしてきたこともあり、ぬいの存在を知らなかったのだ。
それから煉獄は映画館を出た後に近くのカフェに立ち寄り、応援上映の感動に浸る前に即座にぬいなるものを探し始めた。
そこには数々のドラマがあった。悪質なオークション、転売…そしてぬいをゲットできなかった竈門炭治郎推しの女子たちの悲痛な叫びたち。再販されるも手に入らずむせび泣き、運良く手に入ったものたちの高らかな優勝宣言。嫉妬妬み、勝者の高笑いー…そして愛があった。そうして煉獄は実に三時間ほどの時間をかけてひたすらにぬいを追い求め、とうとうアイドルグッズのリサイクルショップにて見つけたのである。価格は正規のものよりも高かったが、ここは即決。なんのために社会人してると思っているんだ!の勢いでポチ!である。
それから三日間。ぬいが宅配便で届くまでの間、煉獄は始終そわそわとしっぱなしであった。スマートフォンに『商品が到着しました』の通知が届くなり、就業時間ぴったりに帰宅し即座に自宅であるマンションの宅配ボックスを確認した。そのまま五階にある自室に向かうべくエレベーターを呼んだのだが、どこかで止まっているのかいつもと同じスピードでやってこない。『もう耐えられん!』と階段を一段飛ばしで駆け上がり、部屋に雪崩れ込むなり段ボールを開け……る前にものすごく丁寧に手を洗うと漸くダンボールを開けた。
第二の推しとの巡り合い…
丸いフォルム、手の中に収まるかわいらしいその大きさ、竈門炭治郎に似せているのであろうがなんとなく違う『にこし!』な笑顔。だが、それはそれで可愛かった。煉獄は生きてきて初めて自分がぬいぐるみを可愛いと思ったのに自分で自分に驚いていた。同時に男であり、これまでぬいぐるみとは大した縁を持たなかった自分ですらこうして『可愛い』と思えるこのぬいの威力に驚き、このぬいのモデルとなった推し 竈門炭治郎の偉大さに改めて感服した。
毎日起床時、昼食時、就寝時と必ずスマートフォンで推しを摂取する生活を送っていた煉獄に新たなルーティーン…ぬいを愛でるという日課が追加された。いつ見てもぬいはころころとしたフォルムで『にこし!』と微笑んでくれ、煉獄もつい『にこし!』と微笑んでしまう。時に両手で包んでもちもちとしてみたり、ちょっと弾ませてみたりしてそのフォルムを愛した。
ぬいが煉獄宅に迎えられてから二週間ほどが経った頃であった。
煉獄にはとある思いが募るようになっていた。
それはぬいに何か美味しい物を食べさせたいという思いであった。
煉獄は元々食べることが大好きである。好きなものは好きな人と共有したい、そんな気持ちがあるのとなんか…父性?いや母性?的なものがぬいを見ている内に湧いてきたのである。それにぬいのこの大きさ。もっと大きくしてあげたい。(ちなみに竈門炭治郎を見ていてもその体つきに『もっと食べないのだろうか』とも常々思っている)とは言え、現実的なところ、ぬいに食事を与えるだなんてことは出来ない。
なので
パシャ
煉獄は今しがたスマートフォンで撮影したばかりの写真を見てぐっ…と悶えていた。そこには推しのぬいとともに映る美味しそうな食事。これで『ぬいに美味しい物を食べさせたい』というのが間接的に叶ったような気になったのだ。
突然ではあるが、ここで応援上映の時のことを思い出していただきたい。
あの時、煉獄の姿を見つけた女子二人はとあることに驚いていた。それは煉獄が『ここはアメリカかな?』と思わせるばかでかいポップコーンを持っていたことである。ちなみにあの時彼女と来ているのだと思わせるために買った二つのばかでかポップコーンであるが煉獄がきちんと全部美味しくいただいているので安心して欲しい。まぁ、これから察するに煉獄はかなりの大食漢であるということだ。
と、言うことは、だ。
煉獄が『にこし!』しながら撮ったぬいの後ろには『30分で平らげたらお代無料!』の六人前のラーメンがそびえ立っていた。煉獄の『美味しい物』というのは勿論純粋に味が美味しいというのが含まれるのだが、『量がとんでもなくある』というものも含まれており、一般人の感覚とはほんのちびっとだけずれているのであった。しかし当の本人は自分が一般の人とは感覚がちびっとずれているとは思いもせず、デカ盛りだと爆盛りだとか、そういった名のつくものと共にぬいを撮影し続けた。そしてそれをSNSにアップした。ぬいと共に過ごすうちに『うちの子…可愛くないか?』という親バカめいた心が生まれ、それを自慢したくなったとしてもそれはぬいの保持者としては仕方がないことである。
ところがこれがなんと炎上したのである。
ではここで煉獄杏寿郎が炎上するまでの流れを一つ。
煉獄がにこし!をお迎えしてから約一週間後のことであった。
ちなみにその頃であるが煉獄の最推しである竈門炭治郎はKAMABOKOのメンバーである我妻善逸と嘴平伊之助と共にとあるバラエティー番組に出演していた。それはゴールデンタイムと呼ばれる家族団らんを想定される時間帯に放送される芸人の方々が様々なネタを披露していく番組だ。今回はコーナーの一つとしてこれまた夏の番組らしくプールの上に真っ直ぐに並べられたマットの上を一気に走りきるという、まぁ、結構ありきたりなやつであった。これが地方番組の深夜帯放送であればコンプラが若干からっと天ぷらになり、青年誌や週刊誌のトップページに起用されるようなぽいんぽいんな女性たちがほんの少しばかし際どい水着を着てはしゃいでいたであろう。だが、これはゴールデンタイムの放送。出演するのが芸人の方々なだけあって見られるのはある意味では際どい水着姿である。そんな中でKAMABOKOの出演……水着姿の披露か?ぴっちぴちのボディーのお披露目か?とご期待されたであろうが、残念ながら三人は半袖半ズボン型のウェットスーツにて登場であった。流石にアイドルのぽろりは駄目でしょう。とからっと揚がってはいないコンプラ面からの配慮である。三人のこの姿には芸人の方々も『これだからアイドルさんはよ~』とKAMABOKOの面々をいじったのだが、コーナーが進むにつれ、『ウェットスーツ着てきてくれて良かった』と本気で感謝された。なぜなら伊之助があまりにもアグレッシブすぎてこれが普通の水着であればぽろりの連続勃発につきスポンサーが全て降りてしまうような事態になっていたであろう。(逆に増えたかもしれないが)
そんな訳でコーナー自体は面白おかしく編集され、無事モザイクなしの健全な姿にて放送となるのであるが放送された当時、SNS上はざわついた。その時のKAMABOKOのウェットスーツ姿…半袖から覗くすらりとしつつも程よく筋肉のついた腕、半ズボンの丈から覗く太もも。そしてその太ももには若干ウェットスーツの生地が食い込んでおり、その素材からか身体のラインがぴち…と現れていた。喉の辺りもきゅっと包まれており、隠されているのに隠されていない、なこの姿にSNSには『えっ…』の文字がはびこった。そのためその日のトレンドには見事『えっ…』がランクインしたのである。
KAMABOKOが国民から『えっ…』と称されている中、煉獄ももちろんその波動には気がついており推しのぴちぴちの輝かしさに悶えたが、また別の波動にも悶えていた。それはぬい活の世界を初めて浴びた波動であった。
それは八月の中旬、お盆の時であった。煉獄は実家に帰省したのだが、弟とどこかに足を運んだりしたものの時間を持て余していた。なのでなんとなしに『同じぬいを持っている人はどんなことをしているのであろう』とSNSにて検索をしたのだ。
そして知るぬいの世界ー…!!
手作りの可愛いお洋服を着たにこし!ミニチュアの家具であたかもそこで生活をしているように演出しているにこし!可愛いお顔が見れるように設計された可愛いバックでお出かけするにこし!さまざまなぬい主の元で可愛がられるにこし!たち。
煉獄は『こんな楽しみ方があるのか…!』と驚いた。初めて知る世界にスクロールする指が止まらず、あっという間に三時間も時間を溶かしてしまっていた。自分が三時間も溶かしてしまったことに気がついた煉獄はまるで長い間プールで潜水でもしていたかのように息を吸い込むと『今がお盆で…良かった…』と安堵したものである。あまりにものめり込み、やたらとスマートフォンを見るものだから両親も『あいつ大丈夫か?』『気になる子でもいるのでしょうか』と若干ざわついていた。それほどまでにSNSに没頭したことにより、ぬいに何かをしてあげるのは最早ぬい主としての愛情表現の義務ではないだろうか?と思うようになっていた。だが、煉獄としてはいくらぬいを所有しているとしてもやはりぬいぐるみは女子が楽しむべきジャンルであり、男である自分が着せ替えであったりするのは恥ずかしいのでは?と躊躇した。しかし、手作りの可愛いおべべたちが販売されていることを知るとこのままポチ…したいという壮絶な欲求にかられた。なんせ餃子の被り物をするにこし!これは可愛いではないか……!!だが、『本当に似合うだろうか』とサイズも確認するために自身のぬいを取り出すと(両親と弟には気がつかれないようにこっそりと)ぬいはにこし!と『俺、たくさん食べますよ…!』な凛々しい風格を醸し出していたので自身のぬいを尊重し、おべべには手を出さないことにした。自身のぬいは着せ替えを好まない、凛々しきぬいなのだ。ならば自分のぬい活は…
こうして煉獄は爆盛りデカ盛り料理たちとぬいを撮影することに勇ましく進んでいくのであった。
本日も…
懐かしき給食の配膳で見るような大食缶からもうもうとした熱のある湯気が立ち上る。大食缶の前に立つはこの道何十年の雰囲気を滲ませる頭に手拭いを巻いたおやっさんが立ち、その手に握られたおたまでカレーを掬い上げる。その厨房をぐるりと囲むようにして隣との距離がまま近いカウンター席が設置され、全席満席。そしてお客の九割が男性であった。料理から立ち上る湿気を年月とともに吸い込んだであろう、日に焼けた壁紙には古ぼけたメニュー表が貼られている。大衆食堂と称されるこのお店の看板メニューは
「はい!お待ちどうさま!」
『若い子ならたくさん食べなさい!』と背中をばしばしと叩いてきそうな、なんとも安心感のある雰囲気をした女性店員が煉獄の目の前に煉獄が注文したこの店自慢の看板メニューを置いた。
これ、本当にお皿?ってかお盆によそってない?な勢いの爆盛りカレーである。この量!なんと八人前!そしてトッピングは揚げたてほやほやの狐色が美しいカツ三枚と皆大好きウィンナー(極太)三本、しっぽの赤色が料理のトッピング♪なぷりぷりのエビフライをどど~~んと三本!!とおいおいこれ、あのギャルで大食いな人に挑戦させるためのあれだろ?なものである。
店員はエプロンのポケットからストップウオッチを取り出すと「じゃ、今から三十分ね!」とカレーの横に置くなり厨房の方へと戻っていった。そうである。このお店を経営している夫婦の『学生のために』の気持ちが段々と強まり、とうとう爆盛りにて名の知れるようになったカレー爆盛り店である。
煉獄は『これはカレー界のチョモランマかな?』な爆盛りカレーに目を輝かせつつも隣や店内を少し見渡した。店員である夫婦は料理を作るのに忙しそうであるし、客も全員おしゃべりもせずに己のカレーに真摯に黙々と向き合っている。
―…これなら
煉獄はボディバックのファスナーを開けるとにこしを取り出した。手の中に収まるにこし。煉獄もついにこし!となり、にこしをカレーの前に置くとポジションをああでもないこうでもないしたのちにスマートフォンを構えた。そして無事にベストショットを手に入れると『俺、これ…食べれますよ!』なにこしににこし!とした。
「…お兄さん、食べなくて大丈夫?三十分で食べ終わらないと五千円だけど…」
女性の店員さんがなかなか食べ始めようとしない煉獄を不思議に思い、声をかけてきた。煉獄はぴゃっ!としながらにこしが汚れないよう丁寧かつあせあせしながらボディバックの中に戻し、「今からいただく!」といただきますをした。
そして誰もが『もしかしてそのジャンルの動画配信者か芸能人?』と思ってしまうほどの勢いでカレーを平らげ、笑顔で『ご馳走様!』と締めくくり、無事に三十分以内で完食した。(完食しきった時、店員さんとお客さんたちから拍手された)
完食後のお皿(実際は料理を運ぶ際に使用される銀色のお盆)の写真も撮り、さぁ、ぬいの写真をSNSにアップだ!とアップしたのだが…
煉獄は『少し歩くかな』とあたりをぶらつき、近くの寺院を参拝したりしながら過ごし、そろそろ帰るか、とスマートフォンで時間を確認した。すると
通知99+
突如として画面に現れたとんでもない数のSNSからの通知に驚いた。もしや、これは『バズ』というものでは?と自身のぬいの可愛さが世に周知されたのかと若干胸を弾ませながらサイトを開けば…
『竈門くんはこんな爆盛り食べない』
『ふわの雰囲気壊さないで』
『自分がこれだけ食べれる、俺SUGEEEEの承認欲求のためにふわを使わないで欲しい』
『にこしをコンテンツとして使うな』
『ふわを大切にしろ』
『炭治郎くんをインプ稼ぎに使うな!搾取するな!』
まさかの炎上である。
SNS経験の浅い煉獄にはこういった場合の対処法が分からず、驚いている内に恐ろしい勢いで己の爆盛りカレーwithにこしの呟きは拡散され、過去の爆盛りデカ盛り料理withにこしも掘り起こされては拡散され、そこに寄せられる『俺、こんな食えるんですアピきっつ~~』『承認欲求の化け物』の言葉たち。中には『すごっ!ふわも『俺、食べます!』って感じで可愛い~♡』と肯定的な言葉も寄せられていたのだが、それを圧倒的に上回る攻撃的な言葉の数々。実のところ、煉獄がこれまで度々呟いていた爆盛りwithにこしはほんの少しだけぬい界隈において『すごっ!』『にこしと合うかも』と話題となっていた。その中で『あの爆盛り呟きしてる人、隣の席にいたけど壮絶顔整いだった』の呟きも時々現れたのでとあるところからの嫉妬の対象にもなっていたのだ。それがガソリンとなってまぁ燃える燃える。
煉獄はただ茫然と自身の呟きたちが拡散されるカウント数が回るのを見つめ続けることしかできなった。メッセージはやり方が分からずにつき解放していなかったので更なる攻撃を受けなかったことだけが幸いである。
こうして煉獄はSNS初心者の域を抜けない内に炎上し、爆盛りデカ盛りwithにこしを呟くことを止めた。
このままアカウントを閉じることも考えたのだが、それでも自分なりににこしを愛でていたのは知っていて欲しいし、中には『これからもたくさん食べて!』の声もあった。その声まで消してしまうのはこの批難だらけの中、勇気と優しさをもって声を寄せてくれた人の気持ちをないがしろにしてしまう、とアカウントはそのまま継続し、過去の呟きも消さないままにすることにした。それに推し…竈門炭治郎であればこんな状況であってもアカウントを消すという逃げはしないだろう。なんせこの間出演したドラマで分が悪くなった犯人が逃げ出した時も『逃げ出すな!卑怯者!!』と言っていた。竈門炭治郎推しとしてはこれは真摯に向き合うべきだ。
しかし、爆盛り呟きはもうできない。だけどもぬいには美味しいものを食べさせたい…
そんな絶妙な気持ちの中、SNSを巡回して推しとぬいを摂取しているとぬいは結構可愛い食べ物やおしゃれな食べ物と共に撮影されていることに気がついた。恐らく煉獄のぬい活の見方が変わったからこそ気がついたのであろう。皆のぬい活の呟きを延々と眺め、クリームソーダと一緒に映る他所様のにこしについもらいにこし!をした。どれだけ傷ついたとしてもついにこし!してしまうとは恐るべき愛らしさ。そしてこの愛らしさの元となった竈門炭治郎…流石だ。と煉獄が改めて竈門炭治郎への気持ちを強めているとハッ!とした。
これではないか?
煉獄は早速流行りものに敏感であろう年頃である弟に『映え?というのだろうか、おしゃれな店というのはどのように調べればいいのだろうか?』と連絡を取り、弟経由で兄である煉獄がおしゃれな店を知りたがっているのが両親にばれ、『彼女ができた…!?』とざわつかせていた。そうして煉獄はこれまで使用していたのと別種のSNSサイト(おしゃれ特化型)を教えてもらい、そこから色々とお店を吟味し、時に自身の横にいるにこしを確認して『俺、いけますよ…!』と言いたげなのに頷くとそのお店に行くようになった。
それが今、この純喫茶である。
度々SNS上を映えで賑わせては『行ってみたい!』と好印象をもたらす看板メニューのメロンクリームソーダ。色も竈門炭治郎のメンカラであるし、何より可愛い。これには煉獄もにこし!と安心して撮影と呟きができる。そうして煉獄が当初の目的であるメロンクリームソーダwithにこしを撮影し、にこしをカバンの中にしまった。やはり男がぬいと一緒にお出かけして写真まで撮っているというのは煉獄にとってまだまだ気恥ずかしいのだ。
だが、ここで一つ思い出していただきたい。
煉獄が八人前の爆盛りカレーを三十分以内で見事に平らげる胃袋を所有しているということを。
つまり、メロンクリームソーダなんかでは到底その胃袋を満足させることはできないのだ。なので一旦下げてもらったメニューをもう一度取り寄せ、『さぁ、何を食べようか』とにらめっこしつつもSNSの投稿でこのお店で何が美味しいのかを見ながら吟味し始めた。だが、こうしている内にも自身のにこし!の可愛い姿を世に見せびらかしたい、という気持ちでざわざわしてしまい先にSNSをアップすることにした。呟きに『メロンクリームソーダ!俺、いけます!』のにこし写真を添付し、文章を考え始めた。にこしの魅力をどう表現すべきかあまりにも真剣に考えこんでしまっていたからか、用意されていた紙ナプキンがエアコンの風で飛ばされてしまったことに気がつかなかった。
「あ」
不意に聞こえたその声に煉獄が顔を上げると「落としましたよ」の声が。恐らく煉獄の左横の奥の方にお手洗いがあるのでそこに向かおうと通りがかった人だろう。黒いキャップを被った青年が紙ナプキンを拾いあげた。確か反対側の席でアイスティーを楽しんでいた者だ。
煉獄が『すまない』と感謝の言葉を口にしようとした。
が
「わぁ、俺だ!」
彼はテーブルの上に置かれたまだ呟き編集中である煉獄のスマートフォンの画面を見るなり、そう言った。
「美味しくておしゃれな物と一緒に撮ってくださってありがとうございます!」
太い黒ぶち眼鏡の奥にキレイなひし形を閉じ込めた赫い瞳。彼はキャップのツバを軽く持ち上げると額を少し覗かせた。そこにあるのは炎の形を少し手で拭ったような形をした痣。
間違うはずがない。
それが大スクリーンで見た迫力によって脳内に強烈に刻まれているからではない。
いつだって真っすぐで輝いていて、スマートフォンのさほど大きくはない長方形の画面の中であってもいつだって生き生きとしていつだって明るい気持ちにさせてくれて何度も何度も眺めた…
―…竈門炭治郎!!!!
「メロンクリームソーダ、いいですね!」
そう。竈門炭治郎である。
煉獄はあまりの驚きで声を失っていた。まるで親猫に首根っこを噛まれて持ち上げられた子猫のようである。煉獄の普段の様子からするに「お会いできてうれしいです!!!!!!!!!」と店の屋根、吹っ飛ぶのでは?の勢いで声を張りそうであるが、実際はこう。あれ?これ静止画像かな?な勢いでしーーーーん…である。人間驚きすぎると声を失ってしまうのだろう。…いや、そんなことはない。比較対象として竈門炭治郎が所属しているKAMABOKOのメンバーの一人。我妻善逸を見ていただきたい。ここで用意するは先日収録された芸能人のどっきり番組である。ここで善逸はターゲットとされ、運転手がどっきり仕掛け人であるタクシーに乗り、運転手が会計と同時に振り向いた際にのっぺらぼうに扮した顔が見えるというどっきりを仕掛けられていた。では、その時の映像をご確認を。
タクシーの運転手が顔を肌色の布で隠してのっぺらぼうに扮し、振り向いたその瞬間
1カメ:バックミラーから映した善逸
2カメ:運転手席の丁度真後ろに来る後部座席の足元に設置された隠しカメラから映した善逸
3カメ:善逸の前に来る座席に仕掛けられた隠しカメラが映す善逸
「ぎゃぉおおおおおおおお~~~~!!!!顔!?かお!!!顔、ないんですけど~~~~~~!!!???」
見よ!この白目ぶり!見よ!!この鼻水の垂らしっぷり!!!見よ!!この親知らずまで見えそうな口の開けっぷり!!見よ!この映像の右上のワイプ内で笑いまくる伊之助の姿!!(どっきり発案者)
人間いくら驚いたってこうして声は出るのだ。
以上、煉獄との比較のためにご覧いただいた検証映像である。
善逸と比べれば圧倒的静かであるが、竈門炭治郎は「ん?」と少し不思議そうな声をするとまじまじと煉獄のスマートフォンを覗き、「もしかして…Rさんですか?」とどれだけ太い黒ぶち眼鏡であろうとも隠しきれていない大きな瞳で煉獄を見た。
煉獄は『なぜ?』と思ったが、それは一目瞭然。なんせ呟きの編集画面の左上には自身のアカウント名である『R』の文字の記載があるからである。まさかの推しに認識されていたことに煉獄は完全に固まってしまっていた。その中でも目だけはしきりに動いていたので竈門炭治郎は「そうですよね?俺、前に善逸に俺のぬいと一緒に爆盛り料理を撮ってるアカウントがあるの教えてもらってたんで!」とどこか得意げにフンス!と声を上げる。その瞬間、煉獄はひやっとした。かつての『炭治郎くんをインプ稼ぎに使うな!搾取するな!』の言葉。もしかすると竈門炭治郎自身もそう思っているのでは
「うわ~~会えて嬉しいなぁ~~~!!あんな量、食べられるの凄い!と思ってたんで!!」
煉獄の目の前がちかっと光った。そして理解する。これが竈門炭治郎なのだと。いつだって真っすぐで人の嫌がることはしない、明るく誠実で努力し続ける芯の強さに見ているだけで元気がもらえる。スクリーン越しであろうとも、スマートフォンの画面越しであろうともなんら変わらない。これが竈門炭治郎なのだ。
あまりのちかちかに煉獄が目頭にぐっと力を込めていると「あ…急に話しかけてしまってすみません。えっと…俺、竈門炭治郎です。KAMABOKOのリーダーの。あ~~…お邪魔でしたよね」と壮絶今更な挨拶と詫びをしてきたので煉獄は「まったくお邪魔ではない!!!!!!!!!!!」と今度こそ店の屋根、吹っ飛ぶのでは?の勢いで声を張り上げた。急いで自分の口元を押さえれば竈門炭治郎は楽し気に笑って「今から俺のぬいと一緒に爆盛り撮ってくれるんですか?」と尚も会話を続けようとするではないか。推しの生声。肉声。電波に乗ってもないし、録音されたものでもない。推しの喉からリアルタイムで発せられてノンタイムで鼓膜に届くこの感動。……流石、アイドル…!声もきらきらしているが…全体的なきらきらさがすさまじい。顔が小さい…!!!そして目が大きい!!!!あと、姿勢がよい…!!!すべてが素晴らしい!!!!煉獄は目の前で画面越しではなくリアルに動き続けるのにわなわなしていた。竈門炭治郎は実際にこの世に存在する人間であるとは知ってはいたもののこれまで画面越しでしか見てこなかっただけあり、なんとなく3Dだとかそんな作られた架空の存在に思えていたのだが、今、こうして息をして目の前にいる!!!と実感し感情の行き場を失っていた。だが、煉獄はその感動に打ち震えたものの少し申し訳なく思ってしまった。それは他の同担を差し置いて生炭治郎と会っているから、ではなく、これまで日々SNSにおいてもはや監視する勢いで竈門炭治郎の情報を追っていたことに対するものからではない。
竈門炭治郎が発した「今から俺のぬいと一緒に爆盛り撮ってくれるんですか?」である。
それはあの炎上からしていない。
なので竈門炭治郎がいくら期待してくれていようとも炎上してしまう…いや、竈門炭治郎本人にも飛び火してしまう可能性があるのでもうしないと決めたのだ。煉獄がその事実をどのようにして竈門炭治郎に伝えるべきか悩んでいると「あの」と声をかけられた。
「この辺りに〇〇ってお店があるのご存じですか?」
「…あ、あぁ!」
竈門炭治郎が口にした店名は煉獄も良く知る店であった。なんせその店はー…
「俺、そのお店の十人前爆盛りラーメン、気になってるんです」
「…!」
煉獄にとってこれは他のファンよりもずっと嬉しいし、他のファンでは味わえないことであろう。なんせ爆盛りは煉獄の得意分野…いや、ライフワークである。それに推しが興味を持つ…これは他の人にはない共通点だ。これは嬉しい。
「でも、流石に俺には食べきれないかな、と思いまして」
「そんなことはない!あんなに日々ダンスのレッスンをしているならエネルギーを使うだろうし、昨日だって練習動画アップされていたがあの運動量は並大抵のものではない!あのくらいの量、君なら」
「一緒に食べに行きませんか?制限時間とか罰金とか気にしないで通常料金支払って、二人で分けっこしませんか?」
「あっという間に食べきれ」
「もうそろそろ夕飯時ですし」
「る………………」
「Rさんさえ、嫌でなければ」
そうして目の前で笑う竈門炭治郎はかつて煉獄が電車内の電子パネルで初めて目にし、衝撃のあまり棒立ちにさせて何駅も乗り過ごさせたライブ映像と同じ笑顔であった。
「全く嫌ではない!!!!!!!!!!!」